ブログモドキ666

雑感や日記もどき

サッカーにおける{ASC]

2008-05-31 22:36:14 | Weblog
サッカー選手の基本的な見方について書いておく。
これはどのスポーツにも共通するものであると思うが、
第一に「能力」英語で表現すると「ABILITY」
第二に「センス」英語でも「SENSE}
第三に「可能性」これは英語で「CAN」である。
頭文字で言うと「ASC」これを少し変えて、「ASK」つまり「問う」ということである。
第一は、運動や技術なども含めての能力のことであるが、これは始めのうちは錬習でも獲得が可能である。
早く走ったり正確にボールを蹴れたり、俊敏に動けたり、そういう能力を言うと思う。
第二は、判断も含んでの試合における選手個人個人のパフォーマンスであるといっていいだろう。
第三は、第一と第二を基礎にする選手個々の可能性であり、そのチームの可能性である。
そして全てを含んで、各個人とチームがそれを「問う」事、「考える」事が大事なのである。
よく見られるのは、第一の要素が高くても第二の要素が磨かれていないために、第三の「可能性」という部分が高まっていかないパターンである。
「考える」ということがないと「可能性」を自分で高めることが出来なくなるのであるし、選手やチームの成長もないのであるし、選手個々のレベルやチームのレベルに合わせて「可能性」を高めたり拡げたりできるチャンスを失うことにつながるのである。
その為に必要なことが「コミュニケーション」である。
第一の要素が例えて言うならば「強くて太い糸」であってもそれをつなぐものがなければ、所詮それは一本の糸でしかないが、その糸から多くの糸につながりが出来れば、大きな綱にも網にもなるし、相手に合わせた綱の太さや網の目の大きさが可能であるからどんな力も受けることも出来るし、相手の網を破ることが可能になる。
昔の言葉で言うと「最強の矛」と「最強の盾」を選手全員で作ることが可能になるのである。
勘違いしている選手が多いと思うのは、自分の力を示すことをどんな状況でもするのが、いわゆる「プロ」でありいい選手だと評価されるのだとあからさまにわかるプレイが見えるからである。
日本代表と海外の代表のチームで明らかに違うのは、いい時のプレイと悪い時のプレイの落差を日本代表では感じるが、海外のチームでは逆にプラスの方向になって落差よりも、非常な集中力とまとまりを感じる。
これは個人技が中心と思われる南米のチームでもヨーロッパのチームでも共通している。
ASCという思考を取るべきではないだろうか?

「塀の仲の懲りない面々」と光市事件

2008-05-26 00:12:55 | Weblog
光市母子殺害事件の弁護士の安田弁護士が書いてあるリポートの中で気になることがあったので書いておく。
一連のこの事件のターニングポイントになった「友人への手紙」であるが、この友人という人間が古くからの付き合いがあった人間でなく、未決で収容されていたいわゆる「ムショの中」で知り合った単なる知り合いらしい。
そのむかし「塀の仲の懲りない面々」という安倍譲二という作家が書いた本のなかにでてくる、看守や警察官検察官に有利な情報を、友達を装うって近づきいろいろな情報をその人たちに売って、自分の刑期などを短縮してもらう人たちのことを書いていたのを思い出した。
マスコミ関係が「友人からの手紙」という見出しをつけて、盛んにその手紙の中の反省していない言葉を流していたが、その言葉は、そういう種類の人間が少年をうまく乗せて喋らせた可能性もあるのだろう。
控訴審の裁判官もその辺の状況を知り尽くしているから、その手紙について非常に慎重な見方をしているのだろう。
そして無期懲役の判決を出したのであろう。
いわゆる「プロ」の裁判官なのだろう。
しかしマスコミはこれらの事実を隠したままで盛んに、「友人への手紙」と連呼してそのふざけた内容を流し続けた。
つまり少年の本心が表れたものであるという印象を操作したいために、どういう友人なのかという点を隠したままに、流したのである。
しかも、少年はいわゆる前科も鑑別所にも入ったことがないという事実まで隠しているのである。
一つ疑問なのは、マスコミにそういう権限が与えられていないからそういう事になったのであるなら、検察側がマスコミを使って自分の有利なようにしている疑いがある。
要は「プロ」同士が司法の場で争えば、お互いが手の内を知り尽くしているから検察の思いどうりにはならないという状況だが、マスコミを使えば連戦連勝になるということなのだろう。
今から始まる「裁判員」制度が始まろうとしているから、検察当局がそういう土壌を作るためにやろうとしているなら相当怖い問題だと思う。
もしマスコミが少年に関してのテレビ番組を作ろうとして、誰かに頼んでそういうことをしたのならそれも非常に大きな問題だろう。
極刑にするならするで、それが司法の判断ならそれはやむを得ないことだと思うがもしそういうことで死刑が確定して、後でそんなことがわかれば、それは司法制度に対する信頼を大きく失わせるし、マスコミに対する信頼も大きくなくなることになると思う。

「フリージャパン」で日本を救え。

2008-05-10 20:57:48 | Weblog
衆議院が解散し総選挙が行われないことについて書く。
此の頃「フリーチベット」というスローガンがチベット問題を報道される際によく伝えられている。
これを日本の状況にあわせていくとしたら、「フリージャパン」というところかと思う。
自公政権は、自分たちの権力維持のために、国民の意思を示す「総選挙」を回避し続けている。
国民は自分たちの意思を表すための、「投票行為をする自由」を自公政権によって、抑圧されている状況である。
国民の審判を受けないままに、福田総理がサミットに出席するのは、支持率がせめて半分ぐらいがある状況であれば、それもいいかもしれないが、今の状況では日本の国民の意思を代表してというより、行政の代表ということかもしれない。
其処にやはり大きな問題があるといっていいだろう。
衆議院と参議院のねじれ現象よりも怖いのは、国民の意思と行政の意思とのねじれ現象がおきていることであろう。
一連の年金問題や道路財源などに見られる、国民の意思と行政の運用すなわち「意思」とのねじれ現象は、日本という国全体のねじれであり、そのねじれを補正するためにも早く総選挙を行うべきなのである。
政治家の中に危機感がないのは驚くべきなのであるが、それは長年の与党経験が与党ボケを産んだのであろうが、政治に対する怒りが行政に対する怒り経済や社会に対する怒りが、改革につながることなく「不信」になっている事に対する危機感があまりになさ過ぎるよう思う。
あまりに自由を抑圧しすぎているために、日本中に「不信の連鎖」が起きている状況であるということを意識する人が、少なすぎる気がする。
「行政改革」という言葉が「行政の効率化」という意識から生まれてきたのは明らかであるが、今は「行政に対する不信」や「政治に対する不信」から、「行政改革」という言葉を使うべきなのである。
同じ言葉を使っていても、それは同じ環境すなわち同じ問題状況から生まれていると勘違いする人が多い。
日本では政権交代がないために、時代遅れの問題意識でもってもあたかも「改革」という錦の御旗を持っているかのように国民もマスコミも勘違いしていると思う。
政権交代があれば常に新しい問題意識を持つ政党が、行政を動かすために常に新しい問題意識を行政が常に持つ必要性がでてくると思う。
自公政権が持っている問題意識が国民とあまりにもかけ離れている以上、この不信の連鎖は続くだろう。
「フリージャパン」で日本を救おう。