中国の北部を流れる黄河は、渤海へと注ぐ全長約5464kmの中国第2の大河です。甲骨文字が発見された殷墟は、その黄河の中流に位置する現在の河南省安陽市小屯付近にあり、1928年より発掘が始められました。それは紀元前17世紀末から前11世紀後半にかけて栄えた中国最古の王朝といわれる殷王朝後期の首都の跡とされていて、そこでは甲骨などに刻まれた文字とともに宮殿や住居跡、多数の青銅器や玉器、巨大な王墓などが発見されています。この殷墟の発掘をきっかけに黄河中・下流域に広がる中国古代文明が明らかになり、一般にそれらを総称して「黄河文明」と呼んでいます。
「黄河文明」は、かつてはチグリス・ユーフラテス川に挟まれたメソポタミア文明や、ナイル川流域の古代エジプト文明、そしてインダス川流域に広がるインダス文明と並び世界四大文明と呼ばれていました。最近ではこれらに現在のメキシコを中心としたメソアメリカ文明や現在のペルーを中心としたアンデス文明をくわえた六つの地域が「文明が独自に現れたと理解される場所」=「文明の揺りかご(Cradle of civilization)」と見なされています。
「黄河文明」はこのようにいわば中国歴史全体を貫くバックボーンとみなされるだけではなく、東アジア全域の古代史にも圧倒的な影響を与えた*01といわれてきました。黄河は中国で屈指の、そして世界でも有数な大河であり、「文明が大河のほとりに起こる」といわれることを、他の大河に育まれた四大文明の発祥地とともに証明してきたのです。
ところが中国には、黄河を凌ぐアジア最長の大河である長江があります。長江は、中国国土を西から東へ横断するように流れ、全長6300キロ、流域面積180万平方キロ以上にも及ぶ雄大な大河です。しかし「黄河文明」を育んだあの輝かしい黄河と比べてみた場合、この大河の流域はなぜか、歴史上中国の政治的中心である「中原地方(黄河中流域)」から「野蛮」、「未開」、「立ち遅れ」などのレッテルばかりを張られ、中国文明の形成に全く無縁だったかのように思い込まれてきた、と四川連合大学出身の歴史考古学者の徐朝龍さんは主張します。そしてこのことは「不思議でならない」*01というのです。
最近、中国の改革開放の波に乗った長江流域で考古学調査が急進展をみせ、ついにその雄大な姿を現わし始めた*01と徐さんは指摘します。次第に明らかにされつつある考古学調査と研究の成果は、長江の下、中、上流域それぞれに、5300年前から4500年前までの間に文明の道を歩み出した複数の文化共同体の存在が浮び上がってきた*01というのです。
長江の下流域では、良渚(りょうしょ)文化という5300年前から栄えた都市的文明が存在したことが明らかにされてきました。それは同時代の黄河流域のいかなる文化をもはるかに凌ぐ、驚異的な発達をとげた文明であることがわかった*01と徐さんはいいます。さらに中流域には約10000年前に始まったとされる稲作を基礎に発達した城頭山(じょうとうざん)遺跡や石家河(せっかが)遺跡などを代表とする都市的文明が繁栄を極め、面積が100万平方メートル以上もある巨大な城壁都市を頂点とした都市群を誇っていた*01というのです。そしてこれも明らかに同時代の黄河流域における既知の文化より質が高く規模が大きいものだった、と彼はいいます。また上流域にも少なくとも4500年前には成立したとされる龍馬(りゅうま)古城や三星堆(さんせいたい)といった巨大な城壁都市を伴った稲作農業共同体の存在が明らかとなってきた、というのです。
黄河文明と長江文明/高校生のためのおもしろ歴史教室より
*01:長江文明の発見-中国古代の謎に迫る/徐朝龍/角川書店 1998.02.28