ブログモドキ666

雑感や日記もどき

文化の破壊は、国家神道から始まる

2010-08-28 10:56:58 | Weblog
国家神道と八百万の神を中心とする神道の違いについて。
簡単に表現すれば、靖国神社が、天皇から近い人間だけの追悼施設であったように、
いわゆる会津はもっとも遠い人間は、死んでも埋葬さえ許さないということである。
そこで何が競われるかと言えば、どれだけ、現人神にどれだけ近いか、
現人神が頂点で、その神にどれだけ近いかで、権力を握る名誉を得る、社会的地位を得る、様々にあるが、そういう競争でしかない。
そこに昔から言われる、神も人間も共存しながらも、いわゆる「美」なり豊作なりを競い合うという考え方は生まれてこない。
なぜなら、簡単にいえば、自分より下を作ることが、最も安易ないわゆる出世の道だからである。
日本では料理人というのは、中国や欧米に比べて、非常に評価される。
技術についてもそうである。
八百万の神という言葉で表現されるように、そこで競われるのは、どれだけうまく何かを作れるかとか、そういう現実に際しての能力の高さをどんな形でもよいから、表現できるのかということである。
当然そこには、現実に対する分析力などさまざまなものが必要である。
そこで競われるのは、どう美しく生きるか美しく出来上がるかという、生をどう充実して生きるかという視点である。
生き方の多様性を認め、多様性のある美を認め、求めており、そこに上下関係もどれだけ近いかなど求めていない。
また、その多様性を認める環境から、個人も自然もお互いが刺激しあって、美を作るという思想である。
近頃評価されている、「里山」という環境もそれとよく似ている。
自然のままではなく、人間の行為も含まれての、多様な刺激が里山を作り出している。
それを古来から、守り続けてきたのである。
神仏混合もそういう思想の賜物であるし、漢字から、ひらがな、カタカナ、送り仮名読み仮名というものを産み出してきたのも、そういう多様性を認める考え方である。
上の種類の文字の上下関係、どれが中心で、どれがその中心に近いか・そんな馬鹿げた考えは誰もしないだろう。
「古池や蛙飛び込む水の音」アルファベットで書いても何らの情緒もないだろう。
同一で平面的なものから、その多様性を尊重しながら、組み合わせて、違う次元へと昇華して、美を作るのである。
そこで何が一番か決めて、それで、統一して、その他のものを破棄したらどうなるのか?
それは即ち日本という文化を破壊するものだろう。
戦前はそういう思想で、現人神にどれだけ近いかというだけの能力を競い、分析能力を競い合わない、構築能力を競い合わない国が出来上がったために、当初のまだ八百万の神思想が生きていた時代は、国として発展したが、やがてそれが廃仏毀釈などで、徹底的に否定され、その地域のつながりよりも、現人神にどれだけ近いかを競わされるに従って、どんどん国として暴走していくことになった。
そして、「どう綺麗に死ぬか」という真逆の思想へと転換したのである。

宗教心

2010-08-24 17:23:24 | Weblog
宗教心ということについて書いてみる。
もともと日本では、多様性ということを前提に人間や生命を考えてきた。
多様性を受け入れるための「明鏡止水」であり、そこから自らを多様性の中に置くことによる、「和合」である。
そこには当然、その多様性の発展ということを前提とする、考え方が存在するのであり、そもそも動きの中での「明鏡止水」ということが前提となっている。
良く勘違いしていると思うのは、座禅を組んで、静かな心を持つことを前提として、「心が乱れている」という考え方である。
動かないことを訓練するのは、動くことを前提であることを忘れていることが多い。
それがすなわち、「不動」というあたかも静止して、動きが止まるかのようなあり得ないことを目的とする勘違いを生んでいる。
多様性の中に自らを認識することは、すなわち他者を認識することであり、他者との関係を認識することである。
それは当然のこととして、動きがなければ認識できない。
一見絵画などは、そこに書かれているから静止しているように思うだろうが、人間の中では、その絵が動きを持って、認識されているのである。
音楽を聴いて、気持ちを落ち着けるということも同じである。
今までの乱れた動きをその旋律や歌詞が持つ動きの構造の中にシンクロさせることによって、それまでの動きから変化させていき、静かな気持ちを産み出しているのである。
詩や俳句短歌文学に至るまで、音読黙読しながら、解釈しながら、自らの解釈の矛盾を統一させながら読んでいくからこそ、行間を読めるのである。
文字を読むことは、すなわち、文字から読み取れる、自らの多様性のある感情の波長を持ちつつ読んでいるのである。
身体を動かすことも同じで、どれだけ自分の動きを多様性のあるものにしていくかである。
その為に身体の動きを支える筋力を鍛えるのであるし、体力をつけていくのである。
ときどき矛盾するということが自分の中でも当然現れてくる。
自然に現れてくるのでって、自分の心が乱れているわけではないことが多い。
そこでそれをしっかりと見つめられるかどうかが大事になってくる。
その為に「明鏡止水」という言葉があるのである。
乱れのない心など無いといってよいし、静かに過ごすための言葉でもない。
今を生きていくための心構えが、即ち宗教心であり、それなくして、宗教に囚われてしまえば、それはもはや宗教でしか生きていけない人間となる。
主客転倒が起きて、本末転倒が起きて、カルトは生まれるのである。

