ブログモドキ666

雑感や日記もどき

千年神道と国家神道。

2009-09-14 09:47:48 | Weblog
千年神道について書く。
敢えてこう表現する
これは、明治に出来た国家神道のことでは無く、本来の神道のことである。。
対比させて書くと、難しい言葉で言うと、
「機能主義的」と「階層的」である。
本来の神道は、「機能主義的」である。
国家神道は「階層的」である。
両者とも「道」という言葉が使われているから、目指す振る舞いを含めた生活上の「道標」と言えよう。
「機能主義的」という見方を持つべきだと言う本来の神道は、物事を「上下関係」
でみる「階層的」関係で見ることをしない。
今大河ドラマで、やっている「義」と言う言葉は、その機能主義的な見方を結びつける言葉である。
当たり前のことだが、その国の中には、自然も人間も存在している。
それぞれが、うまく「機能」していく為には、そこに「軸」となるものが必要である。
それが「義」である。
神に感謝するという行為が、あらためて、「義」を軸とした行為を大切にすると言ういわば宣言みたいなものである。
「道徳」と言う言葉と「徳義」と言う言葉があるように、徳がその道を行く人間にもつべき物とされている。
これは、上下でもつべきかどうかと言うことでは無い。
未だ階層性を有していて、近代化の遅れたプロシアをモデルとした、国家作りの中で、国家神道は、人々に「階層性」と言う意識を持つ様に道を説いた。
いわば階層性を持つ国家モデルを目指したのである。
そこで何が起こったかと言うと「徳義」より「階層」と言うものを優先するようになっていった。
典型的な考え方を表す小説に、「くもの糸」と言う芥川龍之介の小説がある。
極悪人でもない、カンダタは、地獄にいるのであるが、極楽にいるお釈迦様が、クモを助けたことがあるから、そのクモの糸をカンダタを極楽へと行くチャンスを与えたと言う話である。
クモの糸とは、なんだろうか?
なぜそこに上へ行くという描写が必要なのだろうか?
「道」は水平であったもので、そこから落ちたものが地獄に落ちるのであって、地獄から極楽へなぜいけるのだろうか?
クモの糸が「道」なのだろうか?
そこに似て非なる考え方がある。
もともと八百万の神という表現があるように、日本では、いわば様々な「機能」を持った神様がいると言う考え方である。
世界を歩く人間は、その神様達と「義」を結び、それが出来るのは「徳」のある人または、徳性を持った人であると考えられてきた。
「徳性」を生かすのが、「道徳」で、他のものも「生かす」事が結果としてできるのである。
カンダタは救われない人間だと描いているが、果たしてそうだろうか?
芥川が書く「お釈迦様」が果たして、ひとびとが信仰してきたお釈迦様だろうか?

自民の「白紙」と「仮」の国民の「実」を踏み躙る行為。

2009-09-09 17:04:36 | Weblog
自民党の総理候補選定に関して書く。
当初は「白紙」投票すると執行部が決めていたらしい。
しかし反発が有って、「仮」の若林氏を総理候補として投票するらしい。
あまりにも国民を馬鹿にしていると思う。
国民が投票した一票一票は白紙の一票でも仮の一票でも無い。
国民は一人ひとりが考えた上での「実」の一票である。
その「実」の一票一票が積み重なって、国会議員が決められて、そして、総理大臣政権与党、そして野党が決まるのである。
その「実」の一票一票を自民党は、「白紙」「仮」だと考えて、仮に若林に投票するのである。
たとえ一つ一つが小さい一票でもそれの積み重ねで、国を動かしていくのである。
その一つ一つには、国民の意思が入っている。
その意思の積み重ねで、与党野党が決まるのである。
よく少数意見を尊重するべきだということはそういうことである。
なんでも強行採決で、自分達の意志を通してきたから、反対する国民の意思など、「白紙」だったのだろう。
しかも深刻なのは、自民党の若手が、それを受け入れているということである。
石破氏が白票という事に異議を唱えておきながら、「仮」の若林には異議を唱えていないことである。
執行部の古い人たちが、「与党ボケ」「強行採決ボケ」で頭が回らないのはともかく、若手の議員までもそういうことを容認するのである。
議会制民主主義の制度における、総理指名は、国会議員の最大の責務であるといった舌の根が乾かない内から、「仮」の若林の指名には、了解するのである。
政権担当能力があるとか無いとかいう以前に、国民の意思を表す一票一票は、
彼らにとっては、所詮「白紙」「仮」のものとしか評価しないのである。
自分達に入れてもらった票でさえ、そんな扱いをするのだから、自分達に入らなかった票など、白紙でも仮でもないのだろう。
保守とは、「保ち」「守る」ものである。
国民の一票一票を保ち守るということなくして、保守だというのは馬鹿げている。
こういう人たちが日本の伝統や、文化を守るというのである。
日本には、たとえ小さな命でも大事にするという考えが有る。
たとえ小さな国民の意思でもそれを尊重することなく、ましてや、踏みつけにすることなく尊重することなくして、日本に民主主義は定着などしないし、日本の社会を破壊することにつながると思う。
本当にふざけた人たちであるし、その人たちを擁護するマスコミもあるし、評論家もある。
そういう人たちが、日本の社会を壊すことに手を貸しているのである。

