雑談君のよもやま文庫

日々の生活の中で書きとめておいたものです。よろしかったら、ご覧ください。

言いたくないけど・・・(みていこう)

2002-09-20 | 日本政治経済(政党・外交・防衛)評
北朝鮮の拉致問題と国交正常化交渉については、やっぱり触れておかねばならない気がする。
この問題は、日本という国の悲しい有り様を浮き彫りにし、今更ながら、むなしい気持ちにおそわれる。
日朝首脳会談は何だったのか?
小泉首相は何故北朝鮮に行ったのか?
何故、訳のわからぬ共同宣言などしたのか?
拉致問題の事実が明らかになったのにもかかわらず、何故国交正常化交渉を始めるのか?
抗議はするけれど、拉致問題は、国交正常化よりは軽く小さな問題なのか?
もし、国家が国民の生命財産を守るためにあるのなら、拉致問題は、国家存立にかかわる重大問題なのではないか!
領土侵犯に匹敵する問題なのではないか!
領土侵犯されて、抗議はするけど、国交正常化交渉に入って、経済協力を約束するような国が、世界中のどこにあると言うのだ。
もっと分かりやすく言えば、「わが国では、いつでもどこでも自由に人を連れ去ってかまいません。抗議はしますけど、まーそれはそれとして、なかよくしていきますから」などという国が何処にあるのだろうか?
それとも、たった14人の問題だというのか?
拉致された人々のご家族に同情と補償をすれば済むというのか?
国家が国民の生命財産が守れなかったとしたら、それはもう国家の体裁を失っているとしか言いようがないのではないか?
中国での日本領事館への亡命事件の時も、まったく同様の対応をとった日本政府・・・
その代表者たる小泉首相は、亡国の徒と断ぜざるをえないように思う。
私は、国家主義者でもなんでもないし、北朝鮮への偏見ももっていないつもりだが、そう言わざるをえない。
小泉首相は、拉致問題の事実を把握した時点で、首脳会談もキャンセルすべきであったし、ましてや共同宣言などに調印すべきではなかった。
まず、拉致問題の真相究明を行った上で、正常化のテーブルにつくかどうか判断すべきであったのだ。
いささか、感情的に書きすぎているが、今の素直な気持ちである。

やさしさ同盟

2002-09-16 | 日本文化・社会評
日本の現代というのは、よほど悲しいものだとこの頃よく感じる。
人間同士の信頼関係というものが、どんどん失われている現状を見れば、このことについては、多くの人々が感じているところだと思う。
政治や経済など、社会全体の話であれば、弱肉強食の世界であっても、システムとしての有効性がある限り、必要悪として、ある程度是認しなければならないと思うが、近頃では、日常生活の中でも、人を人とも思わない行為が横行している。
頻発する子殺しや通り魔的な殺人や保険金殺人などの悲惨な事件を見るにつけ、人々の信頼関係や個々人の倫理観ややさしさが急速に失われつつある。
このインターネットの世界でも、個人に対する誹謗中傷をして喜ぶ輩が数多くいたり、ほんと情けなく感じる。
個人の倫理観の欠如や隣人や地域社会との心温まる付き合いがなくなっていくのは、もちろん社会全体が競争原理という名の非人間的な風潮に染まっているというのが主要因であると思われるが、それに加えて、日本には宗教というものが存在しないために、そういう風潮に対する歯止めがかからず、他の国よりも悲惨な状況になっているのだとも言われる。
キリスト教社会やイスラム教社会では、体系的な宗教思想が浸透しているために、個人の倫理観は揺るぐことなく、日本みたいに国民すべてがエコノミックアニマルに化すことはなく、日常の世界では人間的な生活を送ることができるというのだが・・・。
果たしてそうであろうか?
日本には、確かにキリスト教に見られるように、思想としての体系性を持つ宗教は存在していないが、自然の美しさをたたえ、清浄さを尊ぶ、美意識にも似た原始的な宗教意識が存在する。また、親鸞以降の他力仏教の影響からくる融和の思想が根付いている。
これらは、思想というには余りに理論性に欠けてはいるが、日本人の心情に根深く浸透しており、それが、これまで日本人のやさしさや高潔な精神を支えてきたのである。
日本人は、決して宗教性が無い国民などではないのだ。
だけれども、経済的な豊かさの中で、そういうすばらしい特質を急速に失いつつあることも事実である。
そうしたことを踏まえれば、日本人はその精神的豊かさを取り戻すために、今こそ、個々人のレベルで、元来日本人が持っていた倫理観や宗教観の優れた部分を再認識するという人間性回復のための精神作業をすべきときではないかと思う。
で、ちょっと飛躍した提案になるが、心有る人々によって、こうした日本人の持つすばらしい心性を再発見し、更にこれを今に活かし、実践していったらどうか。
実践レベルは簡単である。ひとつの教義だけ守れば良い!
「人にはやさしくあらねばならない。」
こうしたことを実践する人々の集まりを「やさしさ同盟」と名付けてみたが、「こんな馬鹿げたことを夢想するのはおかしいに決まってる!」って相手にされないだろうか?
まっ、そうだろうね。

