
■ 昨日は暑かったですね(@江戸)。今年一番の暑さでは。みなさんはこの暑さをなんと形容しました?「暑い」?平凡だな。それどころの暑さではなかったでしょ。僕は冷房の利いた足裏マッサの店から真昼に外に出たとき,「ぬぁんじゃこるぁー!(@松田優作)」と叫びたくなりましたよ。その後のランニング中には「どんだけ~」との流行り言葉を唱えながらツユダクじゃなくてアセダクで走ってました。
■ ミクシー経由じゃなくてメール経由だと画像がやや大きくなることが判明。なぜ今まで気が付かなかったか。
■ 柏木先輩に勧められてようやくアミノバイタル・プロ購入,摂取。いつもは土曜夜はグロッキーで「明日はひねもす寝ていたい…」と思うのですが,昨日稽古前稽古中に飲んだので,夜には「明日も稽古ガンバルゾー」と思う。こ,これはアミノバイタル効果か。恐るべしサプリメント。
でも昨日も今日もなぜか寝れずに起きちゃったので全くの睡眠不足。本当に効果があるかどうかはしっかり睡眠が取れたときの体調で確認しないと。昨日は朝も昼も食う暇なかったので稽古では黄帯ツノに対しても前に出れない黒帯がいた… ああはずかし。
■ 最近文章全く練れてなくてすみません。人に読んでもらうというよりは自分のために書いている。まあそもそもそんなブログなので目くじらを立てないでくださいまし。
■ 岩瀬ブログに影響されて暑苦しい前髪を消去。ソフトなソフトモヒカン。略してソフソフモヒ。ぜったい噛むよ,これ。しかし結構俺も人に影響されるんだな。人は誰かに影響されて生きている。
彼の本のエピソードから触発されたのですが,自我が目覚めるのって10歳くらいか。それまでは「人と同じ自分でいたい」という気持ちが強く,10歳を過ぎると「人と違う自分でいたい」と思うようになるのかも。
僕の場合,小学校で椅子に敷いていた「防空頭巾」じゃないや,「防災頭巾」(懐かしい),みんなは学校指定?の既製の女=ピンク,男=青?で中身が銀で,って奴だったんだけど,俺は婆ちゃんに縫ってもらった青い布の手製もの。なんだか婆ちゃんのいた青森くさくて(ちょっと田舎くさくて)少し恥ずかしかったけど,それも自我に目覚めてなかったからなのかな。
自我に目覚めた中学以降って,少しでも人と違う格好をすることに執心しますよね。鞄をつぶしたり,制帽をつぶしたり,ガクランのカラーを外したり,ボンタンを履いたり…
■ 外国人の参政権について,前掲八木本に書いてあったことをやや発展させて。
No taxation without representationという歴史的故事を持ち出すまでもなく,たしかに「課税されているから選挙権もあってしかるべき」という主張には一理ある。でも一理しかない。
なぜなら,アメリカ独立の際の「代表なければ課税なし」は,同じイギリス臣民として,本国のイギリスにいる人も新大陸アメリカにいる人(これもイギリス臣民)も課税されているのに,本国の人には代表権があるのにアメリカの人に代表権がないのはおかしい,って論理。つまり,ともに(イギリスの)国籍があることが前提。
分かりやすく説明すると,国籍があって課税されているなら代表権もおくれ,という主張。つまり,
国籍+課税→代表
という論理。
でも日本の在日の人たちに選挙権を与えるかという議論の場合,彼らにはそもそも日本国籍がない。だから,そういう人たちが課税されているからといって代表権(選挙権)を主張するのは,「代表なければ課税なし」のアメリカ独立の故事とは,「次元が違う」。つまり,
課税→代表
という論理のみで「代表なければ課税なし」という歴史的故事が生まれたのではない。
要は,アメリカ独立と日本の外国人参政権の議論は,「国籍があるかないか」で前提が違うのです。
なお,外国人に参政権を与える必要がないという僕の主張は,かつて何度も述べたのでここでは繰り返さない。
こちらのサイトが結構勉強になるかも
以下は関連部分だけ引用。
~~~~
(外国人への参政権付与)肯定説の論拠として、永住外国人も納税義務を果たしているのであるから参政権も与えられるべきであると主張されることがある。この論拠は、学問レベルの議論としてよりも、一般レベルの議論で有力に主張されている。
このような納税を根拠とする参政権の肯定は、アメリカ独立革命のスローガンである「代表なければ課税なし(No Taxation without Representation)」という主張に淵源を持つ。納税という義務を果たしているのであるから政治参加への権利も認められるべきである、というこのような主張が、直感レベルで説得力を持つことは否定できない。
しかし、このような議論に対しては、否定説から次のような反論が可能である。納税と結びつくのは、参政権ではなく、むしろ国防・治安・教育・福祉などの行政サービスである[*10]。端的に言えば、参政権は納税の対価ではない。仮に、参政権が納税の対価であるとすると、現在日本国民の四人に一人と言われる所得税の課税限度額以下の人や、十分な収入がないため消費税も十分払えない人は、参政権を与えられないことになる[*11]。
そもそも、参政権が納税の対価であるという考え方は、納税の有無・納税額の多寡に関わりなく選挙権が与えられる「普通選挙制度」の意義を完全に見逃している。
日本において選挙権は、一八八九年には、二十五歳以上の男子で十五円以上の直接税納税者に限定された権利であったが、一九二五年に、普通選挙法施行により納税資格が廃止され、一九四五年に、婦人参政権を含んだ完全な普通選挙制度が導入された。すなわち、納税と参政権を連関させる考え方は、納税と参政権の連関を切断した普通選挙制度の意義を無視し、納税と参政権を再び連関させようとする、時代に逆行する考え方である。
