雑談君のよもやま文庫

日々の生活の中で書きとめておいたものです。よろしかったら、ご覧ください。

「消滅する言語 人類の知的遺産をいかに守るか」 デイヴィッド・クリスタル著 中公新書 2004年発行

2006-10-31 | 地球環境(自然・文化)評
現在、世界では、約6,000の言語が存在するが、これら言語の大半が死滅する危機にあり、これから200年から300年の間に一国家一言語程度に減り、最終的には全世界で一言語しか残らないと予測する学者もいるという。これを換算すれば、2週間に一言語が消滅していることになる。

著者は、こうした言語の危機的な状況と優生的言語による均一化・単一化の方向は、人類の文化の多様性を否定するもので、知的遺産の喪失につながるとし、また、言語間の相互関係が失われることで、人類の精神的豊かさや適応力を奪いかねないと、生態学的立場から論じている。

また、このことから、危機言語の消滅を防ぎ、再生させることが重要であるとし、二言語主義を唱えて、危機言語をいかに救うのか、具体的方策を展開している。そのポイントとして「共同体の肯定的な姿勢を育てること」や「共同体全体が主体性を持つこと」、「言語を文化の一部と考えること」などが重要だと言っている。

著者は、一方でグローバリゼーションの進展により、言語の均一化は避けられないと考えつつ、他方、言語の多様性の消滅がもたらす文化的損失を防止しようとしているのだが、その予防と再生への方策は、付け焼刃的であり、実効性に乏しいものと言わざるをえない。

ことは言語の問題にとどまらず、マイノリティや途上国の自立支援をいかに行うかという問題であり、そうした総合的な視点を持たないかぎり、危機言語の救済や再生も実現できないと思う。

がんばれ美姫ちゃん!

2006-10-29 | 日記・雑感
安藤がGP初優勝、フリーで逆転…浅田真は3位(読売新聞) - goo ニュース

フィギュアスケートのグランプリシリーズ開幕戦で、安藤美姫ちゃんが初優勝した。オリンピックで悲しい成績だった分、なんとか活躍してもらいたかったけど、初優勝してほんとに良かった。

去年は、その色っぽさで人気が先行してしまって、本番のときは情けないほど自信を喪失してたけど、今回は、顔がきりりと引き締まって、身体全体に緊張感みたいなものが漲っていて、その冷静さが一層魅力的だった。

浅田真央ちゃんは、ジャンプでミスして3位に終わったけれど、まっ、あれだけの実力の持ち主なのだから、大丈夫だと思う。

若い女の子たちのがんばりに、ついガラにもなく、フィギアスケートについて書いたけれど、やっぱり、人間は苦労しないと駄目なのかもしれない。

サラリーマンの読書

2006-10-29 | 日記・雑感
サラリーマンは、ゆったり読書する時間ていうのは存外ないもので、大抵は、電車に乗っているときとか、寝る前のちょっとした時間とか、まー断続的に本を読むってことになる。

乱読ということなのだが、読んでしまった後そのままにしておくと内容もいつのまにか記憶の中から消えてしまうので、なるべくまとめておこうと思い、このブログに感想を添えて書き込んでいるのだが、読んだ本がたまるばかりで、今度はまとめができなくなってしまっている。

土日にまとめようと思うのだが、つい休むことを優先してサボってしまうので、なかなか溜まった本が減らないのが現実。まーこれも仕方がないと思うが、読書自体はおもしろいので、こちらもやめられない。

両方続けていれば、いつかなんとかなるのではと思いつつ書き込んでいくので、ここに訪れる人もちょっとした感想なんかをいただけると嬉しい。やっぱり書くことの励みになると思う。

「道元の和歌 春は花 夏ほととぎす」 松本章男著 中公新書 2005年発行

2006-10-29 | 日本史(鎌倉・室町時代)
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり

川端康成がノーベル文学賞受賞記念の講演冒頭に引用した道元禅師(1200-53)の和歌である。川端は、自然と同化し、その清浄さに包まれて生きる日本人の姿や日本の文化と伝統というものを「美しい日本の私」で語りたかったのだと思う。

道元の場合、この歌の詞書に「本来の面目を詠ず」とあることから、禅的な意味が込められていることになる。著者は、道元の「普勧座禅儀」にある「回光返照の退歩を学ぶべし。自然に身心脱落して、本来の面目現前せん。」を取り上げ、前ばかり向いて歩かずに、ときに後ずさりしてもよいから、自然と同化し自然と交感すること(回光返照)によって、身も心も抜け落ちたように楽になり、自然の持っている実相(本来の面目)が見えてくることの意味だとし、自然の景物を歌い、それをすずしかりけりと映ずる道元の心も、そこにあるとしている。

