極私的映画論+α

+αは・・・日記です(^^;
最近はすっかり+αばかりになってしまいました(笑)

影の車&鬼畜

2022-06-15 18:30:37 | なつかシネマ
 影の車 (1970)98分

旅行案内所に勤める浜島幸雄は、ある日偶然に幼なじみの小磯泰子と再会する。浜島は既婚者で、一方の泰子は数年前に夫を亡くし、6歳の息子・健一と二人暮らしだった。やがて浜島は泰子と結ばれるが、自分になつかない健一の存在が気になり始める……。






 鬼畜 (1978) 110分

印刷屋を営む竹下宗吉と妻のお梅。ある日、宗吉の愛人が3人の隠し子を宗吉に押し付けて失踪した。妻のお梅は子どもたちに辛く当たり、やがて、末っ子の赤ん坊が不慮の事故で死んでしまう。お梅が故意に仕組んだと察した宗吉は残る2人も何とかしなければと追い詰められて行き……。






 「影の車」は1970年、「鬼畜」は1978年の作品です。たった8年の差ですが私は10歳と18歳なわけで、「鬼畜」は映画館で観ました。この年代の8年差は本当に大きいです。当たり前の話だけど。

 で、この2作品を一緒に紹介するのは「影の車」では小川真由美が本妻、岩下志麻が不倫相手。「鬼畜」では岩下志麻が本妻、小川真由美が・・・不倫というよりも、子どもを3人も設けた二号さんなわけで(笑)実年齢で言えば1学年小川真由美が上です。最近全く見なくなったお二人ですが。

 「影の車」は原作は「影の車」という短編集の中の「潜在光景」で、「鬼畜」は短編集「詐者の舟板」のなかの一編です。そして「影の車」は加藤剛演じる主人公が一番恐ろしく、「鬼畜」では岩下志麻の鬼婆が一番怖いのですが、小川真由美も主人役の緒形拳も3人共「鬼畜」です。「鬼畜」の中で一番恐ろしい場面は岩下志麻が末っ子に無理やりお櫃から手づかみでご飯を食べさせるところ。現代では絶対に映像化できません。本当に恐ろしいシーンです。

 「影の車」は不倫相手の一人息子が自分自身に殺意を持っていると思い込む主人公ですが、それは彼自身が幼い頃、自分と同じように未亡人に優しくしてくれた男に対する殺意が「潜在意識」としてあったことがテーマとなっています。余り書くとネタバレかな。

 そういう意味では「鬼畜」はなんのミステリーもなく、ただただ子ども3人に対する大人3人の「鬼畜ぶり」を描いています。




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4 コメント

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「影の車」について (風早真希)
2023-07-02 10:37:16
私の大好きな日本映画の1本、松竹映画の「影の車」のレビューをされていますので、コメントしたいと思います。

野村芳太郎監督、橋本忍脚本、川又昂撮影、芥川也寸志音楽という、松本清張の映画化の常連のベテランたちが結集して作った「影の車」(原作のタイトルは「潜在光景」)は、清張物の中では、「砂の器」と並んで最高傑作の映画だと思います。

開巻早々、サラリーマンたちがそわそわと退勤し、新興住宅地を走るバスで家路を急ぐシークエンスだけで、映画は昭和45年のムードを見事に描き出します。

昭和45年と言えば、大阪万博の年、戦後の高度経済成長期を虚心に駆け上がって来た人々が、慎ましくも衣食満ち足りて、郊外に新しい家を構え、精神的な踊り場にさしかかったような頃だったと言えると思います。

そして、そんな大多数の中の、普通の市民のひとりであったはずの、旅行案内所でこつこつ働く浜島(加藤剛)が、再会した幼馴染みの泰子(岩下志麻)とほんの出来心で関係を結んでしまうところから、彼の平穏な日常にひびが入ります。

松本清張の小説にしばしば登場する、小心なくせに利己的で、女や賭博に溺れてしまう小市民の男を、加藤剛が絶妙に演じているんですね。

俳優座所属の演技派の加藤剛は、日本のロバート・レッドフォードと言われるように、その端正な容貌から、「砂の器」の劇画チックで悲劇的な二枚目や、TVの「大岡越前」のような生硬なヒーローといった役柄を配されることが多いのですが、実はこういう精神的な脆弱さが表に出たような、"小物の悪人"といった役柄が凄く似合っていると思います。

