goo blog サービス終了のお知らせ 

難聴のある人生を応援します @ライカブリッジ 

難聴のあるお子さん、保護者、支援者の方々に先輩社会人のロールモデル等をご紹介します。様々な選択肢、生き方があります。

社会人難聴者に学ぶ 〜みんなのヒストリー〜

 このブログの主な内容は、難聴児療育に長年携わっていた筆者が、成長して社会で社会人として活躍している難聴者についてご紹介するものです。乳幼児期に出会ったお子さんが大人になり、社会で経験してきたことについて知ることは、筆者にとって大きな学びのあるものです。難聴のわかりにくさを改めて感じることもしばしばあります。話を聞かせていただくうち、これは是非多くの方に知っていただいて、彼らの貴重な経験を活かしたいと思うようになりました。
 そして、これから成長して、学校に通い、自分の将来を考えようとする若い難聴の方々だけでなく、すでに社会で働いている方にも読んでいただき、難聴ならではの苦労だけでなく、生き方の色んな可能性についても知っていただければうれしいです。
 できるだけたくさんの生き方、働き方、考え方をご紹介することで、同じ悩みを発見するかもしれませんし、勇気を得ることも、共感できて励みになることもあるかもしれません。
   筆者は、ライカブリッジという任意団体で活動しています。ライカブリッジは、「like a bridge」(橋のように)難聴のある方々同士又は関係者同士を橋渡ししたいという気持ちで活動する任意団体です。筆者と難聴のあるお子さんを育てる保護者有志で活動しています。
2021年春から活動を始め、これまで15人の難聴のある社会人のインタビューを行い、それを録画し、zoomで共有したり、YouTubeの期間限定の配信をしたりしました。共有や配信の対象は、難聴のある小中高大生、保護者、支援者です。宣伝ややり方のアイディア、情報保障についてはライカブリッジの仲間と力を合わせてやってきました。
 <これまでのインタビュー> 
 これまで13人の社会人を紹介してきました。筆者がが幼児期に療育施設で出会った方々です。皆さん快くインタビューに応じてくださり、忙しい中、後輩たちの力になれればと協力してくださいました。
 1  37歳 看護師(中等度難聴)
 2  28歳 作業療法士(高度難聴)
 3  30歳 ウェブ制作 フリーランス(重度難聴)
 4  31歳 ろう学校教員(重度難聴)
 5  27歳 公務員(中等度〜高度難聴)
 6  28歳 劇団員(高度難聴)
 7  29歳 鉄道会社社員(高度難聴)
 8  39歳 会社員(重度難聴)
 9  31歳 歯科技工士(高度難聴)
 10   31歳 証券会社社員(中等度難聴→高度難聴) 
 11   29歳 保育園勤務経験8年 (重度難聴)
 12   46歳 手話講座講師 (高音急墜型難聴→重度難聴)
  13  42歳 会社員 (中等度難聴→高度難聴)
14  32歳 IT企業→公務員 (重度難聴)
  15 30歳 臨床検査技師 (軽度難聴、高音急墜型難聴)

 今後もこのインタビューは続けますし、このブログにも紹介していくつもりです。社会人の紹介の他にも、たまに日々の思いなども綴りたいと思っています。
 今後、もっともっと社会に「難聴」についての理解が広がり、きこえにくさにちゃんと配慮できる仕組みが整っていくように願っています。

noteに引っ越します。今後もよろしくお願いします。

2025年08月10日 | 記事

2023年の11月から、これまで、あゆみは遅めでしたが、このgooブログで、様々な難聴社会人をご紹介してきました。また、「わたしのきこえを説明すること」というテーマなどにも触れてきました。

この度、このgooブログがサービス終了となることになり、検討の結果、note に引っ越しをいたしました。

noteでは、これからも同様のテーマで、情報を発信し、難聴者として生きる方々のロールモデルをご紹介していきたいと思っております。引き続き、note をご覧いただきますようにお願いいたします。

note のURLは、 

https://note.com/easy_lupine3657

 

QRコードは、以下の通りです。

不明.png

暑い夏が続きますが、皆様お身体大切になさってください。


NO.26 私の難聴ヒストリー  ⑮ (臨床検査技師 りささん 30歳の場合)

2025年06月21日 | 記事

りささん 臨床検査技師 30歳 右84dB  左 35dB(高音急墜型)右のみ補聴器装用

 

 りささんの聴力は、平均すると、左耳は35dBだが(子どもの頃はもう少しよかった)、250Hz、500Hz、1000Hzは、正常範囲のきこえなのに、2000Hz、4000Hz、8000Hzという高い周波数がそれぞれ95dB、105dB、110dBと急にきこえがガクンと落ちる聴力型である。右は250Hzまで正常で、500Hzから急激に低下している。したがって、呼べば、反応してちゃんと振り返るのに、高音域の情報がよく入らないので、子音がきき取れず、ことばのきき取りや理解は悪くなる。ことばは、遅れがちだし、日常の会話にも不便は確実にあるという、とても理解されにくい難聴だ。

 高音急墜型の難聴は、以前はよく発見が遅れた。ことばの遅れの原因がわからず、5歳になってやっと、難聴が判明したというケースもあった。今では、新生児スクリーニングのおかげで、新生児で発見できる技術がある。

 私たちの療育施設は、以前は通園と外来に分かれていたが、りささんは、より頻度の少ない外来指導を受けていた。このくらい軽い聴力だと、私たちも楽観しがちだった。

 外来で個別指導を受けていた人たちは、一人で孤軍奮闘するケースもあり、きこえる人の中で、どのような人生を送っているのか、是非知りたいと思っている。そこで、今回りささんに連絡をとり、インタビューをお願いしてみると、快くOKしてくれたのだった。

動画の公開はできなかったが、お話をブログにアップすることは、快諾してくださった。

 

【 りささんのストーリー 】

 

< 幼児期 >

 

 幼稚園年少か年中ころ 祖母と電話した時、右耳がきこえないからと受話器を左耳に換えたことで、左耳の難聴が初めて疑われることになった。母の知り合いが、療育施設にいたことで、療育施設の診療所の耳鼻科を受診し、両耳の難聴が判明した。

 今は、仕事の時などに悪い方の右耳だけに補聴器を装用している。良い方の左耳は補聴器がうるさく感じられ、装用には至らなかった。現在は、仕事の時は右耳に補聴器を装用しているが、疲れてしまうので、家でははずしている。

 療育施設では、外来の個別訓練に通い、サ行の発音の訓練などをしたことを覚えている。

 幼稚園の記憶もあまりないが、竹馬に乗ったり、お絵かきをしていた。全体におとなしい子だった。友達は特にいなかった。

 

< 小学校時代 >

 

 小学校は、地元の学校に通った。自分のクラスだけ椅子や机の足にテニスボールをつけてもらった。床との接触で生ずる騒音が補聴器装用耳にうるさくないようにするものだ。席は、いつも前から2番目で、右の聴力が悪いので、黒板に向かって右端の方の列に席を取ってもらっていた。

 幼児期や小学校低学年では、きこえないという認識はあまりなかった。だが、一人でいることが多かったし、小学校3年生までは、友達がいなかった。4年生になって、初めて話しかけてきてくれた子と仲良くなった。

 

 ことばの教室は、1、2限とか放課後にことばの教室のある別の小学校に通った。ことばの教室には、同年齢に男の子が3人いた。親同士が仲良くしていて、一緒に遊びに行ったり、お互いの家に遊びに行ったりした。

 小3の時、春休みの課題を先生が口頭で指示した。それをききとっていなかったらしく、課題をしていかなかった。後で、ききもらしていたことが発覚し、ショックだった。

 小4の時に、ことばの教室で、自分たちが参加する難聴理解ビデオを作った。構成は、自分たちで考えた。クラスで動画を流してもらった。大きな声でゆっくり話してほしいとか、聞き返すかもしれないけど、そこに応じてくれたら、うれしいですとか、伝えた。

 そのビデオは、毎年作ったわけではないが、あとは、自分で、きこえないからもう一度言ってなどとお願いしていたと思う。小学校時代は、母に、「自分で説明しなさい。言わないとみんなにわからないよ」と言われていたし、隠す気もなかったので、結構オープンにきこえにくいことを話したと思う。

 小学校4、5年生から塾に行った。親に言われるがままに行っていた。

 

 小6の時、女子7、8人のグループにいたが、そのリーダー格の子が後ろから話しかけてきた時に、気づかなかったのをきっかけに、そのグループの子達から、仲間はずれにされて、無視されるようになった。母に相談したが、中学校は、地元の学校に行かないで、ことばの教室のある中学校に通うので、卒業まであと少しだから頑張りなさいと言われた。

 

< 中学校時代 >

 

