Church of the Dunes

映画を見て調べたことの備忘録。更新は、のんびりペースの予定です。

Allowing Fate to be Arbitrary (14)

2020-01-16 21:48:16 | Allowing Fate to be Arbitrary

2020年最初の更新です。
こちら の続きです。

 *~*~*~*

「無作為な運命を受け入れる ― クリストファー・ノーラン&ジョナサン・ノーラン対談 ― 」
 title:Allowing Fate to be Arbitrary
     ― A conversation between Christopher Nolan and Jonathan Nolan ―
 via:Introduction ~ DUNKIRK Screenplay by Christopher Nolan (pp.ix-xxxvii)

  C:まったくだ、だけど僕は再び台詞に立ち返るだろう。いや、もし完全に正直に言うとするならば、
    「インターステラー」で僕が行なった仕事は、君が与えてくれた事に基づいていた、人々に物事を
    思い出させるための、彼らに物事を感じさせるための、物事を繋げるための台詞の使い方に関して
    ある種の頂点を僕に示している。けれども映画製作のこの方式では実のところそれ以上のものには
    ならないような気がした。僕は心底感じていた、善かれ悪しかれ ─ これは単なる僕の主観的感覚
    だけど ─ この型を何だか極めたような気持ちになった。
  J:確かにね。
  C:この手法で取り組んできたものを僕はとても誇りにしていた。台詞と全ての異なった小片、詩 ─
    これら言葉によるもの全部を使うことは、感情的な物語を生み出した。当然、多大な視覚的要素も
    あった。しかし結局は3時間の映画になるんだ、ほぼほぼ。「ダンケルク」では、僕が取りかかって
    いた題材の事実について話した途端、人々はこうした映画製作の方法を想像したと思う、何故なら
    伝統的にこの手の素材に期待するであろうことだから。でも僕の興味あることではなかった。僕が
    やりたかったのは大好きなサイレント映画へ遡ることだ、そこでは君たちに何かを感じさせるため
    に、または何かを思い描かせるために、大きな映像とフレーム内での集団的な動きを利用する方法
    を紛れもなく見出すよ。少しの音でサイレント時代の技巧になるから「西部戦線異状なし」が魅力
    的な映画であるのはそのためだ。それは移行期の只中で、暫らくは音が映画を破綻させていた時期
    に ─ 恐らく10年か15年において極めて本質的な意味があった。実際のところ軌道に乗ったのは、
    テクノロジーのためだ。
  J:映画的に、確かに。
  C:映画的に、カメラを動かせなかった。台詞とともに生じた素晴らしいことはあったけれど、ある期間
    の映画は舞台劇のようになった。非常に執筆されていった。
  J:うん、プロセニアム様式のやり方だ。
  C:そして、現在の映画もちょっと似た状況にあるように僕は感じた ─ 逆行ではないけれどね。つまり、
    映画は間違いなく映画館を正当化している。劇場窓口への多くの圧迫がある。現時点での正当化して
    いる映画はヴィジュアルが第一の作品だ。主として体験的なものだ。
  J:スペクタクルだ。