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よくわからない人のための蓮舫氏の二重国籍問題Q&A(上)

2017-07-25 23:07:43 | 事件・犯罪・裁判・司法
 未だによくわかっていないまま発言している人がいるようなので、こんなものを書いてみた。


Q:蓮舫さんは二重国籍だったの?

A:そうだよ。日本と台湾の2つの国籍をもっていたことがわかったんだ。

Q:台湾国籍って何? 台湾は国じゃなくて地域じゃないの?

A:ここで中国の近現代史を詳しく説明する余裕はないけれど、辛亥革命で清朝が倒れて中華民国ができたことは知ってるよね。
 第2次世界大戦後の中華民国で、政権党である国民党と、共産党との間で内戦が再発した。共産党が勝利して中華人民共和国を建国して大陸を支配し、敗れた国民党は台湾に逃げ延びて中華民国を維持した。
 当時は東西冷戦の時代だったから、米国や日本や西欧諸国といった西側は中華民国を、ソ連など共産党政権の東側は中華人民共和国を、それぞれ中国を代表する正統な政府と認めた。国際連合が創設されたときは中華民国がそのメンバーだったから、台湾に逃げ延びた後も国連の代表権を維持し、中華人民共和国は国連に参加できなかった。
 しかし、やがてソ連と対立するようになった中華人民共和国は西側に接近し、米国や日本は中華人民共和国と国交を結んで中華民国とは断交した。国連の代表権も中華人民共和国に移った。日本では「中華民国」という言葉は使われなくなり、単に地域名である「台湾」と呼ぶようになったんだ。
 国籍としては、「中華民国国籍」と呼ぶのが正確だろうけど、この蓮舫さんの報道では、一般に「台湾国籍」の語が使われているから、ここでもそれに合わせておくね。

Q:蓮舫さんはどうして台湾国籍をもっていたの?

A:お父さんが台湾国籍だったから、その娘である蓮舫さんも台湾国籍になったんだ。台湾は血統主義といって、親の国籍が子に引き継がれるからね。日本もそう。米国のように、その国で生まれたことによって国籍を取得できる、出生地主義の国もあるね。

Q:お母さんは台湾国籍じゃなかったの?

A:お母さんは日本国籍だね。結婚と国籍の変更は別のことだから、結婚していても互いの国籍が別々であることはあるよ。

Q:蓮舫さんは生まれたときから日本と台湾の二つの国籍をもっていたの?

A:いや、生まれたときには台湾の国籍しかなかった。今は違うけど、昔の日本の国籍法は、血統主義でも父系優先で、父親が外国国籍、母親が日本国籍なら、自動的に外国国籍だけをもつとされていたからね。

Q:蓮舫さんは、台湾で生まれ育ったの?

A:いや、日本で生まれ育ったそうだよ。

Q:片方の親が日本国民で、本人が日本で生まれ育っているのに、外国籍しかもてないなんて、変な話だね。

A:そうだね。だから、昭和59年5月25日法律第45号の「国籍法及び戸籍法の一部を改正する法律」で、国籍法の父系優先が父母平等に改められて、母親の国籍も子に引き継がれることになったんだ。
 同じ血統主義を採るヨーロッパの国々でも、父系優先は男女差別であるという観点から、父母平等へ改める国が相次いでいたことや、1979年に国連総会で採択された女子差別撤廃条約に日本も参加するために国内法の整備が必要だったこともあって、改正されたそうだよ。

Q:でも、蓮舫さんが生まれたのは、その国籍法の改正前でしょ? 後から国籍を取得するなんてことができたの?

A:それができたんだ。昭和59年5月25日法律第45号の附則第5条第1項に、国籍の取得の特例を認める条文があるんだ。

《(国籍の取得の特例)
第五条  昭和四十年一月一日からこの法律の施行の日(以下「施行日」という。〔引用者註:昭和六十年一月一日〕)の前日までに生まれた者(日本国民であつた者を除く。)でその出生の時に母が日本国民であつたものは、母が現に日本国民であるとき、又はその死亡の時に日本国民であつたときは、施行日から三年以内に、法務省令で定めるところにより法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。 》

 蓮舫さんは1967年生まれ、つまり昭和42年生まれだから、この対象者に該当するんだ。それで法務大臣に届け出て、日本国籍を取得したんだね。

Q:日本国籍を取得したら、台湾国籍はどうなるの?

A:国によっては、国民が他国の国籍を取得したら、自動的に自国の国籍を失うと定めているところもあるけど、台湾はそうじゃない。日本国籍を取得しても、台湾国籍をそのままにしておいたら、二重国籍ということになるね。

Q:日本は二重国籍を認めていないってよく聞くけど、具体的にはどういう法律に違反するの?

A:日本の国籍法では、二重国籍を認めないと明言しているわけではない。ただ、国籍単一の原則をとっていて、できるだけ日本国民が二重国籍にならないようにしている。
 例えば、蓮舫さんは違うけど、日本国民を両親に持たない、一般の外国人が日本国籍を取ろうとしたら、国籍法第4条に定められた帰化の手続きをとって、法務大臣の許可を受けなければならない。
 帰化の条件は第5条第1項に定められていて、その中に
《五  国籍を有せず、又は日本の国籍の取得によつてその国籍を失うべきこと。 》
というのがある。
 「日本の国籍の取得によつてその国籍を失うべきこと」というのは、さっき言った、自国民が他国の国籍を取得したら、自動的に自国の国籍を失うと定めている場合だね。
 でも、台湾のようにそうでない国もある。そういう場合に、ある国の政策がそうだからといって、その責任を個人に負わせて、一律に帰化を認めないのは酷だよね。
 だから、第5条第2項で、
《2  法務大臣は、外国人がその意思にかかわらずその国籍を失うことができない場合において、日本国民との親族関係又は境遇につき特別の事情があると認めるときは、その者が前項第五号に掲げる条件を備えないときでも、帰化を許可することができる。 》
と定められているんだ。これで実際に帰化を許可されている人は多いんじゃないかな。

Q:それで帰化を許可したら、その人は二重国籍になっちゃうけど、それはどうやって解消するの?

A:第14条に「国籍の選択」という制度があって、一定期限内にどちらかの国籍を選択することになっているね。

《(国籍の選択)
第十四条  外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなつた時が二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない。

2  日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法 の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする。》

Q:外国の国籍を離脱するためには、どうしたらいいの?

A:それは、その外国の制度に従うんだろうけど、普通は離脱したいと申請して許可を受けるんだろうね。離脱そのものを認めないという国もあるそうだけど。
 そして、離脱を終えたら、戸籍法第106条に従って、市町村長に届け出なければならないとされているね。それを受けて、市町村はその人が外国籍を離脱したことを戸籍に記載するんだ。

Q:外国の国籍の離脱のほかに、「日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言」ができるようになっているのはなぜ?

A:本人が離脱を希望しても離脱が許可されなかったり、本人がその外国と接触できない何らかの事情があったり、そもそもその外国が国籍離脱の制度を設けていなかったりする場合を想定しているんだろうね。
 でも、条文上、外国国籍の離脱ができない場合にのみ日本国籍選択の宣言をするとはなってないから、これはどちらを採ってもいいんだ。
 現に、蓮舫さんの問題が騒がれていた頃に、やはり二重国籍だったことが判明したと報道された自民党の小野田紀美・参議院議員は、日本国籍選択の宣言をして、議員に当選した後、この蓮舫さんの騒ぎを受けて、さらに米国籍離脱の手続きをとっている。
 米国籍の離脱が後からできるんなら、最初からそうすることもできたはずだけど、最初は日本国籍選択の宣言だけで済ませていて、それで何の問題にもなっていないんだからね。

Q:蓮舫さんは、外国国籍の離脱も、日本国籍選択の宣言も、どちらもしていなかったということなの?

A:そうだね。「いずれかの国籍を選択しなければならない」と義務づけられているから、選択しなかったのなら法律違反になる。

Q:でも蓮舫さんは、さっき聞いたように、国籍法第4条の帰化じゃなくて、改正法の附則第5条の特例で、日本国籍を取得したんでしょ。

A:そうだよ。法務大臣の「許可」を受けたんじゃなく、日本国民である母親をもつことによる当然の権利として、法務大臣への「届け出」によって日本国籍を取得したんだ。
 去年の9月2日に産経新聞のサイトに掲載された蓮舫さんのインタビューで、

 --出身の台湾と日本との「二重国籍」でないかとの報道がある。帰化していると思うが…

 「帰化じゃなくて国籍取得です」


というやりとりがあって、当時僕はその違いがわからなかったんだけど、そういう意味だったんだね。

Q:権利としての日本国籍取得でも、さらに国籍の選択をしなければならなかったの?

A:そうなるね。第14条は帰化と権利としての日本国籍取得を区別していないから。蓮舫さんは1985年に17歳で日本国籍を取得したそうだから、22歳になるまでに国籍の選択をしなければならなかった。
 ただ、僕が疑問に思うのは、そうした制度について、当時係官なり蓮舫さんの親族なりから十分な説明があったのか、あっとしても、当時の彼女が正確に理解し得たのかということだね。
 去年10月15日の記者会見で蓮舫さんは、国籍に関する手続きは父親任せにしていて、台湾国籍は離脱したものと思い込んでいたが、確認してみると離脱していなかったことがわかったので、自ら国籍選択の手続きをしたと説明している。十分あり得る話ではないかと思うね。

Q:蓮舫さんは過去に自ら「二重国籍」だと発言していたこともあるから、実は二重国籍であるとわかっていて、それを伏せていたんじゃないかとも聞くけど。

A:それは、国会議員になる前の、タレント時代の雑誌のインタビューなどでの発言のことだね。
 そうしたインタビューは、必ずしも一字一句が発したとおりに文字になるとは限らないし、仮にそうした発言があったとしても、蓮舫さんが国籍の制度について正確に理解した上での発言だったのか、疑問だね。単に日本と台湾の両方にルーツをもつという意味で「二重国籍」と言ったりしていたのかもしれない。
 一方で、「生まれた時から日本人」という発言もあったと批判されているね。でも、「日本人」と「日本国籍」は厳密には違うし、日本において、日本人の母親から生まれて、日本で生活してきた蓮舫さんが、「生まれた時から日本人」と自己規定していたとしても、別に不思議なことじゃないんじゃないかな。
 言葉の端々を切り取って、嘘つき呼ばわりするのはどうかと思うよ。

Q:日本では二重国籍者には一定期限内に国籍の選択が義務づけられていて、蓮舫さんがその義務を果たしていなかったことはわかったけど、選択しないままだったらどうなるの?

