進化する魂

フリートーク
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至高の音楽と人間の感性について

2011-03-11 13:17:42 | 哲学・思想
今日は珍しく音楽ネタ。

私は演奏はできないくせに結構音楽にうるさい。
うるさいというか、知ったかぶりして語るタイプだ。
そんな知ったかぶりをここでも通させてもらうとする。

クラシックもピアノもあまり聞きませんという人に必ずお薦めするのが「ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番」だ。
ラフマニノフの場合、ピアノ協奏曲第2番の方が美しさで有名かもしれないが、第3番の方が迫力があってむしろ素人ウケすると思う。
「これでもかっ!」と言わんばかりの和音の使いっぷりに思わず度肝を抜かれてしまう。
複雑な音の調べの向こうに現代社会の複雑な世情を重ねずにはいられない。
それでいて、とてもロマンチックなのが現代という感じだ。

正統派クラシックを求める人はモーツァルトを聴くのがベストだが、現代的な音楽の方が好きだという方は是非ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を聴いて欲しい。
ヴァイオリンを聴きたい人にはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲第1番をお薦めする。

ちなみに美しさという点においては、私はショパンのピアノ協奏曲第1番の第2楽章の右に出るものはないと思っている。
どこが美しいかということを説明するために、ちょっと語ろうと思う。

ちょっと振り返って考えるとわかるが、人間は心の内から込み上げる想いを語ろうとすると言葉少なくゆっくりになる。
それは言葉というツールが想いを伝えるのにはあまりに非力だということを、人は知っているからだ。
人は「言葉にできない想い」を伝えようとする時、言葉が少なくなる。

では、どうやって「言葉にできない想い」を伝えることができるか?

それは、「表現しないことによって表現する」というメタ表現によって可能になる。
「間の取り方」や「息づかい」、「視線・目配せ」、「その場の空気感」といったものだ。

ピアノの音はバイオリンや管楽器などと違って「ドレミファソラシド」の音は断続的にしか表現できずとてもデジタルだ。
人は原始的生物だった時から自然界に暮らしており、音といえばアナログなものばかりだった。
だから人間の脳も耳も感情もアナログ音に最適化されているし、また声にしろにしろ音による表現もまたアナログに最適化されている。
人にとってピアノのようなデジタル音は違和感たっぷりな音であるばかりか、音と音が断続的ゆえに音と音の間から伝えたい意味が零れ落ちてしまう。
ヴァイオリンの方がより心の琴線に触れる表現が得意なのがこれでわかるだろう。

では、どうすればデジタルなピアノでアナログを表現できるだろうか?
ピアノはヴァイオリンなどに比べて劣った楽器なのか?

ピアノが弦楽器に比べて劣っているなら今日これほどピアノが弾かれ、そして聴かれることはなかったであろう。

デジタルなピアノでアナログを奏でることができるか?

答えは「できる。」だ。
「表現しないことによって表現する」というメタ表現によって。

バラードでは音が少なくなる。
音と音の間を人が補完することによって曲が完成するのだ。
気持ちを伝える時に、音は少なくていい、むしろ音は要らない。
なぜなら、必要な音さえ表現できれば、受けて側がそれぞれ持っている物語によって補完してくれる。

そもそも、人には誰一人として同じ人生を歩む者などおらず、ゆえに全く同じ経験をする者もおらず、また全く同じ心を持つ者などいないため、伝えようと思ったものが伝わる方が稀なのだ。

人それぞれに物語を持っているのだから、そのコンテキストを発火させるための機会を音で提供する。
そして、音と音との間を、それぞれの人の物語で奏でてもらえばいい。
だから、むしろバラードは音が少なくならなければならない。

現代社会では、何かにつけて表現至上主義ともとれる風潮がある。
しかし、人というのはその進化の過程で原始的なものを置いてきたわけではない。
進化というのは過去を捨てることではなく、過去からスパイラルに積み上がるものなのだ。
だから人が人になってから以降の、つまり前頭葉なんかで考える理性的な表現ばかりに一生懸命になるのではなく、言葉なんか存在する以前の表現方法に想いを馳せて、心の内の底の部分に耳を傾けては如何だろうか。

中でも、ショパンのピアノ協奏曲第1番第2楽章は、今、恋をしているという人には協力にお薦めする名曲だ。

ちなみに、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は、本人の演奏より、デヴィッド・ヘフルゴットの方が好きです。

↓圧巻です。

DAVID HELFGOTT PLAYS RACHMANINOV


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