東日本大震災から4年が過ぎた。私は都内の会社に出勤していて「帰宅困難者」になった大勢のうちの1人だが、あの日のことは忘れたくないので今のうちに書き留めておくことにする。
2011年3月11日の地震発生当時、私は勤めていた会社が入居する都内のビルの1階ロビーで、訪問者と打ち合わせをしていた。突然、地面が大きく横に滑るような感覚に襲われ、一瞬、それが地震だと分からなかった。気味の悪い、船に揺られるような大きくゆっくりした横揺れ。生まれてから一度も感じたことのないものだった。
すぐ外に出るべきか迷った。天井から何か落ちてきそうで怖かったが、外も危ないかもしれない。結局、新しいビルなのでそう簡単に崩落しないだろう、いよいよとなったらその時は出口に走ろうと決めた。
揺れはなかなか止まらなかった。会社の皆はどうしているだろう。私のことを心配しているかもしれない。私は携帯電話を置いてきてしまっていたため、打ち合わせの相手が私の会社に電話してくれたが、つながらなかった。とにかく打ち合わせどころではないので解散し、各自オフィスに戻ることにした。
エレベーターが全て停止していたため非常階段で戻ると、社内は騒然としていて私のことなど誰も考えが及ばないといった感じだった。会議室のテレビでニュースを見て、震源地が首都圏ではなく遠く離れた三陸沖だと知って驚いた。震源近くの揺れはどれほど強烈だったのか・・・。仙台空港に津波が押し寄せる映像を見て、これは大変なことになったと思った。とりあえずパートナーや両親にメールで無事を知らせた。幸い、いずれとも連絡が取れた。
会社から防災セットが配られ、各自気を付けて帰宅せよということになった。首都圏の鉄道は軒並み運行停止していたが、金曜日だったこともあって、ほとんどの従業員は徒歩で帰宅しようとしていた。1人の同僚と私だけは、自宅が遠方だったためオフィスに泊まることに決めた。
翌朝までの食料を確保しようとビル内のコンビニに行くと、食品の棚は既にガラガラ。パンやおにぎりなど、すぐに食べられるようなものは全て売り切れていた。空腹のまま朝まで過ごすのは避けたい。多くの店が営業を終了した寂しい地下街を探し歩いて、カフェの店頭にかろうじて残っていたパンを購入した。「食べるものがない」という焦りを、一時ではあるが生まれて初めて経験した。そういう状況に、自分は一生のうちに遭遇することはないと思っていた。必要なら店で買えばいい。それが当たり前だと思っていた。
ビルの空調は一晩中オンになっていたが、それでもガラス張りの広いオフィスはどんどん冷え込んだ。寒くて仮眠もとれない。ネットを見たりしながら、長い夜を同僚と2人で過ごした。この時、テレビでは首都圏の「帰宅困難者」の様子がクローズアップされ、肝心の被災地の様子はそれほど伝えられていなかったように思う。交通や通信が遮断され、メディアも状況の把握に時間がかかったのだろう。後になって被災地の惨状を知り、それに比べれば電車が止まって帰れないとか寒いとか、そんなことは大した問題ではなかったと情けない気持ちになった。
JR東日本が早々に終日運休を発表したのに対し、東京メトロなど一部の鉄道会社は終夜運転を決めた。私は帰ろうと思えば帰れたわけだが、相当な混雑や遅延が予想されたうえ、JR沿線に住む同僚を1人残して帰るわけにもいかなかった。
私のパートナーは明け方になって何とか帰宅し、家の中のありさまにショックを受けたらしい。食器棚から皿が何枚も落ちて割れ、カウンターに並べていたワインボトルも床に散乱。引き出しという引き出しは全部開いた状態で、テレビやタンスは倒れていたという。地震発生時に自宅にいたら、相当恐ろしい思いをしていただろう。
一夜明けるとJRも運転を再開し、同僚と私はそれぞれ帰宅の途についた。自宅の最寄り駅で改札を通る時、駅員さんの挨拶がいつもより力強かった。あの人は前日から働いていたのかもしれない。終夜運転を決断した鉄道会社の責任者や、夜を徹して業務に就いた職員さんたちのことを思い、胸が熱くなった。
