難聴のある人生を応援します @ライカブリッジ 

難聴のあるお子さん、保護者、支援者の方々に先輩社会人のロールモデル等をご紹介します。様々な選択肢、生き方があります。

社会人難聴者に学ぶ 〜みんなのヒストリー〜

 このブログの主な内容は、難聴児療育に長年携わっていた筆者が、成長して社会で社会人として活躍している難聴者についてご紹介するものです。乳幼児期に出会ったお子さんが大人になり、社会で経験してきたことについて知ることは、筆者にとって大きな学びのあるものです。難聴のわかりにくさを改めて感じることもしばしばあります。話を聞かせていただくうち、これは是非多くの方に知っていただいて、彼らの貴重な経験を活かしたいと思うようになりました。
 そして、これから成長して、学校に通い、自分の将来を考えようとする若い難聴の方々だけでなく、すでに社会で働いている方にも読んでいただき、難聴ならではの苦労だけでなく、生き方の色んな可能性についても知っていただければうれしいです。
 できるだけたくさんの生き方、働き方、考え方をご紹介することで、同じ悩みを発見するかもしれませんし、勇気を得ることも、共感できて励みになることもあるかもしれません。
   筆者は、ライカブリッジという任意団体で活動しています。ライカブリッジは、「like a bridge」(橋のように)難聴のある方々同士又は関係者同士を橋渡ししたいという気持ちで活動する任意団体です。筆者と難聴のあるお子さんを育てる保護者有志で活動しています。
2021年春から活動を始め、これまで10人の難聴のある社会人のインタビューを行い、それを録画し、zoomで共有したり、YouTubeの期間限定の配信をしたりしました。共有や配信の対象は、難聴のある小中高大生、保護者、支援者です。宣伝ややり方のアイディア、情報保障についてはライカブリッジの仲間と力を合わせてやってきました。
 <これまでのインタビュー> 
 これまで10人の社会人を紹介してきました。筆者がが幼児期に療育施設で出会った方々です。皆さん快くインタビューに応じてくださり、忙しい中、後輩たちの力になれればと協力してくださいました。
 1 37歳看護師(中等度難聴)
 2 28歳作業療法士(高度難聴)
 3 30歳ウェブ制作 フリーランス(重度難聴)
 4 31歳ろう学校教員(重度難聴)
 5 27歳公務員(中等度〜高度難聴)
 6 28歳劇団員(高度難聴)
 7 29歳鉄道会社社員(高度難聴)
 8 39歳会社員(重度難聴)
 9 31歳歯科技工士(高度難聴)
 10 31歳証券会社社員(中等度難聴→高度難聴) 
  11 29歳保育園勤務経験8年 (重度難聴)
 今後もこのインタビューは続けますし、このブログにも紹介していくつもりです。社会人の紹介の他にも、たまに日々の思いなども綴りたいと思っています。
 今後、もっともっと社会に「難聴」についての理解が広がり、きこえにくさにちゃんと配慮できる仕組みが整っていくように願っています。
※ PC版では、左側に「メッセージを送る」があります。そこから筆者に個人的にメッセージが送れます。インタビュー動画がご覧になりたい場合は、メッセージから申し込んでいただければ、本人の了解を得て、申込者のアドレスに動画のURLをお送りします。どの動画か、また視聴希望の理由とアドレスを送ってください。ただし、視聴は、期間限定です。拡散せず、ご本人のみでご視聴ください。

NO.9 わたしの難聴ヒストリー⑤(公務員たかさんの場合)

2024年03月21日 | 記事

たかさん 公務員 27歳 右80dB 左70dB   補聴器装用

 

3歳で難聴を診断されて、療育施設の3歳児クラスから参加した。右が80dB以上、左が70dB程度の聴力だった。筆者は、就学までの3年間個別とグループの両方を担当した。おとなしくて、ニコニコしていて、やさしい感じの男の子だった。どちらかというと争いごとは好きではなかった。聴力検査中に検査音に耳を傾けているうちに寝そうになってしまい、あわててしまったことを覚えている。そんな小さくて可愛かったたかさんも社会人となって私にその経験談を語ってくれた。

 

