雑談君のよもやま文庫

日々の生活の中で書きとめておいたものです。よろしかったら、ご覧ください。

「物語韓国史」金両基著

2005-02-23 | インド・東アジア地域事情
著者の金両基さんは、確か司馬遼太郎の対談集でお目にかかったような気がする。
中国が少し飽きたので今度は朝鮮半島関係の本を買ってきたのだけれど、この本(中公新書)は、ハズレだったようだ。
朝鮮半島の歴史を、建国神話から、高句麗、百済、新羅、高麗、李朝、日韓併合まで、通史として描いているが、ご本人は客観的に書いているつもりなのだろうけれど、読んでいて、なんだか朝鮮至上主義みたいなものがチラチラと感じられて、正直、あまり素直に読めなかった。
ただし、ざらっと読んでみて、感じたことは、朝鮮の歴史は、侵略された歴史の連続であるということだ。実際、中国大陸の端っぽにあるこの半島は、常に中国の歴史上の大国や北辺の匈奴に圧迫されつづけ、隷属と反抗を繰り返してきた。
そうした不幸な歴史の中で、朝鮮族は、常に自らの民族の正統性を、その出自や儒教等の宗教性で必死になって証明し続けなければ、そのアイデンティを維持できなかったのかもしれない。
彼ら一流の気位の高さや対面を気にする姿勢は、そんな歴史が育んできたのかもしれない。
彼らの日本人に対する姿勢の中にある反日感情について、雑談君は最近まで、太平洋戦争当時の日本の侵略への反感によるものとだけと思っていたが、どうやら単にそれだけではなく、その根っこには、朝鮮半島の長い不幸な歴史が培った侵略への強い抵抗意識があるのだと思えてきた。
その不幸な歴史の中には、中国の巨大帝国に常に脅かされていただけでなく、島国日本からも、倭寇や秀吉による侵略もあって、その国情が落ち着くことは余り無かったのではないか。
秀吉が李朝へ出した書状に「征明仮道(明に遠征するので道を借りる)」と記してあったことは、いかに当時の朝鮮を見下していたのかが解る。
そんな風に考えていくと、現在の北朝鮮における金正日の政権維持策に盲目的についてくる国民感情が存在するのも、更には韓国が北朝鮮の非道を知りつつも、なお太陽政策を進め、朝鮮半島の統一を願うのも、すべてがその長い歴史の中で培われてきた、常に独立と統一を願う強い民族意識が影響しているのだろうと思えてくる。
雑談君がこの本で感じたことは、きっと著者の意図とは違ったものなのだろうが、まー正直なところを書いてみた。

さすがに・・・

2005-02-20 | インド・東アジア地域事情
中国ものにも飽きてきた。
で、最後といってはなんなのだけれど、「史記」貝塚茂樹著(中公新書)を読む。
史記の中でおもしろそうな話題をほんのちょっと拾い出して紹介した本である。
貝塚先生の筆運びが良いので、ついつい夜更かしして読んでしまう。
中でおもしろかったのは、宦官出身の趙高という人物。秦の始皇帝に仕え、その死に際して、始皇帝の遺志をスリカエテ、本来長男に譲るべき帝位を末子の胡亥に継がせ、その謀議に加わった李斯を殺し、更には二世皇帝胡亥までも自殺に追い込み、己が帝位を乗っ取ろうとするが、失敗して暗殺されるという話。
己の権勢を試すために、皇帝の前で鹿を馬と言わせた話は有名である。
貝塚先生は、この人物を史記中最大の極悪人と評している。
政治の世界というのは、いつでも権謀術数が渦巻く世界なのだろうが、そんな露骨な世界を飽きもせず繰りかえした中国史というのもおもしろいし、そうしたものを描いた司馬遷という人物もおもしろい。
また、しばらくしたら現代の中国についても勉強しようと思うが、しばらく遠ざかることとする。

