今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

「中川晃教CONCERT2010 音楽が消えることのないDANCE FLOOR」★9/25追記あり

2010年05月24日 01時24分05秒 | ライブ/コンサート
いやぁ~、長いこと放置しておりました
この前のゴールデンウィークでアレやコレやを書きたいと思ってはいたんですよ。
でも、珍しく風邪をひいちゃいまして寝てばかりいました。

で、タイトルの中川晃教さんのコンサートなんですけど。

これはいつもの感想ではなくて、私が別で開設している創作用のブログに書いたものです。
ということは、誰かの作品に私の世界を重ねた「重ねの世界」の創作文です。

ああ、もちろん、「あっきーが超カッコよかった~」というような感想はありますよ。
でも、そっちはあまりにイッちゃってるので(笑)恥ずかしすぎて書けやしない
それでいて、もっと恥ずかしい創作とかしちゃうあたり、私も「なんだかな~」の人ですけどね、一応これも「感想」というカテゴリーに入らなくもないので、こっちのブログにも重複して載せてしまいます。
だから、あっきーのステージへの普通の感想文とかじゃなくて、コンサートから刺激されて書いた私のただの雑文なので、そのへんは心して先に進んでください。

* * * * 

「街」


街中を歩く時、私は何もすっかりと呆けてしまっているわけではない。
行きかう人を見、流れる車を見ながら、今日も事故や諍いが無いように、ぶつからないようにと歩いている。

新しい看板や、珍しい格好をした若い人、足早にすれ違っていくスーツ姿のサラリーマンたち、コンビニの店先に貼り出された広告、今朝ちょうど開いたばかりの可憐な花々や、その季節を告げる彩りの木の葉たち、毎日変わり行く空模様……そんな街の様子を目にしながら、同時にいつも自分の足元の少し先を見て、何にもぶつからぬように、踏みつけないように、つまづいてしまわぬように歩いている。

けれども、時たまそのすれ違う人の中から突然に、知った声で「おはようございます」
などと言われ驚く自分がいる。
その妙に輪郭を成した声に、どこかしらはっとしながら慌てる自分がいる。
「ああ、ごめんなさい。ご挨拶もせずに行ってしまおうとして。
前から来ていたことに、全然気がつきませんでした。」

そんな時、私は「また、やってしまったのか」と恥ずかしく思いながら、たくさんの人の群れを目にしていて、実は自分がほんとうには何も見ていなかったことに気づく。
それはまるで、人が誰もいない明け方の静かな街に、ただひとりで座り込んでいたあなたのようだ。

生き慣れた都会の街は、私を決して拒んだりはしない。
街は街としてただそこにあり、だからきっと私が、私のほうこそが、街を置き去りにしているのだろう。

私は街に居ながらにして同時に街を置き去りにし、街の音を聞きながら別の何処かの声を聞く。
そして、ここにいる自分ですらも置き去りにした私は、その別の何処か…深いインナー・ワールドを彷徨いながら、小さな少女を抱きしめようとしているのに違いない。
その少女は、あなたのそれよりもずっともっと小さい姿で、まだほんとうに幼くて、けれども全てを知りながら、そしてまだ何も知らないのだ。

私はその子が泣いてしまわぬように抱きしめて、でもそれでは、この子を抱きしめる「私」を抱きしめるのは一体誰なのだろうかと泣き出しそうになりながら、必死にそれを堪えて歩き続ける。

都会の街なかに居ながらにして、深い森の中を歩き続ける私は、いったい何処に行けばあなたに出会えるのだろうか。
あなたと出会う「私」は誰で、あなたもまた、誰なのか。
それが見つからずに、だからそれを探そうとして、過去と現在の一瞬を永遠に溶かした森の中を、私は戻ることなく彷徨い歩く。

戻れない。

辿り着く場所も、追いかける人の姿も見えず。
私はいったい何処に行けばいいのだろうか。

気がつけば、私はいつもの朝と同じようにビルの合間の信号を渡っている。
時計の針を気にしながら。

街は相変わらず、忙しそうに動いている。

相変わらずの私が歩く。



おおるり

* * * * 
この続きはコンサートのDVDが届く頃に書く…かも??
するとさらに感想じゃなくなりそうだけど

* * * *
【2010/09/25】

…というわけで、先日そのDVDが届き、それからまた触発された感想代わりの創作を書いたのでここへ追記します。
前の「街」をすっかり読んでしまって腹が立ったりゲンナリしなかったならば(笑)この先へお進みいただけるかと思います。
感じて想うと書いて「感想」といいますが、実は私の感想というものは、いつも書いているような観劇記とはまた別に、深く何かを感じて何かを想えば想うほどに自己の内側に向かって「もうひとつの世界」が創り出されてしまうようなところがあります。
ですから、先に載せた「街」も、このあとの「鏡の中で」も、中川晃教さんの世界を受け取ることで創り出されたものでありながら、これはやはり私の世界を書いた全く別のものですので、そこのところをご了承願います。

