森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

When words leave off music begins.


熊谷基地さくら祭 2014

2014年04月06日 | 空色の休日 2014 

この桜満開の季節に各地で開催される桜まつりですが、今回は熊谷市拾六間の航空自衛隊熊谷基地を一般開放して行われる「熊谷基地さくら祭」で、お花見。


入場前の手荷物検査は、このさくら祭ならではですね。無事通過しました。


正門を入ると展示航空機が並んでいます。お子ちゃまは大喜びですね。


元熊谷陸軍飛行学校跡地に建つ熊谷基地。「荒鷲の碑」を前に、散華した荒鷲の霊に合掌‥‥。


野外売店のスペースには、たくさんのブースが並び賑わっています。


自衛隊のマスコットキャラクター「ピクルス王子」と「パセリちゃん」発見!


移動用多重通信装置J/TRQ-506。反射器径4.3mφに感激。


体育館では「航空中央音楽隊」の演奏会も行われています。


飛行展示は輸送ヘリコプター「CH-47J チヌーク」。入間基地よりやって来ました。


右手を突きあげて「チヌーク!」と叫んで応援してください。


チヌーク!チヌーク!!チヌーク!!!


・・・・と、ゆっくり桜を見る間もなく楽しんでしまった「熊谷基地さくら祭」でした。

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籠原 諏訪大神社

2014年04月06日 | 空色の休日 2014 

7月19日・20日と行われる「籠原夏祭」でお馴染み。JR高崎線籠原駅前徒歩0分という最高の立地条件(?)に鎮座する「諏訪大神社」の参拝。


社殿は東向。鳥居より参道は北西に伸び、逆「く」の字の曲がっています。


祭神は「建御名方命」「建速須佐之男命」「菅原道眞公」の三柱。明治42年4月1日に八坂神社と菅原神社を合祀とあります。
 往古、諏訪神社を祀った当地は沼の岸であった。『古事記』に、長野県の諏訪湖は「州羽海」と書かれている。州は浅瀬を、羽は端を表している。八ヶ岳から諏訪湖に流れ入る土砂が造った沃地が諏訪である。また、諏訪神社の祭神建御名方神の御名方は水潟であり、水の神様である。土地開発は水によってなし遂げられる。
 古代の当地は、恐らく諏訪に似た所であり、当社は諏訪地方から当地に入り、開発を進めた人たちにより祀られたものであろう。これを、草分けの森田家では、後世、武田信玄の盛名によってだろう、「森田は、武田家ゆかりの家」であるとして今に伝えている。
 当地は、古くは畑村と称していたが、慶長年間(1596~1615)に奈良堰用水が新設されて、新堀村と改称している。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)


:「すわおおかみしゃ」と読むところもありますが、ここは「すわだいじんじゃ」のようです。

:ここです→ Google マップ
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熊谷市拾六間 大雷神社

2014年04月06日 | 空色の休日 2014 

JR高崎線「籠原駅」を降りて航空自衛隊熊谷基地へ向かう途中、真言宗豊山派徳蔵寺の墓地に囲まれた中に鎮座する「大雷神社(だいらいじんじゃ)」に参拝。


玉垣に建てられた二の鳥居。


落ち着いた雰囲気の境内ですね。手水舎は「洗心」。


手水舎に並んで神明社と神輿庫。本殿脇には手長社・諏訪社・八坂社・稲荷社・天神社・産泰社を納めた末社殿もありました。


社額には「大電八公宮」とあります。
『風土記稿』に「大電八公社(だいてんはく)社 村の鎮守とす、徳蔵寺持」とあるように、当社は江戸時代には「大電八公社」もしくは「大電八公宮」と呼ばれていた。大電八公社は、大天白社・大天獏社などとも書かれ、県内では風・雨・雷の神であると共に、産神・百日咳の神としても信仰がある。当社の場合は、明治に入って大電神社と改称されたように雷神としての性格が強く、『明細帳』による祭神は別雷命である。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)



:(旧)拾六間村の鎮守。拾六間村は明治22年(1889)町村制施行により「幡羅郡三尻村」となり、明治29年(1896)に「大里郡三尻村」、昭和29年(1954)「熊谷市」へ編入し消滅した。現在の航空自衛隊熊谷基地である熊谷陸軍飛行学校が設立されたのは「大里郡三尻村」当時の昭和10年(1935)。第二次世界大戦終結の昭和20年(1945)までの10年間に約1万人の若鷲が巣立っていったという。終戦後の米陸軍キャンプ時代を経て、昭和33年(1958)に「さくら祭」でおなじみの航空自衛隊熊谷基地となりました。

:ここです→ Google マップ

>森の中の恍惚:熊谷基地さくら祭 2014

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熊谷市三ヶ尻 田中神社

2014年04月06日 | 空色の休日 2014 

現在は熊谷市となった旧・大里郡江南町から荒川に架かる押切橋を渡り、秩父往還をまたぎ、彩甲斐街道との交差点手前にこんもりと鎮守する延喜式内社「田中神社」に参拝。


延喜式の時代にはかなりの大きさの神社だったようです。


二の鳥居の手前には、地震を鎮めるという「要石(かなめいし)」と呼ばれる石があり、この石は祭事のとき神の降臨を仰ぐ「磐座(いわくら)」であると考えられています。

 古代の三ヶ尻は、荒川の川筋に当たっていたため、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であった。このため、早い時期から稲作が行われていたと思われ、地名の三ヶ尻もこれに関係し、古くは甕尻(みかじり)と書いた。これは、地内にある狭山と呼ぶ山が、春と秋に田の神に祀るための酒を醸す大甕を伏せた形に似ているところからきたものという。
また、当地には三ヶ尻古墳群があり、ここから有力な地方豪族の存在をうかがわせる銀象嵌の施された太刀が出土している。
 当社は式内社であると伝え、『風土記稿』は水田の中にあるところから田中天神と称し、『延喜式』神名帳に、武蔵国幡羅郡田中神社とあるのは当社のことである。祭神は少彦名命と天穂日命であり、別当は新義真言宗の延命寺である、と載せている。
 (中略)
 中世に入ると、当地は東国武士の本拠地の一つとなったと考えられる。根岸義弘の『武乾記(ぶかんき)』に「三ヶ尻村に昔時瓶尻(みかじり)十郎胤光と云う武士あり、私(きさい)党の末孫なりとへり。」とある。また『吾妻鏡』に見える瓶尻小次郎も当地の出身であろう。これらの武士たちにより、同一村内にある八幡神社が、鎌倉幕府の尊信の神なる故をもって信仰され、いつしか古い氏神であった当社は衰退をみたのであろう。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)



延喜式神名帳の播羅郡四座の一つとして記録される田中神社は、当社、三ヶ尻地内にあるにある八幡神社、川本町田中の知形神社の三社が論社とされています。


彩甲斐街道と埼玉県道47号(深谷東松山線)の交わる武体西交差点に鎮座する「熊谷観光ぶどう園」さんより県道越しに「田中神社」を望む・・・・。

:ここです→ Google マップ

>森の中の恍惚:三ヶ尻八幡神社
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