A:国籍法上は、法務大臣が、早く選択しなさいと「催告することができる」とされている。
 でも、「することができる」だから、するかしないかは法務大臣の裁量によるんだね。
 そして、その催告に応じずに、なお国籍の選択をしないままだと、その人は日本国籍を失うとされている。

《第十五条  法務大臣は、外国の国籍を有する日本国民で前条第一項に定める期限内に日本の国籍の選択をしないものに対して、書面により、国籍の選択をすべきことを催告することができる。

〔中略〕

3  前二項の規定による催告を受けた者は、催告を受けた日から一月以内に日本の国籍の選択をしなければ、その期間が経過した時に日本の国籍を失う。ただし、その者が天災その他その責めに帰することができない事由によつてその期間内に日本の国籍の選択をすることができない場合において、その選択をすることができるに至つた時から二週間以内にこれをしたときは、この限りでない。 》

Q:ずいぶん厳しい処分なんだね。実際に、法務大臣は二重国籍の人に催告をしているの?

A:実は、どうもしていないようだね。
 少なくとも、2009年5月12日の衆議院法務委員会で、法務省入国管理局長は、それまでに行われたことはないと答弁している。たぶん、現在でもそうじゃないかな。
 日本国民からその国籍を剥奪するという強権的な制度だからね。よっぽどの理由がないと、発動するわけにはいかないんだろう。

Q:じゃあ、蓮舫さんの二重国籍が問題になったとき、二重国瀨であることを法務省が把握していたなら、法務大臣が蓮舫さんに催告することもできたわけだね。

A:そうだよ。そしてそれをしなかったということは、国にとって蓮舫さんの二重国籍というのは、催告をしてまで国籍の選択を促すべき重要な問題ではなかったということだね。
 だから、国会議員でありながら二重国籍を放置していたのはけしからんなどと言う人を見たけど、国の判断をさしおいて、いったい何様のつもりなんだろうかと思うよ。

Q:国籍の選択を長期にわたって怠っていても、選択すればそれで終わりなの? 何かペナルティはないの?

A:ない。国籍の選択を促す制度として法務大臣の催告があるだけで、選択を怠ったことに対する罰則はない。
 そして、仮に蓮舫さんが法務大臣の催告を受けたなら、蓮舫さんは日本国籍を失いたくはないだろうから、当然催告に応じて日本国籍を選択しただろうね。
 二重国籍なんて、日本ではその程度の問題なんだよ。

Q:国籍単一の原則をとっているという割には、ずいぶん甘いんじゃない?

A:甘いと言ったって、それが昭和54年の法改正で、当時の関係者が知恵を絞って整備した制度の結果なんだからしかたがない。それが不満なら、やはり法改正を志向すべきだろうね。
 ただ、もしそうするなら、改正当時にどんな議論があったかぐらいは、確認しておくべきだろうね。僕もそんなに詳しくは調べていないんだけど、なかなか大変だったようだよ。
 今の制度でも、国籍選択をしていない者を市町村が把握すれば、法務局に通知することになっている。

《戸籍法第百四条の三  市町村長は、戸籍事務の処理に際し、国籍法第十四条第一項 の規定により国籍の選択をすべき者が同項 に定める期限内にその選択をしていないと思料するときは、その者の氏名、本籍その他法務省令で定める事項を管轄法務局又は地方法務局の長に通知しなければならない。》

 だから、法務局は国籍未選択者を把握することができるし、法務大臣の催告にまでは至らないまでも、そうした者に国籍を選択するよう行政指導することぐらいはできるはずなんだ。
 でも、蓮舫さんがこれまでそうした行政指導を受けていたとは聞かない。おそらく、ほかの未選択者も同様だと思う。
 だとすれば、どうしてそんな運用がなされているのか、考えてみるべきじゃないかな。
 これは、そう簡単な問題じゃないんだと思うよ。

(続く)
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蓮舫氏の戸籍開示についての小野田紀美議員のツイートなどを読んで

2017-07-23 01:05:16 | 珍妙な人々
 前回の記事に関連するが、小野田紀美・自民党参議院議員の最近のツイートもひどかった。
 この人は、蓮舫氏の二重国籍が問題になっていた2016年10月に、自身も日本と米国の二重国籍であったことが判明したので、米国籍を離脱する手続きをとっていると報じられ、日本国籍選択の宣言日が入った戸籍謄本や、米国の国籍喪失証明書をわざわざ公開した人物だ。
 だから、二重国籍問題については、それなりの見識を備えた人物なのではないかと推察していたのだが、全くそうではなかったようだ。



《国籍について。
戸籍謄本を選管に提出して立候補OKが出てるのなら問題ないのだろうとお思いの方。それは違います。戸籍謄本には【重国籍者であることが分かる表記が何もありません】。国籍選択の義務を果たして初めて重国籍であった事が表記されます。スパイを送り込み放題の仕様になっています。
20:31 - 2017年7月14日 》

 戸籍謄本に重国籍者であることがわかる表記がなくても、それは当たり前だ。何故なら、前回も述べたように、戸籍とは日本国籍の保有者、すなわち日本国民を管理するための制度だ。日本国籍のみを保有しているのか、それとも他の国籍をも保有しているのかを区別して管理するための制度ではない。

 もっとも、「重国籍者であることが分かる表記が何もありません」という表現にはやや疑問がある。
 帰化によって日本国籍を取得したなら、その旨が戸籍に記載される。その者が外国国籍を離脱するか、日本国籍選択の宣言をしたら、そのことも戸籍に記載される。したがって、そのどちらも戸籍に記載されていなければ、その者は二重国籍である可能性がある(外国国籍を離脱していても、それを本人が市町村に届け出ていなければ、当然戸籍には記載されないから、二重国籍が解消されていてもそれがわからない場合もある)。
 小野田氏のように米国で出生して米国籍を取得したなら、出生地は戸籍に記載され、米国は出生地主義の国だから、二重国籍である可能性があることがわかる。蓮舫氏のように両親の片方の血統により日本国籍を取得したなら、もう片方の親が外国人であれば、やはり二重国籍の可能性があることがわかる。
 戸籍法は次のように定めている。

《第百四条の三  市町村長は、戸籍事務の処理に際し、国籍法第十四条第一項の規定により国籍の選択をすべき者が同項に定める期限内にその選択をしていないと思料するときは、その者の氏名、本籍その他法務省令で定める事項を管轄法務局又は地方法務局の長に通知しなければならない。》

 戸籍を見て国籍の選択がなされていないと戸籍事務担当者がわからなければ、こんな規定は意味をなさない。
 したがって、重国籍者の可能性があることは現状でもわかるようにはなっている。小野田氏が戸籍の読み方を知らないだけである。

 で。それが何故唐突に「スパイを送り込み放題の仕様になっています」という話になるのか。重国籍者はスパイである蓋然性が高いと小野田氏は考えているのか。
 蓮舫氏が二重国籍になったのは母親が日本国籍だったからだし、小野田氏が二重国籍になったのは父親が米国人で米国で出生したからだ。
 小野田氏に限らず、二重国籍の問題でスパイ云々と語る人を時々見るが、いったいどういう頭の構造をしているのか。
 尾崎秀実やキム・フィルビーやアルジャー・ヒスや李善実は二重国籍だったのか。
 小野田氏は米国からわが国にスパイとして「送り込」まれた人物だったのか。



《私が自分自身について「日本に来てからアメリカと何も関わってないし自動的に日本国籍選択扱いにしてくれたんだろうな」と勘違いをしてしまった理由の一つがここにあります。私の戸籍謄本には米国籍所持などと一切書かれていなかったのです。つまり、選管も重国籍者を見抜けない。とんでもない事です。
20:37 - 2017年7月14日 》

 選管が重国籍者を「見抜」く必要などない。戸籍があるということ自体が日本国籍を保有していることを意味する。わが国の公職に立候補するには日本国籍は要件だが他国の国籍を有していないことは要件ではない。
 また、「自動的に日本国籍選択扱いにしてくれたんだろうな」という「勘違い」もおかしい。戸籍がある以上日本国籍を有しているのは明らかだし、米国籍から離脱させるかどうかは米国が決めることであって、日本政府が関与できることではないからだ。この人も、蓮舫氏と同様、国籍というものを十分理解していなかったということでしかない。



《なお、外国籍喪失(離脱)の証明は、国籍法16条の“努力義務”を行ったかどうかの証明にしかなりません。私も米国籍喪失書類をお示ししましたがこれはあくまで補足です。国籍法14条の“義務”である日本国籍の選択を行ったかどうかは戸籍謄本にしか記載されません。
20:53 - 2017年7月14日 》

 「これはあくまで補足」というのはそのとおりで、重国籍者の義務である国籍法第14条の日本国籍の選択を済ませているなら、16条の外国籍の離脱は努力義務にすぎない。国籍単一の原則をとるわが国政府としては、外国籍の離脱が望ましいが、離脱を認めるかどうかは当該国の判断だから、わが国が干渉すべきことではない。



《つまり、国籍法に違反していないことを証明できるのは、国籍の選択日が記載されている戸籍謄本のみです。ルーツや差別の話なんか誰もしていない。公職選挙法および国籍法に違反しているかどうか、犯罪を犯しているかどうかの話をしています。日本人かそうでないかの話ではない。合法か違法かの話です。
20:57 - 2017年7月14日 》

 「ルーツや差別の話なんか誰もしていない」と言うが、この二重国籍問題にかこつけて、蓮舫氏のルーツについて差別的な発言をしている者は多々いる。小野田氏がしていないからといって、「誰もしていない」とは言えない。
 いや、小野田氏自身、重国籍者が潜在的スパイであるかのように語っているではないか。あれは差別ではないと思っているのだろうか。

 「犯罪を犯しているかどうか」とも言うが、二重国籍者が期限内に国籍選択の手続きを済ませていなければ義務違反ではあるが、そのペナルティは、法務大臣から選択するよう催告を受け、それでも1か月以内に選択しなければ日本国籍を失うというもので、国籍法ではそのほかに罰則が定められているわけではないから、「合法か違法か」と問われれば違法ではあるが、「犯罪」ではない。
 選挙公報に「帰化」と記載したのが二重国籍を隠蔽する目的の虚偽記載だったとして公職選挙法違反を問う声もあるが、「帰化」とは一般に外国人が日本国籍を取得することを言い、外国籍を離脱して日本国籍のみになることを意味しないから、虚偽記載には当たらず、これも「犯罪」ではない。それに蓮舫氏は二重国籍の認識があったことを否定している。過去の言動から認識があったと主張する人もいるが、それをもって裁判で有罪を立証するのは極めて困難だろう。