ロッカーの花子さん

2002-09-14 | 映画・テレビ評
NHKの夜の連続ドラマである。
土曜の朝のBSでの再放送を見ているのだが、たまたま、脚本を勉強されている方との間で話題になったので、今回取り上げることにした。
話のスジは、新人OLが仕事でドジを踏むたびに幽霊の花子さんが出てきて助けるという単純なものである。
私は、新人OLがドジを踏んだときの心理的な葛藤や反応がいかにも現代っ子らしく、かわいらしいところが好きである。
この役をやっている女優さんが(名前を知らない)、また、かわいい!
まっ、これだけの話なのだけれど、もうちょっと突っ込んでおもしろさの要因について探ってみたい。
ロッカーの花子さんは、新人OLとは違ってバリバリのキャリアとして設定されているが、幽霊であるところを見ると、どうやら新人OLの自己意識の中の分身として設定されている。
その意味で、花子さんは新人OLの理想像として表現されているが、理想像としての花子さんも、仕事はできるものの、実は、社会性を微塵も感じさせない、おしゃれでお気楽な存在として描かれている。
結局のところ、ドジなOLも幽霊の花子さんも、社会に出た若い女性の自己意識が生み出した頼りない2分身に過ぎないことが解る。
「ロッカーの花子さん」は、現代の若い女性が共通して持つ社会意識(実際には、社会性が希薄なのに、より積極的な社会参画を果たしたいという意識)を描き出している点で、若い女性の共感を誘うとともに、私などの中高年にとっては、そのはちゃめちゃさがかわいらしさとして映り、おもしろいと感じるのではないだろうか?
いやいや、「ロッカーの花子さん」をドラマとして成立たせているのは、それだけではない。
社会性の欠如だけでなく、若い女性の、日常生活における実感の欠如がドラマの暗部に潜んでいると言った方が良いかもしれない。
若い女性の生活感や現実感のない日常の意識が生み出す、どうしようもない不安やおびえや苛立ちなど、底知れない闇の世界が、そこには広がっていると考えた方がよい。
ドラマには、たとえコメディであっても、ある種の切実や深刻さを孕んでいなければ、人々の心の琴線に触れることはない。
このドラマには、若い女性の日常の中に潜む存在感の希薄さとそれへの不安という切実さがあると考えた方がよさそうである。
そうした切実な背景があるこからこそ、「ロッカーの花子さん」はドラマとしてのリアリティを獲得するのだし、コメディとしても秀逸なものとなったのだと思う。