【 たかさんのストーリー 】

<幼児期〜小学校時代>

 療育施設での思い出は、ひな祭りでお雛様の衣装を着たこと、節分の豆まきのこと、秋には栗のむき方を教えてもらったことなどどちらかというと、行事の思い出が多い。グループでは、「エルマーのぼうけん」の劇ごっこ、太鼓の発表会も印象に残っている。

 自分の難聴を意識したのは、幼児期5歳ころだった。療育施設に母と通っていたが、その帰り道、JRの駅で行き交う人たちが補聴器をしていないことにふと気づいた。その時、自分はきこえないから補聴器をかけているんだなと思った。それが初めて難聴を自覚した時だった。

 幼い頃はアナログ補聴器だったが、のちにデジタル補聴器にして、かなりきこえがよくなったと感じている。

 

 小学校1年生では、母がクラスメートや保護者に配布するための資料を作ってくれて、クラスの子ども、保護者に難聴についての理解をお願いしてくれた。学校は椅子の足にテニスボールをつけてくれた。また、担任の先生が工夫して、「静かにしてください」と「もう一回言ってください」という旗を作ってくれた。それを掲げることで、クラスがうるさい時やきこえなかった時に意思表示をした。結構役に立った。高学年になると使わなくなった。多分恥かしくなったのだろう。いじめられたことはない。

 小学校1年生の初めの頃は、先生の話を聞かなければならないということを理解していなくて、算数も足し算が理解できなかったことを覚えている。また、小学校5年生の時に「明日は水筒を持ってきなさい」という指示をききもらして、一人だけ水筒がないという嫌な思いをしたこともあった。

 友達の雑談には全くついていけなかった。特定の2、3人の友達を中心に会話をしていた。その友達は慣れている友達だったので、聞き取りやすかったし、慣れている人との2、3人での会話なら大丈夫だった。あの人と話したいなーというのはあったけど、ハナから諦めていた。今はそんなことはないが。

<中学校時代>

 部活は卓球部に入った。小学校時代からの長い付き合いの友達と一緒にいた。話が聞き取れない時、何度も聞き返しやすい気心知れた友達だった。全体的に目立つこともなく、無難に過ごしていた。

 中1の時から英語のリスニングがあったが、聞き取れなかった。母が先生にかけ合って、別室でラジカセで受けさせてもらったが、それでも聞き取れなかった。高校受験の時は、私立だったこともあり、リスニング以外のものに換えてもらった。授業では、板書を書き写していると先生の話を聞くことがおろそかになった。「聞くだけ」、「書くだけ」ならいいが、何かしながら聞くと言うことができなかった。聞いたことをメモするというのも難しかった。ふつうの子達に負けたくないという思いはあったが、自分に苦手なことがあることに気づくうちに、中学生くらいから「自分はこんなもんだな」という諦めの気持ちがあった。

 しかし、兄がいつも自分のよいモデルになっていたように思う。兄には難聴はないが、自分の経験から、勉強のことや色々なことについてアドバイスしてくれた。兄のあとに続けば間違いないと思っていた。受験勉強も兄をモデルにがんばった。

<高校時代>

 高校は私立の進学校(男子校)に入学。地元の高校ではなかったので、誰も自分のことを知らず、一から友達を作らなければならず苦労した。その頃から、自分には難聴があることは、言わないとわかってもらえないと思って言うようになった。初めは恥ずかしい思いもあったが、補聴器を見せることでなんとなくわかってもらうのではなく、はっきり言う方を選んだ。

 教室で「ぼっちの子」(ひとりぼっちの子)に片っ端から話しかけた。部活(バドミントン)でもぼっちだったので、やめたかったけど、3ヶ月我慢しようと思って続けていたら、友達ができた。

 情報保障は特になかったし、学校には特に求めなかった。特別な対応をされることに拒否感もあった。それで、大事な情報を取り逃すこともあったが、洞察力のようなものがついたかもしれない。後で、高校を選ぶ時に情報保障があるところを選ぶ人がいるということを知って、目から鱗な思いだった。

 