 中学校3年間は、友だち関係でも特にトラブルもなく、楽しい3年間だった。今でも付き合っている仲良しの友達もできた。コミュニケーションでも、特に困った経験はなかった。ことばの教室がある小学校から上がってくる子が多くて、みんなに理解があって、居心地が良かったのかもしれない。

 困ったのは、英語のリスニングだった。配慮してもらっていた。英検も文字テロップで対応してもらった。障害者手帳の対象ではなかったので、病院で検査して、医師に一筆書いてもらって、やっとテロップを使用してもらった。

 ロジャー(デジタル補聴援助システム)を試したことはあったが、音が大きすぎて、普段は使わなかった。席はずっと、前から2番目、黒板に向かって右側にしてもらっていた。

 塾では、学習面で補習した。学校では、わからないことは、自分で先生にきいていた。

 補聴器を隠すようなことは一切なかった。普段は、基本補聴器を装用していない左耳できいているので、補聴器をつけているとよくきこえるようになるというよりも、補聴器を見て、まわりのみんながわかってくれるというメリットの方が大きかった。補聴器を装用することで、たまに電子レンジの音とか、車のバック音とか高い音が入ってくることはある。でも、普段きこえてない音なので、何の音かわからないことが多かった。

 

 中学校の時は美術部に入っていた。絵を描くことが好きというよりも、高校受験の内申のためだった。

 

< 高校時代 >

 

 高校を選ぶ時は、滑り止めで受けたい私立に相談に行って、耳のことを話すと、断られることが多かった。その時は悔しかったが、入ってから大変な思いをするより、はじめに言ってくれた方がいいと考えるようにしていた。母が、結構困った時には、寄り添いつつ、前を向けるように声をかけてくれた。相談相手は母だった。妹とは、耳に関する話はあまりしなかった。

 

 家族の中のコミュニケーションでは、わからない時は、母と妹は指文字を使ってくれた。

 父は仕事人間だったこともあり、あまりそういうことはしてくれなかった。妹は理解してくれていて、映画は必ず字幕付きのものを探してくれるなど、すごく優しくしてくれた。

 結局、公立の高校は落ちてしまい、滑り止めの私立に行った。

 高校生活は、部活には入らなかった。しかしその分、勉強は頑張った。でも、同時に韓国ブームだったので、韓国ドラマをたくさん見ていた。今考えると、韓国ドラマには字幕がついていて、わかりやすかったからなのかもしれない。家のテレビに字幕がついたのは、高校の頃だったように思う。

 子どもの時、ドラえもんは内容についていけなかった。テレビはきこえないので近づいて見ていたからか、目が悪くなった。テンポの速い、お笑い番組なども、ついていけなかった。漫才は見なかった。妹が笑っていた時に、今なんで笑ったの?なんて言ってたの?ときいたりすることはあったが、まあ、きこえないからしょうがないな、まあいいやと諦めていた。

 友だちとのコミュニケーションでは、困ることはなかった。仲良くなった友だちには、耳がきこえないことを伝えて、きき返すことが多いかもしれないからよろしくねと自分で話した。さすがに高校生になると周りは大人になっていて、それなりに対応してくれた。

 

 持病を持っていたことで、初めは、将来は看護師になりたいと思っていた。しかし、不規則な仕事であるし、体力が心配だった。母がたまたま臨床検査技師という仕事を知っていて、その仕事を勧められた。広く浅く色んな仕事ができるのが面白そうだなと思った。高校3年生になる前の春休みに臨床検査技師になろうと決めた。

 そこで、進路を決める時、自分の行きたい学科があるところを選んだ。入る前に相談して、試験を受けてよいかどうか確認した。大学では、初めから断られることはなかった。学科が珍しいので、そんなに選択肢もなかった。

 

< 大学時代 >

 

 大学には、4年間通った。勉強がとても大変だった。1年生の時にやめたいと思った。1年生の前期の解剖学の範囲が200ページもあって、とても無理だと思って、母に大学をやめたいと言った。母は、つらかったら、やめてもいいよと言ってくれた。そう言った方が、逆にがんばる子だということを母はわかっていたようだ。でも、やめてもいいよと言われて、気持ちが楽になったのは事実だ。

 結局、自分で考えて、今ここで、折れてしまったら、今後何も続かないな、本当にだめになるまでがんばってみようと思った。仲の良い友達と協力し合ってがんばった。4年間がんばった。

 外部実習先には、学校があらかじめこういう子がきますと根回ししてくれた。そういう配慮もあって、理解のあるところで実習させてもらった。

 普段の授業は、前の方の席を取ったり、頭のよい友だちにきいたりした。1年生の時は、ノートテイクもしてもらっていた。同じ大学の学生がやってくれた。しかし、結局やめる人が多かった。特にトレーニングは受けていなかったようだし、授業の内容も専門用語が多く、難しかったのだと思う。ノートテイクはとてもありがたかったが、2、3科目だけで、1年生の時だけだった。文字変換アプリはその頃なかった。困っていたのは、私だけではなかったと思う。そもそも内容が難しかった。今なんて言ったんだろうというのは、よくあった。

 

< 就職 臨床検査技師として >

 

 就活では、耳のことは必ず伝えた。ダメだったところは、耳で落とされたかなと思ったことはある。しかし、無事に、あるクリニックに就職が決まった。そこに2年勤めた後、もっと大きな病院で働きたくて、今の病院に変わった。

 一つネックになったのは、機械のアラーム音がきこえないことだった。例えば、輸血のための血液を保存する冷蔵庫のアラームが鳴った時は、即座に対応しなければならないが、それがきこえなかった。色々な補聴器を試したり、アラーム音を視覚的に変換するものを試したりしたが、だめだった。

 アラーム音のことばかりでなく、緊急のオペの時などは、ドクターと緊急のやりとりをしなければならず、それもあって、当直は一人では任せられないということになり、免除されることになった。

 それが決まるまでのプロセスでは、色々と辛いことがあった。上の人も難聴職員の対応を即座には決められず、色々な部署を経験させる中で、探りながら検討した感じだ。上の人の結論が出るまでは、「自分からできないといえば?」とか「そんなにしてまで、やりたいの?」とか少し傷つくようなことを先輩スタッフに言われたりして、家に帰ってから母に泣いて訴えたこともあった。

 今思えば、確かに患者さんや、病院に迷惑をかける事態になることもありえたので、仕方なかったのかなという気もする。

 そして、当直は免除されることになったが、その代わりに、採血室の早番、他の検査業務にも携わることで、補填している。

 毎年新しい人が入ってくると、上の方の判断で、こういう理由で当直を免除していただいていると、自分で説明している。耳がきこえにくいことも、トラブルがあってから、伝えるのは嫌だから、はじめに伝えるようにしている。人の入れ替わりが激しくて、当時のトップの人も退職しているので、新しい人には自分で説明するようにしている。どこまでできて、何ができないかは、自分がいちばんよく分かっているのだから、自分で説明している。

 手帳保持者ではないので、自分の力でやらなければならないことが多いのかもしれない。

 アラーム音のこと以外には、大きな苦労はない。業務内容は、同じ事の繰り返しなので、サイクルを覚えてしまえば、特に問題ない。

 ただ、採血の時などは、患者さんとコミュニケーションを取る必要が生ずる。ぼそぼそ話す人や高い声の人の話は聞き取りにくいことはある。自分の発音に特徴があるので、「外国人?」ときかれたり、「飴なめてるの?」ときかれたりすることもある。そういう時は、「私耳が聞こえなくて、話し方も舌っ足らずですみません。」などと伝えている。

 話す時に苦手な音は、サ行、イ列、拗音(シャ、シュ、ショ、キャ、キュ、キョ等)などである。苦手なことばは、工夫して話すようにしている。たとえば、検尿のときの説明で、「早朝尿」と言う時、「そうちょうにょう」が相手に伝わらないことが多いので、「朝のお小水の早朝尿のことなんですけど」と言ったり、採血が「禁止されている腕」の「禁止」が難しいので、「取ってはいけないと言われている腕はないですか?」ときくようにしている。

 今、同僚にとても仲がよい人もいて、仕事上の悩みが話せるし、プライベートで出かけたりする。そういう存在がいて、ありがたいと思っている。多少嫌なことはあっても、仕方ないさと思って仕事ができている。大きな苦労はない。他の同僚もみな耳のことはわかってくれているので、必要に応じて紙に書いてくれたりもしている。

 人によっては、病院ではなく、検査センターの方がコミュニケーションの面で働き易いかもしれない。私は、検査センターでの職務経験はないので、あくまで想像に過ぎないが、施設によっては、当直もなく、ひたすた検体を処理するという点で、もっと働き易いかもしれない。

 

