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現在は熊谷市となった旧・大里郡江南町から荒川に架かる押切橋を渡り、秩父往還をまたぎ、彩甲斐街道との交差点手前にこんもりと鎮守する延喜式内社「田中神社」に参拝。
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延喜式の時代にはかなりの大きさの神社だったようです。
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二の鳥居の手前には、地震を鎮めるという「要石(かなめいし)」と呼ばれる石があり、この石は祭事のとき神の降臨を仰ぐ「磐座(いわくら)」であると考えられています。
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古代の三ヶ尻は、荒川の川筋に当たっていたため、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であった。このため、早い時期から稲作が行われていたと思われ、地名の三ヶ尻もこれに関係し、古くは甕尻(みかじり)と書いた。これは、地内にある狭山と呼ぶ山が、春と秋に田の神に祀るための酒を醸す大甕を伏せた形に似ているところからきたものという。
また、当地には三ヶ尻古墳群があり、ここから有力な地方豪族の存在をうかがわせる銀象嵌の施された太刀が出土している。
当社は式内社であると伝え、『風土記稿』は水田の中にあるところから田中天神と称し、『延喜式』神名帳に、武蔵国幡羅郡田中神社とあるのは当社のことである。祭神は少彦名命と天穂日命であり、別当は新義真言宗の延命寺である、と載せている。
(中略)
中世に入ると、当地は東国武士の本拠地の一つとなったと考えられる。根岸義弘の『武乾記(ぶかんき)』に「三ヶ尻村に昔時瓶尻(みかじり)十郎胤光と云う武士あり、私(きさい)党の末孫なりとへり。」とある。また『吾妻鏡』に見える瓶尻小次郎も当地の出身であろう。これらの武士たちにより、同一村内にある八幡神社が、鎌倉幕府の尊信の神なる故をもって信仰され、いつしか古い氏神であった当社は衰退をみたのであろう。(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
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延喜式神名帳の播羅郡四座の一つとして記録される田中神社は、当社、三ヶ尻地内にあるにある八幡神社、川本町田中の知形神社の三社が論社とされています。
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彩甲斐街道と埼玉県道47号(深谷東松山線)の交わる武体西交差点に鎮座する「熊谷観光ぶどう園」さんより県道越しに「田中神社」を望む・・・・。
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>森の中の恍惚:三ヶ尻八幡神社
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