尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「読み」と「書き」はどう違うのか

2017-01-11 08:17:13 | 

 前回(1/4)は、柳田國男による学校の国語教育における「読み方」教育への批判を視てきました。この批判を通して「昔の国語教育」における「読み方」の極意を確かめました。今回は、読み書きの「書き」の話です。前代の書き方(手習い)についての話です。

 

≪漢字は何と言っても我々の重課であった。これが挙国の児童に一人残らず、授ける教育ということが前もってわかっていたら、古人も何とか別の試案があったろうが、実はそういうことはいまだ予期せられず、ただできそうな児だけがそのために刻苦したのである。その上に字を識る方法が、今とはまた大分ちがっていた。同じ一つの文字を草紙(そうし:帳面)が真黒になるまで、毎日毎日書きなぐっているうちに、覚えるのは筆法だけではなかった。上はウエという字だがカミとも訓みのぼるも上げるもこれを書き、上手の上の字もまた同じだというように、親しくなればおいおいと知って来るのである。もちろんこれを大きな文章に組み立て、もしくはその組立てを理解するには、また一段の才能を必要としたであろうが、さし当りの入用には名頭(ながしら:人名用の漢字を編集した教材)とか村尽しとか、実地に即したお手本が設けられ、商売往来(当時の商業知識を網羅し心得を説いた教科書類)まで進めば手代・番頭には十分であった。時代の流行なれば無理な宛字も平気で使い、たった一つの崩し方しか知らぬという滑稽な話もあったけれども、とにかく手習いによって筆札(ひっさつ:筆と紙)の事務を弁じただけでなく、彼等の読むために振仮字(ふりがな)も何も附かぬ、たくさんの書物はできていたのである。いわゆる四角な文字(点画を崩さない字体、楷書のこと)の流行は徐々であった。それを活字の普及が急激に促進したために、今はかえって多数の青年に、振仮字がなければちっとも読めない本が多くなっているのである。経学(ケイガク:儒教研究)万能とも名づくべき時代は、日本では実はそう長くはなかった。漢字はそれ以前も汎(ひろ)く用いられていたが、それはただ簡便に国語を写し出す手段としてであった。これと漢土の学問とが混同して、普通教育は面倒なものになり、後に再び二者を分立させたけれども、なお読書によって字を学ばせようという、無理な方法だけはあとに残った。この点は以前の読み書きの区分の方が、今よりはよほどはっきりとしていたようである。読みは新に覚えなければならぬ国語だから、耳で聴き口で何度もくり返して、おいおいに意味を会得させる。手習(テナライ)はすでに判っている言葉を、字にどう書くかを教えるのだから、もっぱら目で視て手で写すことに力を傾けさせるというふうに、個々の境涯需要に応じて、順序と割合とを加減していたことは、今でも参考とするに足ると思う。真似から入ってだんだんに覚え込むということは、いずれにしてもかわりはないのだが、ただこうする方が幾分か確実であり、あるいは中途半端の真似そこないを、少なくすることができたのである。≫(柳田國男「昔の国語教育」一九三七/ちくま文庫版『柳田國男全集』第二二巻 百十二~三頁)

 

 ここで柳田國男の言いたいことは、引用末の「読みは新に覚えなければならぬ国語だから、・・・。手習(テナライ)はすでに判っている言葉を、・・・」という一節に尽きていると思われます。「読み方」は新に覚えるべき国語を口と耳を使って身につけ、「書き方(手習い)」はすでに判っている国語を目と手を使って身につける、という違いがあるというのが柳田國男の「読み書き」説です。しかし、ひとつ疑問があります。それは「手習い」はもっぱら「アタマの言葉」に関する習得であることは判りますが、柳田のいう「よい言葉」つまり肚で思ったことを表した言葉のほうはどう養われるのでしょうか。「読み方」と「ハラの言葉」との関係です。

 昨年の暮れでしたか、テレビで絶対緩まないネジを考案した発明家・道脇裕さんを取り上げた番組を視聴しました。道脇さんは発明が生み出される自分を対象化して、こう言っていました。 ── 「心が頭をつかっている」、「頭は心の道具だ」。うまいこというなあ、と思いメモしておいたものですが、ここでいう心と頭の関係が、私のいう「ハラの言葉」と「アタマの言葉」の関係に似ているのです。あくまでも肚(心)が主で頭は従であり、心が頭をつかうという関係です。この関係を念頭に「読む」過程を考えてみると、「会得(えとく)」という重要な言葉が目に入ってきます。すなわち「耳で聴き口で何度もくり返して、おいおいに意味を会得させる」過程における「会得」の意味をどう考えるかという問題です。

 会得の「会」を辞典(漢字源)で調べてみますと、「会(カイ)す」という動詞には、「そうかと思いあたる、そうかと悟る、気持ちにかなう」という意味が書いてあり、例として「領会(まるほどとわかる)」や「会心(心に会す)」が挙げられています。では、「会得」とはどうかというと、「{会了(かいりょう)}納得してよく理解する」とあります。さらに広辞苑(第五版)では「会得」を「意味をよく理解して、自分のものとすること」とあります。

 以上から考えると、「会得」にはどうも「意味をよく理解する」だけでは足りない何かがあることが分かります。すなわちいったん理解した意味を「自分のものとする」過程が統合されていることがわかります。さらに先に調べた「会」という語義「そうかと思いあたる、そうかと悟る、気持ちにかなう」には、いったん受けとめたことを改めて受けとめ直すという二重構造(二つの段階)を認めることができます。・・・結論です。「会得」とはいったん頭で理解したことを改めて肚(心)で受けとめ直すこと、だと考えられます。とすればごく大雑把に、読み方は「ハラの言葉」を養い、手習いは「アタマの言葉」を身につける、ということができるのではないでしょうか。