 

<  あとがき  >

 

 りささんは、高音急墜型の難聴だったので、発見も遅れた。ことばの遅れは、問題にするほどのことがなかったのかもしれないが、診断を受けた時は、保護者の方も驚かれたことと思う。しかし、今回、りささんとお話しして、一番印象に残ったのは、何か壁に突き当たった時には、必ず、お母さんの助言や励ましが、助けとなったのだろうなということと、彼女はお母さんを信頼していて、お母さんの助言に素直に耳を傾け、素直に努力する力があるなということだった。

 高度重度難聴とは、異なり、高音急墜型難聴は、中等度難聴と同様、どのような困り感があるかは、見えにくいし、わかりにくい。それらをなんとなく誤魔化すのではなく、「ちゃんと言わないとわかってもらえないよ。自分で伝えなさい」というのが、お母さんの教えだった。

 友達に仲間はずれにされた時は、ちゃんと話をきいた上で、もうすぐ環境が変わるから、今はじたばたしないで、次に目を向けようと言ってくれた。

 きこえのことで、私立の高校の受験を断られた時も、寄り添いつつも前を向けるようなことばをかけてくれた。

 障害者手帳は取得できない聴力なので、就職も障害者雇用は適用されず、自力で自分の状況を説明しなければならないが、就職してから、夜勤免除が決まるまでのつらい経験をした時も、相手の立場にもなって考えてみたり、じたばたしても仕方ないこともあるさと悟ったり、そういう物事を心の中でどう処理をするかを折々に教えてくださったのは、お母さんだったのではないかと推察する。

 もちろん、彼女自身の素直な性格もあるが、心が折れそうになりながらも、持ち堪える柔軟さを獲得したのは、やはりお母さんの力に依るところが大きかったのではなかろうか。

 

 もう一つ印象に残ったのは、小学校の時のことばの教室で同齢同障の仲間を得たことだ。その友達と、クラスメートに難聴を理解してもらうための動画を作成し、クラスで見てもらうという試みも素晴らしいと思った。ことばの教室の先生方の熱心なご指導の賜物だろう。そして、お母さんにとっても、小学校時代にことばの教室で出会った他の保護者さんたちは、同じ悩みや心配を共有し、励まし合える大切な存在だったことだろう。

 

 このようにご家族、ことばの教室に支えられ、そして今は職場の仲間に支えられ、専門職として堂々と働く彼女がいることは、後輩となるみなさんの励みになることだと思う。アラーム音問題のことなど、今後その解決となる技術も開発されてほしいし、手帳保持者でなくても、どのような困り事があるかについて、より社会の理解が進んでほしいのは事実だ。しかし、現状では、自分の説明は自分でする、何かが起きてから相手のせいにするのではなく、何かが起きる前にきちんと説明をするという姿勢が大切なのだろう。もし、定期的に聴力検査をフォローする言語聴覚士がいたら、そのような専門職に、職場での理解を得るための支援もしてもらえるといいなとも思う。

 

 もちろん、平均聴力レベルは、軽くても、仕事をする上では、様々な困難があるので、やはり手帳を取得できるようにしてほしいなと切に思うところではある。彼女は、残念ながら自治体の、子供の軽中等度難聴の助成制度の成立には間に合わず、補聴器は全額自己負担だった世代でもある。大人の軽中等度難聴の助成制度の成立が待たれるところだ。

 

 りささんの今後の臨床検査技師としての活躍に期待したい。また、りささんの人生を応援している。

 


NO.25  わたしの難聴ヒストリー ⑭ (IT企業→公務員 ちいさん32歳の場合)

2025年05月24日 | 記事

ちいさん IT企業→公務員 32歳 90dB→100dB 両耳補聴器装用

 

 ちいさんは、現在32歳、公務員で育児休業中だ。4歳と1歳のきこえるお子さんを子育て中。ろう者の旦那さんと4人家族で暮らしている。小さいお子さんがいる場合は、やはり忙しく、なかなかインタビューも難しいが、そろそろ仕事に復帰されるときいて、今しかない!とインタビューをお願いした。

 聴力は、小さい頃は、平均で90dBくらいで、高音域になると徐々に下がる聴力図だった。

今は、平均して100dBを越えるくらいだそうだ。0歳代から補聴器を両耳に装用して現在にいたる。

現在は、音声と手話を両方使っている。始め、小学校は地域の学校に通ったが、中学校は、ろう学校を選択した。また、一度就職した大手IT企業をやめ、公務員に転職した。それらを含めた経緯を一度きちんと聞いてみたいなとずっと思っていた。二人目のお子さんの育児休暇明け直前にやっと伺うことができた。

 

【 ちいさんのストーリー 】

 

< 幼児期 >

 療育施設には、1歳代から通った。友だちと廊下で三輪車に乗って遊んだこと、ことばやコミュニケーションの個別指導の他は、楽しく遊んだことしか覚えていない。

 幼稚園も4歳から併行して通った。友達と遊んだり、物を作ったりした。一つだけ自分のものが誰かに取られて失くなることがあり、先生が子供達を並ばせて、友だちのものを取るのは、やめましょうとお話したことは、記憶に残っている、

< 小学校時代 >

 小学校に入って、授業中にFMを使ったり、前から2番目に座ったりすることで、自分だけ補聴器をつけているという意識ができてきた。しかし、地元の幼稚園から同じ友だちがたくさん同じ小学校に入学したこともあり、まわりの理解が自然とあったためか(もちろん、親御さんの努力の賜物)困ることはなかった。

 1年生の時は1クラスで、38名、2年生の時は、2クラスで20人と21人と言うように全体として小規模だった。宿題は割とまじめにやっていたし、勉強も理解できていた。

 友だちは、仲のよい友だちが2、3人いて、よく遊んだ。休み時間に遊んだり、帰宅してからも、電話(スピーカーホン)で、自分で電話して、「今から遊びにいってもいいですか」と約束し、自転車で遊びにいっていた。

 しかし、5、6年生になると、友だちと話がつづかなくなり、面白くないなと思い始めた。それで、昼休みは、図書室に行って、本を借りたり、読んだりすることが多くなっていった。友だちとも遊ぶが、図書室にいる方が落ち着いた。皆、幼稚園からの友だちなので、ゆっくり丁寧に話してくれていたが、なんとなく、同じテンポで会話ができなくなった。

 6年生になり、進学先について色々と迷った。幼児期に療育施設で出会った友人の中に、小学校からろう学校に行っていた友だちがいて、その子とパソコンでメールのやりとりをしていたが、その子の話からろう学校の様子を教えてもらっていた。それでろう学校は楽しそうだなと感じるようになった。

 父母も中学校に関しては、ろう学校という選択肢もあるよと言ってくれていた。特に母は、地域の中学校が聴覚障害ににあまり理解がないことを問題視していたようだ。(中学校に見学に行ったら、特別支援級に案内された。)

 ろう学校中等部の見学もした。手話を使って授業を受けたいと思ったし、友だちと楽しくコミュニケーションを取りたいと思った。また、英語が始まることへの不安もあったので、ろう学校への進学を決めた。ろう学校に幼馴染の友だちがいたことが一番大きかったかもしれない。

 

< 中学校(ろう学校中等部)時代 >

 手話は、小学校時代に母と一緒に地域の手話教室に通って、簡単な手話は知っていた。しかし、本格的には、ろう学校に入ってから学んだ。

 ろう学校中等部に入学した頃、ろう学校では、それまで採用していたキュードスピーチをやめ、手話を採用したところだった。従って、生徒はまだキュードスピーチを使い慣れていたが、授業では、先生が手話を使うという状態だった。

 友だちに、キュードスピーチや手話を一つ一つ教えてもらった。中3になる頃には、生徒たちは会話はほぼ手話で行っていた。

 授業が手話だったのは、やはり分かりやすかった。授業内容が一般の学校に比べて、ゆっくりなのは、気になったが、「わかる」ことはよかった。手話のありがたみを感じた。

 手話で友だちとたくさんコミュニケーションを取ることができた。手話で喧嘩もしたが、手話で友だちがどういう考えなのか、どう感じているかもわかったので、相手の気持ちになって考えることもできるようになったと思っている。

 小学校の時は、喧嘩できるほどのコミュニケーションは取れてなかった。全体に一方通行のコミュニケーションで終わることが多かった。

 その頃のろう学校は、人数も多く、同じ学年は18、19人いた。部活もバレーボール部に入り、楽しい中学校生活を送った。

 

 高校進学にあたり、そのまま、ろう学校の高等部に内部進学するか、他のろう学校にいくか、地域の高校に行くか、迷った。地域の高校は、見学に行った際、聴覚障害があることを伝えると、あまり反応がよくなかった。入ってもいいけど、サポートはできませんなどと、不安になるような答えが返ってきた。

