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NO.14 わたしの難聴ヒストリー ⑩ (証券会社勤務かなさんの場合)

2024年07月14日 | 記事

かなさん 証券会社勤務 31歳 右93dB 左96dB 補聴器装用(幼児期は中等度難聴 徐々に進行)

 かなさんは、幼児期は中等度難聴で発見も遅かった。療育施設は、4歳児クラスからの入園だった。初めて会った時は、日常会話はできるし、難聴には見えなかったし、一見どこに問題があるかわかりにくかった。しかし、いざ療育を進めると語彙の不十分さだけでなく、小グループの中でも学ぶことはたくさんあり、2年間しっかりと療育できて本当によかったと思った記憶がある。初め硬かった表情も就学する頃には、やわらかくなり、明るくなった。自信もついたように思う。

 

【 かなさんのヒストリー 】

<療育施設、幼稚園時代>

 保育園の先生にことばの遅れを指摘されて、難聴発見につながった。療育施設には、4歳児クラスから入った。療育施設の記憶はあまりないが、真っ暗な観察室で本物のほたるを見たこと、トイレに補聴器を落としてしまったことなどを覚えている。補聴器を装用すれば、かなりきこえていたようで、母親同士の会話も結構きいていて、「地獄耳」と言われたりした。

幼稚園は、多分自由保育の私立の幼稚園で、自主性を重んずる幼稚園だった。(公立の幼稚園は断られた)一斉に鍵盤ハーモニカをやらされるようなこともなく、嫌な思いをしたことはなかった。

 

<小学校時代>

 FM補聴器を使用していたが、人と違うことをするのが面倒に感じた。小学校4年生のころに徐々に聴力が下がっていった。友達よりも何かとできることが多かったので、友達には一目おかれていて、いじめに会うようなことはなかった。友達関係は、広く、浅くという感じだった。

 ことばの教室は、別の学校にあり、そこに通ったが、そこの友達と会うのは楽しみにしていた。今でも連絡を取り合っている。ことばの教室は、マンツーマンで先生と会話ができる贅沢な時間だった。

 

<中学校時代>

 中学校は、地元の中学校で、半分が同じ小学校の友達の持ち上がりだった。初めの自己紹介の時は、自分が難聴であることを自分で伝えた。そうするように母に言われていたし、初めに一回言えばいいと思っていた。

 部活はバドミントンで、センスがなかったし、楽しくなかったが、内申のためにやめなかった。中学生時代のの女子のグループは煩わしかった。

ことばの教室は他校に通ったが、そこの友達は、小学校時代からの友達でもあり、ほっとできる楽しい仲間だった。

 小5から通っていた塾に継続して通った。塾では、北辰テストは満点を取れと言われていた。塾は15人くらいのクラスで勉強した。テキストに沿って進むので、わかりやすかった。学校より静かで集中できた。そこでは、先取りの勉強をしたので、学校の授業は簡単だった。自分が苦手なのは、台本のないディスカッションで、塾にはそういうのはなかった。

 テレビは、字幕が必要だった。当時テレビで「学校へいこう」という番組が流行っていて、学校でも山手線ゲームなどをやったが、その頃は、今より聞こえていて、きこえなくて困ったという記憶はない。テレビドラマでは、「野ブタ。をプロデュース」などの青春アニメが話題になっていたが、そもそもドラマに興味がなかった。そもそもテレビはほとんど見なかった。興味がないから見ないのか、見てもわからないから興味が持てないのかは、自分でもわからない。

 友達の雑談のテーマは、大体決まっていて(大体が恋愛話)、内容がわかるので、特に困ることはなかった。ほとんど、聞く側で、率先して会話に入ることはなかった。受験が近づくと、勉強のことで皆に質問されることが多く、いつも勉強を教える側でいたので、友達との会話に困った経験はほぼない。

どうしようもなかったことは、混声四部合唱だった。歌うと「違うよ」と直されるし、歌わないと何か言われそうで困った。自分には「音程がわからないこと」がわからなかった。どう説明したらよいかわからなかった。

<高校時代>

 高校は私立で、初めから「一切配慮はしません」と言われた。クラスでの初めの自己紹介では、自分で難聴があることを話した。授業は、何も配慮がなかったが、教科書をベースにしているので、何を言っているのかはわかった。

 英語のスピーキングは、嫌いだった。教室で騒がしい中で先生と英語でやりとりするのは、難しかった。それでも高校1年の時に英検2級を取った。ヒヤリングはテロップで行った。

 高校のクラスは、成績のよい方の人たちが多かったので、自分を持っている人が多く、一人一人が自分で行動する感じで楽だった。変ないじめもなく、よい高校だった。

 部活では、他のクラスの人もいるので、耳のことを知らない人もいて、カラオケに誘われたりした。断ると、「なんか嫌なことした?」ときかれて、ちゃんと聞こえないことを説明しないとダメだなと思った。流行歌はあまり知らなかった。