恐らく、本人もいつにない役柄を面白がって熱演したのだと思いますが、この「影の車」の勤続12年の係長役は、本人があまり気にいらなかったという「砂の器」の天才作曲家役よりも、ずっと加藤剛という俳優の潜在的な才能を引き出していたと思います。

単調な会社勤めや社交好きのかまびすしい妻・啓子(小川真由美)との毎日にも、ややうんざり気味の浜島は、夫と死別して6歳の男児・健一を抱えながら、女の色香を持て余している泰子に、ずるずるとのめり込んでいきます。

この真面目に遊ばずにやってきた無趣味な男が、色欲にのめって、羽目を外したらどうなるか?
その歯止めの効かぬ危うさを加藤剛は、繊細な演技で表現しますが、一方の岩下志麻のこの頃の妖艶さもただならないものがありましたね。

この二人が、子供そっちのけになっていく薄情さも、それを埋め合わせようと、とってつけたようなサービスをする姑息さも、そのひとつひとつが、実にきめ細かく描かれており、健一が殺意を帯びる前提が周到に築かれるんですね。

そして、健一が浜島に仕掛ける毒饅頭やガス漏れといった、ちょっとした子供の殺意がリアリティを帯び、それが自らのトラウマと符号した浜島は、ノイローゼ気味に健一に恐怖を覚えるのですが、ここで開陳される浜島の幼児期の回想=「潜在光景」の描写は、実験的でありつつ、物語の求めるイメージと見事に合致していると思います。

撮影監督の川又昂は、カラーのマスターポジとモノクロのネガをずらして重ねるという着想をもって、まさに虚実の皮膜を映像として具現化して、我々に見せてくれるんですね。

この映像効果によって、幼い浜島が健一とまるで同じ理由で伯父(滝田裕介)を断崖から落として絶命させた記憶が、まがまがしさと美しさのないまぜになったイメージで、鮮烈に描かれて、この映画のピークをなしていると思います。

そして、この映像に加うるに、芥川也寸志のフランシス・レイ風のメランコリーを志向したようなメロディ、全篇にさざめき、観終えた後も、いつまでも耳に残って離れません。

こうした一流のスタッフとキャスト、それぞれの意欲的な試みを、例によって鷹揚に、寛大にまとめあげた野村芳太郎監督の手腕も、実に見事だったと思います。
Unknown (しんちゃん)
2023-07-02 16:02:29
★風早真希さん
松本清張のいわゆる「社会派」の小説の映画化は、その制作当時の風俗が見えて面白いです。
「影の車」の、こういう郊外の団地住まいに憧れがありました。戸建ての方がよほどいいのですが(笑)
「鬼畜」では冒頭に男の子が「ガッチャマン」の歌を歌っているところが好きです。

 
「鬼畜」について (風早真希)
2023-07-02 16:34:13
「影の車」と同じく、松本清張の小説の映画化作品「鬼畜」について、コメントしたいと思います。

この映画「鬼畜」は、人間の心の奥底に隠している鬼畜をテーマに、人間の根源的な業による哀しみを描いた秀作だと思います。

この松竹映画「鬼畜」は、松本清張原作、野村芳太郎監督、川又昴撮影、芥川也寸志音楽という名作「砂の器」と同じチームによる作品ですね。

松本清張の原作は、「研ぎ澄まされた短刀の鋭さと輝きをもった短編で、読んでいて身の引き締まる思いがする。私は、その中に、人間の弱さと恐ろしさの凝結を感ぜずにはいられない」と、野村芳太郎監督は語っていますが、この原作は、昭和32年、松本清張の知り合いの検事から聞いた実話をもとに書かれたもので、著者自身の回想として、「当時、彼は世間に有名な二つの汚職事件を手掛がけて、その名前は、広く知れわたっていた。だが、検事として有名になるのと、その出世コースとは別ものである。二つの疑獄事件は、政財界をゆるがすほどのものだったが、例によって圧力がかかり、結果的には竜頭蛇尾のものとなった。その検事は左遷させられ、司法研修所の教官になってクサっていた」と彼の「傑作短編集」の解説の中で書いています。

この事から容易に推測される河井信太郎検事が、どのような心境で、この事件を原作者の松本清張に語ったのだろうか?