 部活でのバレーボールの大会の時に、筑波大附属のろう学校のチームを見た時、よさそうな学校だなと思った。筑波大附属にも見学に行った。すると、怖そうな先生が多くいて、それで、却って、ワクワクした。附属受験に挑戦することにした。

 受験対策として、親にお願いして、地元のマンツーマンの塾に通わせてもらった。論文は、学校の担任の先生に個別に指導してもらった。また、模擬試験を受けたりした。そして、合格することができた。

 

 < 高校時代 >

 附属高校は、家から2時間かかるので、寄宿舎に入った。鹿児島から北海道の全国から生徒がきていて、活気に溢れていた。積極的な子が多かった。

 試験の結果は廊下に張り出され、自分の順位がわかるようになっていた。(今はやっていないかもしれない)それは、自分にとっては、みんなの中での自分の順位がはっきりわかり、わかることで、もっと頑張ろうと思えた。勉強の大切さを教えてもらった気がしている。

 部活はバレーボールに入った。体育館が狭くて、卓球と場所を分かち合っていた。バレーのコート分のスペースがなかなか取れなかった。体育館が使えない日は、外でトレーニングをしていた。

 寄宿舎生活は、初めは、ホームシックになり、週1回は、実家に却っていた。実家でまたエネルギーを蓄えて、またがんばろうという気持ちになった。多分私が、寄宿舎の中で、一番頻回に家に帰っていたと思う。

 

 附属には、有名なろうの方が多くいて、色んなロールモデルを知ることができた。ろうの世界も知った。

 学校では、対応手話を使っていた。友人の中には、日本手話を使う人もいて、私は、日本手話の読み取りはできるようになったが、自分で表現するのは、ちょっと難しい。

 

< 大学へ >

 初めは、栄養士の資格を取りたいと思っていた。いくつかその資格が取れる学校を見学した。しかし、聴覚障害があることを伝えると、現場実習で調理器具のブザーの音がきこえないので、その時の対応が難しいなどと言われて、やや受け入れがよくない印象を受けた。後輩の子で、栄養士の資格が取れる学校に行った子もいるので、もう少しがんばればよかったのかもしれないが、あっさり諦めてしまった。

 結局担任の先生と相談して、衣食住のことが幅広く学べる家政系の大学を選んだ。

 

< 大学生活 >

 一般の大学に入学し、小学校以来のきこえる世界に入ることになった。少しずつ友達もできて、1つのグループに入れてもらって、遊んだりもした。ろうの学生は自分一人だけだったが、他の大学の手話サークルに入って、そこで手話で会話ができたので、バランスがとれていたのかもしれない。

 授業は、FMマイクを使った。席はなるべく前に座って、ノートテイクもしてもらった。大学の学生がノートテイクをしてくれる仕組みがあった。しかし、段々と人手不足で十分にはしてもらえなかった。また、被服の授業の服の作成は難しかった。

 

 運動は、聴覚障害者協会のバレーボール部に入った。その時参加したデフバレーは、結婚して子どもを産むまで続けた。

< 就職活動 >

 民間企業を受けたいと思って、障害者雇用でサーナとか、クローバーなどの会社に相談した。企業のブースに行って、エントリーシートを書いた。IT企業に内定をもらった。

 

< IT企業への就職 >

 会社は新橋にあったが、途中異動があって、埼玉から勝どきまで通った。遠くて大変だった。1年目と3年目は、実家から通ったが、2年目だけアパートに一人暮らしした。一人暮らしがなぜ2年目の1年間だけだったのかというと、ある事件があったからだ。

 アパートは、2階建てで、私は2階に住んでいた。ある日、洗面所の水道を出しっぱなしにして、出勤してしまった。水の音に気づけなかった。その日仕事中に知らない電話番号から電話があったが、後でかけ直そうと思って放置していた。すると親から連絡が来て、そこで、出しっぱなしにした水が溢れて、水が床にたまり、1階の部屋まで水浸しになっていることを知らされた。

 保険に入っていたので、なんとか収まったが、もう一人暮らしはいいやと思った。

 

 会社は、IT系の会社だったので、情報保障もしっかりしていた。社員同士の会話はチャットが使えた。会議の時はGoogleのドキュメントワークを使って、同僚が会議の内容をPCに打ち込んでくれたので、それを見て理解した。会議で発言するまでには、いかなかったが、内容を知るだけでも大きかった。

 朝礼の時は、UDトークを使った。打ち合わせのメンバーで丸くなって、話す人は、携帯に向かって話をしてくれた。それを自分の携帯で文字で確認した。

 全体に目で見える情報が多かったので、やり易かった。ただ、通勤に時間がかかるのと、埼玉にいる人との結婚を考えていたので、「東京のOL」には、執着しないことにした。埼玉で働けるように県の公務員試験を受けた。

 

< 公務員 >

 今は、県の公務員として、事務の仕事をして6年目になる。職場は、コロナの前は、全体にアナログで、前職と比べて苦労したが、県民のために働くというやりがいは感じている。コロナ後に育児休暇から職場に復帰したが、随分情報保障が改善されていた。コロナのおかげでzoomが導入されたし、職員同士でチャットができるようになった。

 マスクをしている人との会話は難しかったりしたが、仕事は、人対応というより、事務仕事が中心なので、何とかなっている。会議はそれほど多くはない。

 今は、異動で2つ目の部署にいるのだが、そこは保健所で、受付のところには地域の方がくる。その窓口対応は、私には難しいので、誰かにお願いしたりしている。仕事の内容は総務の仕事をしている。

 研修は、人事課にお願いして、手話通訳を派遣してもらっているので、最低限の情報は得られている。普段は、携帯の音声文字変換アプリをよく使っている。コミュニケーションはなんとかなっているが、仕事を覚えるというところが大変だ。5月から仕事復帰なので、がんばりたい。

 

< 結婚、子育て >

 中学校の時の同級生の一人と20歳の時に成人式などで再会したりして、ご飯に行ったり、遊びに行くようになって、付き合うようになった。彼は、きこえない人で、主に手話で会話をする。気心知れた仲間ということもあり、気を遣う必要もなく、話し易かったのもある。5年くらい付き合って、結婚して、今は5年くらい経つ。子どもは、今二人いる。

 夫婦での会話は手話。子どもたちはきこえる子たちだが、家族の間では手話が通じるようにしたいと思っている。今は、ことばを覚える時期でもあるので、ことばに手話をつけて話している。

 上の子は4歳で、話すことのほうが多いが、わかる手話を使っても話してくれる。私とより、父親と話す時の方が、手話を使う。私もできるだけ手話を使おうと思っているが、緊急の時は、つい、あぶないよ!とか、早く歯を磨いて!とか口が先に出てしまう。

 下の子は、1歳3ヶ月なので、まだ、それほどことばが出ておらず、身振りが多い。アンパンマン、指差し、クサイクサイなどは身振りで表現している。

 今夫婦で手話で話をしていると、4歳の息子が何話しているの?ときいてくる。私たちが、きこえる人たちの話がわからないように、息子も私たちの話がわからないんだと思って、きをつけないとだめだなと思っている。

 父はきこえない人で、母は、口話も手話も使い、近くで呼べば、振り返るという違いを息子なりにわかってきている。後ろから呼ぶ時は、父には、トントンとたたいて知らせる。

 保育園の保護者会の時は、市の手話通訳をつけてもらっている。保育園の担任の先生と話をする時は、口話で話している。先生にはマスクをはずしてもらう。ただ、今日の息子の様子はこうでしたよなどという話はあまりない。他の親を見ていると、先生と色々おしゃべりしている感じだが、私には事務的に、今日は元気にしていましたなどという簡単な報告だけで終わってしまう。そこは少し寂しく感じるところで、もっとやり方を工夫しようと思っている。

 

< 療育施設時代の仲間 >

 幼児期に通った療育施設の友だちとは、ずっと付き合いがある、1年に、1、2回は、4、5人で集まって、色んな話をする。考え方が少しずつ違うが、会って話をすることが楽しいし、教えてもらうところもたくさんある。口話も使うし、手話も使う。これからもこの付き合いは大事にしていきたい。

 

 

 

<あとがき>

 

 ちいさんは、幼児期に同じ療育施設で出会った友だちとずっと付き合っている。ちいさんの学年は、例年より人数が多かった。そして、親御さんたちがとてもよい関係を持っていて、メーリングリストを作って情報を交換したり、他の学年にも呼びかけて、保護者で毎年文集を作ったりしていた。この文集は、後輩の保護者さんたちに、自分たちの経験を知ってもらって、参考にしてもらいたいという思いからできたものだ。ちいさんたちが卒業してからも、保護者同士のでんごんばんとして今なお続いている。

