尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

加藤周一「大学生になるために(4)外国語」 不必要なら覚えぬ

2016-05-07 10:56:19 | 

 今回は、評論家・加藤周一「大学生になるために(4)外国語」(朝日新聞 昭和五十二年六月十六日)を紹介します。私が、英語教育「欠陥改善」派と呼ぶ論客では五人目になります。なにが英語教育における欠陥か。これは冒頭に書かれています。その改善策は以下に簡潔に書かれていますが、私が虚を衝かれたように感じたのは、冒頭からつづく以下のような議論です。

 日本人の圧倒的多数が学校で六年(しばしば八年)の英語教育をうけ、そのために教師も生徒も大変な努力をしている、ということが一方にある。他方、大多数の日本人がほとんど英語で話すこともできず、本を読むことも不可能にちかい、ということがある。そこで当然、それほどの努力につり合った結果が得られていないのは、なぜだろうか、という疑問が生じる。

不必要なら覚えぬ 私の意見では、このおどろくべき不経済の最大の理由は、おそらく大多数の日本人が、その生活に、英語を必要としていないということのほかにはない。それにもかかわらず事実上ほとんどすべての日本人が英語教育を義務づけられている。みずから必要を感じていない外国語を覚えることは、だれにとってもむずかしいだろう。

 一般に一国民が母語以外の言葉をどうしても必要とするのは、次のような四つの場合である。外部からの強制(植民地)、小さい人口(たとえばオランダ)、多数の国語の併存(スイスやインド)、自国語による情報の不足(第三地域)。このような条件があっても、大衆は必ずしも母語以外の言葉を話すとは限らないが、知識層の大部分は話す。このような条件がなければ(たとえば英米仏)、外国語の必要は小さく、したがって知識層のなかでさえも外国語を話す人は少ない。日本にはあきらかにこの四つの条件のどれ一つも備わっていない。この国は独立し、人口は一億を超え、日本語は全国に通じ、国外の事情についてさえも日本語で得られる情報(紹介・翻訳)は、大へん多い。

 もちろん少数の日本人は外国語を必要とする。国外で暮らすか、国内でも外国人との接触の機会の多い人々、また学問・技術の研究者、外国語教師、そのほかの専門家など。その数はおそらく何十万の程度であろう。また現在はそうでなくても将来そういう立場におかれるかもしれない人口が、その十倍として、およそ数百万人の程度である。併せて総人口の何十分の一かにすぎない。どれほど多く見積もっても、将来外国語の知識を必要とするかもしれない日本人は、十人に一人はいない。かくして外国語教育の非能率と不経済をあらためる基本的な条件は、残りの九人に英語を強制しないことのほかにはないのである。(『英語教育論争史』九八六頁)

 私が虚を衝かれたように感じたのは、「不必要なら覚えぬ」という指摘です。たしかに英語教育の必要性が暗黙の前提になっているうちは、だれもが自明性として受けとめるでしょう。だがそうではなく、実際に英語学習を必要とするのが国民の一部ということになれば、正当性を失います。全部に強制することは意味がないということになるわけです。こうなると英語が近代学校の教育内容として必須だという思い込みは、破綻せざるをえないわけですが、現実はそうはなっていません。現在でも、たとえば世の中では普通に小学校の「英語」教育と呼ばれて通用しています。しかし文科省の学習指導要領では、英語は外国語活動の一つの選択肢として位置づけられており、ほかの外国語を選択することを否定しているわけではありません。でも、英語以外の教員が配置できないなどの理由によって、実質は「英語」活動の実施になっているわけです。

 このような共同幻想=自明性の成立は明治時代に遡るはずですから、その条件整備や構造化の歴史は古く、永く国民への刷り込みも年期が入っているということになります。したがって、原則どのような外国語を選択してもよいといっても、世界における国際関係を考慮すれば他外国語への変更は不可能に近い。とすれば、著者が、国民が外国語を必要とする「四つ条件」を挙げて日本はそのどれにも当てはまらないこと、つまり日本国民の大部分が英語を必要としないことが明らかである以上、誰にでも英語を学ばせるという強制はやめなければならない、またそのような英語至上主義を支えてきた「受験科目」から、英語をはずすべきだという主張は、まっとうな議論だと思われます。ですが、この議論が英語教育の実際に着陸するには、なにかが不足している、そう思われます。


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