When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
往古、諏訪神社を祀った当地は沼の岸であった。『古事記』に、長野県の諏訪湖は「州羽海」と書かれている。州は浅瀬を、羽は端を表している。八ヶ岳から諏訪湖に流れ入る土砂が造った沃地が諏訪である。また、諏訪神社の祭神建御名方神の御名方は水潟であり、水の神様である。土地開発は水によってなし遂げられる。
古代の当地は、恐らく諏訪に似た所であり、当社は諏訪地方から当地に入り、開発を進めた人たちにより祀られたものであろう。これを、草分けの森田家では、後世、武田信玄の盛名によってだろう、「森田は、武田家ゆかりの家」であるとして今に伝えている。
当地は、古くは畑村と称していたが、慶長年間(1596~1615)に奈良堰用水が新設されて、新堀村と改称している。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
『風土記稿』に「大電八公社(だいてんはく)社 村の鎮守とす、徳蔵寺持」とあるように、当社は江戸時代には「大電八公社」もしくは「大電八公宮」と呼ばれていた。大電八公社は、大天白社・大天獏社などとも書かれ、県内では風・雨・雷の神であると共に、産神・百日咳の神としても信仰がある。当社の場合は、明治に入って大電神社と改称されたように雷神としての性格が強く、『明細帳』による祭神は別雷命である。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
古代の三ヶ尻は、荒川の川筋に当たっていたため、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であった。このため、早い時期から稲作が行われていたと思われ、地名の三ヶ尻もこれに関係し、古くは甕尻(みかじり)と書いた。これは、地内にある狭山と呼ぶ山が、春と秋に田の神に祀るための酒を醸す大甕を伏せた形に似ているところからきたものという。
また、当地には三ヶ尻古墳群があり、ここから有力な地方豪族の存在をうかがわせる銀象嵌の施された太刀が出土している。
当社は式内社であると伝え、『風土記稿』は水田の中にあるところから田中天神と称し、『延喜式』神名帳に、武蔵国幡羅郡田中神社とあるのは当社のことである。祭神は少彦名命と天穂日命であり、別当は新義真言宗の延命寺である、と載せている。
(中略)
中世に入ると、当地は東国武士の本拠地の一つとなったと考えられる。根岸義弘の『武乾記(ぶかんき)』に「三ヶ尻村に昔時瓶尻(みかじり)十郎胤光と云う武士あり、私(きさい)党の末孫なりとへり。」とある。また『吾妻鏡』に見える瓶尻小次郎も当地の出身であろう。これらの武士たちにより、同一村内にある八幡神社が、鎌倉幕府の尊信の神なる故をもって信仰され、いつしか古い氏神であった当社は衰退をみたのであろう。(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)