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おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

「毛皮のマリー」人形劇俳優 たいらじょうの世界

2011年11月10日 00時32分20秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

【原作】寺山修司
【演出・美術・出演・人形操作】平常(たいらじょう)
【登場人物】毛皮のマリー〈花咲ける四十歳の男娼〉/欣也〈美少年〉/紋白〈美少女〉/下男/醜女のマリー/名もない水夫/美女の亡霊×6/快楽の滓〈肉体美の青年〉/鶏姦詩人1&2/ト書き

「綺麗」とは、どのようなことだと思いますか?

この物語のラストで、マリーは養い子の欣也に女装をさせ、男に生まれた彼を少女に変えて言うんです。
この世で一番きれいになるのだ、と。
マリーの思う「綺麗」とは、どのようなことだったのでしょうか…。

去年あたりでしたか、綺麗であること、美しいということについて、ある友人と二人でよく語り合うことがありました。
綺麗な人とは、どういう人かと。
顔や姿かたちが整っていたり、肌や髪が艶やかで滑らかだったり、みずみずしかったり。
それはあるかもしれないけれど、そうでなくて、本当に「綺麗」な人とはどのような人なのか…。

夏に「はなれ瞽女おりん」を観終わったときにも思いましたが、カーテンコールで客席に向かい丁寧にお辞儀をしている平常(たいらじょう)さんの姿が、私にはとても綺麗な人に見えました。
たいらじょうさんのことは舞台上でしか知らず、どのような方なのか全く知らないにもかかわらず、目に映らない彼の魂が本当に美しく見えて、私は胸が熱くなりました。

友人は「本当の醜さを知らないものは、本当の美しさを知ることができない」と言いました。
私は、終演後の平さんには、人の美しさも醜さも、その清濁を全て受け入れた者だけが持てるような、そんなフラットである魂を見たような気がしました。
私は愛とは受け入れることだと思う。
そうであるなら、受容こそが愛ではないか。
そして、愛はたぶん美しく、だからあらゆる登場人物…あらゆる人の生を受け入れ同時に演じられる平常さんの魂が私にとって美しく綺麗に見えるのかもしれません。

今から八年前の2003年、平さんが初めてこの作品をたったひとりの人形劇という形で上演したとき、観客はわずか三人だったそうです。
この内容の濃い、しかも、妖しく衝撃的な大人の劇を、たったの三人の目の前で演じるのはかなりエネルギーが必要な、しんどいものだったであろうと思います。
平さんもそう仰っていました。
けれども、この作品をこのような劇で演じることを思いつき、実現した平さんもさることながら、それをしっかりと見届けたその三人のお客さんもまた賞賛に値したと思います。
その三人がいてくれた結果、口コミにより次第に話題となり、後半は完売が続出。立ち見まで出たということです。

この作品は人形が遣われていますが、その表情は人形ですからむろん変化はしません。
けれども、見る場面、見る人によって、その時々に表情が変化して見えるのは、文楽の人形やの顔や能面と同じです。
観る者の数、その人生の数だけ表情があり、この劇は観客がそれぞれの心の中で人形に表情をつけて完成するのだそうです。
毛皮のマリーが哄笑するシーンで、平さんのその笑い声が次第に泣き声に聞こえましたが、どこからそうなったのか、本当にそうだったのか、実は私にはわかりませんでした。
なのに、人形のマリーの顔が笑いから、いつしか強い悲しみの顔に見えたことは確かです。

などと、思いつくままに書いてみたら、いつにも増して、どうもまとまりのない文になってきましたが(笑)
実を言えば、私はこの「毛皮のマリー」という作品には、いまだまだ私自身で消化されていないものを感じるんですよねぇ…。
平さんの書いたパンフによると、この作品には「生きることそのものについてのテーマが数多く秘められ」ているといいますが、そのひとつとして、「性」があり、母性をもつ女、そして男がありました。
すこし前に観た「身毒丸」でも思いましたが、もしかすると、寺山修司さんは、彼にとって、性とは、そして肉体とは忌まわしきものであり、そこから逃れられぬその煩悩の原点にあるのが母親という存在であったのではないか?…などとも思うのですが…。
…う~ん、
毛皮のマリーの少年期、彼が少女として暮らしはじめた頃、マリーは少女の姿でありながら、男性の性を持つことで辱められるシーンがありました。意のままにならぬ肉体を嘲られ、精神を犯されてしまう彼の悲しみと怒り。
また、ある場面では、美少年・欣也が美少女・紋白にキスされそうになり、紋白の誘惑に必死に抗い、お母さん(マリー)叱られるからと言って、しまいには紋白の首をしめて殺してしまいます。けれども、その養母マリーといえば、男娼として同じ屋根の下の別の部屋で男と睦みあっていたりするわけです。
純粋培養で育った欣也は、まるで精神と肉体が剥離している子のようだ…。

…う~ん、
と、唸ってばかりでその感想がなかなか書けませんが(笑)
むろん、そのどのシーンも平さんが人形を遣い一人で演じています。
平常さんは、まさに鬼才です。
もし普通の役者さん達に同じことをやれと言っても到底出来るとは思いませんが、それが憑依型の役者さんならば、精神分裂になって一時的にでも発狂するかもしれません。
複数の人間が、まばたきするよりも早く、フラッシュの光のように現れては入れ替わる、その凄まじさは、もはや「演技」…演じるという技を越えていました。

私はぜひ今後も彼の舞台を、そしてこの「毛皮のマリー」も観ていきたいと思います。
何度か観れば、私の中で改めて感想が形になり、いつかはもっとちゃんとした感想が書けるようになるかもしれません。

まだ観たことがないかたは、機会があればぜひとも一度ご覧になってみて下さい。
私の衝撃が理解していただけると思います。


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