時の大権力者山縣有朋が死んだとき、
たしか東洋経済主幹の石橋湛山が「死もまた社会奉仕」と喝破。
原文の引用はかないませんが、
「健全なる社会には絶えざる代謝が必要であり、
人は適当な時期に去り行くのもまた
一つの社会奉仕といわなければならない…」
という内容だったと思います。
山縣は「陸軍のローマ法王」と言われ、
その肩書きは、枢密院議長元帥陸軍大臣云々…と続く大仰なもの。
それを考えると湛山の批判精神・独立自尊の精神は驚嘆に値します。
その湛山も高校生時代は女にかまけて2年も落第。
でも落第したおかげでクラーク博士の弟子に逢えて、
人生が変わったらしいです。
こういう「塞翁が馬」的エピソードは,小島直記がよく書いています。
たしか東洋経済主幹の石橋湛山が「死もまた社会奉仕」と喝破。
原文の引用はかないませんが、
「健全なる社会には絶えざる代謝が必要であり、
人は適当な時期に去り行くのもまた
一つの社会奉仕といわなければならない…」
という内容だったと思います。
山縣は「陸軍のローマ法王」と言われ、
その肩書きは、枢密院議長元帥陸軍大臣云々…と続く大仰なもの。
それを考えると湛山の批判精神・独立自尊の精神は驚嘆に値します。
その湛山も高校生時代は女にかまけて2年も落第。
でも落第したおかげでクラーク博士の弟子に逢えて、
人生が変わったらしいです。
こういう「塞翁が馬」的エピソードは,小島直記がよく書いています。