小学校に入学する時には、教室の椅子の足にテニスボールを履かせるように(椅子の足が床に擦れる音は、補聴器装用耳には、うるさくて辛い)、学校に掛け合う方法を知らせあったり、テニスボールに切れ込みを入れる方法を知らせあったりしていた。

 療育施設を卒業してからも、毎年集まり、子どもたちを一緒に遊ばせたり、小学校での生活の情報交換したりして、その関係を持続させていた。そのおかげで、子どもたちは、年頃になると、自分たちだけで定期的に会うようになったのだ。個性の異なる子どもたちが、それぞれ異なる道を歩んでも、関係が続いていることは、素晴らしいと思う。時々集まった時の写真を私にも送ってくれて、それは、とても嬉しい。

 

 ちいさんは、小学校の5、6年になって、友だちとの会話についていけなくなるのを感じたのだが、その時も、ろう学校に行った友だちから、ろう学校の様子をきいて、そういう場所もあることを知ったことは、とても大きいことだと思う。

 ちいさんのようになんとなく疎外感を感じて、図書館で静かに本を読んで過ごしても、傍目には、本の好きな子としか映らないし、親御さんも成績に問題がなければ、問題なしと考えることが多い。特に当時は、できれば地域の学校できこえる友だちと一緒に過ごさせたいという風潮があったので、音声言語から手話への切り替えをこの年齢でしたのは、少し驚いたものだった。私自身、今でこそ、難聴のある子どもたちの日常の困り感に留意しなければならないと思うようになっているが、当時は、学校への適応を「成績」と「友だち関係」で考えていて、友だち関係も特にトラブルがなければよしとしていたので、ちいさんが抱えていた「疎外感」を汲み取って、進路を決めたご本人と親御さんはすごいなと思っている。

 ちいさんは、ろう学校で手話で友だちと楽しくコミュニケーションを取り、時には手話で喧嘩もして、改めて、小学校でのコミュニケーションは、一方通行だったと気づくことができたし、その点を解決できる道へと進路変更できたことは、ちいさんにとっては、大切な選択となったと思う。

 

 現在、日本手話の旦那さんと対応手話と音声言語のちいさん、そしてきこえる二人のおこさんの家族で、共通手段は手話にするという方針で子育てしているということだ。ちいさんの保育園の先生とのコミュニケーションの話が少し気になったが、遠慮しないで、スマホのアプリなども活用して、がんばって、コミュニケーションを取ってほしいなと思う。

 

ちいさんのお母さんは、これまで県や全国の難聴児を持つ親の会で随分と尽力されてきた方で、今でも会の運営を引っ張っておられる方だ。1歳のちいさんを連れて我々の療育施設にきた時は、小学校の教員をされていた。ちいさんは、高度難聴だったので、補聴器に頼らざるを得なかった当時は、仕事はやめて、ちいさんの療育に専念することをお勧めした。

 結局、その年度が終わって、担任業務が終わってから、ちいさんのお母さんは、仕事を退職し、ちいさんの療育に専念した。そしてちいさんが小学校4年生くらいの時に、非常勤講師として午前中だけ勤務し、ちいさんが中学生になった時に再度教員試験を受けて、もう一度教員として、仕事に復帰された。その時、昔と比べて、つまり、ちいさんを育てる前よりも、後のほうが、コミュニケーションが上手ではない児童に目が行くようになったと仰っていた。私は、そのことばがとてもうれしかったのをよく覚えている。やはり、お子さんのためと言えども、仕事をやめてもらったことに少し申し訳ない気持ちもあったからだ。そして、また、ちいさんの療育を通して、一人ひとりの子どもと丁寧にコミュニケーションを取ることを大事にする教師になってくださったことに感銘を受けたのだ。そして、退職前には、支援級の教師として大活躍されたことには、心底感服している。

 このブログのNO.15で書いている「マッキーズ」というオンライン手話おしゃべり会にも、お母さんは、現在熱心に参加してくださっている。ちいさんの旦那さんと少しでもコミュニケーションを取りたいという思いからだ。そして、私も月一のマッキーズで学び、今回多少なりともインタビューに手話を役立てることができたと思っている。

 この文章をブログにアップしてもよいかどうか、ちいさんとお母さんに事前に読んでいただいたが、ちいさんのお母さんから、療育や親の会での出会いへの感謝のメッセージが送られてきた。以下のようなメッセージだ。

 「3人の子どもたちを育てるために、無我夢中でやってきました。3人の子どもたちがまっすぐに育ってくれたのは、一緒に療育を受けたお母さんたちのおかげです。療育施設でのお昼休みの時に娘(ちいさん)の姉と兄のことを話し、2人の接し方について考えることができました。また、親の会の行事に参加して、先生方や先輩のおかあさんからたくさんのことを教えてもらい、娘の接し方や進路を考える時の参考になりました。」

 

人生はまだまだ続く。ちいさんの仕事もうまくいってほしいし、お子さんたちも、パパともママともよくコミュニケーションをとって、幸せな家族になってほしい。太っ腹おばあちゃんの力を借りながら。

 

 

【 みんなの感想 】

     動画を視聴してくださった方々の感想をご紹介します。

 

 ちいさんの背景にこのような選択肢があったのですね。ろう学校に行かれてからも、さらに視野を広げて行動していった親御さんも本人もすごいなと思いました。

 難聴児を育てる上で、インテさせたとしても、その先に色んな道があるし、色々なロールモデルがあると思うので、色々な世代の話が知りたいと思いました。

 例えばろう学校に行きたかったけど、親御さんに手話を使うことを反対されたとか、仲のいい友だちとクラスが別れてしまって、もう無理だと思って、ろう学校に行く決心をしたとか、今になって色んな話をきいて、感心することが多いです。

 これまで聞いた話では、最終的に7、8割の人が、最終的に行き着くところは、ろうや難聴同士のコミュニティかなと感じています。  

                                      (当事者、難聴児を子育て中)

 

 今までの動画に出演していた方は、お会いしたことのない方達でしたが、今回初めて知り合いが出演していたので、所々知っていることもあり、普段とは違う楽しさがありました。(笑)

 とはいえ、普段の会話の内容は、共通の趣味や知り合いのことが多く、昔のことは知らないことがほとんどだったので、「そうだったんだ!」となることも多々ありました。逆にここでは話してないことを私が知っていたりするのも知り合いならではの面白いところですね。(笑)

                                      (当事者)

 

 全体を通して、特に印象的だったのは、ちいさんの周りには、いつも素敵な友だちや先生がいて、その時々の環境や仲間に支えられてきた様子が伝わってきたことです。それは、まさにちいさんの人柄の表れだと思います。

中学進学の際には、ろう学校の様子をきいたり、より理解できる手段(手話)で学びのスキルを高めたいという思いから、中学校の段階で自己選択をされたことに感心しました。

また、お母様がろう学校の見学に連れて行く環境を整えたことも素晴らしいと思いました。先生がおっしゃっていた通り、その時代の親御さんは、地域の学校に通ってほしいと願うことが多かったと思うので、ちいさんの自己決定を尊重したお母様の姿勢に感動しました。私は、当事者ではありますが、当時の親御さんとしての心境を、1人の母親の視点からもぜひきいてみたいと思いました。

 ちいさんのお話を通してしみじみ感じたのは、「環境の大切さ」です。子育て真っ最中の忙しい仲で貴重なお話をありがとうございました。

                                       (当事者)

 

 うちの子が小さい時に参加した親の会の合宿に高校〜大学生のちいさんが毎年来られていたと思います。小さい子に優しく声をかけていて、笑顔で優しく接してくれていたのを良く覚えています。

 もう結婚して、お子さんもいる、なんて、とてもうれしく思いました。近いうちにうちにもある、大学進学〜就職の話が聞けてよかったです。ありがとうございました。

                                        (保護者)

 

 ちいさんは、きこえる世界ときこえない世界を柔軟に行き来していてすごいなあと思いました。小学校と中学校と高校と大学、そして社会人と、その時の自分の興味関心に合わせて環境を決め、楽しんでいるようにお見受けしました。きっとお話されたこと以外に大変なこともあっただろうなと推察しますが、充実した生活のお話から、意思の強さとしなやかさを感じました。

個人的にも、うちの難聴の娘がちょうどちひろさんと同じくらいの聴力で、普通小学校に入学したばかりなこともあり、色々考えさせられました。私を含め、普通学校とろう学校とどっちがいいのか悩む親は多いと思いますが、ちいさんのように世界を決めつけず、その時の本人の気持ちを大切にして決められるのが一番いいだろうなと思いました。今回も非常に勉強になりました。ありがとうございました。

                                        (保護者)

 

普通小からろう学校中等部へ。大学時代の手話サークル。デフバレー部。このように自分の居場所を自分で作れるのは、素敵なことだと思います。

今の生活も充実しているようで、すごく幸せそうに見えます。ご主人とのコミュニケーションの部分でほっこりしました。日本手話と日本語対応手話、そして音声言語。お二人のお子さんがトリリンガルで使いこなせるようになるのだなあと勝手に想像しました。子どもの適応力ってすごいですね!

