国家神道と八百万の神を中心とする神道の違いについて。
簡単に表現すれば、靖国神社が、天皇から近い人間だけの追悼施設であったように、
いわゆる会津はもっとも遠い人間は、死んでも埋葬さえ許さないということである。
そこで何が競われるかと言えば、どれだけ、現人神にどれだけ近いか、
現人神が頂点で、その神にどれだけ近いかで、権力を握る名誉を得る、社会的地位を得る、様々にあるが、そういう競争でしかない。
そこに昔から言われる、神も人間も共存しながらも、いわゆる「美」なり豊作なりを競い合うという考え方は生まれてこない。
なぜなら、簡単にいえば、自分より下を作ることが、最も安易ないわゆる出世の道だからである。
日本では料理人というのは、中国や欧米に比べて、非常に評価される。
技術についてもそうである。
八百万の神という言葉で表現されるように、そこで競われるのは、どれだけうまく何かを作れるかとか、そういう現実に際しての能力の高さをどんな形でもよいから、表現できるのかということである。
当然そこには、現実に対する分析力などさまざまなものが必要である。
そこで競われるのは、どう美しく生きるか美しく出来上がるかという、生をどう充実して生きるかという視点である。
生き方の多様性を認め、多様性のある美を認め、求めており、そこに上下関係もどれだけ近いかなど求めていない。
また、その多様性を認める環境から、個人も自然もお互いが刺激しあって、美を作るという思想である。
近頃評価されている、「里山」という環境もそれとよく似ている。
自然のままではなく、人間の行為も含まれての、多様な刺激が里山を作り出している。
それを古来から、守り続けてきたのである。
神仏混合もそういう思想の賜物であるし、漢字から、ひらがな、カタカナ、送り仮名読み仮名というものを産み出してきたのも、そういう多様性を認める考え方である。
上の種類の文字の上下関係、どれが中心で、どれがその中心に近いか・そんな馬鹿げた考えは誰もしないだろう。
「古池や蛙飛び込む水の音」アルファベットで書いても何らの情緒もないだろう。
同一で平面的なものから、その多様性を尊重しながら、組み合わせて、違う次元へと昇華して、美を作るのである。
そこで何が一番か決めて、それで、統一して、その他のものを破棄したらどうなるのか?
それは即ち日本という文化を破壊するものだろう。
戦前はそういう思想で、現人神にどれだけ近いかというだけの能力を競い、分析能力を競い合わない、構築能力を競い合わない国が出来上がったために、当初のまだ八百万の神思想が生きていた時代は、国として発展したが、やがてそれが廃仏毀釈などで、徹底的に否定され、その地域のつながりよりも、現人神にどれだけ近いかを競わされるに従って、どんどん国として暴走していくことになった。
そして、「どう綺麗に死ぬか」という真逆の思想へと転換したのである。
簡単に表現すれば、靖国神社が、天皇から近い人間だけの追悼施設であったように、
いわゆる会津はもっとも遠い人間は、死んでも埋葬さえ許さないということである。
そこで何が競われるかと言えば、どれだけ、現人神にどれだけ近いか、
現人神が頂点で、その神にどれだけ近いかで、権力を握る名誉を得る、社会的地位を得る、様々にあるが、そういう競争でしかない。
そこに昔から言われる、神も人間も共存しながらも、いわゆる「美」なり豊作なりを競い合うという考え方は生まれてこない。
なぜなら、簡単にいえば、自分より下を作ることが、最も安易ないわゆる出世の道だからである。
日本では料理人というのは、中国や欧米に比べて、非常に評価される。
技術についてもそうである。
八百万の神という言葉で表現されるように、そこで競われるのは、どれだけうまく何かを作れるかとか、そういう現実に際しての能力の高さをどんな形でもよいから、表現できるのかということである。
当然そこには、現実に対する分析力などさまざまなものが必要である。
そこで競われるのは、どう美しく生きるか美しく出来上がるかという、生をどう充実して生きるかという視点である。
生き方の多様性を認め、多様性のある美を認め、求めており、そこに上下関係もどれだけ近いかなど求めていない。
また、その多様性を認める環境から、個人も自然もお互いが刺激しあって、美を作るという思想である。
近頃評価されている、「里山」という環境もそれとよく似ている。
自然のままではなく、人間の行為も含まれての、多様な刺激が里山を作り出している。
それを古来から、守り続けてきたのである。
神仏混合もそういう思想の賜物であるし、漢字から、ひらがな、カタカナ、送り仮名読み仮名というものを産み出してきたのも、そういう多様性を認める考え方である。
上の種類の文字の上下関係、どれが中心で、どれがその中心に近いか・そんな馬鹿げた考えは誰もしないだろう。
「古池や蛙飛び込む水の音」アルファベットで書いても何らの情緒もないだろう。
同一で平面的なものから、その多様性を尊重しながら、組み合わせて、違う次元へと昇華して、美を作るのである。
そこで何が一番か決めて、それで、統一して、その他のものを破棄したらどうなるのか?
それは即ち日本という文化を破壊するものだろう。
戦前はそういう思想で、現人神にどれだけ近いかというだけの能力を競い、分析能力を競い合わない、構築能力を競い合わない国が出来上がったために、当初のまだ八百万の神思想が生きていた時代は、国として発展したが、やがてそれが廃仏毀釈などで、徹底的に否定され、その地域のつながりよりも、現人神にどれだけ近いかを競わされるに従って、どんどん国として暴走していくことになった。
そして、「どう綺麗に死ぬか」という真逆の思想へと転換したのである。