ブログモドキ666

雑感や日記もどき

巨人はなぜ勝てない?

2006-06-29 22:54:57 | Weblog
明らかに選手全員が、肩に力が入っていて、力み過ぎであると思う。
もちろんチームであるから、誰かのミスをカバーして勝利したいと思うのは良い事だと思う。
しかし一つ一つのプレイを確実にこなすことでの、一つ一つの積み重ねこそが勝利につながるという基本的な部分が、選手個人個人の意識の中で、一つ一つのプレイの重みが、非常に重くなってきているのではないか?
試合が始まる以前から、それまでの負けのことやリードされた時点からその重みばかり感じていては力が入りすぎて、自分のプレイが出来るわけがないと思う。
怪我したことや貯金がなくなったこと負け越していることなど、済んだことをひっくり返せるわけがないのも関わらず、そのことの重みが選手全体を覆っているのではないか?
あの上原にしてそうであるし、ピッチャー全体が力みすぎて、自分の力だけで挽回しようとするからボールが浮くし、連携もうまく行かなくなる。
新人のピッチャーがよく言うように「先輩たちを信じて任せるように投げました」という気持ちで行くしかないのではないか?
もちろん新しい人が一杯いる状態で、しかもその選手が疲れていて集中力が切れている状態であっても、プロである以上やっていくのがその選手の仕事であるのだから、だれかがその選手の仕事を引き受けることは、フィールド上にいる以上できないという、当たり前のことをやっていくしかないのである。
負けている自分と違う自分、負けているチームと違うチームを思うことで、自分の一つ一つのプレイが、穏やかで清い心で行われていない以上、それは今ある時分と違う未来の自分という「他人」に鏡に映った自分をやろうとするから、本来の自分のプレイが出来ないのである。
これは、別に他人が作り上げた鏡ではないのだが、未来の自分とか現在と異なる自分というものをあまりにも明確に作り上げたりすると、自分の中に今現在の自分と待ったく異なる自分を「他人」として作り上げて、その「他人」の鏡に映った自分に合わせようとしてしまうのである。
本来今の自分というものを尊重して、それで、穏やかな心で清い心で敬う心で野球というものと「和合」するのが、本来の自分という鏡に映ったプレイにつながるのである。
自分というものは今ある自分から遥か遠くの自分には、すぐには成れない以上今ある現在の自分を今ある自分という鏡に映してやるしかないし、これは過去の自分を考えて今を切り離して考えていくのと同様に大切なことである。

反町を代表監督に

2006-06-27 21:50:18 | Weblog
そろそろ日本人を代表監督に据えてもいいと思うので、オシムが代表監督になるならコーチになるという反町を代表監督にすると、若手の監督から代表監督まで一貫するので、両者の交流が進むのでよいのではないかと思う。
反町なら、総勢五十名以上の中から、選手選考を行えるし其処に競争が生まれるからである。
そろそろ、日本人が監督になり日本語で、イメージを伝えるべきだし、日本語で作るべきだと思うからである。
ジーコは有名すぎて冒険が出来ていないし、日本人なら冒険が出来るからである。
そして、一番問題なのはジーコが自分の名声を気にしすぎていたため、負けても誰も文句のつけられないような選手選考とマスコミへの対応をしたからである。
岡田元代表監督が奥歯に物の挟まった言い方で、ジーコの選手選考を批判したのだが、それは、マスコミもあまり伝えなかったのと、戦いの前であったので詳しくは伝えなかったので、真意を深く聞きたいのであるが、岡田さんならおそらく違う選手選考をしただろうし、思い切って中田さえきったかもしれない。
中田を評価する意見が多いのは承知で書くが、オーストラリア戦での中田の監督の指示さえ無視して、攻撃陣を上げて、しかも途中でボールを取られ、相手に絶好のチャンスを与えたことに対して誰も批判しないらしい。
サントスの左サイドを使った攻撃を多用することで、クロアチア、ブラジル戦での攻撃が有効であったにもかかわらず、全て中田がコントロールしようとしたのは、あきらかに間違いだっただろう。
結局選手自身も、誰にも文句のつけられない戦い方(中田に集めて中田にコントロールさせる)そして中田も重責に答えようとしたのだが、それはもう選手全員がイメージを膨らますのでなく、同じパターンをしているのだと考えられないぐらい疲労とプレッシャーがあったのだろう。
危険を犯したくないのは、誰でも同じだが、しかしそれでは、勝てないことが明確になったと思う。
それと同じで監督も日本人がして、泥をかぶるつもりでやる人が必要だと思う。
しかも一人でなく、数人単位でやるべきだと思う。
その中で、日本として、日本語できちんとした戦略や戦術を磨き書いていくことが必要ではないだろうか?
今のサッカー界は、足が地に付いていない状態だと思うし、せっかく作り上げてきたよい意味での競争する雰囲気をなくしてしまいそうである。
オシムの名前を出すことで、ジーコへの批判は、半分以上新監督のほうへ流れたのであるが、もっと検証をする必要性があると思う。