■ ミクシー経由じゃなくてメール経由だと画像がやや大きくなることが判明。なぜ今まで気が付かなかったか。
■ 柏木先輩に勧められてようやくアミノバイタル・プロ購入,摂取。いつもは土曜夜はグロッキーで「明日はひねもす寝ていたい…」と思うのですが,昨日稽古前稽古中に飲んだので,夜には「明日も稽古ガンバルゾー」と思う。こ,これはアミノバイタル効果か。恐るべしサプリメント。
でも昨日も今日もなぜか寝れずに起きちゃったので全くの睡眠不足。本当に効果があるかどうかはしっかり睡眠が取れたときの体調で確認しないと。昨日は朝も昼も食う暇なかったので稽古では黄帯ツノに対しても前に出れない黒帯がいた… ああはずかし。
■ 最近文章全く練れてなくてすみません。人に読んでもらうというよりは自分のために書いている。まあそもそもそんなブログなので目くじらを立てないでくださいまし。
■ 岩瀬ブログに影響されて暑苦しい前髪を消去。ソフトなソフトモヒカン。略してソフソフモヒ。ぜったい噛むよ,これ。しかし結構俺も人に影響されるんだな。人は誰かに影響されて生きている。
彼の本のエピソードから触発されたのですが,自我が目覚めるのって10歳くらいか。それまでは「人と同じ自分でいたい」という気持ちが強く,10歳を過ぎると「人と違う自分でいたい」と思うようになるのかも。
僕の場合,小学校で椅子に敷いていた「防空頭巾」じゃないや,「防災頭巾」(懐かしい),みんなは学校指定?の既製の女=ピンク,男=青?で中身が銀で,って奴だったんだけど,俺は婆ちゃんに縫ってもらった青い布の手製もの。なんだか婆ちゃんのいた青森くさくて(ちょっと田舎くさくて)少し恥ずかしかったけど,それも自我に目覚めてなかったからなのかな。
自我に目覚めた中学以降って,少しでも人と違う格好をすることに執心しますよね。鞄をつぶしたり,制帽をつぶしたり,ガクランのカラーを外したり,ボンタンを履いたり…
■ 外国人の参政権について,前掲八木本に書いてあったことをやや発展させて。
No taxation without representationという歴史的故事を持ち出すまでもなく,たしかに「課税されているから選挙権もあってしかるべき」という主張には一理ある。でも一理しかない。
なぜなら,アメリカ独立の際の「代表なければ課税なし」は,同じイギリス臣民として,本国のイギリスにいる人も新大陸アメリカにいる人(これもイギリス臣民)も課税されているのに,本国の人には代表権があるのにアメリカの人に代表権がないのはおかしい,って論理。つまり,ともに(イギリスの)国籍があることが前提。
分かりやすく説明すると,国籍があって課税されているなら代表権もおくれ,という主張。つまり,
国籍+課税→代表
という論理。
でも日本の在日の人たちに選挙権を与えるかという議論の場合,彼らにはそもそも日本国籍がない。だから,そういう人たちが課税されているからといって代表権(選挙権)を主張するのは,「代表なければ課税なし」のアメリカ独立の故事とは,「次元が違う」。つまり,
課税→代表
という論理のみで「代表なければ課税なし」という歴史的故事が生まれたのではない。
要は,アメリカ独立と日本の外国人参政権の議論は,「国籍があるかないか」で前提が違うのです。
なお,外国人に参政権を与える必要がないという僕の主張は,かつて何度も述べたのでここでは繰り返さない。
こちらのサイトが結構勉強になるかも
以下は関連部分だけ引用。
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(外国人への参政権付与)肯定説の論拠として、永住外国人も納税義務を果たしているのであるから参政権も与えられるべきであると主張されることがある。この論拠は、学問レベルの議論としてよりも、一般レベルの議論で有力に主張されている。
このような納税を根拠とする参政権の肯定は、アメリカ独立革命のスローガンである「代表なければ課税なし(No Taxation without Representation)」という主張に淵源を持つ。納税という義務を果たしているのであるから政治参加への権利も認められるべきである、というこのような主張が、直感レベルで説得力を持つことは否定できない。
しかし、このような議論に対しては、否定説から次のような反論が可能である。納税と結びつくのは、参政権ではなく、むしろ国防・治安・教育・福祉などの行政サービスである[*10]。端的に言えば、参政権は納税の対価ではない。仮に、参政権が納税の対価であるとすると、現在日本国民の四人に一人と言われる所得税の課税限度額以下の人や、十分な収入がないため消費税も十分払えない人は、参政権を与えられないことになる[*11]。
そもそも、参政権が納税の対価であるという考え方は、納税の有無・納税額の多寡に関わりなく選挙権が与えられる「普通選挙制度」の意義を完全に見逃している。
日本において選挙権は、一八八九年には、二十五歳以上の男子で十五円以上の直接税納税者に限定された権利であったが、一九二五年に、普通選挙法施行により納税資格が廃止され、一九四五年に、婦人参政権を含んだ完全な普通選挙制度が導入された。すなわち、納税と参政権を連関させる考え方は、納税と参政権の連関を切断した普通選挙制度の意義を無視し、納税と参政権を再び連関させようとする、時代に逆行する考え方である。