心理カウンセラーの眼!

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『1Q84』村上春樹の世界観!(その5・信仰)

2010-03-22 11:40:24 | 村上春樹の世界観
こんにちは、テツせんです。
昨日は黄砂が空を覆って、ちょうど花曇のような気配を感じた一日でしたが、
みなさんはいかがお過ごしでしたか?

さて村上春樹さんの『1Q84』の書評も5回になり、
いったいどこまで進むのか、われながらわらってしまいそうですが
もうしばらくお付き合いをおねがいいたします。
それでは、はじめましょう!

-- なぜこうなるのか解らないまま、天吾と同質の《自閉》を抱えて、
青豆もまた、性を消費したりする。

一方のヒロインである(青豆)はいつも自分をつぎのように励まし慰める。

「心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。」と。・・・

そしてまた、青豆は言う。
「私という存在の核心にあるのは(天吾への)愛だ」と。・・・

そう、彼女がいままで生きてこれたのは一方でその切実な愛があったゆえにちがいない。
人というのはそうしたものだから。

だがそこには天吾以上に孤立して、生き難い青豆の
ほとんど病理妄想にひとしい「愛」が塗り固められているのもたしかなのである。・・・

どのようにも社会性を逸脱してしまう宗教信者家族で育った青豆にとっては、
その信仰の加護の外側に出て生きるためには、

《あらたな愛》の護符がどうしても欠かせないのだと作者はかんがえる。

それは彼女の両親と訣別するときから、はっきりと胸に秘匿されてきたと描かれている。

たしかにその通りと言いたいところなんだけど、
青豆にかぎってはそれらの『秘められた愛』は、
自覚しているとおり、けっして叶えられることはない。

何故って、彼女の愛する『天吾少年』とは自己観念の中の人なのだから。
すると、
青豆はどこまでも天吾少年との擬似恋愛(妄想としての恋愛)を追いつづけるしかない。

だがそこには本当の天吾はいない。
もっといえば現実の天吾は観念の天吾を壊す存在でしかありえないのだ。

作者は腕によりをかけて、
その現実の天吾を青豆の《擬似恋愛》に見合うような男に描いてはいても、

そうやすやすとありきたりのドラマのようにはすすめられないはずだ。
ここは作者にとってもむずかしい局面にちがいないだろう。

少女青豆と両親との《訣別 》の契機として、
作者は青豆の辛く哀しい小学校生活を描くことで、読む者を説き伏せようとする。

それが青豆をヒロインの位置に押しあげる役目を果たすためだが。(この手法は天吾にも用いられている)

ただ、『つくりものの世界』だから見のがしてもいいようなものだけど、

現実には青豆のような子どもが、
宗教信者の両親の《精神的な囲い込み》(ものの考え方の刷り込み)から訣別することは
不可能といってもよいほどに困難なことです。

またその困難さは天吾少年の比ではないということです。

このわたしの疑念に、少し譲るかのように、
まるで言い訳するように、作品の中でも随所にその刷り込みが顔を出している。・・・

「誰もが心の底では世の終末の到来を待ち受けているのだ」と確信したり、
「こんな世界なんてあっという間に終わっちゃうよ」「そして王国がやってくるの」
「交わされていない約束が破られることもない」。
というように、
キリスト教的な終末観念や約束観念が依然として青豆の思考の中心を占めていることを
所々にちりばめて描いている。

だがこれでは、両親を嫌って家を出たものの、
考え方の何も変わっていない大人の青豆がいることになる。

ヒロイズムを優先したい作者の、
《脱両親 》による自立という論理的に無理な展開が、
青豆をこうした中途半端なリアリティを欠いた存在にしてしまったわけで、

このあとの作品構成がずいぶんとエンタテイメントに流れる要因になっているとおもえる。・・・

このあたりのことをもっと丁寧に描いてほしかったというおもいがあります。

(次回につづきます。)
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