 「国籍法に違反していないことを証明できるのは、国籍の選択日が記載されている戸籍謄本のみ」
 それは確かにそのとおりだが、何故それを広く国民に公表する必要があるのか。
 蓮舫氏が日本国籍の選択について当初誤った説明をしていたのは事実だが、昨年の10月に至って、国籍法第14条の日本国籍選択の手続きが行われていなかったことを認めた。そして、台湾国籍を離脱する手続きをとったが、その証明書は日本の法務局で受理されず、日本国籍選択の宣言をするよう強く行政指導されたので、それに従って選択の宣言をしたことを明らかにした。
 それで十分ではないのか。何故その上、戸籍まで公表する必要があるのか。

 蓮舫氏がそう説明しただけでは、実際に選択の宣言がなされたのか確信がもてない、物証で確認する必要があるということか。
 しかし、それは所管官庁である法務局や市町村と、蓮舫氏の間の問題ではないのか。
 そして、「犯罪」に該当するか否かを判断するのは、警察や検察といった捜査機関であり、最終的には司法機関である裁判所である。
 何故、警察官や検察官や裁判官でもない、法令の解釈もおぼつかない一部の国民やマスコミ、一部の議員に対して義務のない「証明」をしなければならないのか。
 こうした人民裁判的な手法は、自由民主党の理念と相反するものではないか。

 確かに 小野田氏は、既に日本国籍選択の宣言を済ませた後に参議院議員に当選したものの、この蓮舫氏の二重国籍の問題が発覚した後、自身の国籍を確認してみると、米国籍の離脱がなされていなかったことを明らかにし、選択の宣言日が記載された戸籍や、その後取得した国籍喪失証明書を公表した。
 しかし、日本国籍選択の宣言を済ませているのならば、それは国籍法第14条の義務を果たしているのであり、わが国としては小野田氏を単一国籍者と同様にみなすということだ。その上での米国籍の離脱は努力義務にすぎず、小野田氏が米国の公務員にでもならない限り、離脱しようがしまいが小野田氏が日本国籍を保持し続けることに何ら影響はない。
 そんなものを公表する必要が果たしてあったのか。
 これはある種のパフォーマンスではなかったのか。

 小野田氏の名で検索していると、産経ニュースのサイトで、夕刊フジによる2017年6月7日付けのこんな記事を見かけた。

「蓮舫氏は公人を辞めるべきだ」 “二重国籍”解消公表した自民・小野田紀美氏に直撃
2017.6.7 11:40更新

 自民党の小野田紀美参院議員(34)が5月19日、自身のツイッターやフェイスブックに「国籍についてのご報告」として、米国籍の喪失証明書が届いたことを画像付きで投稿し、「二重国籍」状態が解消されたことを堂々と公表した。一方、「二重国籍」問題を抱える民進党の蓮舫代表は5月25日の記者会見で、戸籍謄本を公開する考えが「ない」と改めて強調した。2人の対応には、政治家として「天と地」ほどの差を感じる。夕刊フジは小野田氏を直撃した。(夕刊フジ)

 「なぜ、蓮舫氏は戸籍謄本を公開しないのか。公人にプライバシーはない。それを主張するなら公人を辞めればよい」

 小野田氏は、こう言い切った。自身の「二重国籍」を認識して以降、必要な解消手続きを素早く、透明性を持って進めた自負があるようだ。

 蓮舫氏は昨年9月の代表選の期間中、「二重国籍」が発覚した。日本国籍の選択宣言をしたと主張しているが、台湾籍離脱を含めた証拠となる戸籍謄本の開示は「個人的な件」として拒否している。

 小野田氏は、蓮舫氏の態度に「怒りを覚える」といい、続けた。

 「自民党本部からは『戸籍謄本まで公開しなくていい』といわれたが、私はそれでは国民の方々の信用は得られないと思った。逆の立場なら、私は信用しない。国会議員である以上、『日本に命を投じられる』ことを証明しなければならない。私のように海外にルーツがある人間は当然です」

 そもそも、蓮舫氏は民主党政権下で「二重国籍」のまま行政改革担当相を務めた。国益に沿った判断がされたのか、疑問を持たれても仕方ない。


 公人にプライバシーはない?
 公人にだってプライバシーはある。あるに決まっている。
 小野田氏だって、国籍選択の宣言日が記された戸籍を公開をした際には、本籍地はおろか、両親の氏名も出生地も削除していたではないか。当然の配慮だ。

 党本部からは公開不要と言われたのに一存で公開した、「逆の立場なら、私は信用しない」からだそうだ。
 たいした心意気だが、そもそも国籍なんて、そんなに国家への忠誠のあかしになるものなのだろうか。
 例えば、もしスパイが二重国籍を悪用しようとすれば、敢えて忠誠心を持たない国の方の単一国籍となって、工作活動を行うということも考えられないか。
 海外逃亡して、忠誠心を持つ方の国の国籍を再取得することだってできる場合もあるだろうし。

 それはともかく、小野田氏の行動によって、国籍に限らず、公人に出自の問題があれば、戸籍を公表するという先例ができてしまったことになる。
 よからぬ事態が生じなければよいのだが。

 夕刊フジの記者が蓮舫氏の行政改革担当相を「「二重国籍」のままを務めた。国益に沿った判断がされたのか、疑問を持たれても仕方ない」と言っているのも理解できない。わが国の国益よりも台湾の国益を優先させたことがあったとでもいうのか。ならば具体的にその「疑問」の根拠を示すべきだろう。

 記事はこう続いている。

 小野田氏は「現在の国籍法と公職選挙法には、国籍に関する不備がある。国際結婚が増えるなか、『二重国籍』問題に直面する人は多くなる。こうした人々が困惑しないよう制度改正に尽力していきたい」と語っている。


 重国籍者を潜在的スパイであるかのようにみなす小野田氏が、どのように人々が困惑しないような制度改正を求めるというのか、理解に苦しむ。

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蓮舫氏の戸籍開示についての池田信夫氏のツイートを読んで

2017-07-21 07:18:25 | 珍妙な人々
 蓮舫氏の戸籍開示に関連して、池田信夫氏がこんなツイートをしていた。



《香山リカってバカだな。「参院選に立候補した時点で、戸籍謄本により日本国籍があることが確認されている」というが、戸籍謄本に国籍欄はないんだよ。》

 そして、産経ニュースの次の記事を引用している。

蓮舫氏の資料公表中止求める 香山リカ氏ら「差別禁じる憲法に反する」

 民進党の蓮舫代表が台湾との「二重国籍」問題をめぐり、台湾籍を保有していないと証明する資料を公表する意向を示していることについて、精神科医の香山リカ氏ら有識者グループが18日、東京都内で記者会見し、公表中止を民進党に求めた。

 香山氏らは蓮舫氏について「参院選に立候補した時点で、戸籍謄本により日本国籍があることが確認されている」と指摘。その上で「個人情報を開示する何の義務も必要もない。開示を求めることは出自による差別を禁じている憲法に反する」とした。


 池田氏の言うとおり、確かに戸籍謄本に国籍欄はない。
 それがどうしたというのだろう。
 香山氏は、戸籍謄本に国籍欄があって、そこに蓮舫氏が日本国籍であることが示されていると言っているだろうか。
 もちろんそんなことは言っていない。
 参院選に立候補するためには、選挙管理委員会に戸籍謄本を提出しなければならない。わが国の戸籍謄本が存在するということそれ自体が、蓮舫氏が日本国籍を有していることを示している。そう言っているのだ(念のために書いておくが、外国籍のみの人間の戸籍などわが国にはない)。

 香山氏は問題ある言動が多々見られる論客だと常々思っているが、この点に関しては明らかに香山氏が正しい。それを「バカだな。」とツイートする池田氏こそ、その呼び方に値するのではないか。

 池田氏は続けてこんなツイートもしている。



《これは現在の戸籍制度の欠陥で、日本以外の国籍を書く欄がないので、二重国籍のまま「日本国民」になれてしまう。被選挙権はあるが、「帰化した」と選挙公報に書いたのは虚偽記載(公選法違反)。》

 欠陥でも何でもない。戸籍とは日本国籍の保有者、すなわち日本国民を管理するための制度だ。その国民が日本国籍のみを保有しているのか、それとも他の国籍をも保有しているのかを管理するための制度ではない。
 「二重国籍のまま「日本国民」になれてしまう」と、敢えてカッコ書きで「日本国民」としているのは、二重国籍者は正規の日本国民ではないという含みを持たせているのだろう。しかし、同じ日本国民でありながら、単一国籍者と二重国籍者とを差別的に取り扱ってよいなどという根拠は、国籍法をはじめどの法律にもない。ただ、わが国は国籍単一の原則をとっているため、二重国籍者はいずれ国籍を選択することを義務づけられているというだけだ。二重国籍であっても日本国民であることに何ら変わりはない。

 「「帰化した」と選挙公報に書いたのは虚偽記載(公選法違反)」と言うのも、何を根拠に言っているのかわからない。
 蓮舫氏は母親が日本国籍であることから、国籍法と戸籍法を改正した昭和59年5月25日法律第45号の附則第5条による特例として日本国籍を取得したので、国籍法第4条に定められた「帰化」の手続きをとったわけではないから、厳密には「帰化した」との表現は不正確ではある。
 しかし、一般に「帰化」とは「他国の国籍を得て、その国民となること」(デジタル大辞泉)を指す。蓮舫氏は元々台湾国籍であり、それが日本国籍を得た、つまり日本国民となったのだから、一般人に向けた選挙公報に「帰化」の言葉を用いることが必ずしも不適切だとは思えない。
 だが、池田氏の言っているのは、そういうことではないのだろう。
 池田氏は、「帰化した」とは日本の単一国籍となったことを意味しており、二重国籍の認識がありながら「帰化した」と書いたのなら、それは虚偽記載だとを言いたいのだろう。
 しかし、「帰化」にそんな意味まで持たせるのは池田氏の勝手な解釈にすぎない。池田氏の主張は誤っている。

 また、仮にその解釈を認めるとしても、蓮舫氏はその二重国籍の認識があったことを否定している。
 池田氏らは、蓮舫氏のタレント時代の発言などから、いや認識はあったと主張しているようだが、そんなものが決め手になる話でもないだろうし、仮に認識があったとしても、蓮舫氏が台湾の公人でもない以上、さしたる問題だとも思えない。

 以前の記事でも述べたが、国籍法には次のような条文がある。

第十六条 選択の宣言〔引用者註:重国籍者が日本国に対し日本国籍を選択し外国国籍を放棄するとの宣言〕をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなければならない。
2 法務大臣は、選択の宣言をした日本国民で外国の国籍を失つていないものが自己の志望によりその外国の公務員の職(その国の国籍を有しない者であつても就任することができる職を除く。)に就任した場合において、その就任が日本の国籍を選択した趣旨に著しく反すると認めるときは、その者に対し日本の国籍の喪失の宣告をすることができる。
3 前項の宣告に係る聴聞の期日における審理は、公開により行わなければならない。
4 第二項の宣告は、官報に告示してしなければならない。
5 第二項の宣告を受けた者は、前項の告示の日に日本の国籍を失う。


