尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「かっこよさ」というリアルな動機

2016-10-21 13:34:30 | 

 前回(10/14)は「少年兵へ憧れ 三つの動機」と題して、昭和十六年に十六歳で海軍少年兵に志願した作家・渡辺清の回想における、三つの動機を紹介しました。再録してみれば、──①兵隊になれればえらくなれるという出世意識、②臣民として天皇に尽せるという忠誠意識、③靖国神社に祀られるという価値意識、というものでした。しかし、もう少し年少の少年たちにありえる動機と比べてみると、やはり十六歳(大正十四=一九二五年生まれ)というのは大人っぽい。もっとも、個人差もあることを考慮すると、少年兵への動機を昭和一ケタ世代に絞るにせよ、これは線ではなく「幅」でみていく必要があります。その動機の一方の極を想定すると、年少の極に「服装性・感覚性」という動機を、他方の年長の極に渡辺清のいうような「三つの動機」が位置付くのではないかと考えてみたい。そうすると、理屈は動機の本体というより後付けされた動機、むしろ「服装性・感覚性」のほうが根柢にあるのではないかと思えるのです。そのことに気付かせてくれたのが、今回紹介する一節です。出典は前回同様、安田武「〝体制〟に殉じた血──少年兵たちの時代背景」です。

 

≪昭和三十八年十一月二十九日付けの「西日本新聞」に、「雑兵物語り」と題する一文が載っていた。筆者は、宇部在住の作家で、上田芳江という人である。

幕末から明治初年、国内の各地で戦われたいわゆる「維新戦争」の生き残りから、その回顧談を集め、大将六年になって刊行された実践記録を、この筆者は読んだという。「語り手は、当時民兵団に入隊していた十七、八歳の少年雑兵ばかり」で、幕末の毛利藩には、百姓、町人、僧侶、神官といった雑兵混成部隊が百五十以上を数え、なかで名の高かったのが、高杉晋作率いるところのかの奇兵隊であった。「入隊希望者は身分を問わない。入隊すれば武士の資格を与えられる」というものだったそうだ。

「浩武隊」を志願した一人は、入隊の動機を回顧して、こう語ったという。

「なによりもまず隊員の服装に心ひかれた。陣羽織の型をした制服。白無地に尊王攘夷、赤心報国、南無妙法蓮華経など書きこんだ文字が勇壮に見える。それに打ちこんだ腰のものは朱鞘の長もの。元結をつかわない髪の結び方も気に入った。髷の形だけをこしらえてヒモで無造作に結んでいる。髷にならない髪を茶筅にしているのは何か失策をしでかして切腹をまぬがれた連中である。あばれん坊の札付きなのだ。ああいう連中の仲間にはいって大いにいばってみたい」

 筆者は、昭和十五年の戦争と「百年をへだてて、一見異質に見える二つの雑兵の群」のあまりにも単純な動機の相似におどろき、ともどもに戦乱変動の時代の哀れで、けなげな犠牲者でなかったか、という。

 百年前、「陣羽織り」に「朱鞘の長もの」をぶち込んだ姿にあこがれて、雑兵志願をした少年たちとおなじように、「セーラー服」や「折襟」の軍服や「七つボタン」の制服や、そして、「戦闘帽に純白の絹のマフラー」という特攻隊の〝服装に心ひかれ〟て、たくさんの少年たちが、欣然勇躍、死地に赴いていった。いや、彼らの動機は、その深層では、決して、そんな単純なものではなかったかも知れない。

 いずれにせよ、誰が、彼らの心を、そこまで追いつめていったのだろうか。≫(『別冊1億人の昭和史 陸軍少年兵』毎日新聞社 一九八一 二五六頁)

 

 安田武の言う「彼らの動機は、その深層では、決して、そんな単純なものではなかったかも知れない」のではなく、私はこちらの方がリアルな動機だったのだと考えたわけです。その根拠のひとつは、父に関する思い出です。戦後昭和三十五年に若くして永眠した私の父(昭和二年生まれ、行年三十三歳)は、予科練帰りでした。彼は亡くなる数年前から、私が就学した頃から盛んに雑誌『丸』のグラビアを見せながら解説をしてくれたり、戦争映画があると必ず連れて行ってくれたりしました。子ども心に父の満足そうな顔を覚えていますから、彼は兵隊さんが好きだったのだと思います。また、以前に紹介した、自分を「海軍ばか」呼んで海軍好きを隠さなかった教育学者・庄司和晃(昭和四年生まれ)もまた予科練帰りでした。二人とも渡辺清のように自らの戦後を自己否定的に生きたのかどうかはわかりません。でも、服装に限らずなにか視覚的な憧れを根底に持っていたことは、確からしく思われるのです。


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