 

<大学時代>

 叔母に就職の時に潰しがきくのは、法学部、経済学部、経営だよと言われ、経営学部を選んだ。経営学部でマーケッティングを学んだ。先生がファッションマーケッティングが専門の先生だったので、ディオールとかビトンの歴史、ブランド戦略の話などは、面白かった。

 大学生活そのものは、それほど楽しくはなかったが、ゼミでプレゼン資料を作成したりしたのは、今仕事にも活かせている。

 サークルには入らなかった。週に4日大学に行って、あとは、好きにしていた。引っ越しのアルバイトは、がんばった。単純にものを運ぶ作業ではあるが、頭を使うのが大事と教わった。引っ越しのアルバイトでは、お客様とのコミュニケーションは、困らなかったが、スタッフ同士のやりとりの中で怒られたりはあった。しかし、やるべきことをしっかりこなす中で、信頼してもくれるようになった。

<就職>

 大学3年生の時に、短期のインターンシップを色々やった。また、大学の(障害学生の)支援室で先輩を紹介してもらって、話をしたりして、少しずつ情報収集した。安定していて土日休みの、金融機関がいいかなと漠然と思っていた。

そして、障害者のマイナビのような「クローバー」や「サーナ」のセミナー会場に行き、そこのブースで今の証券会社の人事の人に出会った。一般的な人事の人だと、大抵何ができて、何ができないんですか、どれくらいきこえるんですか、というような事務的な話になるが、その人は、「何か興味のあることは?」とか、「バブルの時は儲けたんだよ」などの雑談をしてきた。そして、今度またセミナーあるから来てとグイグイきた。

 また、他の会社だと、給料については、障害枠雇用は「ちょっと違います」くらいの説明しかなかったが、そこは、障害枠雇用でも給料は同じでスタート、その後、給料が上がるかどうかは、本人の頑張り次第と言われた。それもいいなと思った。結局そこに決めた。

 

<証券会社に勤めて>

 今就職して9年目である。初め、営業店の総務課で働いていた。コロナ前は毎日出勤していた。コロナの時にテレワークをして、家で仕事をした方が週末に耳の後ろが痛くならないことに気づいた。職場では、結構靴音とか咳の音などが気になって、集中を妨げられていた。   

 5年目に営業部をサポートする業務部というところに異動になった。業務内容は、費用の管理、予算の配分で、学校法人、医療法人、教育法人などの公益法人をお客様にする部署である。「公益」という情報誌のインタビュー原稿の作成やレイアウトをしたりもしている。今いる部署は、業務が属人化しているので、テレワークしやすい。

 そこで、産業医と相談して、週2日は、テレワークすることを認めてもらった。会社としては、月に一度のテレワークを推奨していて、部署によっては、週に1回か2回程度取得ができる。今いる部署では週に1回しか認められないが、お子さんがいる人や事情がある人に2回は認められている。今は、週2回テレワークして、週3日は、会社に出勤している。

 会社の人とのコミュニケーションは、あまり積極的にはしていない。話さなくて済むならラッキーという感じ。話しかけてくれる人とは、おしゃべりするが、いい人かどうかよりも聞き取りやすい人の方が話しやすい。同僚は、私のきこえについては、どのようなきこえかについては、あまりわかっていないのではないかと思う。きこえのことは、自分からどんどん説明するというよりは、きかれたら言う感じでやっている。初めての自己紹介の時は、難聴ですとは言っている。

 朝会などの会議では、ロジャーを使っている。テレビドラマ「サイレント」の影響で病院でもUDトークを使っているところがあるようだが、金融機関であり、個人情報のこともあり、うちではUDトークは禁止されている。私もUDトークより、話してしまった方が早いと感じる。

 電話は、最初営業店にいる時は、「なんで取らないの?」と言われて取っていた。内部の人たちの連絡で、私が難聴とわかった上での電話だったのでなんとかなった。今の部署に異動してからは、社外の電話を取ると、相手の会社名が聞き取れなかったりした。アルファベットの長い名前だと、3回聞き直してもわからない。部長に相談したら、電話にモジュールを設置して、どこ宛の電話かがランプの点滅でわかるようになった。またFMC設定で、会社にかかってきた電話を内線転送できるようにもなり、自分にかかってきた電話だけをとればいいし、スマートホンで受信するので、Bluetooth接続できて聞きやすくなった。

 しかし、基本的には、メールでのやり取りを基本にしている。社内の電話帳に「難聴なのでメール」と書いて、極力メールでの連絡にしてもらっている。

 会社には、全国で10人くらいの聴覚障害の人たちがいる。パラアスリートに力を入れているので、アスリート雇用の人が何人かいる。

 テレワークのことも電話のことも、自分で欲しいものを取りにいくような姿勢がないと、環境は改善されないと思う。

 