<大学時代>

 私立の大学の政治経済学部に入学、男子校であった高校と違って共学で、そう言う意味では楽しかった。兄や母の勧めもあって、文化祭の実行委員になった。その活動で友人もできたし、大学生活も充実したものになった。

  大学生活では、LINEという手段があったので、LINEがつながれば、文字でのやり取りを通して関係を築くこともできた。

ただ、難聴については、必ずしも友人の理解があったわけではない。もちろん初めて会った時には、「私には難聴があります。何回も聞き直すこともありますし、後ろからの話しかけに気づかないこともありますがよろしくお願いします。」とは言うようにしていた。とは言っても、そういう自己紹介をしたところで、その後ずっとわかってくれるわけではない。いちいち説明するのは自分としてはやりたくなかった。

むしろ自分がうまく立ち回ることを学んだかもしれない。場の空気を読んで、周りに合わせることでその場をやり過ごすようなこともあった。一気飲みとかやりたくないことでも要求されたことに合わせるためにやったこともある。そういうことはあまり思い出したくないし言いたくない思い出だが、ひとつの処世術だったと思う。

大学の途中で高卒資格の公務員試験を受けた。障害枠で受けた。難しいときいていたが、受かってしまった。これから4年生になるというところだった。3年生までの単位は全て習得済みで、あと卒論を残すのみという状況だった。大学に相談したら、就職しつつ、卒論を書けば大学も卒業させてくれるという話だった。卒業旅行は、先輩がシンガポールに連れて行ってくれた。それで踏ん切りがついて、就職を決めた。卒論は仕事をしながら書いて提出し、無事大学も卒業した。

<学生時代のアルバイトの話>

 アルバイト先を見つけるのには苦労した。難聴のことを言うとなかなか雇ってくれなかった。4〜5社受けて1社受かるくらいだった。ファミレスのキッチンは耳を使わなくていいかと思ってやってみたが、「卵抜き」の指示などが、口頭指示で、やはり聞くことを求められた。個人経営のカフェのウエイターをしたが、そこは、なじみのお客さんがいて、時間にゆとりのあるお客さんが多かったので、働きやすかった。アルバイト先は働きやすいところを選んだ方がいいなと思った。アルバイトの経験で「確認する」ことの大切さを学べたと思う。

 スターバックスの試みでスタッフが全員ろう者という職場があるが、魅力的ですごく憧れる。まわりに理解者しかいないというのは、いいなと思う。

 

<社会人>

 公務員となり、公立高等学校の事務職員となった。神津島に異動になり2年間過ごしたこともある。始めは、早く島から戻りたいと思っていたが、人があまり多くなく、皆知っている人ばかりでとても居心地がよかった。まさに住めば都だった。休日にスキューバーダイビングの資格も取って、休みの日の遊びも充実していた。今後また、そこに異動を希望して行ってもいいなとも思っているほどである。

 公務員の研修の時に、初めてノートテイクが必要かどうかきかれた。その経験がなかったので、お願いしてみた。すると研修中に自分の近くに3人の人がスタンバイしていて、交代でノートテイクをしてくれた。自分の力だけでは、大体7割くらいしか聴取できないので、100%の情報がわかるのはありがたかった。しかし、それまでずっと自分の力でどうにかしてきたので、非常に居心地が悪かった。まわりの目ということもあるし、わざわざ自分のために3人も待機してくれるというのが、どうにも申し訳なさすぎて、罪悪感みたいなものを感じてしまったのだ。

 これからは、公務員ということで恵まれている部分もあるのだから、支援を受け慣れていないところを変えていけるチャンスと捉えてよいのかもしれない。

職場でのエピソードでこんなことがあった。加齢性難聴で補聴器をしている女性が一緒に働いている。その女性は補聴器をしていることを恥ずかしく感じていて、補聴器を髪の毛で隠していた。ある時、その女性にこんなことを言われた。「あなたは、初めから自分に難聴があること、それで補聴器をしていることを堂々と周りに伝えている。それで周りの人の対応も変わってきている。私は、あなたのおかげで勇気が出ました。」と。隠さないで伝えることの大事さを自分の姿を見て学んだと言ってもらった。自分には、開示しないという選択肢はないし、わかってもられるかどうかは別として、開示しなければダメだと思っているが、そんな風に言ってもらって、ちょっと驚いたし、うれしくもあった。