 ということは、日本国籍選択の宣言をした二重国籍者が「自己の志望によりその外国の公務員の職」に就いたとしても、「その就任が日本の国籍を選択した趣旨に著しく反すると認める」場合でなければ、法務大臣はその者に対し「日本の国籍の喪失の宣告をする」ことはできないのである。
 つまり、外国の公人に就任したとしても、二重国籍を維持する道はあるのである。まして蓮舫氏においておや。

 現在のわが国にとって果てしなくどうでもいいレベルの話であって、終わったはずのこの話をむし返す人々(民進党含む)にも、戸籍を開示させるのは差別だといった的外れな反応をする人々にも、嘆かわしいと思うばかりである。

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日本共産党は「プロレタリアート独裁」や「前衛」を削除したか(下)

2017-07-18 07:16:51 | 現代日本政治
承前

 では、「前衛」の方はどうだろうか。

 「前衛」とは、共産主義者特有の政治用語である。
 コトバンクで引くと、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説として、次のようにある。

一般には,時代の最先端をいく革新的な芸術運動(アバンギャルド)をさすが,政治的には,革命におけるいわゆるプロレタリア前衛党をいう。本来は戦場で本隊の先頭に立ち,敵の妨害をはねのけて突破する精鋭部隊をさす軍事用語であったが,これがブルジョアジーとプロレタリアの階級闘争に転用され,プロレタリア階級の先頭に立つ「党」に適用された。プロレタリア革命における前衛の必要性と位置づけは,カール・マルクスにより初めてなされ,ウラジーミル・レーニンの『なにをなすべきか』(1902)においてその組織論的解明がなされた。マルクス=レーニン主義によれば,プロレタリア大衆は自然発生的には組合主義的意識しかもちえず,したがってそのままでは革命的でありえないため,外部から共産主義的意識をもたらし,これを革命的に展開されるのが前衛の役割とされている。レーニンは大衆組織,大衆政党,前衛政党とを区別して,職業革命家による少数精鋭主義の独自の前衛党組織論を打出した。ボルシェビキ革命後,この前衛党理論を模範にしてコミンテルンの指導下に各国に共産党が組織された。日本においても 1922年7月コミンテルン日本支部として第1次日本共産党が結成された。


 61年綱領では、冒頭に、党の創立をこう記していた。

(1) 日本共産党は、第1次世界大戦後における世界労働者階級の解放闘争のたかまりのなかで、10月社会主義大革命の影響のもとに、わが国の進歩と革命の伝統をうけついで、1922年7月15日、日本労働者階級の前衛によって創立された。


 また、統一戦線戦術における、次の記述があった。

(4)民族民主統一戦線の発展において、決定的に重要な条件は、わが党を拡大強化し、その政治的指導力をつよめ、強大な大衆的前衛党を建設することである。


 1994年の第20回党大会での綱領改定で、党の創立については、

 日本共産党は、わが国の進歩と革命の伝統をうけついで、日本人民のたたかいとロシア十月社会主義革命など世界人民の解放闘争のたかまりのなかで、1922年7月15日、科学的社会主義の理論的基礎にたつ党として、創立された。


と、「前衛」の語は削除されたが、統一戦線についての「強大な大衆的前衛党を建設することである。」といった字句は残っていた。
 これも削除されたのは、2004年の第23回党大会で現綱領に改定されたときである。
 しかし、現綱領には統一戦線についてこう記している。

(一三)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。

 日本共産党は、国民的な共同と団結をめざすこの運動で、先頭にたって推進する役割を果たさなければならない。日本共産党が、高い政治的、理論的な力量と、労働者をはじめ国民諸階層と広く深く結びついた強大な組織力をもって発展することは、統一戦線の発展のための決定的な条件となる。


 「前衛」を「先頭にたって推進する役割」と言い換えているだけである。

 これより前、2000年の第22回党大会で、党規約から「前衛」の語が消えた。
 それまでの党規約、例えば1997年の第21回党大会で改定された規約では、全文に次のように記されていた。

 (1)日本共産党は、日本の労働者階級の前衛政党であり、はたらく人びと、人民のいろいろな組織のなかでもっとも先進的な組織である。また、日本の労働者階級の歴史的使命の達成をみちびくことをみずからの責務として自覚している組織である。
〔中略〕

(2) 〔中略〕
 党は、革命の事業を成功させる保障である党を量、質ともに拡大強化し、大衆的前衛党の建設と、統一戦線の結集、発展のために奮闘する。とくに未来の担い手である青年の役割を重視し、青年・学生のあいだでの活動をつよめる。


 では共産党は前衛政党であることをやめたのか。
 そんなことはない。第22回党大会の前に開かれた第7回中央委員会総会における規約改定案の報告の中で、不破幹部会委員長(当時)はこう説明している。

「前衛政党」の規定をなぜはずしたか

 もう一つの問題は、「前衛政党」という規定にありました。私たちが、これまで「前衛政党」、「前衛党」という言葉をつかってきたのは、わが党が労働者階級、あるいは日本の国民に号令をしたり、その考えや方針をわれわれが「前衛」だからといって国民に押しつけたりするという趣旨ではありません。どんな方針も、国民の共感、信頼、そして自発的な支持をえてこそ実現されるものであります。

 私たちが「前衛」という言葉で表現してきたのは、実践的には不屈性、理論的には先見性、ここに集中的にあらわされると思います。

 いろいろな課題を追求するときに不屈にその実現をめざし、どんな迫害や攻撃にも負けないで頑張りぬく。また当面のことだけではなく、運動の結果や先々の見通し、未来社会の展望まで科学の立場にたって見定めながら先見的な役割を果たす。この不屈性と先見性にこそ、私たちが自らを「前衛政党」とよんできた一番の核心があります

 この二つが結びついて、日本共産党は、戦前、戦後、日本社会のなかで社会進歩の道を切り開く先進的な役割をはたしてきました。戦前のあの過酷な条件のなかでの国民主権の民主主義と侵略戦争反対の平和のためのたたかい、また戦後、ソ連や中国などの大国主義の乱暴な攻撃に反対して、党の自主性と日本の民主運動の自主性をまもりぬいたたたかい、そしてまた今日、「日本改革」の提案に実っている、自民党政治を打破し日本の新しい進路を切り開くたたかい、これらすべてにそのことがあらわされています。

 いろいろ文献を読んでいて面白いことに気づいたのですが、大先輩であるマルクス、エンゲルスは「前衛」という言葉はいっさい使いませんでしたが、最初の綱領的な文書である『共産党宣言』のなかで、共産党の役割を規定して、なかなか味のある言葉を残していました。実践的には、「もっとも断固たる、たえず推進していく部分」であるという特徴づけ、理論的には、「プロレタリア運動の諸条件、その進路、その一般的結果を洞察している点で、残りのプロレタリアート大衆に先んじている」という特徴づけです。これは、不屈性と先見性を独特の言葉で表したものだと読めます。

 私たちは、これまで、こういう意味で「前衛政党」という言葉を使ってきたのですが、この「前衛」という言葉には、誤解されやすい要素があります。つまり、私たちが、党と国民との関係、あるいは、党とその他の団体との関係を、「指導するもの」と「指導されるもの」との関係としてとらえているのではないかと見られる誤解であります。

 これは私たち自身のことになりますが、四十年ほど前、国際的なある会議で、ソ連共産党を「国際共産主義運動の一般に認められた前衛」だとする規定がもちだされたことがありました。わが党の代表はこれに反対しました。反対の理由は「前衛という言葉をもちだすことは、世界の運動のなかに『指導する前衛』と『指導される後衛』があるという区別を持ち込むことになる」という批判でした。これは、的確な批判でしたが、この事例からいっても、やはり「前衛」という言葉にはそういう誤解がともないがちであります。

 これらのことを検討した結論として、今回の規約改定では、誤解をともないうるこの言葉を規約上でははずし、不屈性や先見性を、内容に即して表現することにいたしました。


 「前衛」の語が「不屈性と先見性を独特の言葉で表したもの」だと言うのは、前回述べた「独裁」と同様、何とも独特の解釈だと思うが、ここでは深く触れない。
 注意すべきは、ここで不破氏は、「前衛政党」であることを否定しているわけではないということだ。
 ただ、「誤解されやすい」から、規約から外したとしているにすぎない。先に述べた「プロレタリアート独裁」と同様である。

 彼ら自身の認識としては、未だに「前衛」であることに変わりはない。それが証拠に、党中央委員会が発行している月刊理論誌の誌名は未だ『前衛』のままではないか。

 冒頭に挙げたツイ主の方がこうした事実を知った上で発言しているのか、それとも知らずに共産党の主張を鵜呑みにしているのかはわからないが、まあ共産党のやることなんてこんなもんですよ。


付記
 第22回党大会以前の綱領・規約については、「さざ波通信」のサイト(現在更新停止中)内の「日本共産党資料館」を参照させていただいた。深く感謝する。

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日本共産党は「プロレタリアート独裁」や「前衛」を削除したか(上)

2017-07-16 22:33:52 | 現代日本政治
 こんなツイートを見かけた。



《日本の共産党は「プロレタリアート独裁」も「前衛」もとっくの昔に削除してますよ。いまの共産党が狭義のプロレタリアート政党ではなく、多様な階層を接合した政治集団だということは、観察していればわかるはずですが。》

 こういう意見は時々見る。
 現在の日本共産党は、綱領や規約からこういった革命を志向するような語句を既に削除している。右派が批判するような昔の共産党とは違うんだ、といった風な。

 日本共産党は「プロレタリアート独裁」や「前衛」を「削除」したのではない。単に言い換えたり、隠したりしているだけである。

 日本共産党が議会主義を重視する現在の路線を確立したのは、宮本顕治(1908-2007)書記長が反対派を排除した後、1961年の第8回党大会で綱領を決定したときだ。以下、これを仮に61年綱領と呼ぶが、そこにはこう記されていた(太字は引用者による。以下同じ)。

(5)日本人民の真の自由と幸福は、社会主義の建設をつうじてのみ実現される。資本主義制度にもとづくいっさいの搾取からの解放、まずしさからの最後的な解放を保障するものは、労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立、生産手段の社会化、生産力のゆたかな発展をもたらす社会主義的な計画経済である。党は、社会主義建設の方向を支持するすべての党派や人びとと協力し、勤労農民および都市勤労市民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ納得をつうじ、かれらを社会主義社会へみちびくように努力する。