慈円を大叔父に持ち、後鳥羽院宮内卿らと親交があった道元は、藤原氏北家の血を引く人物であり、どちらかと言えば、貴族的な色合いを残した環境に育ったことになる。禅宗という自己革新の宗教に身を置きながら、どこか手弱女的な情感をもっているようにも感じる。

結跏趺坐としての座禅にしても、ただひたすら行うことで、煩悩を取り払い、自然と同化し、全宇宙と合一し、悟りを得る訳だが、道元のそれは、内向性の彼方にそれを見ており、同化すべき自然は、どちらかと言えば情緒的に捉えられているように思う。

花もみぢ 冬の白雪 見しことも 思えばくやし 色にめでけり

死期が迫った頃、道元は、自分は求道のための修行を積んできたが、くやしいけれど、自然の美しさに眼を奪われてしまったという悔恨の思いを歌ったが、そこには道元の宗教の弱さもあるかもしれないが、同時に、道元の自然情感の豊かさが満ち溢れており、かえって、道元の人間的な魅力が見えてくるように思う。

「自然再生 持続可能な生態系のために」 鷲谷いづみ著 中公新書 2004年発行

2006-10-29 | 地球環境(自然・文化)評
著者は、この本で、「生物多様性」と「共生」というふたつの基本概念をベースに、今後の人間社会のありかたについて自然哲学を語りたかったに違いない。

要約すれば、これまでの人間社会の対自然との関わりを「征服型戦略」と総括し、そのために、地球温暖化による異常気象や砂漠化、更には有害物質禍、オゾンホールの問題などを惹起してきたとし、また、その結果、地球における生物の多様性が損なわれ、生物同士の相互依存関係により成立している自然本来の持つ生態系が壊れ、そのことがまた、人間に被害をもたらしてきたとしている。

人間も含め、地球環境を保護するためには、何よりも生物の多様性を確保し、生態系を維持し発展させていくことが大切であり、そのためには人間そのものが自然との共生を図ることが不可欠であるとしている。

そして、そのための「積極的共生型戦略」を今後展開していく必要があるが、その場合、日本という国が、まさに「豊葦原瑞穂の国」であり、これまで恵まれた自然に囲まれる中、自然と共生する伝統と文化を育んできたということを踏まえ、こうした思想をベースにして、今後、環境修復に積極的に取り組んでいくべきだと提案している。

成程と思うのだが、じゃー果たして、その「積極的共生型戦略」が可能かという議論になると、途端に心細いなってのが正直な感想である。

今の国際社会を見れば、まさにグローバル化という名の弱肉強食の世界が展開しているのであり、経済競争に打ち勝ち、生き残るために、自然を思う存分破壊しているのが現実である。そんな国際経済システムの中で「積極的共生型戦略」なるものが成り立たないことは言うまでもない。

また、そもそも「積極的共生型戦略」という考え方自体が成り立つのかということも疑問ではある。人間が自然を改変し、少なからず生態系に影響を与えていることは紛れもない事実であり、たとえ程度の差はあっても、それは「征服型戦略」に変わりはないのではないかと思うのである。

著者も、きっと、そんなことは解っていて、それでも、将来に向けて確固たる思想を持つことが大切であり、たとえ延命策にとどまるにしても、コツコツと共生への道を進んでいく必要があるということを言いたかったに違いない。

著者が、日本の環境対策への貢献の可能性を指摘した点に拍手を贈りたい。

宇都宮暴走車事件

2006-10-28 | 日本文化・社会評
「ぶっ殺すつもり」暴走車容疑者が供述(朝日新聞) - goo ニュース
宇都宮の登校中の児童の列に乗用車を突っ込ませた事件は、この犯人が、たとえメンタル面で問題を抱えていたにせよ、また、もともと粗野な人間であったにせよ、近所とのトラブルを抱えて、自暴自棄になって暴発するような場合、今の社会がこうした行動を未然に防止できるような機能を有していないことを明らかにしたように思う。

コミュニティでも、こんな男と関わりを持ちたくないという感覚で、ほぼ無視していたのだろうし、警察だって、たとえ相談があったところで、そんなトラブルに人員を割けるほどヒマでもないのだと思う。また、この男が、もし精神的に病んでいたり、生活に困窮していたところで、保健所や福祉事務所が対応できたとも思えないし、子供がいじめられていたところで、学校や児童相談所がまともに対応できていたとも考えられない。