                                         (保護者)

 

お母様の手助けを受けながら、社会人として母として立派にやっておられて、とても頼もしく感じました。人生の時々に、しっかり判断して進んでらしたのだと思います。仕事復帰後も大変だと思いますが、ぜひ頑張ってほしいです。

                                         (保護者)

 

ちいさん、前向きで頑張りやさんで素敵な方ですね。その時その時で自分に合った選択をされていて、やらされているのではなく、自分で選んだ道だから頑張れるんだなと感じました。復帰されて大変なこともあるでしょうけど、これからも明るく頑張っていかれるんだろうなと思いました。

 

                                          (保護者)

            

 

 

 

ちいさんは、育児、仕事で今忙しくて大変な時期ですね。それに加えて、難聴があることで、お子さんや保育園の先生とのコミュニケーションの苦労があるのですね。でも、色々工夫して乗り越えてゆく強さを感じました。

小学校高学年でろう学校の進学を選択するなど、その時々で自分はどうするのがいのか、自分で考えて決断してきたことが本当にすごいなと思いました。自分のことを理解し、向き合うことができていたのですね。きっとお子さんも優しい人に成長し、頼もしい存在になることでしょう。今回も貴重なお話ありがとうございました。

                                        (支援者)

 

ちいさんは、中学・高校・大学・就職・子育てとその時々の大切な人生の節目で、ご両親やお友だちからの意見を参考にしながら、ご自身でよく考え、よい選択をされてきたと感じました。子育てをしながらの職場復帰は大変だと思いますが、お身体に気をつけて、ごろ湯真にお力添えをいただきながら無理せずにがんばってください。

                                         (支援者)

 

 


NO.24 「僕のきこえ方は、みんなと違うきこえ方です」@K君のきこえリーフレット

2025年04月08日 | 記事

【 K君のきこえリーフレット作成までのこと 】

 

 K君は、この春中学校を卒業して、高校に進学した。K君の右耳はほとんどきこえず、左耳にだけ補聴器をしている。左耳は平均聴力レベルは、68dBで、低音の方が高音域よりよい聴力型だ。幼児期に療育施設で個別担当をしていた縁がある。その後私が勤めていたクリニックにも聴力検査のために来ていたこともあり、折々に様子をきいていた。

 

< そりゃあ恥ずかしい! >

 K君は、小学校で「よくきこえる!」と喜んで使っていたロジャー(補聴援助システム)を中学校では、使わなくなった。教科ごとの先生にマイクを渡すなど、一人特別なことをするのは、嫌になったようだった。補聴器を装用していることについて、小学校では、「全然恥ずかしいと思ったことない」と言い切っていたのに、中学校になると、「そりゃあ恥ずかしいよ !」と言うようになった。当然だが、いつまでも無邪気な子どものままではないのだ。

 原因はよくわからないが、中学校では、けんかをして友だちをぶったりしてしまったこともあったようで、多少荒れ気味だったようだ。小学校の時、少しいじめられたことがあって、その時は、ことばの教室の先生と一緒にクラスに「難聴理解授業」をしに行った。彼も自分で「ぼくに話しかける時は、前に来て顔を見て話してください」とクラスメートに伝えることができた。それで何とかいじめは、エスカレートしなかったようだった。しかし、またしばらく経つと、「隣の子に『今、先生なんて言った?』ってきいたら、『自分で考えれば?』と言われた」と憤慨していたので、1回の理解授業では、永続的な効果はないのだなと思っていた。

 彼は、片耳だけのきこえに頼っているが、左耳の補聴器の効果はとてもよく、話している様子からは、きこえにくさがあるとは思えない。だから、誤解されることも少なくはなかっただろうと思う。

 

< 難聴理解授業 >

 中学校でも理解授業やろうよと持ちかけたが、今度は、彼は断固として拒否した。そんな恥ずかしいこと絶対やめてよ、という感じだったようだ。仕方なく、せめて先生方に理解していただきたい旨、小学校時代のことばの教室のN先生が中学校に申し入れてくださった。(埼玉県では、さいたま市にある1校以外には、中学校にことばの教室がない!)すると、校長先生が全校の教員に向けて、レクチャーをお願いしたいとおっしゃってくださった。そこで、N先生とろう学校の特別支援教育コーディネーターの先生と一緒に、中学校にお邪魔したのだった。主にN先生が、難聴について説明をしてくださったのだが、中学校の先生方の反応は、今ひとつというところだったと記憶している。

 お母さんによれば、部活のバスケットボール部でも、少々浮き気味なようで、それをきくと、何とも歯がゆい思いだった。その後、N先生がバスケットボール部の部員だけに理解授業をしてくださったともきいた。

 その内、彼には脱毛の症状が出るようになった。脱毛を診た医者に「何か悩みとかある?」ときかれても、彼は「特にありません」と答えたそうだ。彼の受け答えの様子からは、難聴ならではのコミュニケーション上の困り感は想像できないだろうなと思って、これも歯痒かった。

 もちろん断定はできないが、それまでの経緯をみても、それが精神的な悩みやストレスからくるものであった可能性は大きいと思っていた。

 

< 先輩との交流の試み >

 中学校2年の夏休みだったか、彼を所沢でやっているデフバスケットボールに誘ってみた。そこには、先輩たちがいて、同じ聴覚障害の仲間とバスケを楽しんでいる。すると、お父さんとお母さんとやはりバスケをやっているお兄さんと家族全員で来てくれた。家族が仲良しで、いつも家族ぐるみで行動するのが見ていてとても微笑ましいし、すごく良い映画を見ているような気持ちになる。

 デフバスケを見るのは、私も初めてだった。このブログでもご紹介した、たくさんやあつさんも参加している。先輩たちがやさしく声をかけてくれて、K君は、うれしそうだった。また、先輩と繋げることができることに、私も大きな喜びを感じた。先輩たちもまた、それぞれ辛い経験があり、それを乗り越えてきた人たちだ。実はこの春K君は、再び、お母さんやお兄さんとデフバスケに参加したということだ。

 

< オンライン英語の試み >

 中学2年生の12月ころから、私は、週に1回夜1時間だけ、K君の英語の勉強をオンライン(ズーム)で見ることにした。私はたまたま英語の教員免許を持っていて、それを活かしたいという気持ちもあった。彼はそれほど乗り気ではなかったけれど、同学年で幼馴染の人工内耳装用のMさんも誘うと、ちょっと張り合う良い関係の時間になった。それから1年と数ヶ月オンライン英語は続いた。K君どうしてるかなと心配しているより、週に一度顔をみられるのは、安心にもつながった。Mさんの顔も久しぶりに見られて、うれしかった。

 二人の英語の勉強は、めちゃくちゃやりがいがあった。かなり基本的なところからわかっていなかった。英語は一斉授業だけでは、なかなか理解できないだろうなと改めて思った。

 日本語だってきき漏らすのだ。ましてや英語のききとりは、難易度が高くなる。多分1対1での補習は必ず必要なのではないだろうか。

 しかし、丁寧に説明を繰り返し、英語の発音をゆっくり示し、さらにカタカナでも読み方を示していくと、徐々に理解が進んだ。語彙も増えたし、文法の理解も進んだ。段々と理解が進んで、私もうれしくなった。彼のお母さんから、K君が「お母さん!俺、英語の文章が訳せるようになった!!」と喜んでいたとラインももらった。

 知らぬ間に、徐々にK君の髪の毛も生え揃ったようだ。

 

< 晴れて高校合格! そして・・ > 

 そして!この春、K君もMさんも見事公立高校に合格したのだ。よく頑張ったなと思う。高校生活は、ぜひ楽しく過ごしてほしいと思い、高校での「きこえリーフレット」の配布を提案した。そして、K君には、先生方には配る、友だちに一斉に配るのは嫌だが、仲良くなった友だちには渡すということで、了解をもらった。

 オンライン英語の二人に向けて、高校入学祝いに、それぞれにカスタマイズしたリーフレット案を作成した。Mさんからは、まだ反応がないが、K君は、少し修正してほしいと申し入れがあった。そういう申し入れは大歓迎だ。それこそ、その人に合った、その人のためのリーフレットになる。私は、K君とズームで話し合った。

