尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

幕閣の時代状況に対する認識の甘さ

2017-01-12 13:21:50 | 

 前回(1/5)は、天保八年(一八三七)の「大塩平八郎の乱」(以下「大塩の乱」と書く)が全国に波及していく契機を抽出してみました。今後、一揆・打ちこわしの波及現象を見てゆく際の手がかりにしたいところです。さて青木美智男氏によれば、「大塩の乱」が領主階級にいかに大きな危機感を与えたのか、それは乱の翌天保九年に諸藩の多くが藩政改革に着手したことから分かると述べています。その直接のキッカケが「大塩の乱」でした。また幕末に倒幕の中心になる長州藩では天保二年(一八三一)に「防長大一揆」が起きましたが、これを受けて始まった藩政改革が政治日程にのぼった契機が「大塩の乱」だったとも書いています。長州藩の改革は、結果から言えば大坂市場に諸商品が流入することを妨げ、諸物価引き上げを招きました。幕府が「株仲間禁止令」や「諸職値段引下げ令」を出さざるを得なくする一因となるような「富国の術」だったことが指摘されています(『百姓一揆の時代』校倉書房 一九九九)。

 では、「大塩の乱」やそれにいたる迄の天保前期の一揆・打ちこわしの影響は、こんどは幕府に対してはどうだったのでしょうか。同じく青木氏は「(幕府に)多大な危機感を抱かせた」と書いています。というのは、こんな状況下で、第十一代将軍家斉から十二代の家慶(いえよし:天保の改革を断行)にバトンタッチする「大礼」の計画が起きます。これが水戸藩主徳川斉昭の猛反対にもかかわらず幕閣によって強行されたのです。「大礼」によって幕府の権威を誇示しようとしたのです。「大礼」というお祝いは江戸への米穀集中をまねき、大坂やその周辺の人々の暮しを犠牲にしために「大塩の乱」が発生したこと、また窮乏しきっている諸藩に多大な出費を強いることは明らかです。幕閣の時代状況に対する認識の甘さが露呈しています。こうなると貧窮の中を生きている民衆が黙っているわけもありません。一揆・打ちこわしの狼煙は幕閣が思ってもみなかった所から現われました。今回はここを見ていきます。(引用は読みやすさを考慮し、送り仮名やふり仮名および句読点で補っています)

 

≪幕府はまもなく、将軍代替わりにこれまでしばしば実施してきた諸国巡見使と御料所(幕府直轄地)巡見使の派遣を決定する。それは、全国各地の幕藩領内の人民諸階層の実態を把握しようとすることを目的としたが、大舘右喜の研究によれば、天保巡見使は、旧例の巡見行路のほか、在方市場地帯、在方宿場地帯、商品生産地帯などを精力的に監察し、変貌を遂げつつあった地方の状況を把握し、幕政に反映させようとする試みがなされたという。そうだとすれば、これらの地帯こそまさに飢饉期に二重の圧迫のためにもっとも矛盾を激化させたところでもあった。

巡見使に対しては、どのような訴願でももともと、「少しも差し控えず、訴状を以て右面々へ申し出で候様に是又申し付けらる事」また、「近年御代官所より諸事手代等に打ち任せ、不吟味の面々もこれあり。検見の次第は川除(堤防など)其外地方に付け候普請、或は公事沙汰(訴訟など事件)の事を始め、猥り成る儀(筋道のたたないこと)共これある由相聞え候に付き、巡見差遣わされ候。百姓等差押え、訴訟申し出でず候様申し付け候わば、後日相聞え候とも急度(キット)曲事ニ仰せ付けるべく候条」(『御触書寬保集成』 正徳六年二月)と、代官支配下の諸村民が訴願を要求した場合、それを押えず巡見使のもとに申し出せることになっていた。

実際、天保九年四月、肥前唐津藩預所(幕府から管理を委任された直轄地)の村々には、さらに「御代替に付き巡見いたし候に付き、小前百姓願いの筋これあるに付け遠慮なく願い出で申すべし。此節の義は如何様の義願い上げ候共、聊(イササ)かもお咎(トガ)め等これなく、百姓相集り候にて願い筋いたし候共徒取(党か)抔(ナド)の義、取り遊ばさず(とりあげないことはない)候」(長野暹「天保九年肥前上松浦幕領における農民闘争」)と百姓側が受け取れるほどきわめて柔軟なもので、しかも伊万里大庄屋らが、巡見使御用ということで出頭したところ、「庄屋・名頭へハ御用これなき由にて百姓計り残り居り候処、御上使より被相達せらられ候義は、当節何事によらず相願い候義これあり候わば、早速願い出で候様申し達(せよ)」(同)と巡見使への直訴を認めるほどの寛容な言明がなされたのであった。これは、じかに「巳年のけかち」以来の人民の動向を把握するだけでなく、直接、百姓支配にあたる郡(コオリ)方の役人や村役人などの「不法な捌き方等」を即座に「御沙汰に御座候」という対応を人民の前で示すことによって、仁政深き幕府の権威の健全さを人民諸階層に認識させ人心を掌握しようとするものであった、といってよいであろう。

だから、逆に巡見先の各藩や天領代官からは恐れられた。通過の日には、「其日ハ犬一疋も無き様に、鶏の声もせぬ様に、在方より御礼に出る事叶わず町方の子供も在方にやり、なきごえのせぬ様に裏戸せき廻し、店しとみ上戸計り明けて、ただひっそくの有様にして」(『野田家日記』)と領内を異常なまでの平穏さに保とうと配慮させたが、現実はそうならなかった。各地の百姓のなかから、この絶好の機会をとらえて、飢饉時に極端に矛盾が深まっていた問題や、そのような矛盾を生み出した元凶の村役人、郡方役人の不正などを訴え、村政再建のための年貢減免、助郷負担軽減などを要求して、一挙に政策の転換を求めようとするたたかいを組織する動きがあらわれた。しかも、巡見使到着前や到着後の郡方役人らによる不正隠蔽の画策と人民の圧力を恐れた巡見使の変身によって、逆に矛盾をいっそう激化させてしまった地域が出現し、大胆な巡見使追及一揆へ発展するにいたったところが生れたのである。≫(青木美智男「天保一揆論」/『百姓一揆の時代』校倉書房 一九九九 二六二~四頁)

 

 社会の底辺がどんなひどい状況になっているか分からぬ為政者が、いかにも上から目線で改革しようとしても、そのキレイゴト(嘘)はすぐに見破られてしまいます。これはいつの時代でも変らないようです。どこかに社会の特殊利害が忍びこんでしまうからでしょう。嘘を見破った人々の中から政策転換を求める闘いの組織化が始まります。次回に。


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