 しかし、「独裁」の語は、評判が悪かったらしい。
 1971年6月23日、宮本委員長は「訳語問題についての一定の成果――『プロレタリアートのディクタツーラ』の適訳」との談話を発表した。

談話は、従来「独裁」と訳されてきた「ディクタツーラ」は、マルクス、エンゲルス、レーニンなどの文献からあきらかなように、一つの階級あるいは複数の階級・階層の政治支配、あるいは国家権力をしめすものであって、けっして特定の個人や組織への権力の集中を意味するものではないこと、したがって日本語の一般的語感として「独断で決裁する」などという意味にとられる「独裁」は、社会科学の用語としての「ディクタツーラ」の意味を表現するものとしては適切でないことをあきらかにした。そして、「プロレタリアートのディクタツーラ」の内容を表現する場合には「労働者階級の権力」とか「労働者階級の政治支配」などとし、訳語としては「執権」とか「執政」とかがより適切であることをしめした。(『日本共産党の六十年 下』(新日本文庫(新日本出版社)、1983、p.37-38)


 「独裁」を「独断で決裁する」ととるのは、決して「日本語の一般的語感」ではないと思うが。
 それはともかく、この談話を受けて、1973年に開かれた第12回党大会では、綱領の上記の箇所の「プロレタリアート独裁」は「プロレタリアート執権」に変更された。
 しかし、これはさらに評判が悪かったようで、次の第13回臨時党大会(1976年)では、この「プロレタリアート執権」という語句自体をなくすことになった。すなわち、上記の一節が、

(5)日本人民の真の自由と幸福は、社会主義の建設をつうじてのみ実現される。資本主義制度にもとづくいっさいの搾取からの解放、まずしさからの最後的な解放を保障するものは、労働者階級の権力の確立、生産手段の社会化、生産力のゆたかな発展をもたらす社会主義的な計画経済である。〔後略〕


と改められた。
 では、日本共産党は「プロレタリアート執権」は行わないことにしたのか?
 そうではない。共産党自身がこう述べている。

 大会は、党綱領から執権という用語を削除する主旨がつぎの二点にあることをあきらかにした。
 ①「プロレタリアート執権」という用語が、科学的社会主義の理論のうえで「労働者階級の権力」と同意義である以上、特別の説明をしなければ、一般に理解されない用語をあえて残しておく必要がないこと。
 ②世界の共産主義運動のなかで、プロレタリアートの執権ということばが労働者階級の権力というマルクス、エンゲルスいらいのほんらいの意義にくわえて、強力革命〔引用者註:当時の「暴力革命」の言い換え語である〕の必然性やソビエト型の国家権力などとむすびつけられて使われてきた経過があり、これらの主張はロシア革命型の状況に直面した国ぐにでは一定の有効性をもつにしても、今日の日本のように民主的手段による革命の可能性が追求され、将来の人民権力の国家形態も議会制の民主主義国家が目標とされる国の革命には適用できないということ。
(前掲『日本共産党の六十年 下』p.173)


 「労働者階級の権力」は「プロレタリアート執権」と同義だから、「あえて残しておく必要がない」と言うのである。
 「プロレタリアート執権」はもうやらないことにしましたと言っているのではない。評判が悪いから隠しているだけなのである。

 なお、②の「ロシア革命型の状況に直面した国ぐにでは一定の有効性をもつ」にも留意したい。
 今日の日本の状況では適用できないと言っているだけで、敗戦や君主制の廃止といった動乱の中では、プロ独裁は有効であると考えているということだからだ。
 「敵の出方論」と同様である。

 ちなみに、この第13回臨時党大会で、「マルクス・レーニン主義」の語も綱領から消えたが、これも「科学的社会主義」の語に改められただけである。さすがに前時代の個人名を冠したイデオロギーを掲げることを排しただけで、党の理論的支柱にマルクス、レーニンがあることに現在も変わりはない

 ソ連崩壊後の1994年に開かれた第20回党大会では、61年綱領はかなり大幅に改定されたが、「労働者階級の権力」の語は次のように残った。

第七章 真に平等で自由な人間社会へ
――社会主義、共産主義と人類史の展望

 日本人民の自由と幸福は、社会主義の建設をつうじていっそう全面的なものとなる。社会主義の目標は、資本主義制度にもとづくいっさいの搾取からの解放、まずしさからの最終的な解放にある。そのためには、社会主義建設を任務とする労働者階級の権力の確立、大企業の手にある主要な生産手段を社会の手に移す生産手段の社会化、国民生活と日本経済のゆたかな繁栄を保障するために生産力をむだなく効果的に活用する社会主義的計画経済が必要である。


 2004年に開かれた第23回党大会では、さらに綱領は大幅に改定され、「労働者階級の権力」の語が消えた。代わって、「社会主義をめざす権力」の語が登場した。

 (一六)社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。

 その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。


 この点について、不破哲三・党中央委員会議長(当時)は、大会前の第7回中央委員会総会における綱領改定案の提案報告の中でこう説明している。

第一六節(その一)――すべての段階で国民の合意が基本

 第一六節は、社会主義的変革、社会主義・共産主義社会への前進のすじ道にかかわる問題についてのべた部分です。

 「社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。

 その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる」(第一六節の一つ目、二つ目の段落)

 ここで詳しくのべているように、日本でおこなわれる社会主義的な変革は、出発点からその過程の一歩一歩まで、すべての段階が国民の合意のもとにおこなわれるのであって、社会主義をめざす政権がいったんできてしまったら、あとはあなた任せの自動装置のようにことがすすむのではない、「国民が主人公」の基本が全過程でつらぬかれる、このことを、念には念をいれて、ここで明記しています。

 この文章にある「社会主義をめざす権力」という言葉は、いまの綱領で、「労働者階級の権力」といわれているものです。一九七六年の第十三回臨時党大会、この問題についての綱領の一部改定をおこなった時の報告で、なぜ社会主義をめざす権力を「労働者階級の権力」と呼ぶのか、という問題について、理論の歴史をふくめて詳しい解明をおこないました。今回の改定案では、そういう特別の説明がいらないように、最初から、この権力の役割そのものを表現したものです。


 その第13回臨時党大会における綱領の一部改定報告を調べてみると、「なぜ社会主義をめざす権力を「労働者階級の権力」と呼ぶのか」について、次のような説明があった。

 民主主義革命が達成され、独立・民主日本が建設されたとき、社会発展の次の展望として、社会主義への前進が日程にのぼってくるが、社会主義革命に前進するかどうかは、主権者である国民の選択――選挙に具体的にしめされる国民の意思によって決定される問題である。そのときには、統一戦線も、民族民主統一戦線から、社会主義建設を支持する統一戦線に発展し、人民権力も、民主的変革を任務とする権力から、社会主義建設を任務とする権力――社会主義権力に前進するだろう。〔中略〕
 わが党が、社会主義権力を「プロレタリアート執権」あるいは「労働者階級の権力」と規定するのは、労働者階級こそが資本主義の廃止と社会主義の実現を使命とする階級であり、社会主義権力は、労働者階級のこの歴史的使命の達成を任務とする権力だからである。社会主義権力やそれを支持する人民勢力(社会主義統一戦線)のあいだで、労働者階級が主導的役割を果たすことは当然であるが、この権力は、広範な人民を結集し、人民の多数の支持に依拠するものである。とくに〔中略〕現代日本の諸条件のもとでは、労働者階級と他の人民諸階級・諸階層との社会主義建設を支持する連合が、いっそう広大な規模をもちうることは明白である。(思想運動研究所編『日本共産党事典(資料編)』全貌社、1978、p.1778-1779)


 この意味で不破氏が「社会主義をめざす権力」は「労働者階級の権力」と同じだと言うのだから、これはつまりは「プロレタリアート独裁」と同じだということになる。61年綱領と何も変わってはいない。
「労働者階級こそが資本主義の廃止と社会主義の実現を使命とする階級」
「社会主義権力やそれを支持する人民勢力(社会主義統一戦線)のあいだで、労働者階級が主導的役割を果たすことは当然」
という認識にも変わりはないことになる。
 これで、冒頭に挙げたツイ主が言うような「多様な階層を接合した政治集団」だと言えるだろうか。

続く
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内心の自由を侵すのは誰か

2017-07-15 10:40:44 | マスコミ
 こんなツイートがありまして。



《辞めろコール「共謀罪で逮捕」 自民議員が「いいね!」:朝日新聞デジタル》

 記事本文はこちら。

辞めろコール「共謀罪で逮捕」 自民議員が「いいね!」
2017年7月6日17時59分

 東京都議選での安倍晋三首相の街頭演説で「辞めろ」とコールした聴衆を、「共謀罪」の疑いで「逮捕すべし!」と求めるフェイスブック(FB)の投稿に対し、自民党の工藤彰三衆院議員が「いいね!」ボタンを押していたことが分かった。

 工藤氏は愛知4区選出で当選2回。工藤氏が内容を評価するボタンを押した投稿は、「テロ等準備罪で逮捕すべし!」と題され、「安倍総理の選挙演説の邪魔をした『反対者たち』とは(略)反社会的共謀組織『政治テロリスト(選挙等国政妨害者)たち』なのだから!早速運用執行すべし!」と書き込まれていた。

 工藤氏は6日、朝日新聞の取材に、事務所を通して「昨晩、間違って押してしまった。今後は気をつけていきたい」。取材後、「いいね!」を取り消した。(南彰)


 苦々しく思っていたら、間を置いてさらにこんなことまで。



《朝日新聞デジタル編集部‏

安倍首相の都議選応援演説で「やめろ」コールが起きたことについて、「プロ活動家の妨害」としたフェイスブックの投稿に対して、昭恵さんのアカウントから「いいね!」がされていました。 http://www.asahi.com/articles/ASK775SRTK77UTFK016.html …》

「やめろコールは活動家の妨害」 昭恵氏が「いいね!」
2017年7月7日19時22分

 安倍晋三首相が東京都議選で応援演説する最中に街頭で起きた「やめろ」コールについて、「プロの活動家による妨害」とするフェイスブック(FB)の投稿に対し、首相の妻昭恵氏のアカウントから「いいね!」ボタンが押されていたことが7日、分かった。

 投稿は、首相が1日に東京・秋葉原で応援演説した際に聴衆の一部から「やめろ」コールが起きた様子を報じたテレビ番組を取り上げ、「ヤジじゃなくプロの活動家による妨害」「テレビでは活動家の人しか映っていない。少人数だけれど拡声器使い大音量で流していただけ。日の丸持って応援していた大半の一般人を完全に無視している」と書き込んでいた。

 〔後略〕


 私はFBをやっていないので、FBの「いいね!」ボタンについてはよくわからないが、twitterでは「いいね」をよく使う。
 本当に「いいね」と思ったときに限らず、twitterでは新しいツイートがどんどん届いて過去のツイートを探すのがたいへんなので、気になったツイートはとりあえず「いいね」しておくことがよくある。

 上の朝日の記事が取り上げているFBでの「いいね!」が本人によるものかどうかわからないし、どういうつもりで押したのかもわからないのに、何を騒いでいるのだろう。
 仮に本心から「いいね!」と思って押していたのだとしても、それがどうしたというのだろう。
 政治家やその親族には、たかだか「いいね!」ボタンを押すことも許されないのだろうか。

 共謀罪で内心の自由が侵されると、しきりに危険性を訴えていたマスコミが、思想警察さながらの監視活動を行っている奇怪。
 「いいね!」ボタンを押すことにすら、他人の目を意識せざるを得ない、恐るべき社会。
 マスコミ人にとっても、決して居心地の良い社会であるとは思えないのだが。
 自分で自分の首を絞めていることに気がつかないのだろうか。

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加憲論は「開き直り」?