靖国神社問題について。

2010-08-16 17:00:51 | Weblog
靖国参拝について、またこの時期が来ると、メディアが取り上げる。
私はそもそも、国家神道並びに皇国史観を否定している。
なぜなら、日本という国の文化宗教社会の基礎を形作っているの思想は、何度もここで言っているように「八百万の神の思想」であると思っているからである。
そもそも、復古神道を基礎に置く「国家神道」や「皇国史観」は廃仏毀釈などという、破壊を起こしているのである。
しかも、「死者」を選別して、特定の死者は野ざらしにさせて、弔うことを力によって、禁止させたからである。
この復古神道の創始者である、平田篤胤は、今でいうところのオカルトや超能力を自らの、神道観や、国学に取り入れた人間である。
幕末期、キリスト教など西洋的な思想を取り入れながら、あたかも自分の学問的な業績だと言いながら、本居宣長などの国学を正当に引くものだと宣伝したのである。
そもそも、現代的な視点から見れば、カルト教団的なものである。
明治期の国家建設において、言語の問題に見られるように、「標準語」という形で、いわゆる公用語とその地方の言語「方言」を併設する形で、教育を普及させていった。
それはなぜそうなったかというと、その地方地方で、非常に優れた、教育機関、学校寺子屋などが、その時点で、もはや有ったからである。
その素地があったからこそ、公用語としての「標準語」の普及が非常に早くなったのである。
そこには、方言を破壊して標準語を普及させるような考え方はなかった。
いわば八百万の神としての文化的尊重があったのである。
ところが、キリスト教的なカルト宗教であった国家神道は、、キリスト教が、侵略を手助けする手段として、現地の土着宗教を捨てさせ、文化財を破壊させたように、廃仏毀釈という行動を起こさせて、いわば精神的な親子代々のつながりを破壊したのである。
当初国家建設において、公用語としての標準語が果たした役割は非常に大きかった。
いわば知的共同体というものが、全国規模で広がり、西洋の知識技術を含めて、多くの日本国民のものとなって、国の発展となったからである。
しかし片方で、それまでの教育機関であった寺などの「和算」の集積であった「算額」などの知的資産を破壊で失ったのである。
いわば、母なるものを破壊したのである。
カルト教団が、親子関係を断つように指導するやり方と同じである。
ようは、母なるものが育てた知識を単に利用して、勢力拡大を図るやり方である。
日本の哲学者である、西田幾多郎にしても、軍国主義が進めば進むほど、自由な思想ではなく、迎合を余儀なくされて行った。
朝鮮併合がいま議論されているが、当初公用語の日本語と朝鮮でつかわれていた、ハングル語の普及が同時に行われるように、日本は行ってきた。
当然それまでの公用語と方言との併存が頭にあったからである。
ハングルの普及無くしてその土地の反映がなく、その土地の繁栄なくして公用語の意味もないと考えたからである。
それがハングルを禁止して日本語だけに変えていったのは、当然国家神道や皇国史観が強力に進められた結果である。
そもそも靖国神社が、戦争で亡くなったすべてでなく、兵士だけを、しかも階級そのままに追悼する、神になるという前提で作られていることからも明らかなように、そもそも文化的断絶を推進していることは明らかである。
早く国立の追悼施設、本来の日本精神のすべてのものを受け入れるような
「八百万の神思想」を反映させた施設を作るべきである。