サッカー日本代表の問題点

2009-09-09 12:08:13 | Weblog
サッカー日本代表の問題点を書く。
一番の問題は、リーダーの不在である。
リーダーというと一人のことしか頭に無いと思うが、実際には、リーダーが4人以上は必要である。
ポジションにおけるリーダーと全部のリーダーである。
全員守備全員攻撃だと判断する人間が、いなくなってしまう危険性が多い。
前回の大会も同じで、攻撃守備というわけ方をしてもそのリーダー同士が、コミュニケーションが取れていないから、複眼的な見方が出来ていない。
中盤と前線、の間にスペースが出来てしまうのはなぜかという点についてみんなが認識していない。
守備の局面攻撃の局面で、一歩下がった、視点からの指示も出されていないから、というより、全員守備でも全員のコミュニケーションが取れていないことが、失点につながるのである。
得点に繋ぐことが出来無いのはなぜかも同じである。
全員攻撃だとして、可能性が高い場面になれば、撃っていいのに撃てていないのは、一歩引いた視点での指示が無いからである。
シュートを打つ人間が判断していると考えがちだが、実際は周囲の動きが連動しているのである。そのことはわかっていながら、判断を撃つ人間だけに任せてしまうのは、少しおかしいと思う。
全員攻撃守備の基礎には、全員のコミュニケーションを必要としている。
状況に合わせた判断を試合では求められるから、それをどうやって個人が生み出すのかということではなくて、チームがどうやって生み出すのかを考えないと個人を批難しても意味の無いことだと思う。
試合の途中から変化を付けていかないと、相手に読まれてしまうし、オランダ戦で、失点した場面でも、オランダが、明らかに戦術を変えてきたのは目に見えていたのに、同じことをやってしまったのである。
対日本では、前半を乗り切り、後半で分析したデータで、守備も攻撃もやればいいという様になっていくだろう。
前半の動きから、可能性が広がらない試合運びをしているから、負けてしまうと思う。
これはチーム全体の話である。
勘違いしてはならないのは、主張することは、コミュニケーションをとることを前提としている点である。
主張することはその主張にあわせるべきだと考える人もいるが、それは全く違っていて、両者の間に、共通する認識や判断が無い限り、あわせたところで意味も無い。
その辺を誤解して、主張する人間にボールをまわそうとするから、スピード感もなくなっていることを理解しないと駄目だと思う。