「科挙」宮崎市定著

2005-02-16 | インド・東アジア地域事情
中公新書の一冊で、科挙とは中国の官吏登用試験である。副題にあるように、まさに中国の試験地獄である。
科挙の前身は、既に漢代にあったようなのだが、正式に科挙として始まったのは隋の時代からで、その後、延々と続き清朝までの1300年間も行われた。
中国全土から秀才が集まり、10回(清朝の時に実施した科挙)にもわたる厳格な試験を通過して3000人に1人程度の合格率ということである。
受験中に亡霊を見て発狂する者、80歳を越えて合格する者など、いかに大変か解るが、合格すると世間の評価は高く経済的にも豊かさを保障されることになり、官吏に登用されれば、末は丞相(総理大臣)も夢ではないので、皆争って受験することとなる。
受験科目は、四書五経などの古典が中心であり、暗記物であるが、どの王朝でも採用されたことをみれば、やはり優秀な人材を集めるための優れたシステムであったのだろう。
ただし、中国の科挙は、儒教等の思想面での勉強が中心であったため、清朝末には西洋の近代科学とそれに裏打ちされた合理主義に対抗できずに、王朝と同様に終末を迎えた。
日本でも、試験内容は異なるものの、科挙のシステムを真似た明治の高等文官試験、戦後の国家公務員甲種試験(現在はⅠ種)が行われ、優秀な人材を得ている。
日本の官僚制度も試験に合格すれば、手厚い身分保障があるため、どうしても官僚の専横がはびこることとなるのは中国と同様である。
雑談君が思うに、こうして見ていくと、日本の政治・行政制度の中には中国の制度を真似て作ったものが存外多いように思う。

「物語 中国の歴史」寺田隆信著

2005-02-13 | インド・東アジア地域事情
2月13日(日)22時58分47秒
中公新書の一冊である。
副題に文明史的序説とあるように、中国史を文明の興亡史として捉え、大変解りやすく記述してある。雑談君にとっては、これまであちこちの個別史をつまんできたので、通史として読むとなんとなく頭の中が整理された感じである。
殷の時代(紀元前1600年頃)から清朝の終焉(1912年)まで、約3500年の中国の歴史が皇帝の歴史であり、その中で、武力と退廃と知性が巡りめぐる歴史であることを考えると、類としての人間の残酷さや愚かさが見えると同時に、それでも未来に希望を繋ぐ確かな知性が存在することも見えてくる。
そう考えると、日本の戦後60年がもたらした今の状況というものも、たったひとかけらの歴史がもたらした愚かしさであるような気もして、まだまだ見捨てる訳にはいかないと思えてくる。
そんなことを感じさせる一冊であったと同時に、自らも一人の士大夫として残りの人生を生きても良いと感じた。

森村誠一「人間の十字架」

2005-02-13 | 日本文学・文芸評
2月13日(日)09時35分57秒
今時の作家が書くものから遠ざかっていたこともあり、選り好みしないで、いろいろ読むのだけれど、やっぱりつまらないというのが正直な感想である。
今回は、森村誠一の「人間の十字架」。御大層なネーミングなのだが、背負うべき十字架なんか何処にもない。家庭内暴力の悩む主人公が、子を亡くし、妻を亡くし、感傷旅行で見知らぬ女性と出会い・・・、そこで繰り広げられる人間の愛憎といったものを十字架と呼びたいのだろうが、素材は現代的なものを選んでいるが、その事象に深い掘り下げもないまま扱っており、リアリティのかけらもなく、荒唐無稽に近い。
長編推理小説とわざわざ謳っているのに、推理小説としても平板で、読者を引きつけるものもなく、組み立ても最初からの設計図を順序を間違い無く丁寧に作ってますよみたいなものがはなにつく感じである。
それに、証拠品としての飛騨高山の一刀彫りの唐突さや郡上八幡などの場面設定など、明らかにテレビドラマ化を意識して書いてるのが目立ち、そんな下司根性にも腹が立つ。
まーこんなものかと思いつつ、本を閉じた。