ちぢみっぱなし症候群

2002-09-08 | 日本文化・社会評
今日は、自分も含めて、中高年のおじさんたちへの応援歌を書こうと思う。
しかし、その前に、中高年のおじさんたちの病状について書かねばならない。
一応、診断名を「ちぢみっぱなし症候群」と名付けた。
「ちぢみっぱなし」とは、「ちぢみっぱなしの日本へ・・・」のドリンク剤CMからとってみたが、妙に訴えかけるものがあり、表現としても的を得ていると思ったからだ。
まー、「時代閉塞」とか「先行き不透明」とか解ったような的外れな表現よりも現状をよく表現していると思う。
現在、日本を背負い、背負わねばならない中高年が、ちぢみっぱなしになっている理由は三つほどある。
ひとつは、高度成長期における成功と、バブル後に訪れた低迷の段差の大きさが原因している。
高度成長期における成功は、おそらく世界史的にみても稀有な出来事であり、それを担った中高年世代に、成功者としての誇りと、未来永劫繁栄が続くのではないかという甘い幻想を抱かせた。
そして、バブル後の低迷により、その幻想はみごとに打ち砕かれ、成功と低迷の差が大きかった分だけちぢみ具合も大きいと言える。
2つめの原因は、マスコミの論調である。マスコミは常にものごとを皮相に、かつ、単純化して表現するが、いまの日本を、未来のない、救いがたい状況に仕立て上げ、その担い手であった団塊の世代をまるで犯罪者扱いにして喜んでいる。こうしたマスコミの論調が作り上げた擬似世論が中高年のおじさんたちを追い詰める。
三つ目の原因は、中高年の年齢からきている。かって、若々しく活躍してきた団塊の世代も、50を過ぎて、己の人生の終焉期に入りつつある。人間こうした時期にはどうしても過去を悔いる傾向にあるため、成功から低迷に至る時代変化を個人の人生に置き換え、己の人生は何だったのか?と問いかけてしまうのだ。
こんな三つのことが重なりあって、中高年のおじさんたちは、ちぢみっぱなしになっているのである。
でも、おじさんたちよ、心配するなかれ!
三つの原因のそれぞれは、通常起こりうる当たり前のことであり、ちぢみっぱなしになる必要など、さらさら無いのだ。
経済の低迷は、詳しくはふれないが、戦後経済が、その出発点から内包していた信用創造メカニズムによるものであり、決しておじさんたちのせいではないのだ。(また、日本経済を適切にコントロールできるほど、おじさんたちはえらくないのだ。)それに、高度成長期に築いた資産を食いつぶせば当分は安穏に暮らせるのだから、その間に経済再生の道を探ればよく、うろたえる必要もないのだ。
また、マスコミの論調など、それこそあぶくみたいなものであり、気にすることなど、さらさら無い。マスコミこそが日本のモラルハザードを引き起こす原因者であるのだから、その犯罪的な仕事振りについて批判されるべきものである。
年齢の問題は、個人には必ず訪れるものだから、これは自然に受け止めるしかない。
こうして考えれば、落ち込む原因など一つも無いことがわかると思う。冒頭に中高年の病状と言ったが、こんなもの病気でもなんでもないのだ。
症候群とは、病状はあるが原因が不明なものを指すみたいだが、なんでもかんでも病気にして、診療報酬アップを画策する医者ならともかく、自ら病気になって落ち込むなど必要ないし、もし自ら望んでいるのなら、情けなさすぎるではないか!
残りの人生をもっと積極的に生き生きと過ごそうではないか!
おとうさん、がんばって!

竜頭山(2002.9.8)

