英語の単語で「SEE」と「LOOK」の違いがあるらしい。
前者はあるものを視野に捕らえて、そのものを理解するという意味らしい。
後者はあるものに、視線を向けるという、どちらかというと、「仕草」に近い意味らしい。
東京都の石原知事と与党の自公民は、都民や国民を後者に止めおきたいらしい。
銀行の前執行責任者の非難をしても、呼んで話を聞かないらしい。
同じ事を国政もやっているから、別段驚きはしないが、同じ方向にやはり目線があることが大事だと考える「カルト的なかんがえかた」をおしすすめる人たちの集まりが中心になると、やはり「類は友を呼ぶ」で同じ手法を使うのだろうが、国民や都民までも同じ方向に向かうように権力を行使するのだけはやめて欲しい。
いろいろな問題がおきたときに、「目を向ける」事から一歩進んで「理解する」事がないと駄目なのは、誰でもわかることなのだが、それをしようとしない人たちが都民や国民の代表であっては、都政や国政が混乱するのは目に見えているのに今はそんな状況である。
同じ方向に「力」を向ける事が、政治家の役割だと考えているから、日の丸君が代問題であれだけ細かいことをするのにもかかわらず、今回の問題では全く調べようとしないのである。
「カルト」の特徴は、現実を理解することより、ある教祖やある教義が示す方向に全ての力を行使することである、つまり公明党なら「池田大作」自民党なら「皇国史観」などの考え方に表される「現人神」のへの方向性を第一にする考え方である。
自公政権下で起きている事を見ればよく判るが、数の力を「理解する」事よりもある方向性を持たすために、国民に「強行採決」という手段で国民に自分たちの方向性ばかり押し付けようとしたという、これまでの経過に現れている。
マッカーサーが日本を「十二歳の少年」といったのが六十年前なのに、そのことの意味さえ理解していないらしい。
つまり少年が、大人と同じ方向を見つめることが出来ても、「理解」ということが大事だということを理解するのは、これからの経験をつむ必要があるという意味であるのだが、その「理解よりも方向性を重視する」ということの結果としての敗戦と多くの戦争犠牲者を生んだということの歴史を誤魔化そうとして、必死になってやっているのである。
日本本来の神道では、八百万の神である以上方向性がばらばらなのは言うまでもないのだが、其処から当然に相手のことなどを理解することが最優先されるという文化が生まれるのだが、国家神道や皇国史観は、「方向性」を重視したキリスト教をパクって作られたためとそれを国民に強制的に刷り込んでいったために、日本本来の文化が消えて、国民もそういう思考方法を取る様になってしまった。
つまり本来「SEE」が優先された文化が、「LOOK」をすることを優先する文化に変えられてしまったのである。
一日も早く「SEE」を優先する人たちを選びなおし、本来の日本と伝統を取り戻すべきである。
前者はあるものを視野に捕らえて、そのものを理解するという意味らしい。
後者はあるものに、視線を向けるという、どちらかというと、「仕草」に近い意味らしい。
東京都の石原知事と与党の自公民は、都民や国民を後者に止めおきたいらしい。
銀行の前執行責任者の非難をしても、呼んで話を聞かないらしい。
同じ事を国政もやっているから、別段驚きはしないが、同じ方向にやはり目線があることが大事だと考える「カルト的なかんがえかた」をおしすすめる人たちの集まりが中心になると、やはり「類は友を呼ぶ」で同じ手法を使うのだろうが、国民や都民までも同じ方向に向かうように権力を行使するのだけはやめて欲しい。
いろいろな問題がおきたときに、「目を向ける」事から一歩進んで「理解する」事がないと駄目なのは、誰でもわかることなのだが、それをしようとしない人たちが都民や国民の代表であっては、都政や国政が混乱するのは目に見えているのに今はそんな状況である。
同じ方向に「力」を向ける事が、政治家の役割だと考えているから、日の丸君が代問題であれだけ細かいことをするのにもかかわらず、今回の問題では全く調べようとしないのである。
「カルト」の特徴は、現実を理解することより、ある教祖やある教義が示す方向に全ての力を行使することである、つまり公明党なら「池田大作」自民党なら「皇国史観」などの考え方に表される「現人神」のへの方向性を第一にする考え方である。
自公政権下で起きている事を見ればよく判るが、数の力を「理解する」事よりもある方向性を持たすために、国民に「強行採決」という手段で国民に自分たちの方向性ばかり押し付けようとしたという、これまでの経過に現れている。
マッカーサーが日本を「十二歳の少年」といったのが六十年前なのに、そのことの意味さえ理解していないらしい。
つまり少年が、大人と同じ方向を見つめることが出来ても、「理解」ということが大事だということを理解するのは、これからの経験をつむ必要があるという意味であるのだが、その「理解よりも方向性を重視する」ということの結果としての敗戦と多くの戦争犠牲者を生んだということの歴史を誤魔化そうとして、必死になってやっているのである。
日本本来の神道では、八百万の神である以上方向性がばらばらなのは言うまでもないのだが、其処から当然に相手のことなどを理解することが最優先されるという文化が生まれるのだが、国家神道や皇国史観は、「方向性」を重視したキリスト教をパクって作られたためとそれを国民に強制的に刷り込んでいったために、日本本来の文化が消えて、国民もそういう思考方法を取る様になってしまった。
つまり本来「SEE」が優先された文化が、「LOOK」をすることを優先する文化に変えられてしまったのである。
一日も早く「SEE」を優先する人たちを選びなおし、本来の日本と伝統を取り戻すべきである。