 K君の申し入れの内容は以下の通り。

1 まず、出だしで、補聴器を装用していても、完璧にきこえるわけではないことを伝えたい。

2 マスクをしているとわかりにくいことを伝えるところでは、マスクをすることがだめという言い方ではなく、僕がきき返したら、もう一度言ってくれればいいという内容にしてほしい。

3 電話は苦手で、家族としかできないとは、書かないでほしい。これまでも友だちと電話でやりとりしてきた。2時間くらいしゃべっていたこともある。

4 音楽は楽しめるけど、人前で歌うことは遠慮したいというのは、書かないでほしい。僕は、歌うことは大好きで、これまでも合唱もやってきた。家族でカラオケに行った時も家族は90点台で、自分だけ84点だったが、でも84点も取れる。

5 バスケットボールをしている時に動いていると呼びかけに気づきにくいというところ、

  バスケに限定しないで、運動している時、動いている時は、呼びかけに気づきにくくなると書いてほしい。

6 最後に、「こんな僕ですが、よろしくお願いします」、だけでなく、「こんな僕ですが、みんなと楽しくコミュニケーションができるようにがんばりたいと思っています、どうぞよろしくお願いします」にしてほしい。

 

 こんな感じの申し入れだった。K君が自分の思いを伝えてくれたのはうれしかった。最後にK君の願いが表現されて、それもとてもいいと思った。自分のきこえがまわりの人と違うことを、これまで随所で感じたのだろうし、彼がきき返した時、しょっ中嫌な顔をされたのかもしれない。運動中に呼ばれて、気づかなかったら、無視していると思われてしまったのかもしれない。そういう嫌な思いをした経験をばねに、新しい環境で少しでも過ごしやすくしようとするK君の気持ちにとても成長を感じた時間だった。

 

< 一人一人にカスタマイズしたリーフレットを! >

 つくづく思ったのだが、難聴とはこういうものである、という一般論的なリーフレットではなく、その人に合った、その人の思いを込めた、その人にカスタマイズされたリーフレットこそが必要なのではないだろうか。確かに、「歌うこと」一つを取っても、苦手で人前では歌いたくない人もいるだろうが、歌うことがとても好きで、上手に歌える人もいるだろう。聴力の違いももちろん大きい。

 通常は、聴力の差が取り沙汰されるが、それ以外に、その人の好き嫌い、感じ方、得手不得手、色んな要因があるのだから、決めつけずに、その人の思いを聞き取ることが大事なのかもしれない。

 で、出来上がったのは、これだ。パワーポイントで作成した。イラストは、恥ずかしながら、私がiPadでibisPaint(アイビスペイント)という無料のアプリを使って描いた。結構苦労したが、久しぶりのお絵描きは楽しかった。A4に2ページ印刷でもよいし、A4に4ページ印刷でもよい。取り敢えず、先生方にはA4に2ページ印刷で作ることになった。

 K君宅にPDFを送った後は、自分で印刷して作ってもらうこととなった。イラストも含めて、全部自分で作るというのもすごくいいと思う。でも叩き台があった方がいいし、これから、いろんな修正を加えて、よりよいアイディアも生み出していけたらいいなと思う。

 このリーフレットの学校での反響やいかに。K君の報告を楽しみにしている。

 高校生活を思い切り楽しんでほしい。

 

< 驚きの知らせ >

 このブログを書くにあたって、K君のことを、脱毛の件も含めてブログで書いてよいか、お母さんと彼に打診した。K君は、脱毛の件も書くの?と始めは、ちょっと抵抗を示したときいて、やはりそれをストレートに書くのはやめようと思った。しかし、次の日、またお母さんからラインが来た。だいたいこんな内容だ。

 

 「おはようございます。Kが自分から、『先生は、俺の脱毛の事も書くって?』と再度きいてきたので、『気を遣ってくれてて、書く事でKを傷つけるんじゃないかと思ってるから、今検討中みたいだよ』と伝えました。そうしたら、『全て書いてほしい!ほとんどの髪の毛が無くなった俺だよ!怖いものはないよと。』(笑)その後、『2年生の時、女子3人グループに、ハゲてるよね?ってバレて、でも、その頃、他にも脱毛症の子がいて、その子はスプレーもせずに隠してもいなかった』と、私が聞いたこともない話をしてきました。きっと当時は渦中にいて、辛すぎて、親にも話せなかったんでしょうね。今は、そこを乗り越えたから、言えるようになったんでしょうね。今、次のステップに向かって歩き出したので、当時の辛かった記憶を吐き出せるようになって、みんなにも共有してほしいと思えるところまできたんですね。と感動してしまい、朝からラインしました」

 

 私は、このラインを3回くらい読み返してしまった。そして、K君が大人への階段を一歩踏み出すしっかりした足音を聞いた気がした。古いことばだが、「艱難汝を玉にす」ということばも思い浮んだ。

 つらい経験はない方がいい気もするが、そういう経験が人を強くすることもまた、真実だ。もちろん家族や、周りの支えがあってのことだが、最後は「自分の力で」その経験をプラスに変えることこそ、次へのステップになる。

 今回の経験で私もまた、たくさんのことを教えてもらった気がする。

 これからも、一人一人にカスタマイズした「わたしのきこえリーフレット」を勧めていきたいなと思う。

「みんなと同じ」ことで安心する日本の文化の中でセルフアドボカシーを進めていくには、こういう視点が必要なのだと思う。

                           2025年 春爛漫の時


NO.23 MISAさんのお話への感想をいただきました。

2025年02月26日 | 記事

 MISAさんの難聴ストーリーを前回のNO.22のブログでご紹介した。動画を視聴した方々から送られてきた感想は、ご本人に匿名で読んでいただいた。みなさんのお役に立てるような話ができたか、自信がなかったので、感想を読んでうれしかったです!とMISAさんから返事がきた。ことばの教室の後輩や、MISAさんとお話ししたことがあるという当事者からも感想をいただいた。 以下にその感想をご紹介する。

 

  • 当事者からの感想

 

 まず、早い段階での出産→子育てをされていてすごいなと思いました。まだまだ遊びたい年齢なのに仕事して子育てして…尊敬します。ご両親のフォローも大きいと思いますが、本当にすごいなって思いました。今の私は自分がやりたいことをやってるだけなので(笑)

 高校時代にクラスに男子がいるかいないかというところはとても共感しました。私は高校が女子高で、今の専門学校には男子もいるので、自分の立ち回りなどに差があることを実感してます(笑)

 もう少し妊娠出産や子育ての話を聞けたらな〜と思いました。

あとジャニーズの話になった時に「誰が好きなんだろう?ライブ行くんだ!いいねぇ!」とウキウキで聞いていました。  

                                  <専門学校生> 

 障がいを隠すのは良くないということ、とても共感しました。

 聴覚は隠したことはないのですが、視覚で隠して失敗した経験があります。

 ちゃんと打ち明けるべきだと感じました。

 また、就職活動とかでも何ができて何ができないかをしっかり伝えることがとても大事だと思いました。

 しっかりそれらを伝えていなければ、会社に入ってから苦労することになると感じました。

 自己分析をして就活に臨んでいきたいと思います!      <大学2年生>

 

 ことばの教室の先輩だ!と久しぶりに元気そうなお顔を観られて嬉しかったです。

でも全然変わってないですね!

 小学校以来お会いしていなかったので、色々と驚きでしたが、関コンの話が出てきたとき、私も参加してみたかったなぁと思いました。(当時全く知らずで、大人になってから知り合った人に存在を聞きました)今はそういうのが無くなってしまい、若い方々にとって本当に残念なことです。今まで補聴器を隠したことが無いということに驚きました。学校や会社など関わりのある場所では情報発信は本当に絶対必要ですね。

 無駄な誤解を招かないように自己防衛は必要だなと改めて思いました。

 フットサルをされているとのことなので、いつかまた、どこかでMISAさんと会えそうな気がします。                                  <会社員>

 

 MISAさんの持ち前のはっきりした性格、明るさで社会性の問題を自分のものにしたと言う印象です。

 現在4歳の娘がいるのですが、出生からもうすでにどんどん下がり、左右差ありの聴力で、全く同じ聴力だったので重ね合わせて見ていました。

 聞こえているから【大丈夫】はないなと改めて認識し、その聞こえないことを隠さない、説明する力は改めて大事だなと思いました。女の子や女性の場合はホルモンや出産の関係で変動しやすいのも最近知ったのでこればっかりは避けられないなと思います。(重度の人工内耳には無縁な話だったので気をつけなければならないと思ってます)

 MISAさんにまたデフフットサルで会う機会がありましたら当事者として、そして子育てする母としての配慮の依頼、改めてまたお話ししたくなりました。                                  <子育て中母>