2002-09-08 | 静岡散歩
朝晩涼しくなってきたので、ぼちぼち山歩きを復活しようということで、佐久間町にある竜頭山(1,351m)に行ってきました。
残念ながら、今回は頂上までは行けず、途中から引き返してきたので、書かずにおこうと思ったのですが、今後のために記録として残しておこうと思い、書くこととしました。
国道1号の掛川バイパス大池インターから県道40号、国道152号をひたすら北上。長野県境に近い佐久間町に、竜頭山はあります。ここら一帯は天竜の森として整備されており、天竜スーパー林道がすぐ脇を通っているので、車でも行けるのですが、ここは敢えて、麓から登ることとしました。
当日は、曇り時々晴れ。気温は、夏が戻ったように、蒸し暑く、一番不得意な山歩きの環境。
水窪川ぞいの平和口の登山口から登り始めたのですが、標高差1200mのアプローチの長い山歩きとなり、低山ゆえの暑さからか、寝不足のせいか、途中から顔が火照り、呼吸も乱れ、休むことしばしば。
まっ、久々の山歩きなので、身体が慣れてくれればなんとかなると思いながら、だましだまし、登っていたのですが、標高700m付近で、目の前が真っ暗になり、その場に座りこんでしまいました。気分も悪く、軽い熱中症のような症状であるため、引き返すことにしました。
まっ、このまま登りきっても帰りが日没になり、また懐中電灯のお世話になるのは危険かなって判断もあったわけですが、それにしても、途中で引き返すというのは、気持ちの上で惨めこのうえない。
貧血症状も治まらないために、あおなぎ(大輪)分岐まできて、備え付けのベンチで、しばし休憩。
ベンチに仰向けに寝て眺めれば、手入れが行き届いた天竜杉が空高くまっすぐ伸び、枝を広げている姿をみれば、すがすがしい気持ちになってきます。
この休憩が幸いしたのか、その後は麓まで降りてきたときには気分はほぼ回復。眠気だけが残りました。
次回のリベンジを期し、必死に眠気を抑えながら車を運転し、帰ってきました。

光明山(2002.9.1)

2002-09-04 | 静岡散歩
久々の山歩き、ほぼ3ヶ月ぶりである。暑さと仕事に負けて、サボっていたというのが正直な話である。おかげで、おなかがなんとなく出てきたような気がする。
光明山は、天竜市にある540mの小さな山であるが、足馴らしもかねて登ってみた。
一帯は、天竜光明の森として市により公園として整備されており、幾つも登り口がある。
今回は、最短のコースである坂口のから登ってみた。(362号線沿いに道の駅があり、その駐車場に車をとめられる。)
なにしろ暑い。行き帰り3時間のコースであったが、気温はおそらく34度くらいであったのだろうと思う。歩くそばから汗がふきでてきて、30分もしないうちにシャツはグショグショになってしまった。
幸い、陽射しはヒノキ林のおかげで避けられたが、かわりにくもの巣がそこら中にあり、餌を待っている。夏の山は、どうもいけない。
ぶつくさ言っているうちに、頂上到着。少し離れたところに光明山遺跡がある。ここからの見晴らしは抜群。南は袋井市から天竜川、浜松市まで広がる平野を、俯瞰できる。浜松のアクトタワーがやはり目立つ。
この遺跡は、光明寺というお寺の跡というが、石垣がつまれた様子は、山城であったろうと思う。家康と信玄が争っていたとき、ここらは最前線に位置しており、おそらく出城として使われていたと思う。
眺望だけでも楽しめ、林道も頂上近くまで通っているので、車でもいける。お勧めのスポットである。

純ちゃんと康夫ちゃん

2002-09-03 | 日本政治経済(政党・外交・防衛)評
一国の総理大臣と長野県知事に再選された方をこうお呼びするのは、いささか不謹慎かもしれないが、何故かこう呼びたくなってしまうのだ。
お二人は、顔立ちも違うし、性格も違うように思えるが、選挙で選ばれた経緯といったものを考えると、何故か似ているものがある。
題名として掲げた呼び方にも関係するが、二人は中高年の女性から絶大な人気があり、これを土台に、一方は支持率を他方は80万票を獲得してきた。
女性パワー恐るべし!と言わざるをえないが、ちょっと気にかかることがある。
彼らの人気が、いたいけない坊やが悪童達に向って、けなげにも戦いを挑んでいるような、そんなムードを演出して、中高年女性の母性を刺激することで支えられてはいないかという点である。
そこには、純粋無垢でかわいい少年と抵抗派やら建設屋のドンやらの悪童とのあまりにも単純な対立の構図しかなく、それ以外のものはすべて捨象されているような気がする。
「ママ、悪いおじさんがいじわるするけど、僕泣かないでがんばる!」って言いながら、将来展望もなく、やれもしないことをわめき散らすこの二人に、日本の、また、長野の未来を託すことができるのだろうか?
私には、はなはだ疑問であるが、世の中高年女性はどう思うのだろうか?