ブログモドキ666

雑感や日記もどき

「SEE」と「LOOK」の違い

2008-03-30 19:54:16 | Weblog
英語の単語で「SEE」と「LOOK」の違いがあるらしい。
前者はあるものを視野に捕らえて、そのものを理解するという意味らしい。
後者はあるものに、視線を向けるという、どちらかというと、「仕草」に近い意味らしい。
東京都の石原知事と与党の自公民は、都民や国民を後者に止めおきたいらしい。
銀行の前執行責任者の非難をしても、呼んで話を聞かないらしい。
同じ事を国政もやっているから、別段驚きはしないが、同じ方向にやはり目線があることが大事だと考える「カルト的なかんがえかた」をおしすすめる人たちの集まりが中心になると、やはり「類は友を呼ぶ」で同じ手法を使うのだろうが、国民や都民までも同じ方向に向かうように権力を行使するのだけはやめて欲しい。
 いろいろな問題がおきたときに、「目を向ける」事から一歩進んで「理解する」事がないと駄目なのは、誰でもわかることなのだが、それをしようとしない人たちが都民や国民の代表であっては、都政や国政が混乱するのは目に見えているのに今はそんな状況である。
同じ方向に「力」を向ける事が、政治家の役割だと考えているから、日の丸君が代問題であれだけ細かいことをするのにもかかわらず、今回の問題では全く調べようとしないのである。
「カルト」の特徴は、現実を理解することより、ある教祖やある教義が示す方向に全ての力を行使することである、つまり公明党なら「池田大作」自民党なら「皇国史観」などの考え方に表される「現人神」のへの方向性を第一にする考え方である。
自公政権下で起きている事を見ればよく判るが、数の力を「理解する」事よりもある方向性を持たすために、国民に「強行採決」という手段で国民に自分たちの方向性ばかり押し付けようとしたという、これまでの経過に現れている。
マッカーサーが日本を「十二歳の少年」といったのが六十年前なのに、そのことの意味さえ理解していないらしい。
つまり少年が、大人と同じ方向を見つめることが出来ても、「理解」ということが大事だということを理解するのは、これからの経験をつむ必要があるという意味であるのだが、その「理解よりも方向性を重視する」ということの結果としての敗戦と多くの戦争犠牲者を生んだということの歴史を誤魔化そうとして、必死になってやっているのである。
日本本来の神道では、八百万の神である以上方向性がばらばらなのは言うまでもないのだが、其処から当然に相手のことなどを理解することが最優先されるという文化が生まれるのだが、国家神道や皇国史観は、「方向性」を重視したキリスト教をパクって作られたためとそれを国民に強制的に刷り込んでいったために、日本本来の文化が消えて、国民もそういう思考方法を取る様になってしまった。
つまり本来「SEE」が優先された文化が、「LOOK」をすることを優先する文化に変えられてしまったのである。
一日も早く「SEE」を優先する人たちを選びなおし、本来の日本と伝統を取り戻すべきである。

