こんにちは、テツせんです。
桜の春がもうそこまで来ているのが風の薫りで感じられるこの頃ですが
みなさんはいかがお過ごしでしょうか?
早いもので、小っちゃな赤ちゃんだった子がもう一歳を迎えるという。
この子がはじめて外に一歩踏み出すときの勇気はいつ身につけられたのだろう?
外を歩くことの恐怖よりも、
歩くことの愉しさが全身に満ちていて、
屈託のない笑い声が、
この世界を、人間の個の存在さえも、
たしかなもののように、やわらかくつつみ入れる。
おもわず尊厳という言葉をささげたくなる瞬間でした。
わたしたちがこのまだ赤ん坊の子にはげまされるように生きるという
悪い冗談のようなこの時代。
この前から村上春樹の記号論的な世界観の小説がつむぎだす言葉の軽さにいら立ちながら、
ずっと連続して書評を書いていますが、
文学もそうですが芸術ということが芸術たり得るのは
つぎのようなことにあるといえるのではないでしょうか。
--「コピー用紙を端から1ミリほどの幅でハサミで延々と切り続ける」ことが、
はたしてアートになりうるのだろうか?--
先日、日経紙に『紙を切り続けるアート』というタイトルで、
阿部幸子さんがアーティストとして認められるまでの道のりを語っていました。
A4紙を1枚切ってできる『紙の糸』の長さは4㍍を超えるという。
この行為を何時間も続けることがアート・パフォーマンスだというから驚かされる。
今年の英国リバプール・ビエンナーレの招待作家に選ばれたということだから、
きっと、余ほど人を感動させるものがあるのだろう。
彼女は35年の人生をふりかえってみる。・・
「小学生の頃から切り紙が好きで、人などの形を無心に切っていた。」
ただ、「美術家を名乗ろうとは、北九州の高校に通っていた頃は夢にも思わなかった。」
「担任の先生が勧めた進路は自衛隊。
だが、上下関係の厳しさや訓練は意外と苦にならず、たんたんと毎日が過ぎていた。」
「それでも無理は蓄積していた。訓練中に意識を失い、入院。
精神的なダメージもあり、入院は半年以上に及んだ。
規則正しく紙を切り始めたのは病室だった。・・不思議に心が落ち着くのだ。」
その後、ミュージシャンや美術家が集まるギャラリーに勤めて、さまざまな刺激を受けるうちに、
「美術家になります」宣言をしたが、「周囲から大笑いされた。」
しかし、アート・パフォーマンスに励んでいると、
ニューヨークの滞在制作コンペティションに合格して、渡米するチャンスを得た。
しかし、当地では気押されて作品ができなくなったときに、
「アパートで黙々と続けていたのが『紙の糸』を切ることだった。
毎晩10時間、紙を切る。
紙を切りながら出来事をつぶやき始めると一日が整理されるのだ。」
「ある朝、切った紙の固まりを持ち上げた。
『何と美しいのだろう』と感じた。
切る行為を作品にしようと思った瞬間だ。」・・・
なるほど、なかなかユニークな道のりが語られています。
このお話を拝見して、阿部さんご自身もさることながら、
もっとも感心したのは、
彼女のぎりぎりのところの、
《生》の切実さ(それを必然といってもよい)が押し出している他に変えがたい行為を、
アート・パフォーマンスとしてすくいあげている欧米のアート・ディレクターたちの
すぐれてやわらかい芸術への感性の確かさに対してである。
これには心から脱帽するばかりです。
文学もそうだが、
《個》としての人間が自らの《生》の切実なものを
やむにやまれずに表現しえたときにはじめて、
本当の芸術に到達可能な地点に立てるのではないだろうか?
アート・ディレクターたちは阿部幸子さんのアート・パフォーマンスを
彼女の切実な表現が生んだ芸術として受け留めている。
彼らの芸術に対する深い洞察能力、そのやわらかい感性は卓越している。
阿部幸子さんとアート・ディレクターたちの芸術行為こそは、
人間の個の《相対化》という記号論的な悪しき思想に、
風穴をあけるものだといえる。
遺伝子唯物論をまとった《代替可能な個の無意味性》を言いつのる者たちに、
叛旗をひるがえすのは、
「《個》としての人間が抱える《生》の切実なものこそが普遍性を得られる」
という《人間への信》であるとかんがえる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
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桜の春がもうそこまで来ているのが風の薫りで感じられるこの頃ですが
みなさんはいかがお過ごしでしょうか?
早いもので、小っちゃな赤ちゃんだった子がもう一歳を迎えるという。
この子がはじめて外に一歩踏み出すときの勇気はいつ身につけられたのだろう?