要は、相談窓口みたいなものは一杯あるけど、どこもマトモな対応ができる体制を持っていないというのが実情である。こういう事件が起こるたびに、それぞれのセクションの言い訳がましい説明は聞くが、何一つ将来に向けた解決方向は示されない結果に終わる。

マスメディアの無責任な批判報道ばかり気にして、なんの対策も打てない状況を打破して、地域は地域として、せめて精一杯の努力をしていこうという互いの意志確認くらいはしておきたいものだ。そうでなければ、僕らは、こうした事件に対処すべき手立てを永遠に持ち得ないのではないかと思う。

[人生一路ー美空ひばりの原点]

2006-10-28 | 歌謡・芸能評
歌手美空ひばりは、「昭和の歌姫」と呼ばれるように、七色の声をもち、1000を越える様々なジャンルの歌を歌ってきたが、やっぱり、その原点というのは、その庶民性なのだと思う。

横浜の磯子で魚屋の娘として生まれてから、生涯、貧乏を背負った庶民の感覚を原点にして歌を歌ってきたのだと思う。「人生一路」は、そんな歌の代表なのだと思うが、これを歌うときの美空ひばりは一段と輝いている。

「一度決めたら 二度とは変えぬ これが自分の 生きる道 泣くな迷うな 苦しみ抜いて 人は望みを 果たすのさ」は、一番の歌詞であるが、この余りに通俗的な詩には正直辟易とするのだが、石本美由紀は、あえて、こう書いたのだと思うし、美空ひばりが歌うと、この歌詞が生き生きしてきてしまうのだ。

貧乏な庶民が勇気を奮い立たせるときには、こんな無鉄砲さが必要なのだ。ひばり自身が、おそらくは、こんな決意の下で歌手生活を続けてきたのだろうし、これを聞いて勇気付けられる庶民も、あのひばりの元気の良い張りのある声と気風の良い歌いぶりにしびれたに違いない。

この歌が1970年にリリースされ、この作曲を担当した実弟のかとう哲也が1973年に起こした不祥事により、ひばり一家と暴力団山口組との関係が表面化したのも、何も偶然なのではないように思う。ひばりの庶民精神というのは、やくざ社会における任侠の精神にも通じており、こうした「えいっ、やーっの精神」が、高度成長期日本の貧乏人たちに生きる勇気と大胆な行動力を与えてくれたのだと思う。

「胸に根性の 炎を抱いて 決めたこの道 まっしぐら 明日にかけよう 人生一路 花を苦労の 風に咲け」

当時、高倉健のやくざ映画にしびれていた私にとって、「人生一路」は、大好きなひばりの歌のひとつである。

高校の必修科目履修漏れ問題

2006-10-28 | 日本政治経済(教育)評
必修漏れ、41都道府県の404校に 政府は救済策検討(朝日新聞) - goo ニュース

高校の必修科目の履修漏れ問題は、ついに41都道府県、404校に広がったそうだ。

大学受験をひかえた生徒にとっては、卒業できないのではとか、受験勉強に影響するのではとか、不安が広まっているようだから、政府が救済策を考えることは良いとしても、この問題は、今の教育の情けない有り様を反映した重大さを孕んでいるのだから、徹底した究明と根本的な対応策を講じてもらいたい。

まず、日本史・地理等の必修科目を教育しなかったことについては、今の高校が進学塾と化しており、確たる教育理念もなく、子供たちが学ぶべき体系的な教育さへも実施していなかったということであり、日本の将来を担うべき人間形成を図る上で致命的な問題であるのだから、もう一度、教育内容から教育体制まで、すべてにわたって総点検し、その有り方について再検討すべきである。

また、この問題を引き起こした学校の主体性のなさは眼を覆うばかりであるが、こうしたことを助長してきたマスコミや父兄も、自分たちがこれまでに果たしてきた役割について猛反省すべきである。生徒も被害者みたいな顔をしてないで、改めて勉強することとは何なのか考えてみてほしい。更に、普段、学習指導要領を批判している日教組の諸君も、コソコソ日和見してないで、こういう時にこそ、堂々と批判の論陣を張ったらどうか。(結局は同じ穴の狢ということか?)