2017-07-10 08:13:16 | 日本国憲法
 6月27日付朝日新聞5面に掲載されたシリーズ「憲法を考える」の「自衛隊 変わる受け止め方 「日陰者」から大震災通して「最後のとりで」に」と題する記事の一部が気になった。

■加憲論は「開き直り」

 「(自衛隊が)合憲か違憲かといった議論は終わりにしなければならない。9条1項、2項はそのまま残し、現在の自衛隊の意義と役割を憲法に書き込む」。安倍晋三首相は24日の講演で強調した。

 これに批判的なのが、9条全面改正を主張する石破茂元防衛相だ。「自衛隊は軍隊なのかどうかに答えを出さないといけない」と指摘。その議論を避ければ、「自衛隊をめぐる矛盾が固定化されることを恐れる」。

 南スーダンの大規模な武力衝突を、現地部隊が日報に「戦闘」と記す一方、稲田朋美防衛相は「事実行為としての殺傷行為はあったが、法的な意味の戦闘行為ではなかった」と否定した。さかのぼれば、イラクへの自衛隊派遣で、小泉純一郎首相(当時)が「自衛隊が活動する地域は非戦闘地域」と無理やりな答弁をしたこともある。

 社会学者の大澤真幸氏は「日本人は9条の理念を持ち続けたいと思っている。一方で、自衛隊を憲法に書かないと申し訳ない気持ちになるのは、自衛隊を『憲法上、怪しい』と悪者扱いしながら、それに依存している後ろめたさがあるから」と見る。しかし、「自衛隊を憲法に明記すれば、現状のずるさに開き直ることになります」。

 「戦争放棄」という憲法の理念と、自衛隊の現状にどう折り合いをつけるか。憲法に自衛隊を規定すれば、後ろめたさは解消されても、9条の理想を今後実現していくという選択肢は封じられてしまうのではないか――。

 日本に軍隊は必要か。日本がどんな国を目指すかに関わる問題だからこそ、首相はごまかさずに堂々と、語るべきだろう。(三輪さち子)


 大澤真幸氏の言う、
「自衛隊を憲法に明記すれば、現状のずるさに開き直ることになります」。
とは、どういう意味なのか、私にはさっぱりわからない。

 憲法に明記することよって、戦力を保持しないと表明しながら自衛隊を保有するという現状のずるさから脱却することになるのではないか。
 憲法に明記しない状態を続けることこそ、現状のずるさにとどまり続ける、開き直りではないのか。

 昔、このブログで、「開き直りの護憲論」と題する記事を書いたことを思い出した。

 読み返してみると、もう10年も前のことだった。
 当時、9条をめぐって、平川克美氏が

現行の憲法は理想論であり、もはや現実と乖離しているといった議論がある。(中略)そこで、問いたいのだが、憲法が現実と乖離しているから現実に合わせて憲法を改正すべきであるという理路の根拠は何か。
 〔中略〕憲法はそもそも、政治家の行動に根拠を与えるという目的で制定されているわけではない。変転する現実の中で、政治家が臆断に流されて危ない橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているのである。
 〔中略〕現実に「法」を合わせるのではなく、「法」に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは、「法」に敬意が払われない社会の中では、「法」はいつでも「理想論」なのである。


と説いていた。
 私はこれを、現実と理想が乖離していて何が悪いのだという、開き直りの護憲論だと批判した。

 以前紹介した、現在の安倍首相の加憲論に対する朝日新聞の反応にも同質のものを感じる。開き直っているのは護憲論者の方である。

 三輪さち子記者はこの記事でこう述べている。
「「戦争放棄」という憲法の理念と、自衛隊の現状にどう折り合いをつけるか。憲法に自衛隊を規定すれば、後ろめたさは解消されても、9条の理想を今後実現していくという選択肢は封じられてしまうのではないか――。」
というのも、何を言っているのかさっぱりわからない。
 政府の解釈では、「折り合い」は既についており、それが国民にも定着しているのではないか。
 三輪記者は、「戦争放棄」の「戦争」には、侵略された時の自衛戦争をも含むと考えているのだろうか。「9条の理想を今後実現していく」とは、自衛隊のような専守防衛の実力組織であっても、保有することは本来許されないと考えているのだろうか。
 ならば話は簡単だ。自衛隊は違憲だ、廃止すべきだと主張すればよい。社民党や共産党のように。

 三輪記者は「日本に軍隊は必要か。〔中略〕首相はごまかさずに堂々と、語るべきだろう。」とも述べているが、安倍首相が何をごまかしていると言うのだろうか。
 朝日新聞こそ、日本に軍隊は必要か、自衛隊は合憲か違憲かについて、堂々と語ったことがあっただろうか。

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バニラ・エアは客にタラップを「上がらせた」か

2017-07-03 07:22:20 | マスコミ
 「車いす客に階段上らせる」
 こんな記事を6月28日の朝日新聞朝刊の社会面で見た。
 
 朝日新聞デジタルでは見出しは以下のように変わっているが、内容は同じ。

車いす客に自力でタラップ上がらせる バニラ・エア謝罪

 鹿児島県奄美市の奄美空港で今月5日、格安航空会社(LCC)バニラ・エア(本社・成田空港)の関西空港行きの便を利用した半身不随で車いすの男性が、階段式のタラップを腕の力で自力で上らされる事態になっていたことがわかった。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪。車いすでも搭乗できるように設備を整える。


 しかし、記事を読んでみると、

 搭乗便はジェット機で、関空には搭乗ブリッジがあるが、奄美空港では降機がタラップになるとして、木島さんは関空の搭乗カウンターでタラップの写真を見せられ、「歩けない人は乗れない」と言われた。木島さんは「同行者の手助けで上り下りする」と伝え、奄美では同行者が車いすの木島さんを担いで、タラップを下りた。

 同5日、今度は関空行きの便に搭乗する際、バニラ・エアから業務委託されている空港職員に「往路で車いすを担いで(タラップを)下りたのは(同社の規則)違反だった」と言われた。その後、「同行者の手伝いのもと、自力で階段昇降をできるなら搭乗できる」と説明された。

 同行者が往路と同様に車いすごと担ごうとしたが、空港職員が制止。木島さんは車いすを降り、階段を背にして17段のタラップの一番下の段に座り、腕の力を使って一段ずつずり上がった。空港職員が「それもだめです」と言ったが、3~4分かけて上り切ったという。


 はい上がったのはこの乗客が自分でやったことで、職員は「それもだめです」と言ったとある。

 また、バニラ・エアはこう言ったともある。

同社の松原玲人(あきひと)人事・総務部長は「やり取りする中でお客様が自力で上ることになり、職員は見守るしかなかった。こんな形での搭乗はやるべきでなく、本意ではなかった」とし、同社は木島さんに謝罪。


 ならば、バニラ・エアが自力ではい上がることを強要したかのような、これらの見出しや。記事中の「自力で上らされる事態」といった表現はおかしくないか?

 私はツィッターユーザーだが、この件では、やはりバニラ・エアが自力ではい上がることを強要したかのように同社を非難する発言がタイムライン上に多々見られた。

 ちなみに、読売新聞のサイトを見ると、記事の見出しとリードはこうなっている。

バニラ・エアの車いす客 自力でタラップ、同行者助け認めず

 鹿児島県奄美市の奄美空港で今月5日、格安航空会社(LCC)の「バニラ・エア」が運航する旅客機に搭乗しようとした車いすの男性(44)が、タラップを腕の力を使って自力で上っていたことが、同社への取材でわかった。


 産経新聞のサイトではこうである。

車いすの男性、腕でタラップはい上がる…バニラ・エア搭乗時「歩けない人は乗れない」と言われ 奄美空港

 鹿児島県奄美大島の奄美空港で5日、格安航空会社(LCC)のバニラ・エアを利用した車いすの障害者の男性が階段式タラップを1段ずつ、腕を使ってはって上っていたことが28日、分かった。奄美空港に車いすで昇降できる設備がなく、社員らから「歩けない人は乗れない」「自力で上り下りできるならいい」などと言われていた。同社は男性に謝罪した。


 時事通信のサイトではこう。

車椅子男性、自力でタラップ上る=バニラエア機で

 格安航空会社バニラ・エアの奄美-関西線で、車椅子の半身不随の40代男性が自力でタラップを上っていたことが28日、分かった。


 3社とも、「上がらせる」「上らされる」」といった表現はない。

 毎日新聞のサイトは、朝日と同様、

バニラ・エア 車椅子男性に階段上らす 相談受け謝罪、改善

格安航空会社(LCC)のバニラ・エアを利用した車椅子の男性が今月5日、奄美空港(鹿児島県奄美市)で搭乗する際、「階段昇降をできない人は搭乗できない」と説明され、階段式のタラップを腕の力だけで、はうようにして上らされていたことが分かった。同社は男性に謝罪し、奄美空港で車椅子利用者が搭乗できる設備を整える。


としていた。

 朝日や毎日は、記事に抗議する読者が社に押し掛けて自殺したら、「○○新聞、抗議の読者を自殺させる」と書くのだろうか。

 朝日を読んでいると、フェイク・ニュースが横行していると批判したり、政治家の発言をファクト・チェックすると称する記事が見られるが、まず自社の報道からしっかりしていただきたいものだ。

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朝日新聞の自衛隊「加憲」論批判を憂える

2017-06-29 06:28:01 | 現代日本政治
 前回の記事で取り上げた長谷部・杉田対談の末尾。

 杉田 現憲法の「個人」を「人」に変えた自民党憲法改正草案はその意図を如実に示しています。ただ安倍首相は草案を勝手に棚上げし、9条に自衛隊の存在を明記する加憲を主張し始めた。自衛隊を憲法に明確に位置づけるだけで、現状は何も変えないと。