「政治主導」の入り口「消費者庁」

2009-09-04 09:14:05 | Weblog
消費者庁が、発足した。そのことについて書く。
この消費者庁こそ「政治主導」の今ある最大の問題である。
官僚主導から政治家主導に変わるべきだというのならば、早急に、消費者庁の中身を変えていってもらいたい。
これは自民党の福田前総理が、提起して麻生総理が、約束していたのに放置していた問題だった。
今未だ、システム的にそろわない状況であり、先の国会での審議も基礎にあるのだから、「民意」が民主党を推したのだから、変えること自体問題が無いだろう。
消費者庁を入り口として、どんどん政治家主導で、官庁の再編をやってもらいたい。
新聞やテレビマスコミが、外交安保だと騒ぐのは、この消費者庁に注目を集めさせない為だと思う。
国民新党社民党も政治家主導、国民主導の政治を目指している以上、この消費者庁の再修正を通じて、政党の理念を政策に反映させるべきであろう。
そのことの基礎の上に、外交安保政策を築くべきだろう。
国民主導の政治という抽象的なものから、具体的なものとしての消費者庁へと形になったものを通して、すぐにでも動いていくべきだろう。
何から手をつけるべきかということも議論すべきだろうが、具体的な転換への入り口が出来ている以上、そのものをうまく育てていってほしい。
一見消費者庁という、国民をある視点から見ていないような響きを持つと国民も持つとは思うが、これをそのまま放置すると、入り口をふさぐことになると思う。
官僚出身者がトップに着いたことばかりでなく、未だ組織として整っていないのだから、すぐにでも民主党案を通してもらいたい。
社民党も、平和憲法が党是だとしても、国民生活に直結する重要な問題こそすぐにでもやってほしい。
これは官僚の暴走を防ぐ為にも重要なことだろう。
戦前の軍部の暴走を教訓としたいならば、現実的に軍部でなく、官僚でなく、国民の視線で政策をやれるチャンスだから、やってほしい。
国民は政権交代という意思を示していることは、つまりは、視線を変えよということだろう。
その入り口の象徴をすぐにでも整備していくのが、期待にこたえることだろう。
勿論国民は、政権枠組みばかりや、高速道路問題に関心が高いのだろうが、それを実行に移す為にも消費者庁の中身を変えてほしい。
浮き足立つことなく、国会審議や議論の上に立って、政策を遂行すべきであって、人事先行のマスコミに振り回されるべきでは無いと思う。

民主連立政権に期待すること「手法革命」

2009-09-03 09:12:14 | Weblog
民主連立政権に期待することの続きを書く。
一番大事なことは、「情報公開」である。
政治というのは判断の連続であると思うのだが、今までの国会の論戦を聞くと
非常にデータが少ないにもかかわらず、つまりは、判断の基礎になる部分が非常に少ないにもかかわらず、自民党が採決し、それに予算がつき、強制力があり、正当性があるということを繰り返してきた。
判断の基礎が少ないものを繰り返すと、建築で言うところの「耐震性」が少なくなる。
耐震性が少なくなると、地震に弱くなる。
つまりその地震に耐えていくとすれば、継ぎ足しばかりをやることになる。
費用ばかりかさんで、無駄が多くなるのは当たり前の話である。
リフォームに必要なのは、床下をめくって、化粧材を剥がしてみる事である。
そこをしっかりやらないと、何が問題なのかわからなくなる。
国民ももうリフォームが必要だと思っているのだから、しっかりやってほしい。
そこに住む家の人は、誰かの責任を追及すると思われがちだが、実際には、国民にとって住みやすい家を作る必要があるのだから、結果として前任者が批難を受けるのは仕方が無いことである。
如何に自民党と違うかは、必要な情報はしっかりと取り、その上で、政策を遂行するということだろう。
政党の理念も必要なことだが、「手法革命」というべき政治のあり方を変えた上での「政党」でなければならないだろう。
その中での、政治家政党が政治的判断を繰り返していかなければ、政権交代した意味が無いだろう。
出来上がった家を評価して、意見を述べたり、することが使命だったのだから、今度は実際に、家を建て直していく使命も果たすべきだろう。
それぞれの政治家、グループ、政党が、そういう仕組みの中での民主主義の政治をしっかり確立させる為にも4年間連立政権を続けてほしいのである。
また継ぎ接ぎだらけの自民党の政治のやり方を、続けるなら、本当に日本が沈むだろう。
政治家や政党が、床下や壁の化粧材をはいで、それを見て、どう直していくのかということをしっかり国民から託されたのだということを認識してほしい。
その上で、しっかり官僚とともに、基礎を築いて、政治的判断行動で、日本という船の舵を取ってほしい。
自分の理念も政党の理念、埋没の恐れなどいろいろあるとは思うが、国民の負託を最優先しないと、それは政治家政党として失格ではないかと思う。