 

<インタビューを終えて>

 たかさんは、1対1で面と向かって話をしていると、難聴があるということはわからない。聞き返しもほとんどないし、こちらの話もはっきり喋るとか、口の動きをわかりやすくなどの配慮もほぼなくても会話が成立する。そういうたかさんが子ども時代から大人への道筋の中で、どのようにまわりの人たちとのコミュニケーションを積み重ねてきたかという話は、とても興味深かった。

 特に小学生時代から、大勢のにぎやかな子たちとの雑談に入るのは、諦めていて、特定の少人数の友達との付き合いに終始していたという話は、印象的だった。本人の性格もあると思われるが、雑談は入れなかったときっぱり言い切っていたのは、改めて驚いた。側から見ると、少人数グループを好むのは、本人の性格からくるように見えるが、きこえのことが関係していたのだなあと改めて思った。

 たかさんが小学校の時にお母さんから聞いた話がある。それは、たかさんが友達2人と一緒に3人で下校している時のエピソードだ。たかさんは、3人で横並びに並んで下校している時、横に並んで話をすると友達の顔が見えず、話の流れについていけないのだろう。時々少し小走りで前に走っては、後ろを向いて友達の顔を見ながら会話をしていたそうだ。追いつかれるとまた小走りで前に走り後ろを向くということを繰り返して会話していたのだ。多分二人なら歩きながら顔を見るのは難しくないが、3人となるとそうはいかなくなるのだろう。

 その姿を見ていたおじいちゃんが、孫のたかさんを不憫に思って、高い補聴器を買ってくれたというオチがあるのだが、私は、その話をきいて、子どもたちの日常での1コマ1コマについて私が知らないことがたくさんあるなと思った記憶がある。コミュニケーション場面は、1対1の落ち着いた会話以外の様々な形があり、特に子ども時代には、動きながらのやりとりが多いだろう。わーわーという騒音の中でことばが行き交う状況で、難聴のある子どもたちは、何かしらの疎外感を積み重ねてゆくことは想像できる。

 まだ会話の内容がそれほど複雑ではないから、それほど問題ではないという人もいるが、たかさんに関しては、小学生時代にすでに「あの人と話したいなーというのはあったけど、諦めていた」というし、中学校でも付き合いの長い特定の安心できる友達との付き合いの中で過ごしていた。そして徐々に自分に苦手なことー英語のリスニングや先生の話をききながら書き留めるということーなどによって、どうも自分は普通より劣っているらしいと思い始めたということは、彼の性格というよりも難聴からくることだろうし、他にもそういう思いをしている子どもはたくさんいるだろうと想像する。大きく悩まなかったとしても、静かにあきらめていて、その状況を見抜いている人はなかなかいないのではないかと思う。

 彼の時代はまだまだ情報保障の行き届かない時代であったことも一つであろう。せめてロジャーのような補聴援助システムでもあったら、また違っていたかもしれない。ノートテイクも「自分のために3人も労力を使ってくれる」ことに居心地の悪さを感じ、全体の話の7割くらいをききとり、わからないところは、誰かにきくことで何とか切り抜けてきたという経験の中で培った「処世術」が彼の大切な手段であることは、今も変わらないらしいし、実際それでちゃんと仕事もこなしている。そういうスタイルが出来上がっている。

 インタビュー後にロジャーも勧めてみたが、あまり必要性を感じないようだった。補聴器の性能も向上し昔と比べるとかなりきこえが改善されていると感じているし、ブルートウースの機能の恩恵にも預かっているようで、その現状で特別困ることはないということである。

 難聴でインクルージョンしている子どもたちは、どうしてもきこえる人たちの中でコミュニケーションを積み重ねるので、他の人よりできないことがある、他の人より劣っているという自己認識に到達しやすい。大人は、学習面ばかりに目を向けがちだが、本来の性格とは別のところで、集団生活の中で遠慮して過ごしている子どもが少なくないだろうし、そこは、70dB以下くらいの難聴のとてもわかりにくい面だと思う。人工内耳の人にも言えるかもしれない。

