心理カウンセラーの眼!

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『1Q84』村上春樹の世界観!(その4・訣別)

2010-03-08 11:25:19 | 村上春樹の世界観
こんにちは、テツせんです。
三月には春先の雨がよく降るものですが、雨上がりの今日はまた一段と寒く、
寒の戻りとなりそうな具合ですが、
みなさんはいかがお過ごしでしょうか?

さっそくですが、この前の《自閉する天吾》のつづきをお話していきましょう。

さて心的に自閉に至ることになる天吾少年には、
生きていくうえで二重の苦悩が宿命のように背負わされています。

《失われた本当の母親と父親》という埋めることの困難な《愛の欠落》と、

引き取って育ててくれたもう一人の《父親》の不器用で不適応に近い性格の押し付けである。

社会から本質的には自閉している(天吾)は、今になっても、
「他者を愛することも、自分を愛することもできない」
と、《お父さん》に告白する。・・

その天吾は小学5年生のときに、その《父親》に訣別宣言をして一度は家を出ている。

NHKの職員の『神経質で吝嗇そうな顔をした父親』によって、
『音楽にも映画にもまったく興味なかった、旅行に出たことさえない父親』によって、
そのうえ『日曜日には必ず集金につれ回した父親』によって、
育てられたこと。

そうした不条理ともいえる抑圧を受けつづけることに天吾少年は堪えがたくなって反発を表わす。

ここでは思春期の自我の発達を迎えた少年の、《抑えがたき突出》が表現されている。

だが、この天吾少年の行動がはたして現実にありうることかといえば、
父親の抑圧をこじ開けて家を出ることはかなり困難ではないかと予見できる。

というのも、むしろ子どもは父親のものの考え方を刷り込まれている影響の方が大きいために、
暴力でないかぎり、
本当は、父親の抑圧を抑圧と受けとっていないことの方が多くあって、
それだけによけいに厄介なことなのだ。・・

こんなことをいうと、この作品が成り立たなくなりそうで、
村上春樹ファンにお叱りをうけるようで恐縮ですが。・・・

まあ、天吾少年が神童とよばれるほどの頭脳明晰な子どもという(カッコイイ!)設定が、
この訣別の場面での、とりあえず強力な伏線になっているようだから、
目を瞑ることにしましょう。・・

しかし、少年天吾と父親との『訣別の場面』説明にあった、
理性的な対面のうえでの別れ方はいかにもリアリティが乏しいようにおもえる。

あるとすれば、
もっとはげしい口論の果ての絶望感が背中を押す瞬間しかないとおもえるのだが。・・


人が社会の潮流に呑みこまれて、さまざまな生き難さを生きていくとき、
親には親の苦悩があり、その子どもには子どもの苦悩が免れがたい。

作者村上はこのことを被害者としての子どもの側に立って、
今風のヒーロー・ヒロイン物語を仕立てようとする。

ふたりの主人公は、運命論的に、また時代を象徴するように
いずれも親から訣別することを契機にして物語を成していくことになる。

しかし、親の抑圧からのがれて自由に生きることが、
何ゆえまた、社会の中で身を固くして生きていくことになっていくのか?

このときの天吾の心的な問題を、作者自身も何ゆえか不明のままに、
いつしかスタイリッシュな姿に描いていくことで、すり替え覆い隠している。

余談だが、いわゆる村上ファン現象とは、
作者の時代を切る踏み込みの甘さゆえに、
スタイリッシュというある種の爽快さの部分に同調し、同伴してくる人たちのことではないだろうか。

作者に時代の先端に立っているという錯覚だけがあるとすれば、本意ではなかろう。

なぜこうなるのか解らないまま、天吾と同質の心的な《自閉》を抱えて、
青豆もまた、性を消費したりする。

やっとここからもう一方のヒロインである(青豆)が登場します!・・・

青豆はいつも、自分自身をつぎのように励ましている。

「心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。」と。・・・

(次回につづきます。)
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