新聞紙上でたまに見かける"子殺し"の記事に対して、人はそれを「鬼畜」と呼び、「人でなし」と最大限の非難の言葉を浴びせます。
だが、そこまで追い込まれるような庶民の生活苦と肉親のしがらみから生まれた日本的な子供いじめを、誰が責める事ができるのだろうかという切ない思いにかられます。

巨悪を追い詰められず、「悪い奴ほどよく眠る」という現実との乖離が、河井検事の心に本当の鬼畜とは何か?----との思いをたぎらせたのかも知れません。

子供の時に親に捨てられ、苦しい見習い職人からたたき上げた、小さな印刷屋の主人(名優・緒形拳)が、小料理屋の仲居(小川真由美)に生ませた三人の子供を、商売の不振で生活が汲々としている折柄、突然、その三人の子供たちを押し付けられる羽目に陥ります。

言われてみれば、本当の子かも疑わしいその引き取った三人について、気の強いやり手の妻(岩下志麻)の過失ともいえぬ厳しい仕打ちで赤ん坊は死に、律儀で気の弱い亭主は、四歳の女の子を東京タワーに捨てに行かされ、最後には六歳の長男(岩瀬浩規)を、北陸海岸の断崖から海に投げ落とすというような、悲惨で救いようのない状況が描かれていきます。

一点の無駄のない松本清張の文章を、「赤ひげ」(黒澤明監督)の井手雅人のシナリオは、生まれながらの業病と貧苦を背負った宿命の父子の放浪を描いた「砂の器」に相通じる、徹底した入念さで、不幸で憐れな、父と子の気持ちの交流を鮮やかに書き込んでいると思います。

そして、原作にはありませんが、印刷屋の主人が迷いに迷って北陸の船宿で、無心に遊ぶ子供を前にして、「実際、この世はひでえよな!」と酒をあおる場面や、助けられた警察で、犯人を必死に完全黙秘でかばい続けた子供が、持っていた"いしけりの石"が、石版用の石のかけらであった事から、犯人の身元が割れ、移送されて来た父親との対面で、「よその人だよ、知らないよ、父ちゃんじゃないよっ」と激しく拒む場面は、この映画で最も盛り上がる切なくも哀しい人間の業というものを表現していて、涙なしには観られない、映画史に残る名場面になっていたと思います。

子殺しという"救いようのない暗さ"を救っているのは、子供が助けられたと聞いて、却ってホッとする父親の残された人間味と、子供ながらに父親の立場がわかっていて、彼をかばう六歳の子の健気さです。

そしてまた、東京近郊の川越あたりの風物や、能登金剛一帯の自然を情感溢れるカメラで撮った、川又昴カメラマンの美しくも儚さを湛えた映像美というものが、この悲劇を浄化しているように思います。

ベテランの川又昴カメラマンの、「カメラはただ俳優や風景を写すんじゃなくて、もっと主体的に、カメラ自身が自己主張していいと考え、映像による心理描写を重んじる」という、彼の撮影哲学からくる迫力ある画面構成と、日本の風土に根差した美意識が生む色彩感覚が、非常に光っていたと思います。

出演俳優の中で主役の緒形拳は、この役のオファーが来た時、あまりの非人間的な役柄だけに相当悩んだそうですが、彼なくしては、この子殺しをせざるを得ない状況に追い込まれた人間の、根源的な業による哀しみを表現出来なかったと思います。

また、他の出演陣で最も力演していたのが、鬼のような憎まれ役の岩下志麻で、七年間も夫に騙され続けてきた働き者の女性の屈辱が、残虐な報復に転じてもおかしくないような錯覚さえ覚えさせる彼女の演技はまさに、鬼気迫るものがありました。

撮影期間中は子役の子とは一切、接触を断って撮影に臨んだという彼女の役作りの凄さにも、改めて感心させられます。

この映画の中の登場人物の中には、誰一人として本当の"鬼畜"はいないともいえるし、逆に言えば、人というものは、誰でも心の奥底に"鬼畜"を隠しているのかも知れません。
Unknown (しんちゃん)
2023-07-02 16:43:13
★風早真希さん
ありがとうございます。
できれば10分の1くらいの長さでいただければ嬉しいです。

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