ブログモドキ666

雑感や日記もどき

平山を代表から外せ

2006-10-31 22:15:31 | Weblog
平山選手が、「天然ボケ」とかで自分が使われないことをマスコミに漏らしていた。
相手チームに自分が使われないことを伝えて、相手がその為に準備しなさいと教えたのである。
これは明らかにチームに対する裏切りであるし、自分以外の選手が使われるのなら他人のことなどどうでもいいわけである。
セコイ奴であるという事も言えるが、こんなことを言う人間を日本代表として選ぶわけには行かない。
試合に臨むのは、チームとしての代表であるし、国の代表として戦うのである。
そんなことをする人間を我々の代表として送り出すのだろうか?
今不調であるなら、それは自分の調子を上げていけばいいのであるし、体の調子とか悪ければ直せばいいのである。
日本に戻って、レベルが上がっていたので自分が対応できないなら努力するのがプロである。
いつまで甘やかすつもりなのか、マスコミは天然ボケとか言って日本代表で戦う選手の意義さえ馬鹿にして報道をしている。
今の教育界を象徴する様である。
必修科目を教えずにとにかく受験競争に勝てればいいのである。
そこで欠けているのは、日本代表を作ろうという意思のなさである。
世界的な競争に勝つことでその国のレベルを上げようとしているから、国際学力テストの順位をマスコミが報道するのである。
国際競争に勝たなければといいながら、代表選手を作ろうということをしていないのである。
日本以外では、才能ある選手は特別扱いをするということはしないというのは、アメリカの大学が日本の大学と全く異なり、卒業することが難しいのは大きな示唆である。
平山選手がやっていることを国内で通用させれば、日本全体のレベルを下げる事につながるのは明らかである。
反町監督が平山選手に期待するのは当然だが、日本代表監督である以上全体のことを考えることが優先されるべきである。
同じチーム内でも鈴木選手とか馬場選手とかが平山選手以上の活躍をしている以上その選手で勝っていくのが監督の役目であるのは、東京の選手はみんなわかっているのである。
みんなの信用を勝ち取ることさえ、忘れてしまっているのは相当重症である。
マスコミに利用されて使われて、才能を磨くことを忘れてしまう前に自分できづくことが出来なければ、残念ながら其処までの選手でしかない。


どこから「手」か?ガーナと日本

2006-10-29 22:03:42 | Weblog
変なタイトルであるが、サッカーで手を使うことが大事だといっているので、どこからが手かということを述べてみる。
これは別に正確なことを言うのでなくイメージとしてである。
手は、背中の肩甲骨の部分より背骨より出ている筋肉を含めて『手』である。
手を広げるというときにひじの先から広げようとする人がいるが、それは手を拡げる効果をどう広げるかという目的意識がない場合か、言葉だけを追いかけている場合である。
サッカーで手を広げるということの効果は、体のバランスを取るだけでなく、体全体の動きを力強くするものであり、蹴るという行為以後の新たな行為の連続性を保つためにある。
実際に手を広げるときに、片足で立ってみれば判るが肩甲骨から手を上げれば非常に安定的になり、ボールの前横上後ろ五面を足で触ってもバランスは崩れにくいが、ひじからの場合非常に崩れやすい。
簡単なことで、体の中心から手が伸びる事によって非常に安定的な姿勢が可能であり、力もてこの原理と同じで、力点が始点から遠い事により作用点に、大きな力が作用するのである。
これは三種類以上の力の作用があると考えられるが、難しいことを言うと力の方向性ということが、ある瞬間にもすぐに浮かび上がることで変化にもついていき、力も維持できるのである。
日本とガーナ戦で、ガーナの選手が手を大きく拡げていた事にあまりきずいていないと思うが、アフリカの選手が運動能力があるからと勘違いしている人もいると思うが、全員が拡げているということに注意を払うべきである。
全員の動きが素早くて力強く倒れないのも、手を広げているからである。
しかもその状態で手を使っても力強く使えるから、争うときに有利であるつまり自分の空間を取る先手を得ながら、自分が有利に動けるのである。
日本では争うというのは体を寄せ合うと考えられているが、これは全く違って小さい体でも、相手をずらせて、空間を広げて其処に自分のボールを支配する空間を作ることが出来るのである。
つまり相手より早く強く動くためにも、大きく手を広げて動き力の方向性をあらゆる方向に持っていくことで相手を崩していくのである。
ミドルシュートは突っ張りだと書いたときにも言ったことだが、全身で突っ張ることつまり足も前に動き肩甲骨からも手が動く事によって、自分のバランスも取りながら相手の変化にもついていくのである。
チーム全体を一つの人体のように考えると同じであろう。
この場合は、一つのミドルを打つ行為を味方選手が続くことによって、意味あるものにしていくことが大事だということなのである。
つまり、チームとして大きく手を広げて試合を戦うこと、と個人として大きく手を拡げて使うことが大事なのである。