* * * *

「鏡の中で」


子どもの頃、私は鏡の世界のずっと奥を覗きたくて、鏡の前に鏡を置いてみた。
私の前の鏡は鏡を映し、私の後ろにも鏡は鏡を映し、それはどちらも永遠に続いて見えるはずなのだった。
けれども鏡の中に連続で映る鏡たちは、奥へ行けば行くほどに遠く小さくなってしまい、その永遠の先を見ることは一度も叶いはしなかった。
それはあたかも、まだ記憶もない暗闇の、生まれ出る前からの始まりの世界と、まだ見ぬ明日のずっと向こうの先へと続く未来のように見えないのだった。

私はいったい何処から来たのだろう。
そして、私は何処へ向かうのか。

子どもの頃の私には、明日とは永遠に繰り返しやってくる終りのない日々を指していたかもしれない。
明日の自分は昨日の自分とほぼ変わりなく、まるで合わせた鏡の次の鏡の中にいる自分のように、うり二つでありながら、先へ行けば行くほどに、少しずつ遠い存在のようで、だから私はそれを同じ自分の姿でしか想像できなかった。
けれども実際の明日の自分というものは、今日の自分とは確実に僅かに変化していたに違いなく、あれから何十年もたってしまった今の私の姿といえば、あの頃の面影を微かに残しながらも大人になり、すっかりと変わってしまっている。

その大人になった今の私の姿を映して、鏡の中の私は、私が笑えばそれも笑い、私が泣けば一緒に泣く。
それは決して全く同じではなく、シンメトリー(鏡像対称)な私。
私でありながら私ではない、もう一人の私がそこに、鏡の中にいる。
そこに動いて生きている。
その鏡の中の私は、その前をこの私が離れてしまえば、もしかして勝手にこっそりと離れて動き出していたりするのかもしれない。
まるで、子供が寝静まって誰もいなくなった部屋で目を醒まし、勝手に遊んだり行進したりしているあの玩具の兵隊たちのように。

私が夜中にぐっすりと眠っている時や、昼間には部屋を出てオフィスで働いたり遊びに出かけている時に、その鏡の中にいたシンメトリーの私はこっそりと目を覚ます。
そして、鏡の中の回廊を渡り、私はきっと誰かに会いに行こうとするだろう。
だから、その誰かとは、この今に会えない誰かなのだろう。
私はその誰かを探し、その人の手を取りたくて……でも、その手を取ったあと……いったいどうしたいのだろうか。

いつしか鏡の中で、その夢の中の世界で、シンメトリーな私が、シンメトリーなあなたと出会う。
二人の鏡は合わさって、合わせ鏡の世界で互いに手を差し出して……そして、その手を取ったあと……そうだ、だから私たちは「永遠」を誓い合えばいい。
その誓いは鏡の世界にこそふさわしいのだから。

過去も未来もずっと奥までは見ることができず、けれども決して消えることのない世界の中で、ひとりの私とひとりのあなたが出会ったならば、永遠にもうひとりではないことを誓うことができるかもしれない。

やがて現実の私は、目を覚まし顔を洗うために、または帰宅して化粧を落すために、いつものように鏡の中を覗くだろう。
その時、鏡の中のシンメトリーな私は、こっそりとそこに戻っていて、そこに寝ぼけた私や一日に疲れた私の顔を映しだす。
「あなたは今まで何をしていたの?」
こう聞けば、同じことを聞き返す。

どちらがより幸せなのかは解らぬけれど、鏡の中の私が幸せそうな顔をしているのなら、この私はそれでいい。


鏡の中の私は、あなたと、もう出会っているのだろうか。
そして、あなたは、いったい誰なのか…。

いつかそれを知るとき、私たちはやはり「永遠」が誓えたらと思う。


もう永遠に、ひとりではないことが誓えたら良いと思う。



おおるり




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