それにしても、この責任の重大性に鑑みて、関係者の処分は徹底して行うべきである。まず、校長はじめ未履修問題に関係したすべての教師は、教師たる資格などないも同然なのだから、厳正な処分を行うべきである。また、都道府県教育委員会や文部科学省も知らなかった振りをしているが、これほど広範に実施されていた未履修問題を承知していないなんてことは有り得ないのだから、よく実態を解明した上で明確な処分を望む。


仕事もひとつの・・・

2006-10-28 | 日記・雑感
山を越えて、ほっとしているのだけれど、それに没頭しているうちに世の中の酷さがあちこちから噴出している。日本という国はほんとに駄目になってしまったなと思う。

誰々が悪いとか何処何処が悪いとか言う前に、自分自身に悪いところがなかったのか、日本人全員が反省すべきなんだろうと思う。

最近の日本人は、自分自身の保身だけを考えていて、いざ責任が問われるとなると、「私は被害者です」みたいな顔をして責任はとらないし、他人に責任を押し付けておいて平然としている厚顔ぶりである。

他人を裏切り、生き延びたところで、そんな人間なんてものに生きる意味なんてないのだから、たまには「腹をくくって勝負してみろ!」と言いたくなる。楽して飯を食うだけの人間なんておもしろくもなんともないだろう。(と、自分も含めて叱咤したくなる。)

のぞき趣味のニュース映像

2006-10-24 | マスコミ批判
NHKのニュースを見ていて気付いたのだが、雨の様子を伝える映像は、若い女性の足元の地面を映した後、その女性をなめるようにカメラを移動させ、全体の雨のシーンを映し出すし、高校で日本史やら地理の教科を教えなかったという報道でもやっぱり女子高生の足元から胸元へとカメラを回している。

これって、カメラマンのサービス精神なのかもしれないが、人間ののぞき精神をくすぐるような映像を当たり前に流していることの反省なんてものはないのだろうか。それも報道番組で。

たまには、おじさんの姿なんかをなめるように撮ったらどうか。・・・うーむ、これも趣味が悪そうかも。

土日出勤・・・

2006-10-22 | 日記・雑感
サラリーマンにとっては、土日はあらゆるストレスから解放される貴重な休日である。その宝物のような2日間に出勤とは・・・。

言わずもがなの愚痴と解っていながら、つい、言いたくなってしまう。来週のスケジュールがまた詰まってるのよね。疲れを持ち越して、がんばらないといけないのはチト辛い。

と言っても慰めてくれる人もいない訳で、一人つぶやいて今日も寝ますか・・・。

大人になれない大人達

2006-10-17 | 日本文化・社会評
福岡県のいじめ事件のテレビ報道を見ていて、元担任への追求の激しさに唖然とした。遺族がくやしい思いをしていることは解るのだが、そうした思いを誘導し、元担任を悪逆非道の男のように扱い、それを電波に乗せるマスコミの報道というのは一体何なのだろうと思う。

前に起こったJR福地山線の事故のときもそうであったが、事故原因を追究するというよりも、血眼になって犯人探しをして、適当な人物が見つかると集中砲火を浴びせる、その手法は、まさにいじめそのものではないか。

そんな報道機関が、「何故いじめはなくならないのだろうか?」などと感想を洩らすのを聞くと、つい、お前たちの報道姿勢が子供たちのいじめを助長してるんじゃないか!と言いたくなる。

自殺した子の元担任が「偽善者にもなれない偽善者」とその子に言ったそうだが、そうであれば、犯人探しに夢中の報道機関や、いじめがなかったとうそぶく学校・先生、被害者然としている親たちは、「いつまでも大人になれない大人達」とでも言うのだろう。

日本の核保有について

2006-10-15 | 日本政治経済(政党・外交・防衛)評
核保有の議論は必要 自民・中川政調会長(共同通信) - goo ニュース

自民党中川政調会長が、民放テレビで、日本の核保有について議論することが必要だとお喋りしたそうだ。実際見ていないので、どんなニュアンスで言ったのか知らないけれど、確かに必要な議論だと思う。

日本が核兵器を持つ、持たないは、国民の議論の決するところであるが、これまでのように核アレルギーのために一切議論もしないというのはよろしくないと思う。

北朝鮮が核保有国になったかもしれないという状況や、中国の膨張主義が目立ってきている状況で、日本でも自国の防衛論議をもっと尽くさねばならないといけないし、その中で核保有も当然ながら検討すべきである。

核を持つことも持たないことも、現実の防衛ということを考えると、それぞれ覚悟のいることであり、そのことを国民が知るべきだと思う。

非核三原則についても、同様に見直し議論が必要だと思うが、こんなことを言うとヒステリックに反応してくる人が出てくるかもしれない。アメリカの傘の下にいれば大丈夫だとか、核を持たないことが平和につながることだと根拠もなしに信じることは、もうやめた方がよい。