有限から無限へ3

2006-10-27 19:37:38 | Weblog
日本の伝統芸術である文楽や落語を例に挙げてみる
例えば、文楽は人形の後ろに黒い幕、遣い手がいて、義太夫と三味線との三者が芝居を作っていくのであるが、其処にいる観客も自ら語りや人形の動きを見ながらも其処に自分なりの世界の広がりを持って参加しているのである。
そこには、いわば人間とはあまりに違う人形の動きや普通の言葉でない太夫の語りや黒い幕などと観客といういわば要素としては、非常に少ないものでありながら、其処に広がるものは黒い幕の向こうではなく、その空間にいわば無限の広がりを見ることが出来ると思う。
芝居の創り手と見る側が明確に分けられるのでなく、『説明』でなく創造が行われるのである。
人形の動きなどは、ある意味語り手の意図でもなく遣い手の意図でもなく、その意図を少しずらしながら自らの意志を持つものとして、観客の側からは存在しているし、観客もその空間に『和する』ことで、物語を鑑賞するのでなく物語を作るという役割を果たしているのである。
ある意味黒い幕という背景の中で、行われているということは西洋演劇のような説明の芝居にならないのである。
もちろん新劇の中にも、その要素を取り入れて芝居を作っているものもあるので一概には言えないが基本としては、観客に説明をするという姿勢のものではないと思う。
その極端なものがいわゆる『落語』である。
一人の語りで見る側も参加させてそこに世界を作り上げて、話を観客ごとに作り上げて楽しんでもらうのである。
演者は其処に座りながらも、観客に語りかける事によって、物語の中の人間の視線を持ってもらいながら其処で起こる出来事に笑ってもらったり、しんみりしたりいろんな感情を物語の中の人間と一緒に、感じてもらうのである。
決して其処に押しつげがましいことや説教くさいことはなく、みづから感じるままに物語に参加してもらうのである。
有限なものから、無限なものへと広がっていくことで喜びも広がっていくし悲しみも共有できるし、笑いも大きなものになっていくのである。
そこには、神はとか、ある理論ではとか、人間はこうあるべきであるとか、大きな物事を受け入れるべきだという視点はない。
其処にあるのは、有限なことから、無限の広がりを其処に集まる各個人が『工夫』によって、作り上げるという世界観である。
和歌でも俳句でも、他人の詠んだ物を自分も声に出して詠んでみて、世界が広がっていくことが基準となって、読み継がれているのである。
決して神が人間を作ったという視点などありはしないし、現人神が存在するという視点などありはしない、逆にそんな視点などないから、個人の『工夫』が生まれて明治維新以後の発展につながったのである。
日本人は猿真似などということを言う評論家がいるが、要は其処にものがあって其処に参加して、そのものに工夫を加えて自らそのものと自分との世界を作っているのである。
そこには、あるものを絶対としては受け入れていない姿勢があると思う。
これを日本の伝統文化というのであって、いわゆる自称『日本の文化を守る』人たちの言う日本文化と明確に異なっているのである。
スタートが違うのである。

