SKE48 松村香織はどうころんでも選抜か昇格だな(AKB48タイムズ)
http://akb48taimuzu.livedoor.biz/archives/22596937.html
すまない。
はじめに謝っておきます。
ごめんなさい m(_ _)m
でも、ここで自分の主張を曲げるつもりはありません。
曲げるべき理由が特にないからです。
では言わせて頂きます。
BBQ松村香織は「研究生」であるべきです。
「選抜」はあっても「昇格」があってはなりません。
昇格して正規生になっても、得るものよりも失うものの方が大きいからです。
(これはBBQ松村個人についても言えますが、SKE48にとっても同じことが言えます。)
誤解を恐れずに言えば、BBQ松村にとって、今のSKE48の「正規生」というポストには、研究生を捨ててまで得る価値はないと私は思います。
(それは、つい先日8人の正規生が同時に辞めたことからも、現状のSKE48の正規生たちの現状を見ても感じることができる問題です。)
今のSKE48の「正規生」にどれだけの価値があるのか?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/fa4dfdc04c3ba7c99cb0d10ba3a1adc0
BBQ松村の競争優位がどこから来ているのかを、よくよく考えるべきです。
目先の利益にとらわれてはなりません。
昨年、BBQ松村が「今夜も1コメダ」によって大躍進できたのは、「今夜も1コメダ」の品質が高かったからではありません。
「今夜も1コメダ」がSKE48のメンバーでなければ出来ないものだったからです。
(これは過去何度か語っていることですが)
金や技術力では解決できない「中の人」でなければ覗けないもの、感じれないもの、表現できないもの、こういうものがあるのです。
メンバーでなければできないが、メンバーには意志と能力と時間を持っている人が少ないため、BBQ松村が競争力の高い独自な存在感を示すことができたのです。
その上、とりわけ良い方向に作用したのが、彼女がアイドルとは程遠い人生経験を豊富に持つ年長者で、かつ研究生であったことです。
彼女のアイドル適性が低いことが、彼女を最年長かつ最長研究生という立場に追いやるわけですが、しかし、そのアイドル適性を低くしている彼女の適性ゆえに彼女は「今夜も1コメダ」や「ぐぐたすの輪」などにおいて、また他のメンバーとのコミュニケーションで独自性を発揮することができるわけです。
つまり、BBQ松村は”たまたま研究生の時に”「今夜も1コメダ」で大躍進を遂げたのではなく、研究生に相応しいBBQ松村であるからこそ「今夜も1コメダ」で大躍進を遂げることができたと私は考えます。
もう一つ、BBQ松村の活動はところどころで炎上することも多くリスクが高いといえます。
しかし、そのリスクの高さを恐れないからこそ、持続的な競争優位を発揮できる側面が大いにあるわけです。
ですから、BBQ松村がリスクテイクし続けるためには、研究生でい続けることが彼女自身にとってもSKE48にとってもお互いの利害が一致するのです。
総合すると、この問題の捉え方としては、「研究生でいた方がおいしい」ということではなく、そもそも「彼女が研究生であること」と「彼女らしさ」との間には切っても切り離せない深い関係にあると解釈するのがより適切だと思います。
彼女の独自性、コアコンピタンスを強化するためには、「研究生」でなければならないのです。
BBQ松村にとって、「研究生」であることは生命線です。
↓「コアコンピタンス」についてはこちらをどうぞ。
「強み」と「逃げの正当化」の違い ~やすす先生が作詞をアウトソースしない理由~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/63ef10d27c631b1a94cc791a25d662d4
ですから、「研究生」であることをもっと使い倒すべきなのです。
昨年は「今夜も1コメダ」で大躍進をしました。
今年は1コメダはもちろんですが、新たに「研究生会議」に期待しています。
BBQ松村香織の会心の一撃 ~『研究生会議』~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/303a21e6549ed691eb04ac3a942fd553
最後に、もうひとつの視点を追加したいと思います。
昨年BBQ松村を使っていた「下克上」ですが、この意味を問い直しておきましょう。
部分抜粋します。
山本七平botまとめ/『秩序としての下克上』/~「下克上的」平等とその”安全弁”としての天皇~
http://togetter.com/li/314690
下剋上という考え方は言うまでもなく、上下という関係を前提にしない限り出てこない。
下剋上と共和制とは全く相いれない考え方であると共に、下剋上と革命もまた相いれないであろう。
天皇制は下剋上がなければ存続しえないし、下剋上は天皇制もしくは天皇思想なしでは存立しえない。
「上」を剋しつつ、一方では「上」を強化する
というより「剋するため上を護持する」という、非常に興味深い行き方になる。
そして幕府が衰えると今度は、大諸侯がこの護持役を引き受けるのである。
これが下剋上の本質であろう。
そこで下剋上という言葉を、この言葉が前記のように一般化する以前からの「下剋上的状態・秩序」をも含めて定義すれば、それは「下が上に向かって実質的な権力を行使することであっても、下が上を打倒して、自らが上になることではない。
従って、下は上に向かって権力を行使しうるために、あくまでも上下の関係を下が維持しようとする一面をもつ関係」というべきであろう。
従って下剋上と反乱はあくまでも分けて考えるべきで、反乱は、上が「下剋上」という秩序に従わない場合に起ると考うべきである。
上が下に従っている限り反乱は起こらず、下剋上が一つの永続的状態として存続する。
実朝歿後の鎌倉幕府の執権と将軍との関係は、いわば下剋上が永続的状態となった一つの例である、
従って、この場合、将軍がもし執権に従わなければ「将軍様御謀叛」となるわけである。
そしてこの「言葉では拒否して、実際には承諾する」という事、これが典型的な下剋上の行き方、即ち上からの権力は拒否するが上を維持する義務は当然と考える事であろう。
と同時に、この逆、即ち「言葉では承諾して、実際には拒否する」もまたありうる。
いずれの場合も下が自由意志で上を支配する――経済力による場合でも武力による場合でも――しかし上を支配する以上、上下の秩序はあくまでも上下の秩序として守り、それを守る義務は下にある。
しかし上が下に従わなければ、下は上を排除する権利を留保する、という事が下剋上の本質であろう。
もう一度言うが、下剋上は、原則として「下が上になる」のではなく「上下をそのままにして、下が上を支配する」体制と見るべきである。これが民衆的な面で行なわれると、一種の共和制に似た形態になってくる。
ただこういう行き方は、東アジアに共和制の祖型がないために顕在化して定着するに至っていない。また資料が少なくてその実態はよくわからないのが残念である。
こういう視点からしても、「正規生」にこだわる必要はないと、私は思います。
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SKE48松村香織生誕祭まとめ「私はクビになるまで辞めない!」
http://encra48.doorblog.jp/archives/22388261.html
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