尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

庄司和晃のコトワザ研究の見取り図

2017-08-14 07:55:27 | 

 今週の曜日ごとのブログはお休みします。休んで二年前に亡くなった庄司和晃先生(以下では敬称略します)のコトワザ研究について、続けて五回ほどの予定で綴ってみたいと思います。果たしてこれだけで全部論じ切れるかと言えばたぶん無理ですので、今の時代に「コレだけは」と判断する論点に限って書いていきます。第一回の今日は、私なりの、庄司和晃のコトワザ研究の「全体的見取り図」を描いてみたいと思います。これによってその独自な位置が見て取れると思います。

 庄司のコトワザ研究は、教育実験研究として断続的に晩年まで継続されるのですが、一応の完成の折り目を「コトワザ概論」の成立に求めておきたいと考えます。作品としては、『コトワザ学と柳田学─大衆の論理と民間教育法』(成城学園初等学校出版部 一九七三)の第一章「コトワザ学概論」に該当します。ここに研究のエッセンスは尽くされると判断するからです。この「概論」は高校生を念頭において入念に執筆されたものですが、同年小学生向けに改稿され『うそから出たまこと』(国土社)となって刊行されます。

 次に庄司のコトワザ研究の始まりをどこに求めるかですが、最初のまとまった成果である『コトワザの論理と認識理論─言語教育と科学教育の基礎構築』(成城 一九七〇)がこの研究の始まりを教えてくれます。「はしがき」にはこう書かれています。

1963年に科学教育としての「仮説実験授業」を成立させるための研究と実践にとりくみはじめてから三年後の1965年に、三浦つとむ氏の先導によって、コトワザの論理学的な研究に着手しました。柳田学の成果を踏まえつつ、それを論理的に見返す形でおこなったわけです。その後、今日に到るまで仮説実験授業と並行してその研究を進めてきたのですが、中心のテーマは「認識理論の創造」で、科学以前の論理(教育)と科学の論理(教育)との統一的な把握を志向したのでした。/この研究の途上において、過渡的な段階の論理と認識のノボリオリとを重視する三段階連関理論を発見し、構築し、今度はこの理論を諸々の研究に適用していきました。その結果としてまとまったをもののひとつが、先に出版した『仮説実験授業の論理構造』です。このたびのこの本では、三段階連関理論をどのようなプロセスのもとに発見するに到ったのかの因縁を出発点に遡って述べるとともに、この理論の特質の全貌を前著の積極面を生かしつつ集成的に展開してみました。したがって、『仮説実験授業の論理構造』とこの本とは、認識理論の創造という点において姉妹編をなすわけです。(以下略)

 庄司のコトワザ研究は一九六五年に哲学・言語学者の三浦つとむとの出会いによるものだと記されています。それは、それまでの庄司のコトワザ観を大きく更新するもので 、引用では「コトワザの論理学的な研究」と呼んでいます。ここに私は庄司のコトワザ研究の出発点を見ます。三浦つとむとの出会い庄司のコトワザ認識にどのような変化をもたらしたのか、ここに庄司のコトワザ研究の「原初のかたち」を見ることができますが、これは次回(明日)にやや詳しく書きます。さて引用にはこの三浦との出会いによる「認識の変化」がどのような展開を辿ったのか、五年後(一九七〇)の時点で整理されてたことが書かれています。ここで私のいう「認識の変化」とは簡単に言ってしまうと、人々の問題解決法として使われてきたコトワザを論理(物事の筋道のこと)として捉え直すことです。一言でコトワザ「論理」説と呼んでおきます。「はしがき」に書かれた経過は少々ややこしいので、私なりの受け止めを書いていきます。

 「コトワザは論理だ」と分かってから本格的にコトワザ研究をスタートさせた庄司は、前々から構想していた独自の「言語教育」を実践していきます。ここでコトワザは多様な言葉群の一つとして扱われていきます。このあたりも後で取り上げたいと考えていますが、まず一九六五年の研究の出発は、自分の教室での独自の「言語教育」プランの教育実験にあったことを押さえて置きたいと思います。

 三浦との出会いに戻ると、庄司はこの後コトワザの論理について認識を深め 、とうとう自前の認識論を創ることを決意します。そして矢継ぎ早にレポートを書きながら認識の「三段階連関理論」を発見するのです。これは、人間の認識が経験ー表象ー概念という三つの段階をのぼったり、おりたり、横ばいしながら発展していくものだという理論です。

 庄司は返す刀で、この理論を仮説実験授業における子供たちの学習活動に適用し分析しました。その成果が一九六八年の『仮説実験授業の論理構造』(仮説実験授業研究会)だったのです。これは庄司がコトワザ研究を開始して三年後の出来事でした。このようにコトワザ研究と並行しながらこれと密接な関係を持つようになった流れを、コトワザを「科学と比べる」研究史と呼んでおきましょう。ここでいう「科学」は、コトワザとは異なる段階という含みがあります。つまり庄司のコトワザ研究は、スタート時にコトワザの前科学的段階を合点させるために比較に供された高度な段階の代表であったこと、先に述べた三段階連関理論を適用して仮説実験授業における子供たちの思考運動を解明したことを根拠にした命名です。

 庄司のコトワザ研究には、もう一つこれと密接な関係を持つ流れがあります。コトワザを「柳田国男と考える」研究史と呼んでおきます。それは「はしがき」にあるように「柳田学の成果を踏まえつつ、それを論理的に見返す形でおこなった」という研究の流れです。ここはだいぶ補っておく必要があります。戦後まもなくのことでした。成城学園初等学校に赴任した庄司は新しい教科「社会科」(「柳田社会科」)の内容(単元)作りに参加し、当の柳田国男と出会います。これ以降、庄司は柳田学の摂取に勤めてくのですが、柳田には子供向けにコトワザ「武器」説を書いていました。

 一九六五年に三浦つとむに出会って「コトワザは論理だ」と分かってしまった庄司は、この柳田の議論を捉え直す必要があったと思われます。柳田はコトワザを前代民間教育の中で位置付け、その効果を論じていましたので、庄司は、必然「柳田国男と教育」について全面的に見直し(学び直し)をする必要に迫られたのではないかと思われます。やがてコトワザ研究の渦中にあった一九六八年にはついに、「柳田国男と教育」研究会を立ち上げ、やがて四年後にはその成果を『柳田学と教育』(成城 一九七二)にまとめます。さらにその教育実験の成果を『柳田国男の教育的研究─その児童観と教育観・実践的構想』(成城 一九七五)としてまとめます。

 以上のように、今回は、庄司のコトワザ研究が二つの研究史と密接に刺激し合い、見直し合いながら自らの実質的内容を創り出した研究だっと概括することができます。もう少し言い足せば、新たな視点によって、過去の研究を廃棄することなく見直し、新たに自らの体内に組み込んだ優れた研究であったことを大雑把に見てきました(実はコトワザ研究の前史である児童言語研究については触れていない)。次回以降では、コトワザ研究のまとまった最初の成果であった『コトワザの論理と認識の理論』(成城 一九七〇)と、完成作と思われる「コトワザ概論」とその根拠づけを収録した『コトワザ学と柳田学』から論点を選んでやや詳しく見ていきます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