「神道」と「和」

2008-03-02 19:18:36 | Weblog
神道の精神を端的に表すものとして、「和」と言う言葉がある。
よく勘違いしているのは「秩序」と「和」を同じように考えている。
そもそも「神道とはなにか?」で書いたように、人間も神も含んでそれぞれがそれぞれを、過小にも過大にも捉えずに、相手を尊重し、関係を作っていくと言うことであるから、「和」と言う言葉が出てくるのである。
聖徳太子が言った「和を以って尊しとなす」と言う言葉の意味を、天皇を中心とする秩序を維持するべきだというように勝手に解釈をしている人たちがいるのも事実である。
しかしそれならば「秩序を乱すな」でいいはずである。
神道の精神でいえば、其処に上下関係など存在しないのであるし、有名な菅原道真の天神として祀る話も、天皇自身やその取り巻きたちが、道真を異常に過小に評価しようとして、自分を過大に評価させようとして、「和」を乱したこそ天罰が下り、道真を天神様として、学問の神様として、自らの「和」を乱した行為に対しての償いの為に祀ったのである。
つまり「和」を基礎にする考え方がない「秩序」を神道は認めないと言うことである。
しかしながら、この「和を乱す」考え方を無理やり強制し、日本を不幸においやった考え方が残念ながら出来上がってしまった、明治期に出来上がった「国家神道」「皇国史観」である。
要は天皇を頂点とする「秩序」を基礎に国家が出来上がったと言う話をでっち上げてそれを守ることが日本人の精神であると洗脳していったのである。
其処に何の精神があるのだろうか?
それを日本人は「和」だと教え込まれてしまったのである。
そしてその考え方から、「秩序」を優先するべきだと言う考え方を利用しながら、私腹を肥やし、権力を維持しようとしたのである。
その子孫たちが政界財界を中心としてなお存在しているのである。
今の日本の状況を見れば判るが、如何に他者を過小に評価させようともそれを基礎に自分を過大に評価しようとも、それで「和」は乱れているのに「秩序」だけを優先しようとして、「日本」と言うことを必死に意識させようと政界財界マスコミなどが必死になって情報操作をしている。
格差社会を「勝ち組負け組」と言うように呼ばせて、あたかも其処に自分たちの「和」を意識させようとしているが、それは自分たちの「秩序」にすぎない。
「和」という考え方を如何に国民に間違えさせて覚えさせるのかを必死に情報操作しようとして、「グローバルスタンダード」とか「靖国神社」問題を出してきているのである。
死者を選別して、自分たちだけが「感謝」されることをあの戦争を戦った人たちははたして望んでいるだろうか?
一生懸命働いても、幸せになれない社会を果たしてご先祖様は望んでいるだろうか?
「和」をアメリカの望む「秩序」や天罰を下されるべき権力者たちの望む「和」に変えることを果たして日本を作った人たちは望んでいるのだろうか?
「和」の精神なき日本を「和」の精神を基礎に作りかえる必要がある。

「強行採決」では桜も枯れる。

2008-03-01 19:51:24 | Weblog
また自公政権が強行採決したので書いておく。
基本的に調査能力以前の問題として、「意欲」のない人たちがどんなに多く選ばれても「力」にもならないと言うことだろう。
道路財源の問題にしても、今回の事故にしても、ある特定の官僚組織が隠そうとしているのを政治家が隠蔽しようとしているのだからどうしようもない。
誰が調べてもいいのではないかと言う意見があるが、事故の当事者でない人たちが調べると言うことを前提にしているのであれば、それもまたいいだろうが、今回の場合も道路財源の問題も特別会計の問題も全て、当事者の側が先に動いて、本来調べる権限や人員を持っている第三者を排除する形で勝手に動いているのである。
それを政治家たちが追認すると言うのでなく、むしろそういうことを推し進めるという事をしているのだから、この国自体が機能不全に落ちるのも無理はない。
自浄作用というのは第三者の意見を聞くからこそできるのであるのだが、自公政権は第三者を如何にその問題に対して、「目をそらさせるのか?」ということに力を注いでいる。
特にマスコミと組んでの情報操作にはあきれるものがある。
例えば今度の事故でも、本来の主体は海上保安庁であるにもかかわらず、自衛隊の勝手な行動を同じ行政組織であるからと言う理由付けをして、自衛隊がとった行為を正当化しようとしている「ひげの隊長」佐藤参議院を使って、盛んに宣伝しようとしている。
事故当時の意識を問題にしているなら、むしろ第三者の海上保安庁の調査を優先して自分たちの状況を第三者の意見を重視して、改善するべきなら改善して、行くべきだろう。
それを基に日本の防衛に対する意識を高めるべきなのに、むしろ組織のための防衛に走り、「嘘」までついて、国民に対する情報操作を優先するために自分たちの情報が、海上保安庁の情報に優先するようにマスコミと石破大臣も手を組んで、隠蔽しようとしたのである。
それがよく判るのが「二分前」と「十二分前」の話である。
大臣の答弁のように彼は、二つの情報を持っていたのであるが、なぜか確認もせずに「二分前」と言う発表を部下にさせている。
つまりどちらが正確か?検証するべき状態であるという認識があるにもかかわらず、あえて発表したのである。
つまり自分たちに「非」がないことを印象付けたいが為に行ったのである。
道路財源の問題にしても同様だろう。
国民や野党が官僚の発表にあるデータや実態を、知ることがないようにそして自分たちに都合のいい印象を持たせるために、「強行採決」「対案がない」と言う二本立てでマスコミに報道させて、操作しているのである。
そろそろ「うそつき爺さん」自公政権をやめさせないと、国全体の「桜」も枯れてしまうのではないだろうか?