ジーコの発言(プロ意識)

2006-06-25 21:09:31 | Weblog
ジーコが日本代表について、まだプロ意識が足らないと発言したそうである。
もちろんプロ意識が足らないと感じることが多々あるのだが、それは、そういう意識を植え付けてこなかったジーコの指揮によるものが多い。
一番は、選手を固定するということを発言したことで、レギュラーと控えという線引きをしたことで、選手のモチベーションは極端に下がってしまった点。
温情主義かどうか知らないが、明らかに運動能力の落ちた選手を連続して続けたことと、中田に対する明らかな偏重である。
プロ意識というのは、チャンスがあれば上にいけるというシステムでしか出来ないし、怪我をすれば交代させるのが当たり前のことである。
そういうことで、チャンスを得て上に上がっていくのである。
ジーコは固定すると宣言してしまった上に、選考でも明らかな温情主義を行った。
これまで、代表として活躍してきた人を選ぶと宣言してしまえば、選手のモチベーションは明らかに落ちると思う。
ジーコがやってきたことは、選手に対してプロ意識を要求するのは、選ばれた以上という意味からかもしれないが、自分でプロ意識を作る土壌を作るどころか壊してしまっていることにきずかないのだろうか?
ジーコが日本サッカーに貢献した事は言うまでもないが、上に行くためにはやはりジーコのやり方では無理だという結論が出たと思う。
個人に任せるということの大事さを強調し、プレイ自体に関することの延長として、競争を激しくして調子のいい選手を使い、冷徹に選考するという完成系が、中途半端に終わってしまっていると思う。
日本のレベルの高さを世界が知ってしまっている以上、研究されて、ラフプレイもうけるし、審判の誤審もあるが、それは日本のサッカーがレベルアップしてきたところに現れた壁であるので、当然それは突き破るために現れたものである。
それは当然のことながら、一体となって突き破る壁である。
今度の代表の中でも多くのことを選手は学んだと思うし、世界を感じることで自分で考える気持ちが、いわば、誰かに頼るのでない自分のイメージや他人のイメージを大事にする、連携関係が生まれてくれば多くの優秀な選手を育てることにつながると思う。
最後のブラジル戦で玉田が、先取点を挙げたことや福西の突破や駒野の成長など収穫としては大きなものだと思うし、ドイツ戦で見せたプレスなど非常に到達した点が高いものも出来たと思うので、それをどうやって日本全体の物にしていくかだと思う。

安倍長官と上祐代表は似てる?