 ※  聴力は、ホルモンの影響だけで変動するものではありません。

 MISAさんとは同じ世代で、実際に会って話したこともあります。彼女が若くして結婚し、子供を育てながら仕事をしていることは知っていましたが、彼女の生い立ちについては詳しく知りませんでした。今回、ゆっくりと読むことができてよかったです。

 彼女が『補聴器は絶対に隠しちゃダメ!隠したら意味がないんだから、隠す必要なんてない』と言っているところを読んで、補聴器を見せてこなかった自分にとってはドキッとしました。周りから勧められても、自分には隠さずに見せることができなかったので、MISAさんの強さに感動しました。

 また、彼女が人生の壁にぶつかっても、それを楽しむことができる姿勢がとても羨ましいと思いました。私は30代になってようやく苦労を楽しむ心境になれたのに、MISAさんは小学校や中学校の頃からそれができていて、本当にたくましく、かっこいいと感じました。

 息子さんが専門学校の卒業制作発表で、指文字や手話に関する動画を作った話にも感動しました。めまいもあってあまり無理ができない体の中で、一生懸命に仕事と子育てを両立させて、立派な息子さんに育て上げたことに、同じ子を持つ親として涙が出ました。

 忙しい中での貴重な体験を聞かせていただき、本当にありがとうございました。                                <手話講座講師>

 

  • 保護者の感想

 

MISAさんの動画を拝見しました。YouTube配信形式、すごく見やすかったです!ありがとうございました。

印象的だったのは、MISAさんの「補聴器を隠そうと思ったことなんて一度もない!説明しづらいときほど見せないと!」と明るく髪を耳にかけてらっしゃったところです。

難聴児の母として、MISAさんと全く同じ気持ちなのですが、わが子もMISAさんのように、明るく補聴器を見せてくれるようになってほしいな!と思いました。

あと、息子さんとのお話も印象的でした。授業参観のときのお話にほっこりしました。もっと聞きたいなと思いました。

今回も貴重なお話をありがとうございました!また次回楽しみにしております。                            <療育施設4歳児の保護者>

 

・小学生の頃から、自己紹介で「耳が聞こえないから大きな声で話してほしい」と配慮を求められていたのが素晴らしいと思いました。周囲の理解があったからこそ、小・中学校とあまり困らなかったのかなと感じます。高校生になって雑談についていけないことがあった、とおっしゃっていましたが、会話のレベルが上がってくるのもあるでしょうが、友達関係の深さなどでも関係があるように思います。

・指文字を使って息子さんとコミュニケーションがとれたエピソードが素敵でした。指文字を覚えておいて損はない、あるにこしたことがない、全てあって全てよし、と改めて感じました。

                          <療育施設4歳児の保護者>

 

MISAさんの動画、拝見しました。

何事にもポジティブで、困った事があっても、『楽しかった』と言う言葉で締めている部分が、MISAさんの人間性を感じられて素晴らしい方だなぁと思いました。

学生時代の先生からの配慮に関して、『大丈夫・他の子もいるし恥ずかしい』と言うWordは、我が子にも当てはまるので、今後も親として出しゃばりすぎずに本人の様子を見てフォローを続けられたらなぁと思いました。

小学校一年生・高校一年・23歳の時と3ヶ所で聴力が落ちる場面があった様ですが、親としてこれは、本当に怖いです。

ただ、この様な経験を今後することになるかもしれないと言うことは、我が子に伝えて行こうと思いましたし、我が子は脱毛症もあるので、ストレスや寝不足には気をつけて行こうと改めて思いました。

今回のお話を聞いて、今後も息子の1番の理解者で居たいと思いました。

素敵なお話しありがとうございました!!                         <中学生の保護者>

 

いつも動画を配信していただき、ありがとうございます。

MISAさんの明るくエネルギッシュなお話し、今回も励まされました。

ハローワークで障害者の就職面接等を紹介しているというのも、情報としてありがたかったです。

また、3度のひどい目まいと入院、ステロイド剤による治療、聴力低下というお話しを聞いて、こういう症状なのだと、初めて理解しました。

 娘も、目まい、頭痛、聴力低下を経験しましたが、また様子が違いました。MISAさんのように、ある意味はっきりとあらわれませんでした。いつもより少しつらい目まいがあり、しばらくたって耳の聞こえも悪くなったようだ、と受診しても、時間がたっているせいか、投薬の効果もあまりありません。先生は、ひどい目まいがあったはず、とおっしゃいますが、そこまで顕著にひどいことはありませんでした。その時は聴力も数ヶ月でほぼ回復しましたが、小学校高学年くらいからやはり徐々に下がってきたのです。

一人一人聞こえの状態、症状もほんとうに違いがあるのだと思いました。

やはり、いろいろなケースを知る機会は大切だと感じます。

今回もありがとうございました。

追加です。

 MISAさん、きっととてもツラいことをその都度乗り越えていらしたんですね。

立派に子育てして、本当にこれから楽しんでほしいです。応援したいです。 <大学生の保護者>

 

 マッキーズ(本ブログNO.15「マッキーズのこと」でご紹介。手話のおしゃべり会のこと)にもいらっしゃって明るさとコミュニケーション力が素敵なMISAさんのお話しということで、おこがましながらお友達の話を聞いているようで、とても嬉しかったです。

 MISAさん、きっと今まで大変な思いをたくさんなさってきたと思うのですが、いつも前を向いて何事もプラスに捉えていらっしゃる姿に感動しました。

 障害のあるなしに関わらず、人にはその時々の選択があり、それが成功したり失敗したりを繰り返していくのだと思いますが、やはり常に前向きな姿勢、柔軟な対応ということが大切で、きっとそれが周りの人々との良い関係性を築いたりと、自分も周りも幸せになるのだなぁとMISAさんのお話しを聞いて感じました。

 私のこれからの生活にもとても良い勉強になりました。

 貴重なお話をありがとうございました。

                               <大学生の保護者>

 

 

  • 支援者の感想

 

 頭の回転早く、スパスパ物を言うMISAさんのトークが気持ち良く、楽しく拝見致しました。MISAさんの社会適応能力の高さ、周りをも元気付けるパワーがありますね。

 元療育施設のS Tだった者としまして、あの頃はただ楽しく仲間と遊んでいたとのお話しが、大変嬉しかったです。言葉を教え込むのではなく、子どもたちの自発性自主性を大切に、遊びの中から学び取って貰える様にプログラムを作っていました。MISAさんの人とコミュニケーションする事への積極性や自信を育む土台を提供できたかな、と思いました。                                      < 支援者:言語聴覚士 >

 

 こんばんは。いつもお知らせをいただき、ありがとうございます。

 みささんも、自分とほぼ同年代なので、時代背景を思い出しながら拝見させていただきました。

 自分の聞こえについて、「一番最初が肝心。こうしてもらう方が自分にとっていいと、最初から周りに言った方がいい」と考え、実行されている姿勢が、素晴らしいと思いました。また、「補聴器を隠す必要なんてない!」と断言されるMISAさんに、芯の強さを感じました。

 子育てをされながら仕事を探し、現在は20年勤続で息子さんも育て上げるなんて、本当にかっこいいです。理解ある上司や同僚に囲まれたのは、MISAさんの賢さがあったからだと思います。息子さんのお話では、ご立派に育っていて、私も胸が熱くなりました。

 今は、プライベートも楽しんでいらっしゃると笑顔でお話をされていたので、体調が安定されていて良かったです。ご活躍を応援しています!

 今回も貴重なお話を伺い、勉強させていただきまして、ありがとうございました。 

                            < 支援者:ことばの教室教員>

 MISAさんのサバサバした考え方や行動が、格好いいなと思いました。どのようにしたらそうなるのか、家庭環境なのか、元々の性格なのか…。いずれにしても、ありのままの自分を受け入れ、それを正直に出せることが、自分らしく、楽に生きられるのかなと思います。これは誰にでも言えることですね。

 仕事や子育てで大変なこともあったと思いますが、優しい息子さんに育っていて、ミサさんの愛情がしっかり伝わっているのが分かりました。息子さんが1番の理解者という言葉に心打たれました。今回も貴重なお話をありがとうございました。

                                                               < 支援者:ことばの教室教員 >

 

以上、いただいた感想をご紹介した。

 

 感想をいただくと、一人一人きこえや個性は違うけれども、社会人として生活している先輩の姿は、みなさんの励みになっているのだなと実感する。きこえる人の世界で生活している人たちの中には、孤軍奮闘している人も少なくない。また、難聴のある友人とそこまで深い話をするとは限らない。

 みなさんが、自分とは違うなと思ったり、自分と共通するところを見つけて励みにしたりしながら、自分のやり方で進めるように、これからもロールモデルをご紹介していきたいと思っている。