千年神道について書く。
敢えてこう表現する
これは、明治に出来た国家神道のことでは無く、本来の神道のことである。。
対比させて書くと、難しい言葉で言うと、
「機能主義的」と「階層的」である。
本来の神道は、「機能主義的」である。
国家神道は「階層的」である。
両者とも「道」という言葉が使われているから、目指す振る舞いを含めた生活上の「道標」と言えよう。
「機能主義的」という見方を持つべきだと言う本来の神道は、物事を「上下関係」
でみる「階層的」関係で見ることをしない。
今大河ドラマで、やっている「義」と言う言葉は、その機能主義的な見方を結びつける言葉である。
当たり前のことだが、その国の中には、自然も人間も存在している。
それぞれが、うまく「機能」していく為には、そこに「軸」となるものが必要である。
それが「義」である。
神に感謝するという行為が、あらためて、「義」を軸とした行為を大切にすると言ういわば宣言みたいなものである。
「道徳」と言う言葉と「徳義」と言う言葉があるように、徳がその道を行く人間にもつべき物とされている。
これは、上下でもつべきかどうかと言うことでは無い。
未だ階層性を有していて、近代化の遅れたプロシアをモデルとした、国家作りの中で、国家神道は、人々に「階層性」と言う意識を持つ様に道を説いた。
いわば階層性を持つ国家モデルを目指したのである。
そこで何が起こったかと言うと「徳義」より「階層」と言うものを優先するようになっていった。
典型的な考え方を表す小説に、「くもの糸」と言う芥川龍之介の小説がある。
極悪人でもない、カンダタは、地獄にいるのであるが、極楽にいるお釈迦様が、クモを助けたことがあるから、そのクモの糸をカンダタを極楽へと行くチャンスを与えたと言う話である。
クモの糸とは、なんだろうか?
なぜそこに上へ行くという描写が必要なのだろうか?
「道」は水平であったもので、そこから落ちたものが地獄に落ちるのであって、地獄から極楽へなぜいけるのだろうか?
クモの糸が「道」なのだろうか?
そこに似て非なる考え方がある。
もともと八百万の神という表現があるように、日本では、いわば様々な「機能」を持った神様がいると言う考え方である。
世界を歩く人間は、その神様達と「義」を結び、それが出来るのは「徳」のある人または、徳性を持った人であると考えられてきた。
「徳性」を生かすのが、「道徳」で、他のものも「生かす」事が結果としてできるのである。
カンダタは救われない人間だと描いているが、果たしてそうだろうか?
芥川が書く「お釈迦様」が果たして、ひとびとが信仰してきたお釈迦様だろうか?
敢えてこう表現する
これは、明治に出来た国家神道のことでは無く、本来の神道のことである。。
対比させて書くと、難しい言葉で言うと、
「機能主義的」と「階層的」である。
本来の神道は、「機能主義的」である。
国家神道は「階層的」である。
両者とも「道」という言葉が使われているから、目指す振る舞いを含めた生活上の「道標」と言えよう。
「機能主義的」という見方を持つべきだと言う本来の神道は、物事を「上下関係」
でみる「階層的」関係で見ることをしない。
今大河ドラマで、やっている「義」と言う言葉は、その機能主義的な見方を結びつける言葉である。
当たり前のことだが、その国の中には、自然も人間も存在している。
それぞれが、うまく「機能」していく為には、そこに「軸」となるものが必要である。
それが「義」である。
神に感謝するという行為が、あらためて、「義」を軸とした行為を大切にすると言ういわば宣言みたいなものである。
「道徳」と言う言葉と「徳義」と言う言葉があるように、徳がその道を行く人間にもつべき物とされている。
これは、上下でもつべきかどうかと言うことでは無い。
未だ階層性を有していて、近代化の遅れたプロシアをモデルとした、国家作りの中で、国家神道は、人々に「階層性」と言う意識を持つ様に道を説いた。
いわば階層性を持つ国家モデルを目指したのである。
そこで何が起こったかと言うと「徳義」より「階層」と言うものを優先するようになっていった。
典型的な考え方を表す小説に、「くもの糸」と言う芥川龍之介の小説がある。
極悪人でもない、カンダタは、地獄にいるのであるが、極楽にいるお釈迦様が、クモを助けたことがあるから、そのクモの糸をカンダタを極楽へと行くチャンスを与えたと言う話である。
クモの糸とは、なんだろうか?
なぜそこに上へ行くという描写が必要なのだろうか?
「道」は水平であったもので、そこから落ちたものが地獄に落ちるのであって、地獄から極楽へなぜいけるのだろうか?
クモの糸が「道」なのだろうか?
そこに似て非なる考え方がある。
もともと八百万の神という表現があるように、日本では、いわば様々な「機能」を持った神様がいると言う考え方である。
世界を歩く人間は、その神様達と「義」を結び、それが出来るのは「徳」のある人または、徳性を持った人であると考えられてきた。
「徳性」を生かすのが、「道徳」で、他のものも「生かす」事が結果としてできるのである。
カンダタは救われない人間だと描いているが、果たしてそうだろうか?
芥川が書く「お釈迦様」が果たして、ひとびとが信仰してきたお釈迦様だろうか?