尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

八右衛門が語りかけてくる時代の変化

2017-03-16 07:51:04 | 

 前回(3/9)は、天明三年(一七八三)の浅間山大噴火に続いて前橋領分で起った打ちこわしの模様が記録されている『勧農教訓録』の一部を紹介しました。そこには、ふだん強欲な稼ぎをやって恨まれていた「金持ち」の存在が見えてきました。つまり民衆に恨まれるような金持ちは何代も続くことはなかった、と一応は言うことができると思われます。下の引用にあるように東善養寺村付近にも、打ちこわしにあった商人・商人的農民は少なくないように感じられます。さて、八右衛門はもう一つ忘れられない人物について記しています。今回はそれを紹介します。

 

≪この日と翌晩にかけて打ちこわしをうけた者として、前橋牢の八右衛門は、力丸村の羽鳥、駒形宿の近江屋、前橋中川町の大津屋、片貝町の稲荷屋、桑木町の萬屋、そのほか諏訪町・石倉町の商人があったことを記憶しているが、つぎのことも忘れられない。

 東善養寺村から一里ほど西へ隔たった龍門村に中村勇右衛門という者がいたが、この男が前橋の役所へ出向き、今度の騒動は私に命じてくだされば取り鎮める、と願いでた。前橋役所がこの願いをゆるすと勇右衛門は、あちこちの村々から打ちこわしを鎮圧するための人足をかり集めてきて自分がその大将になった。勇右衛門は、東善養寺村へやってきて、広瀬川の土橋のところを固めた。その効果があらわれた、というよりも、悪業に対して制裁を加えるという打ちこわし目的がひとまず遂げられたからだと思うのだが、その夜から打ちこわしが止んだ。

 騒動が終ると、前橋役所の詮議がはじまる。八右衛門の記憶では「召捕〔ら〕れし者十八人」(巻之三)だが、実際はこのときの打ちこわしではそれよりも多くの者が捕えられている(『前橋市史』第三巻)。おかしなことに、取り鎮めの役割をはたした龍門村の勇右衛門も、打ちこわしの頭取の疑いをかけられ捕えられている。領主から診れば、要するに徒党をくんで騒ぎをおこした一人、ということだったのだろう。勇右衛門が捕えられたのは十月十七日  だが、『前橋市史』をみると、この日捕えられた「作人(百姓)」、「果物商・作人」「馬方・作人」「大工」「仕立職人」「浪人」などのなかで、勇右衛門は「帯刀人」という珍しい肩書きをつけられている。百姓以外の渡世の者がみられるのは、打ちこわしが前橋という町方や街道筋でもおこなわれたからである。 

 「帯刀人」とはヤクザ(博徒)のことでしょうか。一揆や打ちこわしに彼らがからんでくる事例がありますから、また周辺の村から藩政権力と結びつこうとする人間が現れる意味はどこにあるのでしょうか。いずれもっと詳しく調べてみたいと思います。もう一つ気づくのは打ちこわし勢に参加する人間の多様さです。これは都市騒擾だから当り前とはいえますが、多様さは大集団結集の有利な条件の一つです。やがてこれが大勢力への媒介集団となって「世直し」を標榜することになるのではないかと思います。都市騒擾のおける多様な人間の結集。そして時代の特色。

  捕えられた者は、取り調べのうえ「公儀へ差出し」になった。このような場合の公儀(幕府)と藩の関係についてはまだわかっていない点も多いが、天明三年の打ちこわしのさいには老中・大目付・江戸町奉行などが出動しており、前橋領でも、前橋役所のほかに江戸町奉行曲淵甲斐守が直接に指揮して二〇名以上を捕えている。また、藩主松平大和守は十月十三日に公儀へ実弾鉄砲の使用許可を願い出ており、十月二十七日には鎮静の旨を公儀へ報告している(『前橋市史』第三巻)。

 江戸へ送られた者は吟味中に牢死する者が多かったが、申渡されたのは所払いの刑である。この所払いは、居村か前橋領分からの追放処分だったらしい。東善養寺村でも、吉右衛門の忰の藤吉が所払いになった。ところが、『勧農教訓録』には、「所払ひなれ共、一生村方に住居せり」(巻之三)とあって、藤吉が居村に立戻り死ぬまでそこに暮したことがわかる。所払いの刑も、貫徹できない場合があったのである。この理由としては、幕藩制がすでに構造的な動揺の時期に入って、刑罰の実現も不徹底になる面があらわれてきたということがまず考えられよう。だがより具体的な条件として、川越藩前橋分領のような、郡奉行が最高役職として統治にあたるという陣屋支配の固有の弱さがあげられる。また、藤吉の打ちこわし参加を、東東善寺村の百姓が憎んでいなかったという理由も考えられるだろう。もっとも藤吉は、もとの家屋敷にそのまま居住したのではなく、それを売りにだしている。吟味中の費用が多額にのぼったというから、親の吉右衛門が、借金の返済と周囲への憚りのために家族をひきつれて家屋敷を立ちのいた、ということであろう。或は、この立ちのきについては、あらかじめ村の側から前橋役所への訴願がおこなわれ、そうすることで所払いの最低限の体裁をととのえ、東善養寺村のなかに住むことは黙認するという了解が得られていたのかもしれない。こうして売りに出された藤吉の家を買いとったのが、「質商売」の林本家であった。≫(以上は、深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 二〇~三頁)

 

 所払いになった東善養寺村・吉右衛門の忰・藤吉は、表向きは「所払い」だったがずっと東善養寺村に住み続けたことから、著者は一八世紀末における幕藩制の構造的動揺がもたらす「刑罰の不徹底」を見て取っています。また「郡奉行が最高役職として統治にあたるという陣屋支配の固有の弱さ」を挙げていますが、「陣屋支配の固有の弱さ」とは、役人(スタッフ)の不足を意味するのか、郡奉行の器量をいっているのか、それとも違う理由があるのか。

 このような陣屋支配下の百姓たちは、その支配の弱さを見透かしたかのように、裁判費用も掛かり判決は「所払い」になったのだから家を処分しますよ。その家を引き取ってくれる質屋さんがいましたから助かりました。──などと、頭を下げている表の姿の背後に、藤吉が相変らず居村の別の家で暮らすことを援助する村民のネットワークがチラついてきます。

 蛇足ですが、「天明三年の打ちこわしのさいには老中・大目付・江戸町奉行などが出動」し、「前橋領でも、前橋役所のほかに江戸町奉行曲淵甲斐守が直接に指揮して二〇名以上を捕えている」とあります。この天明三年(一七八三)に出動してきた江戸町奉行曲淵(まがりふち)甲斐守には覚えがあります。もしかしたら、二〇年ほど前の宝暦十四年(一七六四)大坂で発生した朝鮮通信使中官・崔天宗の殺害事件取り調べのため出張してきた、当時御目付・曲淵勝次郎かもしれません。だとすれば、月曜日に綴ってきた崔天宗殺害事件の学びと重なってきます。過去の時代を多様な方面から調べてみることの面白さ、歴史が横に繋がる面白さを実感します。入門期研究のヒントになります。──長くなりましたが、今回八右衛門の記述は十八世紀後半~十九世紀の変化を語りかけていることが分かりました。


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