2011年3月11日の地震発生当時、私は勤めていた会社が入居する都内のビルの1階ロビーで、訪問者と打ち合わせをしていた。突然、地面が大きく横に滑るような感覚に襲われ、一瞬、それが地震だと分からなかった。気味の悪い、船に揺られるような大きくゆっくりした横揺れ。生まれてから一度も感じたことのないものだった。
すぐ外に出るべきか迷った。天井から何か落ちてきそうで怖かったが、外も危ないかもしれない。結局、新しいビルなのでそう簡単に崩落しないだろう、いよいよとなったらその時は出口に走ろうと決めた。
揺れはなかなか止まらなかった。会社の皆はどうしているだろう。私のことを心配しているかもしれない。私は携帯電話を置いてきてしまっていたため、打ち合わせの相手が私の会社に電話してくれたが、つながらなかった。とにかく打ち合わせどころではないので解散し、各自オフィスに戻ることにした。
エレベーターが全て停止していたため非常階段で戻ると、社内は騒然としていて私のことなど誰も考えが及ばないといった感じだった。会議室のテレビでニュースを見て、震源地が首都圏ではなく遠く離れた三陸沖だと知って驚いた。震源近くの揺れはどれほど強烈だったのか・・・。仙台空港に津波が押し寄せる映像を見て、これは大変なことになったと思った。とりあえずパートナーや両親にメールで無事を知らせた。幸い、いずれとも連絡が取れた。
会社から防災セットが配られ、各自気を付けて帰宅せよということになった。首都圏の鉄道は軒並み運行停止していたが、金曜日だったこともあって、ほとんどの従業員は徒歩で帰宅しようとしていた。1人の同僚と私だけは、自宅が遠方だったためオフィスに泊まることに決めた。
翌朝までの食料を確保しようとビル内のコンビニに行くと、食品の棚は既にガラガラ。パンやおにぎりなど、すぐに食べられるようなものは全て売り切れていた。空腹のまま朝まで過ごすのは避けたい。多くの店が営業を終了した寂しい地下街を探し歩いて、カフェの店頭にかろうじて残っていたパンを購入した。「食べるものがない」という焦りを、一時ではあるが生まれて初めて経験した。そういう状況に、自分は一生のうちに遭遇することはないと思っていた。必要なら店で買えばいい。それが当たり前だと思っていた。
ビルの空調は一晩中オンになっていたが、それでもガラス張りの広いオフィスはどんどん冷え込んだ。寒くて仮眠もとれない。ネットを見たりしながら、長い夜を同僚と2人で過ごした。この時、テレビでは首都圏の「帰宅困難者」の様子がクローズアップされ、肝心の被災地の様子はそれほど伝えられていなかったように思う。交通や通信が遮断され、メディアも状況の把握に時間がかかったのだろう。後になって被災地の惨状を知り、それに比べれば電車が止まって帰れないとか寒いとか、そんなことは大した問題ではなかったと情けない気持ちになった。
JR東日本が早々に終日運休を発表したのに対し、東京メトロなど一部の鉄道会社は終夜運転を決めた。私は帰ろうと思えば帰れたわけだが、相当な混雑や遅延が予想されたうえ、JR沿線に住む同僚を1人残して帰るわけにもいかなかった。
私のパートナーは明け方になって何とか帰宅し、家の中のありさまにショックを受けたらしい。食器棚から皿が何枚も落ちて割れ、カウンターに並べていたワインボトルも床に散乱。引き出しという引き出しは全部開いた状態で、テレビやタンスは倒れていたという。地震発生時に自宅にいたら、相当恐ろしい思いをしていただろう。
一夜明けるとJRも運転を再開し、同僚と私はそれぞれ帰宅の途についた。自宅の最寄り駅で改札を通る時、駅員さんの挨拶がいつもより力強かった。あの人は前日から働いていたのかもしれない。終夜運転を決断した鉄道会社の責任者や、夜を徹して業務に就いた職員さんたちのことを思い、胸が熱くなった。