 長谷部 首相はそう言い張っていますが、自衛隊の現状をそのまま条文の形に表すのは至難の業というか、ほぼ無理です。そもそも憲法改正は現状を変えるためにやるものでしょう。現状維持ならどう憲法に書こうがただの無駄です。日本の安全保障が高まることは1ミリもない。自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません。そう言うといかにも自衛官を尊重しているように聞こえますが、実際には、憲法改正という首相の個人的な野望を実現するためのただの道具として自衛官の尊厳を使っている。自衛官の尊厳がコケにされていると思います。

 杉田 憲法に明記されることで、自衛隊はこれまでのような警察的なものではなく、外国の軍隊と同じようなものと見なされ、性格が大きく変わるでしょう。首相が最近よく使う「印象操作」という言葉は、この加憲論にこそふさわしい。だまされないよう、自分の頭で考え続けて行かなければなりません。=敬称略(構成・高橋純子)


 現状追認のための改憲もまかりならんとおっしゃっている。

 こうした主張はこの両教授だけでなく、安倍首相が加憲論を主張しだしてからの、朝日新聞の論調でもある。

 首相のビデオメッセージを受けて、5月4日付の社説「憲法70年 9条の理想を使いこなす」は早速こう批判した。

 安倍首相はきのう、憲法改正を求める集会にビデオメッセージを寄せ、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と語った。

 首相は改正項目として9条を挙げ、「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込むという考え方は国民的な議論に値する」と語った。

 自衛隊は国民の間で定着し、幅広い支持を得ている。政府解釈で一貫して認められてきた存在を条文に書き込むだけなら、改憲に政治的エネルギーを費やすことにどれほどの意味があるのか。

 安倍政権は安全保障関連法のために、憲法解釈を一方的に変え、歴代内閣が違憲としてきた集団的自衛権の行使容認に踏み込んだ。自衛隊を明記することで条文上も行使容認を追認する意図があるのではないか。

 9条を改める必要はない。

 戦後日本の平和主義を支えてきた9条を、変えることなく次の世代に伝える意義の方がはるかに大きい。


 さらに、5月9日付の社説「憲法70年 9条改憲論の危うさ」はこう踏み込んだ。

 国民の間で定着し、幅広い支持を得ている自衛隊の明文化なら理解が得やすい。首相はそう考えているのかもしれない。

 だが首相のこの考えは、平和国家としての日本の形を変えかねない。容認できない。

 自衛隊は歴代内閣の憲法解釈で一貫して合憲とされてきた。

 9条は1項で戦争放棄をうたい、2項で戦力不保持を定めている。あらゆる武力行使を禁じる文言に見えるが、外部の武力攻撃から国民の生命や自由を守ることは政府の最優先の責務である。そのための必要最小限度の武力行使と実力組織の保有は、9条の例外として許容される――。そう解されてきた。

 想定されているのは日本への武力攻撃であり、それに対する個別的自衛権の行使である。ところが安倍政権は14年、安全保障関連法の制定に向けて、この解釈を閣議決定で変更し、日本の存立が脅かされるなどの場合に、他国への武力攻撃でも許容されるとして集団的自衛権の行使容認に踏み込んだ。

 改めるべきは9条ではない。安倍政権による、この一方的な解釈変更の方である。

 安倍政権のもとで、自衛隊の任務は「変質」させられた。その自衛隊を9条に明記することでこれを追認し、正当化する狙いがあるのではないか。

 自民党は12年にまとめた改憲草案で2項を削除し、集団的自衛権も含む「自衛権」の明記などを提言した。その底流には、自衛隊を他国並みの軍隊にしたいという意図がある。首相はきのうの国会審議でも、草案を撤回する考えはないとした。

 草案に比べれば、首相がいう「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という案は一見、穏当にもみえる。

 だが1項、2項のもつ意味と、集団的自衛権の行使に踏み込む自衛隊とは整合しない。日本の平和主義の基盤を揺るがしかねず、新たな人権を加えるような「加憲」とは質が違う。


 だが、どちらの社説も、首相がビデオメッセージで述べた次の太字の部分に触れていない。

例えば、憲法9条です。今日、災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。「自衛隊は、違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ」というのは、あまりにも無責任です。

 私は、少なくとも、私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、「自衛隊が違憲かもしれない」などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。

 もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと、堅持していかなければなりません。そこで、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という考え方、これは、国民的な議論に値するのだろう、と思います。


 そのとおりではないかと思う。
 多くの憲法学者や一部の国政政党が今なお自衛隊違憲論を唱える中、明文化するのは十分意義のあることではないか。

 一昨年の安保法制の議論の中、憲法学者の多数が、安保法案のみならず、自衛隊をも違憲と見ていることを紙面で報じなかった朝日新聞にとっては、直視したくない事実かもしれないが。

 私が、小学生の頃、憲法について学び、そして自衛隊についても知ったとき、まず思ったのは、これは憲法違反の存在ではないかということだった。
 実際、私が通った小中高の教師は現場でそのように教えていたと記憶している。
 純真な私は、憲法に反する自衛隊はケシカラン、自分が裁判官になったら、違憲の判決を出してやるのになどと思ったものだ。
 やがて、年を経て、冷戦の現実や、解釈改憲の経緯などの知識が増えるにしたがい、自衛隊はあっていい、それをあいまいにしている憲法こそ改正すべきだと思うようになった。
 それは今も変わっていない。
 というより、非武装中立論を唱えた社会党が健在ならいざしらず、野党第一党が自衛隊合憲論に転じてもう長らく経つというのに、未だにその程度の改正すらできないことに一国民として情けなく思う。
 何故なら、それは、国民が憲法と実態の乖離を容認しているということだからだ。
 国民主権の法治国家として恥ずかしい状態であることに気づいていないということだからだ。
 北朝鮮や中国のように 憲法が飾りであってもかまわないと考えているということだからだ。

 自衛隊を憲法に明記すべきだという考えは、これまでにも多くの心ある方々が唱えてきたことだ。
 例えば、舛添要一は、東京都知事に当選した頃に出版した『憲法改正のオモテとウラ』(講談社現代新書、2014)で、日本国憲法改正草案(2012)を批判しながらも、

 私は、憲法改正の眼目は、9条2項だと思っている。たしかに、現行憲法は国民の権利・義務などをはじめ、完成度が高くよくできた内容だと思う。しかし、変化する国際情勢に対応して、日本の平和と独立、国民の安全を守るために軍隊を持つ(現実に自衛隊が存在している)ことを明記すべきである。その改正こそが急がれている。(p.7、太字は原文のまま)


と述べていたし、民進党の野田佳彦幹事長も、民主党への政権交代の直前に出版した『民主の敵』(新潮新書、2009)で、

 やはり、実行部隊としての自衛隊をきっちりと憲法の中で位置づけなければなりません、いつまでたってもぬえのような存在にしてはならないのです。(p.134、太字は原文では傍点)


と述べている。
 民主党政権で内閣官房長官など要職を歴任した社会党出身の仙谷由人も、2004年の講演では次のように述べていた(太字は引用者による)。

問い
 「創憲」と言っていますが、民主党は2006年に憲法の草案を出せますか。先送りか。その間に既成事実が進み、実質的な変更が進むのではないかという危惧をもつが、

答え
 では聞くが、9条を変えるのを心理的にいやだというのは、自衛隊が合憲の存在だと認めながら、これを憲法上、表現する、書くということをいやだということになる。たぶん合憲かどうかを国民アンケートにすれば、否定する人が今どれくらいいるか。もし合憲的存在だというのなら、なぜこれを憲法に書くのがいけないというのか、この理由を考え出すことは難しいですよ。法律論としては、そして憲法論としては。さらに政治論としても。運動論としてとか政局論としてはある、自民党に引っ張られるとかいう議論はある、軍国主義大国化する、あるいはアメリカとなんでもかんでもいっしょにやりだすのではないかとか。でも今は憲法を変えてないけど、アメリカとなんでもかんでもいっしょにやっているじゃないか。

 ということとの関係で、その問題をさておいて、自民党が9条以外にどんな憲法改正を持ち出すと予測するか、そのことがどのくらい皆さん方が反対しなければならないとか賛成しなければならないものと予測されますか。

 そこを一般的・抽象的に憲法改正論に引っ張られずるずるずると悪の道に入っていくというイメージで語る人が多いのだけれど。僕は自民党をよいといっているのではない、憲法調査会の議論をきいていると、古色蒼然として古すぎる人はいる、明治憲法体制下の国に帰そうという雰囲気の人や、権利規定が多すぎて義務の規定が少なすぎるとか、憲法の成り立ちを勉強してないのかと思うような人はいます。しかし、小泉構造改革であれ、橋本6大改革であれ、本来、改革マターというのは、構造的な改革をするならこれは憲法的マターですよね。これを国家論として、憲法論としてやってこないのが無理があるので、もし、国家の姿として「何とか基本法」を作ったときは一番大事なエキスだけを憲法に書き込むのが正しい姿であると思うけれど。そうであるとすると、では自民党がどういう憲法改正をしようとしているのか、9条、安全保障、自衛隊、有事非常事態を別途議論するとして、では他のことで自民党がどれだけ斬新な国民が希望持てるようなそういう憲法論を出せるのか、そこが大問題だ。つまりいまだに、どんなに思想があっても、政治家として靖国神社に行くという計算がどこにあるのかと思う。そういう国柄なのか、そういう総理をいただく国が、アジアの中で生きていくという国家論戦略論をどうやって出すのか、本当に見てみたい、

〔中略〕

 「国のかたち」とか、地方政府の形とか、そこに生きている国民の権利とかをけじめをつけて変えていかないで、制度としてもたてまえとして変えないことに安心感があって、実態はずるずる変わっていくのをよしとするこの風潮は本当によくない。


 鳩山由紀夫も、2005年に出した「新憲法試案」では


第○章 平和主義及び国際協調
第○条(侵略戦争の否認)日本国民は、国際社会における正義と秩序を重んじ、恒久的な世界平和の確立を希求し、あらゆる侵略行為と平和への破壊行為を否認する。
2 前項の精神に基づき、日本国は、国際紛争を解決する手段としての戦争および武力による威嚇又は武力の行使は永久に放棄する。


とする一方で

第○章安全保障
第○条(自衛権)日本国は、自らの独立と安全を確保するため、陸海空その他の組織からなる自衛軍を保持する。
2 自衛軍の組織及び行動に関する事項については、法律で定める。


