尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

フィクション化には豊富な事実が必要だ

2017-04-24 12:06:02 | 

 前回(4/17)は、池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書 一九九九)の第三章「唐人殺しの世界」を繙きました。近世民衆は朝鮮通信使中官・崔天宗殺害事件(宝暦十四=明和元年=一七六四)をどう受けとめたのか、まず大坂での記録・伝聞の一つである①「籠耳集」(草間直方)の叙述を読みました。そこでは「情報が広く公開されるような性質の分野に関してはほぼ正確な記述がなされ、非公開の分野に関しては正確さに欠ける記述になっている。後者に関しては、やはり憶測が交えられて」いたことを知りました。今風に言えば、事実と憶測が区別されていなかった、ということになります。さて、今回は大坂での記録・伝聞の、その他の文献における記述を読みます。②「あすならふ」「至享文記」「膽(胆)大小心録」の三つです。

 

≪「あすならふ」「至享文記」はともに大坂に関連した諸事象の年代記である。全体に簡略な年表風の「あすならふ」では、明和元年の項目の冒頭で「朝鮮人来聘、琉球人来朝、鈴木伝蔵唐人殺し」と記すに止まる。

 一方「至享文記」では次のように記載される。

一同(宝暦)十四年申正月廿日、朝鮮人来朝、同廿三日江戸出立、四月五日江戸より着、同七日夜、大通事鈴木伝蔵、三使之内壱人殺ス、鈴木伝蔵出奔せしを、諸国へ人相書を以て御詮議有之、池田村にて番人是取、五月二日成敗に行わるゝ、朝鮮人五月六日大坂出立して帰唐する也、

 右の記載のうち、鈴木伝蔵が崔天宗を殺害した日時・逃走し捕縛された地点・処刑された日時、これらについてはほぼ正確である。朝鮮通信使が大坂を出立するのは正確には五月八日だが、これは五月六日に出立予定であったものが天候のために延期になったからである。その意味では、この日時に関してもほぼ正確な記述がなされている。

 ただし、伝蔵の職位がやはりここでも「大通事」とされた上に、殺害された人物についても、その名が明らかにされず三使のうちの一人とされる。これらは、ある意味で「誇張」された記述といえよう。

 これらに対し、上田秋成「膽大小心録」は、細かな日時を欠くが、次のように記す。

鈴木伝蔵と云た対馬者が、何とやらいふた韓人を殺して大さわぎじゃあつた。興津能登守どのと云た町奉行が、きびしいぎんみで、何の苦もなう逃たをとらへさせて、責たほどにほどに、むごい事じゃあつたげな。鵜殿出雲守どのは理くつばつてばかり居て、芸は下手であつたさうな。是皆つしまの家老平田将監と云人の慾心から出来たさう動〔騒動〕じやとさ。伝蔵はぎんみすんで、尻なし川の韓人の船の前で、首打たれたとさ。引れて行時に、辻々にたんと見物があつたが、新町の西口でとやら、女等がたんと立ていて、「それそれ唐人ごろしが来た」といひて、駕の内を、美男じやあつた故に、「あれかいな、あれがなんのひところさうぞ。公儀といふものは、むごいものじや」といふたとさ。

 ここでは、殺された人物名が不詳であり、鈴木伝蔵の殺害動機・逃走経路などは記されない。その代わり、大坂町奉行興津能登守忠通・鵜殿出雲守長達の処置を批判的に記し、また事件の背後に対馬藩家老の存在を指摘するなど、政治批判の思いが込められているように見受けられる。それは「公儀といふものは、むごいものじや」という発言に示されていよう。

 また、鈴木伝蔵に対する吟味が厳しかった、というあたりは先ほどの「籠耳集」の記述「右伝蔵歯迄ぬきとり」という情景描写を思わせるものがある。当時大坂の巷間ではそうした話が流れていたのでもあろうか。≫(池内前掲書 八六~七頁)

 

 以上の記録・伝聞に関する著者の叙述に、前回読んだ「籠耳集」を加えて四つの記述を相互に比較すると、それぞれの相異に心づきます。「籠耳集」は<事実+少々の憶測>、年代記「あすならふ」は<簡略な事実>、同じく年代記の「至享文記」は<やや詳しい事実+誇張>、最後の「膽大小心録」は、<事実+あらたな事実+憶測+批評>といった相異を抽出することができます。この一連の崔天宗殺害事件に関する記録・伝聞の記述に共通しているのは、事実性とフィクション性だと把握すると、それぞれをその程度に応じて並べ換えられます。まず年代記「あすならふ」の<簡略な事実>、次に「至享文記」の<詳しい事実+誇張>、三つめに「籠耳集」の<事実+憶測>、最後に「膽大小心録」の<事実+あらたな事実+批評+憶測>というふうに四つの段階に整理できそうです。

 番号をつけてその四段階を改めて並べてみると、以下のようになります。

Ⅳ.<事実+あらたな事実+批評+憶測> (「膽大小心録」)

Ⅲ.<事実+少々の憶測> (「籠耳集」)

Ⅱ.<やや詳しい事実+誇張> (「至享文記」)

Ⅰ.<簡略な事実> (「あすならふ」)

 どの段階も事実に基づいていることは明らかですから、この四つの過程は、上方向にまず<事実の豊富化>として、次いで裏面では、<フィクションの濃密化>と把握し直すことができます。ここでは憶測も誇張もフィクション性と受けとることができるからです。またⅣ段階には展開性が加わることになります。「展開性」というのは、「膽大小心録」で池内氏が指摘する、あらたな事実を持ち出して行なった政治批判(批評)を指しています。まとめると、上方向に見てゆけば①フィクション化とは事実の豊富化を伴うこと、②フィクションの高次化には<展開>という契機を必要とすること、に心づきます。下方向に見てゆくと、①と②の逆方向の論理を見出すことができるはずです。


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