児童虐待とコミュニケーション3

2010-08-04 17:20:58 | Weblog
児童虐待の続きを書く。
先に書いた「躾」と同じ発音で着物を「仕付ける」という意味でつかわれるしつけもある。
着物というものは、一つの「美」であることから、折り目縫い目が非常に重要なこととなる。
それもこれも、「美」を引き出すものである。
折り目縫い目がしっかりすることばかりに、意味が移ってしまい、そこから、ルールを教えるなどということになっていく程度に収まればよいが、「服従」や「犠牲」まで求めることとなって、それを道徳という「道」に喩えてしまうことになれば、それは本末転倒になってしまう。
もともと古い漢字「躾」は、日本古来からあるもので、そこには、ある特定のルールを基準とするというよりも、その人その人の美しさを持つものだと考えられてきた。
「八百万の神」とよく言われるが、神様と同じように、人も八百万に輝き、美しさを持つものだという考え方である。
これは自然を愛でて、その美しさを人の美しさにたとえて、自分の思いを伝える、和歌や短歌、そこから発展する、俳句などにもよくあらわれている。
そういう「美」の発見を自らが発見することにより、「自己」を肯定的にとらえて行くのである。
日本人はそういう環境と人間の関係を重視して、「躾」ということをやってきたのであるが、当然ながら、自分の美しさを引っ張り出してくれないと、自己ができなくなり、そこに
欲求不満が生まれてくることになる。
否定系で表現される自分をその人間が受け入れることを本当に可能かどうか考えてみればわかる。
自分が輝いて見えることを多く経験していない人にとって、どうしても自分を輝かせてくれなかった「しつけ」はどうしても「服従」になっていくことになる。
子供が輝くことより自分が輝くことが優先してしまいがちになると、どうしても自分の輝きのために、子供を犠牲にすることになってしまう。
これは別に個人主義がはびこっているわけではなく、虐待の連鎖や、自分を輝かせてくれた人との出会いが少ないと当然に起こってくる現象だろう。
人間なんて相当に弱いものであるから、わざわざしつけという言葉を「躾」と書いたのである。
そう書くことや表現することで、自分たちの周りの環境を良くしようと考えたのである。
要は様々な美しさがあふれることや、引き出されることで、また新たな「美」というものが生まれると考えたのであろう。
残念ながら、こういう「道」は今や死語の世界であろう。
でも芸能界でも「神が下りてくる」という表現があるぐらいだから、その残渣ぐらいは残っているのだろう。
無から有が生まれるよりも、今までいた次元から異なる次元が生まれてきたような感じだろうし、それば「美」につながる可能性のあるものである。
コミュニケーションの中で、新たな次元が自らに生まれるのを感じて、そこに喜びを感じてこそ、「自己」は出来上がっていくのである。
赤ん坊が立って歩き出した時、見える世界が大きく変わるのと同じだろうし、、そこには歩ける「自己」を感じるだろうし、次元が広がる感触もあるのだろう。

児童虐待とコミュニケーション2

2010-08-03 17:12:55 | Weblog
児童虐待についての続きを書く。
「躾」という字は「身体」と「美」が合わさった言葉である。
これを勘違いして、「服従」を躾と考えていることが多いと思う。
子供を美しい身体に育て上げることが、即ちしぐさなど含めての立ち居振る舞いなどを美しくすることがその目的である。
もちろんここでいうのは、「心技体」という心を含めての、身体のことである。
心が基本にあるのは、言葉使い、しぐさ、技を含めて当たり前の話である。
言葉使いなどがしつけの一環であると考えている人は今ではほとんどいないぐらいだと感じている。
人格という言葉をよく人は使うが、そもそも人格というのは、ロビンソークルーソーのような孤島に一人でいる生活からは、出来て来ない。
人と人の触れ合いから生まれてくるものである。
さんまさんの話を前回もしたが、人の反応をうまく引き出すには、その反応をたやすく引き出すような雰囲気を作る必要がある。
様々な反応をうまく引き出して、自分では気づいていない良さをその人に気づかせてあげるのである。
もちろんそれは、非常によく観察した上での、雰囲気作りと引き出せるような、言葉使いであるし、それだけ考え抜いているのである。
自分の良さを引き出してくれて、気づかせてもらった人は、それを引き出してもらった人に、相当な信頼をおくであろうことは自明だろうと思う。
それをどんどん引き出された結果、その人は輝くことになり、「美」しくなるのである。
いわゆるオーラがある人になるのである。
しつけが「服従」だと考えると、そもそも自分の思い道理に動く人間を求める以上、観察よりも監視になり、そこで、罰を与えるということになる。
自分がルールである以上、そうなってしまうのである。
当たり前の話であるが、良さを自分が引き出していないから、その子がよいとは思はない、
良いとは思わないから、服従を求める。
もともとしつけを「躾」と持っていない以上、子供を美しいものにできないことになる。
良いところを引き出して、見つける努力をしていなくて、かわいくないと言っても、それはそれで自然の成り行きなのに、その辺を子供の責任にしている人が多いと思う。
それがエスカレートすると育児放棄や身体に対する虐待へとつながっていくと思う。
そういう環境で育った人は、自分の良さを引き出してもらった記憶もないから、周りの環境に対して、不信であったり、敵対的であったりする。
よく「自己」という言葉で迷う人が多いが、自己というのは、自分で自分の良さに気付くことであるが、それは親または大人が気付かせてあげることでもある。
その積み重ねが自己を生むのである。
また続きを書こうと思う。