2006-06-23 22:26:16 | Weblog
此処で言う上祐代表とは、元オウム真理教のスポークスマンであった上祐氏である。
ちょうど色白で裕福な家庭に育ち、甘いマスクで女性に人気があって、強気のコメントばかりを述べて、大事なものに対して質問をはぐらかすところである。
全てを知っているような雰囲気であるが、本当は中身のある話をされていなかったことを思い出す。
お盆過ぎに出馬表明をして、マスコミの関心をその間だけに集中させて、国民の関心も政治的な問題や中身などより、イメージだけを先行させて選挙を乗り切るつもりだろう。
対照的に、あまり人気のない福田康夫氏は、靖国神社の問題を正面から訴えて、外交問題に対して、表明している。
もちろん火の粉をかぶるのは、覚悟の上だろう。
他方安倍長官は、靖国神社を本心から信じて政治的主張もほぼ同じであると思われるにもかかわらず、積極的に主張する事をやめて、笑顔を売り物に大事な問題も語らずに、徹底的に逃げている。
上祐代表が、あの時オウム真理教が起こした事件について、正面から向き合わず、徹底的に逃げた姿とダブらしてみてしまう。
要は自分が思っていることや事実に対して、積極的に発言せず、外見と強気なコメントで自分たちの起こした事件について、逃げようとしている姿勢と同じということである。
安倍長官は、アメリカに政治学の講義を留学という形で聴きに行ったそうである。
アメリカの政治で一番重要なことは、ちゃんと問題に向き合い国民に説明することである。
それこそアメリカの民主主義のいい点であるのだが、その点は徹底的に無視しているのだろうか?
他の面としての徹底したイメージ選挙と論争を逃げる姿勢と大量のお金を使う手法は、使うつもりだろうか?
大事なことから逃げる姿勢がある政治家が、日本のトップに立って、いざというときに冷静な対応が果たして出来るのだろうか?
強気なことは誰でも言えるし、強気な政策などは誰でも出来る、ちゃんと分析しているのか、そしてそれが的確なものであるかどうかである。
狂牛病の問題でも、これは農林水産行政の失敗をさらした問題であり、内閣全体で取り組む問題であるにもかかわらず、何らのコメントさえしないという何か、選挙のためには、自分に火の粉のかかる問題は、徹底的に逃げ回るのだろうか?
人気があるから選挙に勝てるし、トップになれるかもしれないが、政治家としても行政に関わる人間としても、その手腕と姿勢に対しては、オウム真理教時代の上祐代表と同じくはなはだ疑問である。

シュートとは?

2006-06-20 22:56:37 | Weblog
日本が得点できない理由のついて考えてみる。
簡単に言うと、シュートをすることがボールを蹴ることと同意であると思っていると思う。
シュートをするのは、「蹴り込む」事であるし、プレスをするということは「包み込む」ということであり、包むことではないのである。
日本では、得点を決めることだと表現するが、それは決まった結果であって、決めるのは、ボールを押し込む、流し込む、蹴り込む、そういうことの結果として得点が決まるのである。
シュート練習や実際のシュートを見ても、それを意識してやっているのが半分にも満たないし、チーム全体で「包み込む」ことで、相手ボールを味方のボールにするとか、ボールをけりこむとかという意思が統一されていないと感じてしまう。
ゴールの枠のことばかりを気にして蹴ると、当然のことに上の方に目線が動き浮いたボールになってしまうし、その為に自分の蹴るという行為をしっかり考えて、何度も失敗しながら、修正してシュート練習をするのである。
瞬間的に蹴りこむという動作をした後で、ボールの行方を追いかければいいのであって、いわば、相手ノ壁を蹴り破るというぐらいの意思の集中が必要なのである。
相手を破るとかいうと、日本人は「和を持って尊し」だからそんなのが苦手だということを言う人がいるが、別にボールへ集中した力を注入するだけで、そのことによってすばらしいシュートが生まれるのであるし、一部の国の選手のように、人に対して力を集中するわけではない。
生け花や茶道の話を前に書いたのだが、穏やかで綺麗な心で相手を敬いながら「和合」することは、別にそのもの自体に集中することを意味しないのであるのだが、
勘違いしている人は、もてなすことと相手に気に入られることを一緒にしてしまい、何かを其処に相手とともに生み出すということを完全に忘れてしまうのである。
サッカーも同じ事で、ボールを介して相手とのプレイを追い求めて、すばらしい試合を結果的に作ることが目的であると思う。
そこで、自分は型どうりのものしかせずに、「気持ちを込める」事をしなければ何かが生まれることはほとんどありえないし、状況に対応することさえ出来なくなる。
もちろん、今問題になっている「日の丸」「君が代」の強制のように、頑なに自分の考え方を国民全体がしないと、日本の型が崩れると信じている人たちが、型にはまらないことを非難するような環境でもあるがそれは彼らが、日本の文化や伝統をたかがか百年ぐらいの、皇国史観や国家神道を狂信的に信じているからに過ぎないのであるから、「創造性」豊かなプレイをするためにも、気持ちを「込めて」プレイしてもらいたい。