大いに議論し、どちらかに決定すればよいと思うが、核保有をタブー視して議論しないのは良くないと思う。


[さざんかの宿-サラリーマンの悲哀]

2006-10-15 | 歌謡・芸能評
さざんかの宿は、不倫のせつなさを歌った曲である・・・。こんなことを言ったら失礼になるのだけれど、これを歌った大川栄策という歌手は、不倫とは縁のない、いわゆるおじさん顔であって、どう考えたって、この歌にそぐわない。いやいや、歌は姿形ではなく、その声で聞くものと言ったところで、大川栄策の声はやっぱり田舎っぽいしやがれ声だから、艶っぽいとはとても言いがたい。

じゃーなんであんな大ヒットをしたのかというと、この歌で歌われた「不倫した妻の心情」とこれを飲み屋で歌った当時の「サラリーマンの心情」とがピタリとあったからに他ならない。ちなみに、一番の歌詞を引用してみると、次のとおりである。

♪ くもりガラスを 手で拭いて あなた明日が 見えますか
  愛しても 愛しても あゝ他人の妻 赤く咲いても 冬の花
  咲いてさびしい さざんかの宿 ♪

この歌が生まれた1983年は日本の経済成長に限界が見えてきており、サラリーマンにとって先行きが不透明になってきた時代であった。そんな中、彼らは、誰かに「あなた明日が 見えますか?」と問いかけたい気持ちにかられていたし、働いても働いても結局は会社のためであるという意味で、「愛しても 愛しても あゝ他人の妻」であるという悲哀を感じ、「赤く咲いても 冬の花」という諦念みたいなものに支配されていたと思う。

そうした感性の歌であると読み取れば、大川栄策のあの朴訥でまじめそうな歌いぶりや悲しみを搾り出すようなしゃがれ声が、この歌にふさわしいように思えてくるし、市川昭介のコテコテ演歌の曲調も納得がいく。

歌は、その後も「せめて朝まで 腕の中 夢を見させて くれますか」とか「春はいつくる さざんかの宿」とか、はかない夢を語るのだが、現実のサラリーマンたちには、不倫の妻たちと同様、結局今日まで、春はこなかったことになる。

「伊勢神宮-東アジアのアマテラス」 千田稔著 中公新書 2005年発行

2006-10-15 | 日本史(奈良時代まで)
この著者の本を読むのは、前に「飛鳥-水の王朝」を読んだから、これで2冊目である。前回同様、この本も、日本の古代史のおもしろさを教えてくれて、大変楽しく読ませてもらった。

伊勢神宮の主神であるアマテラス大神のルーツを東アジアの日神信仰に求め、伊勢神宮の祭儀の中に中国の神仙思想である道教とのつながりを指摘するなど、大変興味深かった。

原始アニミズムとしての日本独自の神道的な思想が、これら東アジアの類似思想を取り入れながら、神道として成立したというのは、それなりに説得力がある。

また、第三章以下の日本神道の神国意識の歴史的変遷や明治以降の国家神道の盛衰についての記述も、このことに不案内な私には非常に新鮮なものであった。

まず、日本を神国とする意識は、日本書紀の「神功皇后記」に既にでてきており、古代からあったと考えられるが、神国意識が盛んになったのは蒙古襲来前後からである。北畠親房の「神皇正統記」では天皇位の継承性(南朝)とともに日本の国の独自性を強調しているし、秀吉の明征服やキリシタン禁教の中にも現れている。近世においては、本居宣長や平田篤胤などの国学者が日本の秀でていることを神国意識の中で表現しており、これが幕末の尊皇攘夷思想につながっていく。

明治維新により、神道は国家神道として国家統治の精神的な柱として新たな段階を迎えるが、昭和に入って、膨張主義のイデオロギーとしても機能し、日本書紀に欠かれている「八紘一宇(八紘をもって宇(いえ)となす。)」という道教思想が「大東亜共栄圏」を表すことに使われることになる。

更に、台湾、朝鮮などの植民地での神道の教化については、現地の人々の信仰を無視して行う場面があったことは見過ごすことができない事実である。最近、大東亜戦争を美化するような言動が目立つが、歴史的事実は事実として受け止めておく必要がある。

いずれにしても、私には大いに参考となった本であり、この本で、神道の系譜を概観できた訳で、今後、日本の精神史を勉強していく上での道案内になってくれたと思う。