と、自衛「軍」の保持を明記していたし、民主党の政権下野後の2013年に枝野幸男・元内閣官房長官が公表した改憲試案でも、現行の9条はそのままに、9条の2と9条の3を追加して、自衛権を行使する実力組織(名称は明記していない)の保有と国連平和維持活動への参加協力を明記するとしていた。

 朝日新聞や長谷部・杉田両教授をはじめ、安倍政権批判者はよく「立憲主義」を口にするが、立憲主義とは、単に彼らが言うように、国民が憲法によって国家権力を縛ることだけを指すのではない。国民が制定した憲法に従って国家か運営されることが立憲主義である。
 自衛隊のような最強の実力組織が、憲法に明記されていないなどということがあってはならない。何故なら、それこそいっときの多数派によって、恣意的な運用がなされてしまうおそれがあるからだ。 

 なのに、朝日のような大新聞が、第2次安倍内閣発足以後、安全保障や憲法に関して何とも時代錯誤的な論調をとり続けていることに、私はひどく失望している。


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国民の不可解な憲法意識(2013)


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自分の頭で考える? ―長谷部恭男・杉田敦対談を読んで

2017-06-26 22:56:46 | 珍妙な人々
 朝日新聞は、ここ数年、二三か月に1回程度、長谷部恭男・早大教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)の対談を朝刊に載せている。
 朝日の看板的な位置づけの連続対談なのだろうと思うが、それにしては、両教授の発言には疑問に思う所が多々ある。

 19日付朝刊2面に掲載された今回の対談の紙面でのタイトルは「マフィア化する政治」。

 「マフィア化」とは何だろうと思って読んでみると、

 杉田 「1強」なのに余裕がない。これが現政権の特徴です。軽々に強硬手段に訴える。圧倒的な議席数を有しているのだから、国会会期を延長して、見かけだけでも整えればいいし、都合の悪い文書が出てきても「怪文書」などとせず、調査中と言えばいいのに、恫喝(どうかつ)的な態度をとる。森友学園や加計学園をめぐる疑惑と重ね合わせて考えると、政治のあり方が、一種マフィア的になっているのでは。身内や仲間内でかばい合い、外部には恫喝的に対応する。米国やロシアの政治も同様です。

 長谷部 公が私によって占拠されている。濃密な人間関係で強く結ばれた集団が、官僚機構や一部マスコミも縄張りにおさめ、社会一般に対して説明責任を果たそうともしないで権力を行使するとき、公権力は私物化され、個人間の私的な絆をテコに政治が行われる。社会全体にとって何が利益かを丁寧に説明し、納得を得ることで権力は民主的な正当性を獲得しますが、現政権はそんなものは必要ない、反対するやつは切り捨てればいいと。まさにむき出しのマフィア政治です。


だそうである。
 本物のマフィアが聞いたら、鼻で笑われるような話ではないかと思うが、彼らの中ではこれが真実なのだろう。
 さらにこんなことも言っている。

長谷部 マフィア政治を可能にした要因のひとつは、1990年代の政治改革で、首相官邸に権力を一元化したことですね。

 杉田 そうです。理論通りの結果で意外性はありません。政治学者の多くは当時、官僚主導よりは選挙で落とせる政治主導がいいと主張していた。官僚主導には確かに、既得権を過度に保護するなどの弊害がありますが、専門性にもとづく一定の合理性もあった。政権交代がひんぱんに起こる政治になるなら話は別ですが、現状では、政治主導とは、各省庁の意見も社会のさまざまな意見も無視して、政権が何でもできるということになっています。

〔中略〕

 杉田 今回、前川喜平・前文部科学事務次官の告発については称賛の声があがる一方、先ほどの政治主導の観点から、官僚は政治家の決定に従うべきだとの意見もあります。

 長谷部 政党政治から独立していることが官僚制の存在意義です。米国でも政治任用は必ずしも党派的に行われるわけではない。「たたき上げ」は政権にNOと言っています。今回露呈したのは、政権に反論できる回路が日本にはなく、忖度(そんたく)がはびこるという構造的な問題です。

 杉田 内閣人事局をつくって高級官僚の人事を政治任用にしたのも、政権交代が一定程度起きることを前提に制度設計されていました。政権交代がありそうなら、官僚も現政権に対してある程度距離を置けますが、それがなければ無理です。政治改革推進論者は、制度を変えて日本の有権者を教育すると言っていた。日本人は二者択一的にものを考えないから政権交代が起きない、ならば小選挙区にして無理やり考えてもらうと。しかし、制度改革には限界があります。


 政権交代がひんぱんに起こらないから、官邸への権力一元化、政治主導はよろしくないのだそうだ。
 政権交代が起ころうが起こるまいが、官僚が政治家に従うのは当たり前のことではないのか。
 もちろん、専門性の見地から、官僚が政治家の方針に異を唱えることはあっていい。しかし、最終的に政治家が決断したら、官僚はそれを尊重し、その実現に尽力すべきではないのか。それが組織というものではないのか。
 長谷部教授は憲法学者なのだから、「行政権は、内閣に属する」という憲法の条文を知らぬはずはあるまい。国民の代表である国会が指名する内閣総理大臣が構成する内閣が行政権を司るからこその国民主権ではないか。
 そんなに官僚の独立性を重視するなら、大日本帝国憲法時代の超然内閣への復古を唱えてはいかがか。政治家への服従をよしとしない官僚がさぞかし喜んでくれることだろう。

 それはさておき、私がこの対談についてブログに書き留めておこうと思ったのは、これまで引用した箇所が理由ではない。
 このあとの、長谷部教授の次の発言が気になったからだ。

長谷部 自分の頭でものを考えるか、為政者の言う通りにしておけば間違いないと考えるか。そのせめぎ合いがいま起きているのではないか。右か左かではない。自分で考えて自分で判断をする人は、右であれ左であれ、共謀罪は危ないと思うでしょうし、マフィア政治は良くないと考えるでしょう。日本国憲法の理念は「どう生きるかは自分で判断する」。安倍政権はその理念を壊したいと思っている。自分でものを考える人間は、マフィアにとっては面倒なだけですから。


「自分の頭でものを考える」
 私がこのブログを始めた10年ほど前、そういうことを言う政治的なブロガーをちらほら見た覚えがある。
 曰く、左翼や在日に牛耳られたマスコミを信用するな、自分の頭で考えろとか。
 あるいは、自民党は軍国主義や徴兵制の復活を企んでいて危険だ、自分の頭で考えろとか。

「右か左かではない。自分で考えて自分で判断をする人は、右であれ左であれ、共謀罪は危ないと思うでしょうし、マフィア政治は良くないと考えるでしょう」
 長谷部教授は、きっと、自分の頭で考えて、「共謀罪は危ない」、安倍政権は「マフィア政治」でありそれは良くないと判断しておられるのだろう。
 それを否定するつもりはない。
 しかし、「右であれ左であれ」、誰しもが、自分の頭で考えれば、自分と同じ結論に達するだろうとまで言ってしまうのはいかがなものか。
 それでは、長谷部説が、唯一絶対の正解だということになる。
 それらに同意しない者は、「自分の頭でものを考える」ことを放棄して、「為政者の言う通りにしておけば間違いないと考え」る愚者であるということになる。
 「自分の頭でものを考え」た結果、共謀罪はあっていい、安倍政権は「マフィア政治」ではないし、それでかまわないと結論を出す人もいるかもしれないのに。
 ずいぶんな思い上がりではないだろうか。

 長谷部教授のようなことを言えば、安倍政権に批判的な人々からは、さぞ賛同されることだろう。
 しかし、そうでない者は、こうした対談を読んで、どうして心が動かさるだろうか。むしろ呆れられ、軽蔑されるだけではないか。
 内輪ウケ狙いの発言でしかない。大新聞に載せるにふさわしいものだろうか。

 対談はこう続く。

 杉田 現憲法の「個人」を「人」に変えた自民党憲法改正草案はその意図を如実に示しています。ただ安倍首相は草案を勝手に棚上げし、9条に自衛隊の存在を明記する加憲を主張し始めた。自衛隊を憲法に明確に位置づけるだけで、現状は何も変えないと。

 長谷部 首相はそう言い張っていますが、自衛隊の現状をそのまま条文の形に表すのは至難の業というか、ほぼ無理です。そもそも憲法改正は現状を変えるためにやるものでしょう。現状維持ならどう憲法に書こうがただの無駄です。日本の安全保障が高まることは1ミリもない。自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません。そう言うといかにも自衛官を尊重しているように聞こえますが、実際には、憲法改正という首相の個人的な野望を実現するためのただの道具として自衛官の尊厳を使っている。自衛官の尊厳がコケにされていると思います。

 杉田 憲法に明記されることで、自衛隊はこれまでのような警察的なものではなく、外国の軍隊と同じようなものと見なされ、性格が大きく変わるでしょう。首相が最近よく使う「印象操作」という言葉は、この加憲論にこそふさわしい。だまされないよう、自分の頭で考え続けて行かなければなりません。=敬称略(構成・高橋純子)


 この「加憲」が「印象操作」にすぎないのか、「だまされないよう、自分の頭で考え続けて行かなければならない」のかについては、別の機会に触れたい。
 記事の末尾に「構成・高橋純子」とある。
 1年ほど前、政治面のコラムで「だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。」「はい、もう一回。」と説いた方である。

 この対談のリードにはこうあるのだが、

数の力にまかせた奇手に個人攻撃。認めず調べず謝らず――。「1強」に余裕がなくなり、過剰なまでの強硬姿勢を見せる安倍政権。森友学園と加計学園の問題では、数々の疑惑にフタをするばかり。かつてないほどすさんだ政治の現状を、長谷部恭男・早稲田大教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)に語り合ってもらった。浮かび上がったキーワードは「マフィア化する政治」だ。


これもこの高橋氏の手によるものだろう。
 安倍政権の現状が「かつてないほどすさんだ政治」に見えるらしい。私には、もっとすさんだ政治は過去にいくらでもあったように思うが。
 で、政権攻撃のためのわかりやすいキーワードとして「マフィア化」を提供していただいたと。「安倍政権はマフィア政治。はい、もう一回」といったところか。

 とりあえず私は、「為政者の言う通りにしておけば間違いない」とは考えないし、朝日新聞「の言う通りにしておけば間違いない」とも考えない。「だまされないよう、自分の頭で考え続けて行かなければならない」というのはそのとおりだろう。
 ただ、覚えておかなければならないと思うのは、少なくとも今の為政者は、「自分で考えて自分で判断をする人は……と考えるでしょう」などと押しつけてはこないということだ。


付記
 両教授の対談については、以前にも二度、当ブログで記事にしたことがある。

憲法の解釈変更は許されないか(中) 9条解釈は既に変遷している

憲法を解釈するのは政治家ではなく「法律家共同体」?


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