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夕張JAZZ喫茶店FIVEPENNIESのジャズコレクション

Memories of you - Earl Hines.1965

2013-01-23 00:46:48 | 夕張ジャズ喫茶店お気に入り音楽集
Memories of you - Earl Hines.1965


Earl Hines 『Memories of you』

Earl Hines:10代の後半から伴奏者として頭角を現し、ルイ・アームストロングなどとも仲良くプレイしていた。20代半ばにして既にビッグ・バンドを率いるリーダーとなり、ラジオで全米放送されたこともあって多く人の知るところとなった。相当の人気者だったようで当時の若い音楽ファンは大きな影響を受けたし、眩しい存在だった筈。ハインズより6つ若いアート・テイタムもその門下生と言って良いだろう。

ハインズは1920年代から70年代までおよそ50年もの間、現役で走り続けた。
その間、バド・パウエルなどは天才と言われながらも流れ星のように現れたと思ったら、あっという間にしぼんでしまった。
「長持ち」も大きな才能だということをしみじみ思うのである。
ちなみに「才能」にはひらめき型と円熟型の2種類あると常々思っているのですが、ハインズは明らかに後者。若い頃ヒーローとなったアーティストで歳をとるに従い枯渇するケースがしばしばあるが、このファンキー爺さんは還暦過ぎてから腕前に一層磨きがかかったし、着想も豊かになったような気がする。不思議なものだ。
「ソロ・デビュー」してからは、請われれば世界中どこへでもツアーに行き、アルバム製作でスタジオに入っても1時間半で録音を終える一発録りが殆どだったと言う。64年のカムバックから死ぬまでになんとおよそ90タイトルのアルバムを彼は怒涛のように残している。神がかり的体力と才能だ。(Pretzelジャズ日記より)

Duke Ellington and Billy Strayhorn - Take the "A" Train

2013-01-23 00:27:55 | 夕張ジャズ喫茶店お気に入り音楽集
Duke Ellington and Billy Strayhorn - Take the "A" Train


Billy Strayhorn:OverSeasのスタンダードナンバー、<チェルシー・ブリッジ>や<レインチェック><パッション・フラワー>の作者、なんと言っても有名なのは <A 列車で行こう>や<サテン・ドール>だ。

 ビリー・ストレイホーンは、エリントンより16才年下。お坊ちゃん育ちのエリントンと違い、生活は苦しかった。生まれつき体が弱く、母と祖母からは溺愛されたが、アル中で工場労働者の父から虐待され、学校では、Sissy(女っぽい男)といじめに合ったという。ただし、音楽の才は並外れていて、ピッツバーグの高校時代には、楽器なしに考えるだけでオーケストラのフルスコアを書き、いじめっ子も「天才」と一目置いた。
 ビリーはクラシック音楽家を志すのですが、黒人学生には音大への奨学金は出ない。将来の道を閉ざされたビリーは高校を中退、ジャズにクラシックと同じ美点があるのに気づき、ドラッグ・ストアでアルバイトしながら、地元でミュージシャンとして活動していた頃、エリントン楽団が町にやって来た。

 それは、ビリーが23歳の時。ビリーを応援するバンド仲間が、ツアー中のエリントンにアポを取ってくれたのだ。ピアノの腕と作詞作曲、編曲の才能に驚いたエリントンは、即編曲の仕事を与えた。<Something to Live For>は、その時に持参した作品です。

 翌年から、ビリーはNYで、エリントンの助手として仕える。エリントン楽団のテーマ、ハーレムの香り漂う<“A”列車で行こう>は、NYのエリントンを訪ねた時、手土産代わりに持参した作品で、ピッツバーグで、A列車に乗ったことのないビリーが書いたもの、最初は作風がエリントンのイメージと違うと、ボツになった作品だったのです。

Erroll Garner plays Misty

2013-01-23 00:05:34 | 夕張ジャズ喫茶店お気に入り音楽集
Erroll Garner plays Misty


1曲目はErroll GarnerでMistyを

Erroll Garner:彼の独創的で、美しい旋律を生み出す演奏技法は多くの観衆や同僚のジャズミュージシャンから称賛を浴びた。生涯楽譜が全く読めず、また左利きであった。

「ピアノの演奏を独学で習得」し、音楽的に恵まれた環境で育ったにもかかわらず「楽譜が読めず」、「左利き」であった。しかしこのことが独創性のある表現につながっていく。独学であったこと、そして楽譜が読めなかったことでどのピアニストとも似ていない彼固有のサウンドが生み出され、演奏は自由で表現力豊かなものになった。また、左利きであったことで演奏においては左手が強烈なビート(リズム)を刻むことができたが、右手のメロディが若干遅れて出ていた。しかし、そのことが彼独自の雰囲気やスウィング感を醸し出すことに繋がった。次第にその演出は 「ビハインド・ザ・ビート」と呼ばれることとなり、彼のトリッキーなサウンドの代名詞ともいえるようになった。


昔々、大橋巨泉が新人のPianistが出てくると、Erroll Garnerのように引くように言ったそうです。メロディーを引きずって引くような感じだそうです。

今は亡き世良譲さんは見事にこなしたそうですが、聞いたことはありません。