「漢字」読了

2005-02-13 | インド・東アジア地域事情
2月11日(金)22時58分36秒
「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった。」というヨハネ福音書の引用からはじまったこの本は、最後は次の言葉で締めくくった。
「神の世界は終わり、現実の精神がそれに優位する。文字が神の世界から遠ざかり、思想の手段となったとき、古代文字の世界は終わったといえよう。文字は、その成立の当初においては、神とともにあり、神と交通するものであったからである。」
作者は、祭政一致の殷の国が滅び、更に周も滅び、春秋戦国時代を迎えると、政治がより現実に立脚して行われ、神意を表わす文字の呪術性が失われたと言っているのであるが、雑談君としては、それでも言葉としての呪術性といったものは庶民の生活の中にながく残ったんだろうという思いの方が強かった。
政治表現としての文字は現実的な装いとなったのだろうが、喋り言葉としての呪術性は、当時の習俗と深く結びついて、長く・・・いや、もしかすると、今でも多少とも残っているのかもしれない。
日本も漢字文化圏のひとつであるから、当然その影響を受けている訳で、日本の古代から現代に通ずる日本人の心情のルーツを探るひとつの手がかりともなるような気がする。そんな意味で、とてもおもしろい本だった。

「漢字」に悪戦苦闘

2005-02-13 | インド・東アジア地域事情
2月 9日(水)23時13分43秒
例の本を引き続き読んでいる。
漢字のルーツを解き明かして、大変おもしろいのだけれど、何せ難しい字ばかり出てきて、なかなか前へ進みません。
ひとつひとつの漢字の原義を解き明かすと、象形文字としての漢字そのものがそれが当時の呪術や習俗の有り様を示しているようで、中国の殷周時代の神聖王朝の様子を垣間見る感じ。
しばらくは、この「漢字」という本と格闘しています。

今日は・・・

2005-02-13 | インド・東アジア地域事情
2月 7日(月)22時14分15秒
寝不足。昨日寝れなかったので、今夜は早く寝なければ・・・。
今、「漢字」白川静著(岩波新書)を読んでる。
象形文字としての「文」と言う字の原義は、「文身(いれずみ)」なのだそうだ。文は、人の胸部にいれずみを加えた象形の文字だという。おそらく屍体を聖化するための儀礼であったろうとのこと。
「産」の上部は、元は文であって、生まれた赤ちゃんの額に文身(いれずみ)を施したということらしい。成人の彦の字も同様。文という字になにやら呪術的なムードが漂う。
こんなして本を読んでると、なかなか寝つかれないよね。

「悪人正機」 吉本隆明・糸井重里

2005-02-07 | 日本文学・文芸評
2月 7日(月)02時59分10秒
新潮文庫。糸井重里のテーマ設定に吉本隆明が答えるといった形式で、ごくごく当たり前のキーワードについて語っている。
80歳を超え、視力も落ちたた吉本さんが、なお思想的に健在なのは、ファンとして嬉しい限りである。
また、自らの「老い」を素直に受け入れている姿に共感めいたものを持っていることも確かなのだが、昔の切実さめいたものがないのはファンとしてはやはりさみしい。

相変わらず中国に・・・

2005-02-06 | インド・東アジア地域事情
2月 6日(日)23時33分31秒
はまってる。
中公新書の2冊をおもしろく読む。

福永光司著「荘子-古代中国の実存主義」
藤田勝久著「司馬遷の旅-『史記』の古跡をたどる」

「荘子」は「そうじ」と読むそうで、紀元前4世紀(戦国時代)の人。儒家や法家を批判し、人間存在を始めから孤独であり、・・・すがるべき神を持たず、不安にさらされた存在であり、しかし、それにもかかわらず、その孤独と不安に耐えて生きていかねばならない存在として規定し、今のあるがままを生きることを説いた人。
著者の思い入れが詰まった文章で、こういうのは雑談君は、どっちかと言えば好きな方なのだが、書かれている荘子の思想は、個人の生き方、決意としての思想ではあっても、それ以上のものではないのかなという感想。
「司馬遷の旅」は、史記を書く前に中国各地を旅した司馬遷の旅行経路を辿りながら、史記に書かれた内容との関連を記したもので、中国の地名やら位置に疎い雑談君にとっては、ちょっとしたガイドブックになった。