有限から無限へ2

2006-10-23 19:22:07 | Weblog
精神が大事だということを盛んに言う人がいるが、つまりある要素が存在すればある活動を行うということだろう。
精神が存在しないからとか、精神がたるんでいるからとか、日本精神を持っていないとか言う人の考え方のパターンの特徴だと思う。
逆に批判精神を持っているということを言う人もいる。
どちらも間違っていると思う。
人間の活動の中で、いろいろな出来事を見聞きして学んで始めて、いろいろなものさしが出来るし、それは現実問題に取り組んだ結果でしかない。
つまり人間が活動しなければ其処に現実を見聞きすることも感じることも出来ないので、何らの刺激も加わらないで思考することは不可能ということである。
そこで大事なことが物事に接するときの自分の態度である。
大きく物事に『和する』とき大きく捉えられるし、大きく考えられるが、そうでない場合非常に小さくしか捉えられない。
精神という言葉は『精神活動』という意味で精神と活動と分けて考えられるものではない。
一般的に精神があって活動は行われないということを言う人もいるが、人間世界で活動によってしか精神は高まっていかないことは、人間社会の進歩から見て明らかである。
『理性』という言葉と勘違いして使っていると思うが、理性にしても現実の環境の中で、自分は自分であることの証明という形で使われている以上活動なき理性など存在しない。
よく勘違いしているのが人間の精神活動をコントロールすることが、すなわちある要素を育てある要素を抑圧することが、人間の進歩だという考え方に出会う。
つまり「神の姿に似せて人間を作った」というある要素が人間を作ったという考え方を真似て、人間にある要素を植えつければある人間ができるという考え方である。
日本の伝統文化は、基本的に其処に何かある以上ある意義があるということであり、その意義を人間も含めて尊重するということである。
そこで求められるのはそのものとの関わり方であり、そのものと自分を含めた環境とのかかわりであり、どう『生かす』かという考え方である。
つまり、そのものにある要素が存在するから行動するということは同じでも、其処にその行動を生かすべきだという捉え方である。
そのもの自体を変えることが、つまり神の意思と考える方法を取っているの西洋的世界観であり、その考え方とは明らかに違うのであり、戦前がその形をパクって、現人神を創り皇国史観を刷り込みそういう思考方法を強制的に教え込んだのであろう。
つまり其処には『無限』を受け入れることで自分の『有限』を知り、『無限』に服従することが日本精神であると教えられたのである。
当然其処には何かを生かす工夫など尊重しなくなるのは、当然の結論だろう。
本来の『日本の形』を壊してしまった結果が多くの犠牲者であった。

有限から無限へ

2006-10-21 16:51:50 | Weblog
ここで何度も書いている穏やかなで清い心で相手を敬い『和する』という事について、もう一度書いておきたい。
日本の伝統というものは様々な捉え方があると思うが、私は、「有限な要素で、無限を求める、または無限を表現する」ということだと思う。
例えば、いろいろな寺の庭とか、仏閣、絵画などを中心に見てみると具体例として龍安寺石庭は、たった何個かの要素で無限を表そうとしているしと言うか見ようとしてるのであると思うし、『武士道』の根本には千変万化の中で自分をその中において、磨くのだという精神がある。
剣舞というものはそもそも侍の剣を交えた動きの中に、『永遠』とか無限を表し、その中に美を求めるものであったと思う。
つまり其処にあるのは、ちっぽけな人間と剣とその他小さいものという限られた要素であるが、そのものの動きの中に『無限』を表せると観じた人たちがいたということであろう。
つまり自分の『有限』をしっかり知った上で、其処に『工夫』を加えることで『無限』を表そうとしたのである。
これは西洋のように絶対者『無限』を受け入れることがすなわち、人間の使命のように捉える考え方と『真逆』の考え方がある。
もともと日本では、『八百万の神』という全てのものに神が存在するという精神があり、、その神々同士がお互いを尊重することが伝統的な文化を生んできた。
つまり其処に絶対者はいない以上、お互いの『工夫』こそが、新たな『美』とか『生』とか生む、つまり『創造』を生むと考えられてきた。
全ての物事や物生き物にいたるまで、上も下もない社会であるからこそ『八百万の神』なのである。
明治政府の『皇国史観や』『国家神道』などは全くこの反対の精神を持つものである。
なぜなら、何度も書くが「それがキリスト教的世界観」のパクリでしかないからである。
戦後の『日本国憲法』を押し付け憲法というなら戦前の『大日本帝国憲法』も薩長のおしつけであり、宗教や文化の其処にあった文化とか宗教を強制的に排除したまさに相手を尊重しない汚い心で押し付けたものである。
だから、そこで文化の断絶が起きてきたし、国民の選別を行う事になるのである。
オウム真理教が盛んに、仏教やキリスト教をパクろうとして必死に麻原を神に祭り上げようとした事とそっくりであろう。
つまり、両者に共通するのは『工夫』の無さである。
全ての物事や出来事に対して、我々の祖先はいろいろな状況にあっても『工夫』してきたがそれは現実に対する戦いでもあるが、有限なる自分を知り其処でも可能性を信じていわば、切り開いてきたのである。
其処には『無限』を得ようとしたことなどなかった。