外を歩くことの恐怖よりも、
歩くことの愉しさが全身に満ちていて、
屈託のない笑い声が、
この世界を、人間の個の存在さえも、
たしかなもののように、やわらかくつつみ入れる。
おもわず尊厳という言葉をささげたくなる瞬間でした。
わたしたちがこのまだ赤ん坊の子にはげまされるように生きるという
悪い冗談のようなこの時代。
この前から村上春樹の記号論的な世界観の小説がつむぎだす言葉の軽さにいら立ちながら、
ずっと連続して書評を書いていますが、
文学もそうですが芸術ということが芸術たり得るのは
つぎのようなことにあるといえるのではないでしょうか。
--「コピー用紙を端から1ミリほどの幅でハサミで延々と切り続ける」ことが、
はたしてアートになりうるのだろうか?--
先日、日経紙に『紙を切り続けるアート』というタイトルで、
阿部幸子さんがアーティストとして認められるまでの道のりを語っていました。
A4紙を1枚切ってできる『紙の糸』の長さは4㍍を超えるという。
この行為を何時間も続けることがアート・パフォーマンスだというから驚かされる。
今年の英国リバプール・ビエンナーレの招待作家に選ばれたということだから、
きっと、余ほど人を感動させるものがあるのだろう。
彼女は35年の人生をふりかえってみる。・・
「小学生の頃から切り紙が好きで、人などの形を無心に切っていた。」
ただ、「美術家を名乗ろうとは、北九州の高校に通っていた頃は夢にも思わなかった。」
「担任の先生が勧めた進路は自衛隊。
だが、上下関係の厳しさや訓練は意外と苦にならず、たんたんと毎日が過ぎていた。」
「それでも無理は蓄積していた。訓練中に意識を失い、入院。
精神的なダメージもあり、入院は半年以上に及んだ。
規則正しく紙を切り始めたのは病室だった。・・不思議に心が落ち着くのだ。」
その後、ミュージシャンや美術家が集まるギャラリーに勤めて、さまざまな刺激を受けるうちに、
「美術家になります」宣言をしたが、「周囲から大笑いされた。」
しかし、アート・パフォーマンスに励んでいると、
ニューヨークの滞在制作コンペティションに合格して、渡米するチャンスを得た。
しかし、当地では気押されて作品ができなくなったときに、
「アパートで黙々と続けていたのが『紙の糸』を切ることだった。
毎晩10時間、紙を切る。
紙を切りながら出来事をつぶやき始めると一日が整理されるのだ。」
「ある朝、切った紙の固まりを持ち上げた。
『何と美しいのだろう』と感じた。
切る行為を作品にしようと思った瞬間だ。」・・・
なるほど、なかなかユニークな道のりが語られています。
このお話を拝見して、阿部さんご自身もさることながら、
もっとも感心したのは、
彼女のぎりぎりのところの、
《生》の切実さ(それを必然といってもよい)が押し出している他に変えがたい行為を、
アート・パフォーマンスとしてすくいあげている欧米のアート・ディレクターたちの
すぐれてやわらかい芸術への感性の確かさに対してである。
これには心から脱帽するばかりです。
文学もそうだが、
《個》としての人間が自らの《生》の切実なものを
やむにやまれずに表現しえたときにはじめて、
本当の芸術に到達可能な地点に立てるのではないだろうか?
アート・ディレクターたちは阿部幸子さんのアート・パフォーマンスを
彼女の切実な表現が生んだ芸術として受け留めている。
彼らの芸術に対する深い洞察能力、そのやわらかい感性は卓越している。
阿部幸子さんとアート・ディレクターたちの芸術行為こそは、
人間の個の《相対化》という記号論的な悪しき思想に、
風穴をあけるものだといえる。
遺伝子唯物論をまとった《代替可能な個の無意味性》を言いつのる者たちに、
叛旗をひるがえすのは、
「《個》としての人間が抱える《生》の切実なものこそが普遍性を得られる」
という《人間への信》であるとかんがえる。
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少し心が疲れ気味だったので、元気をもらえた気がします。鋭い語り口にこれからも期待してます。
(茶織)さんをすこしでも元気にできたことを幸いにおもっています。
あまり読んでもらえないし、もっとくだけた癒しの言葉でも書くべきかと人に問えば、
「ブログでこんな文章を書いている人はいないけど、
いまのテツのスタイルはくずさない方がいい。」と助言をいただきました。
というわけで、これからもどうぞご愛読を!
茶織)さんのコメントをたのしみにしております。