尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

俺は根性のある人間だ

2016-01-08 06:00:00 | 

 前回(十二月二十五日)では、進路を決める時期にあった少年たちにとって「制度としての予科練」がどのような存在であったのかを佐藤忠男さんの体験的な論文「私の実感としての〝予科練〟」を読んで調べてみました。入隊後の体験は彼らの生き方にどのような影響を与えたのでしょうか。同論文にはだいたいこう書かれています。まず新しく入隊してくる予科練生を直接に教育するのは下士官であった。この下士官による「軍人精神注入棒」と呼ばれる棍棒で尻を殴られる私的制裁(リンチ)は日常茶飯事として行なわれていたことはよく知られている。しかしこの種の制裁は法規では禁止されていたゆえに将校のいる前ではおおっぴらに行なわれることは少なかった。リンチが必要な場面になると将校たちもそれと察して引っ込んでいたからだ。そこは下士官の特権領域だった。なぜ法規では禁止されている行為を将校たちは黙認できたのだろうか。それは下士官の協力なしに新兵たちの管理統制は不可能だったからだ。特に予備学生あがりの新任少尉にとっては号令一つとっても下士官の助言なしには進まなかった。

 私は、リンチ行為が起きるのはこの「下士官の特権」が暗黙に承認されていたことが根本原因だと思います。「根本原因」だというのはそれが組織的な裏付けをもっているからですが、そもそも組織においては上に立つものが目下の管轄下の問題には口出ししないという組織原則は一般的だと考えます。そうでなければ組織は外部問題に柔軟に対処することができないという合理性があるからです。その意味では下士官のリンチは表沙汰にならない限りどこでも起り得ると考えます。しかしこの下士官の特権は明らかに上官が下士官に弱みを握られているという特殊性が存在しています。これでは指揮系統でさえ恣意的解釈を許すことになります。指揮系統における恣意的解釈が横行すれば組織は自然にアノミー(無規範状態)化します。いわば組織は内部から崩れていく。これは私がいう「崩れ」に当ります。言わば「自壊」イメージにピッタリなのです。

 これと比べ、佐藤さんのいう「私的制裁」は私の解釈とは強調箇所が異なります。佐藤さんは自ら進んで結集する高校や大学の運動部や応援団、またやくざの世界に共通した傾向だと指摘する一方、昔からある徒弟奉公の先輩後輩の関係、姑の嫁いびりも広い意味では「私的制裁」の傾向が認められるとしています。まとめると佐藤さんは「先輩が後輩を順送りにいじめて、それを〝鍛錬〟と称する。これは日本の社会の原則のひとつだった」ということになります。そしてこれは一般社会ではやや病的なこととして反省されつつあった習慣だったことを付け加えます。ここが重要なところですが、この一般的には「やや病的なこと」として見なされた事柄も「軍隊では強い兵隊をつくるうえの必要欠くべからずことと考えられて、なんの後ろめたさも隠微さもなしに、盛大に行なわれていたに過ぎない」と指摘していることです。つまり人間集団が異なれば何が正しいのかが変わる、こういっているわけです。この指摘を踏まえれば、佐藤さんが「リンチを受けて、それでわれわれが、下士官たちや、ひいては軍隊そのものに憎悪なり反発なりの感情を燃やしたかというと、必ずしもそうではないから、あとで思うと不思議である。」というその不思議さの理由が分かってきます。軍隊では個人の体験においても一般社会とは受けとめようが変わってくるのです。どう受けとめたのか。

 しかし予科練は、殴られれば殴られるほど、それに耐えた俺は強いのだ、どんなに痛めつけられても俺は絶対にネをあげなかったのだぞ、という自負心を強める方が多かったのではないか。/人間は誰でも、自分の経験したことをなんらかのかたちで誇りにしたいものだ。殴られたことでさえも、どんなに堂々と殴られてやったか、と考えれば誇りになる。俺は根性のある人間だ、という誇りである。そしてこの誇りは、たとえば特攻隊への志願を求められたとき、一瞬でもためらうことを恥とする感覚となって、彼らをよりいっそう、死に急がせる力として作用する結果になったのではあるまいか。俺は根性のある人間だと思い込んでいる者は、臆病と思われはしないだろうかという、おそれに対して人一倍臆病になってしまう。(佐藤忠男「私の実感としての〝予科練〟」『別冊一億人の昭和史』に所収)

  日常的な暴力と時に凄惨なリンチがくり返された予科練生活に対して憎悪や反発を懐いて戦後を送るのではなく、自分の「誇り」として受けとめてしまう心性が説得的に語られています。それゆえに特攻隊志願を促していったという。このような指摘は私には初めてのものです。佐藤さんはこの逆立ちした感情の受けとめの根っこには、日本の軍隊組織と一般社会との人間集団の作られ方の違いがあることを示唆しています。もっといえば、前者には「公然たる偽善」がまかり通っていたことです。私なりの受けとめ方を言いますと。軍隊が組織内部から崩れてゆくときに生じる、実際に戦いの矢面に立つ兵士たちによる反動あるいは立て直しでなかったかと考えてみたいところです。


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