<あとがき>

 幼児期の聴力は中等度だったが、今の聴力で補聴器だと、きこえる人たちの中で働く時に、さまざまな困難が予想できる。しかし、結果的に現在は、週3日出勤して、週2日はテレワークで仕事をし、電話に関しては、FMCによって、携帯電話に内線も転送できるようになっていて、Bluetooth接続でよりクリアに聞くことができるようになっている。社内の連絡はできるだけメールでお願いしていて、朝の会議では、ロジャーを使用している。

 いずれも何かあるたびに彼女自身が上司や産業医に相談して、環境を整えてきたと言える。同僚全員が難聴のことをわかっているとは言い難いようだが、少なくとも自分の仕事をするに当たり、障害になることを一つずつ取り除いてきたのだろう。「自分で取りにいく」姿勢は、大したものだと感心する。

 昨今、セルフアドボカシー(自分で自分に必要な支援を求める力)を育てることの重要性がよく言われるようになってきたが、それは、実際には、個々の具体的場面でどうすればよいかという実現可能性のある提案や交渉力が必要とされるのだと思う。かなさんは、仕事を着実にこなす中で会社の信頼を得て、機会をとらえては、どう配慮して欲しいかを提案してきたと言える。今後も働き方のモデルを見せて欲しいなと思う。

 学校時代の話に戻るが、かなさんが苦手だったのは、歌うこと、英語の聞く話す、台本のないディスカッションだった。これは、難聴のある子どもなら皆共通の関門だ。混声四部合唱はどうすればよいのか?「口パク」で乗り切ったという話はよく聞くが?音程がわからないことをどうわかってもらうか?参加しない方法は避けたいが、実際どうすればよいか考えさせられた。昨今小学校でも英語会話が取り入れられていて、皆苦労していると聞く。台本のないディスカッションについては、前情報をもらうとか、しっかり情報保障するとか方法はあると思う。ひとつひとつ知恵を絞っていきたいところだ。放置してはいけないところだ。

 

 

<参考までに  動画の感想を紹介>

 動画の限定公開に申し込んでくださった方々の感想を少しまとめたので最後にご紹介する。

 

<かなさんの生き方で印象に残ったところ>

  • 「自分の軸があって、自分で考えて行動している」「自分らしさを保ちつつ、周りと関わる」「幼いころから培った自己肯定感、心の安定を感じる」(40代支援者、40代保護者、30代当事者)
  • 「主張するところと、ここはいいやと割り切るバランス感覚がある」「無理せず。できないことはできないと伝え、できることはしっかり責任を持ってやることで、信頼を得ているのではないか」(40代支援者、その他)

<きこえに関して>

  • 「時々あった面倒臭いということばは、きこえに関して色々とあるが、いちいち周りのことは気にしない、細かいことは気にしてもしょうがないという処世術が現れているのでは?」(50代支援者)
  • 強気で乗り越えてきたイメージだが、それでも悩みながら、模索しながら解決法を模索してきたと感じさせるところがあった。(50代保護者)
  • 実際には、自分に必要な配慮について、ちゃんと声をあげて、よりよい環境を作っていく強さと能力がある。(30代保護者)
  • 具体的な場面で、自分の要望を的確に相手に伝えられる。「話すときに口の動きを見せてほしい」「話合いのときに、前情報を伝えて欲しい」「台本のないディスカションが苦手」(支援者)
  • 一人でいる方が楽と言っていたが、元々の他者に迎合しないという性格もあるかもしれないが、きこえのことも無関係ではないかもしれない。中学校の時に他校のことばの教室の友だちの存在が大事だったということもある。自分の思いを伝え合え、お互い尊重し合える仲間とはやはり出会ってほしい。(40代支援者、50代?支援者)

<就職活動について>

  • 障害者雇用のこと、給料は同じで合理的配慮も求められることを知った。(40代?支援者)
  • 障害学生専門の就職サイト「サーナ」の話はためになった。(40代保護者、4、50代?保護者)
  • 今の会社の人事の人が「できる、できない」の話ではなく、何に興味があるかなどを話題にしてくれたことが印象に残った。その人事の人が「障がい」ではなく、「人」をみてくれようとしたような気がする。そういう時ちゃんと自己アピールできることが大事なのかもしれない。(40代保護者、支援者)

 

 最後に少し補足する。かなさんのお母さんだが、幼い時から、彼女の思いを尊重し、きちんと受け止めて彼女を育てていらっしゃった。それは、彼女の「自己肯定感」につながっているのかもしれない。(ごめんなさい。お父さんのことはよく覚えていない。今ほどお父さんが療育施設に来所しなかった時代だったかもしれない。)

 



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