そんな中で、たかさんが同じ職場の補聴器の女性に「あなたのおかげで、勇気をもらった」と言われたことは、貴重なポジティブな経験になったのではないだろうか。しかし、きっと今後、後輩たちの中にも彼の経験談を励みにする人たちが出てくると思っている。

今後仕事を続けて行く中で、経験を積み重ね、自信をつけてゆくこともあるだろうし、彼のように肩肘を張らない生き方に共感する後輩も出てくるだろうと思った。

 


NO.8 わたしの難聴ヒストリー ④ ( 特別支援学校教員かおさんの場合 )

2024年03月12日 | 記事

かおさん 特別支援学校教員 31歳 両耳100dB 補聴器装用 

かおさんは、1歳頃に家族がきこえが悪いのではと気づき、病院で相談し、1歳2ヶ月で高度難聴と診断された。療育施設で彼女に出会ったのは、1歳5ヶ月とのことである。小さい時から割と自己主張がはっきりしていた女の子だったと記憶している。よく廊下にひっくり返って、お母さんを困らせていた。かおさんのお母さんが、お舅さんに「神様があなたを選んでかおちゃんを授けてくださったのだから、一生懸命育てなさい」と言われたとお話された。そういうことを言えるお舅さんてすごいなと思ったことを覚えている。

 

【 かおさんのストーリー 】

<幼児期〜小学校>

 初めは難聴児通園施設に通っていた(幼稚園と併用)が、そこでろう学校(今の特別支援学校)の方がよいのではないかと言われて、年長組(5歳)の時からろう学校幼稚部へ、小学校2年生まではろう学校に通った。しかし、2年生の時の担任の先生のアドバイスで3年生から地域の小学校に変わった。  

 母からは、幼稚園の時に一緒だったお友達と一緒にお勉強したり遊んだりできるよと言われた。自分としては、それほど深く考えずに地域の小学校に移った。6年生までの4年間は長く感じた。その当時は、ろう学校は、キュードスピーチを使用しており、口話という意味では、それほど大きなギャップはなかった。が、移ってみると、ろう学校とは大きな違いがあり、とまどいは大きかった。

 3年生の時は、先生が何を言っているのか、どこを見ればいいのかがわからなかった。先生にうまく伝えることもできなかった。家で幼児教育教材を利用したり、そろばんに通ったり、お母さんが、家で音読を見てくれたりして補ったのだと思う。そのうち学校では、段々「大体こんなことを言っているんだな」と見当をつけられるようにはなったが、間違えることもあった。

 初めは一人でいることも多く、どうしようと思っていたが、段々と、きこえないことを友達に伝えられるようにもなり、仲よくなった友達と手紙を交換したり、2、3人の友達はわかってくれる子も出てきた。

 小学校で何が流行っているのかなどの情報を段々と得て、モーニング娘などのことを知ったりした。コミュニケーションは、1対1なら何とかなったが、複数人数の会話はわからなかった。わかってもらえなくて、いじめられたりもした。男の子に「無視しただろう」といじめられたりした。

 小学校5、6年生の時は男の先生で、いじめられたと訴えても、細かく対応してもらえなかった。わかってほしくても、うまく伝えられなかった。ことばの教室の先生やお母さんに吐き出したりした。この頃の記憶は、嫌だったなというのが強い。今ならもっと自分の思っていることや経験を伝えられるかなと思う。その頃の経験は、今となっては、自分が強くなれるきっかけになったかなと思っている。

<中学校時代>

 中学校はろう学校を選んだ。もうつらい思いをしたくなかった。そこで手話を教えてもらって、楽しくコミュニケーションが取れた。その頃には、ろう学校はキュードスピーチに代わって手話を取り入れていた。授業もよくわかった。一つ欠点は、授業が遅れるということだった。そこで友だちを「そんなことも知らないの?」と上から目線で見て、先生に厳しく叱られたりした。それを叱られたことは、自分が後に先生になるきっかけにもなった。

 しかし、ろう学校は、学習面や友達との会話の内容に少し物足りない思いがあった。ろう学校でいっしょだったライバルが地域の高校を受験するというのをきいて、対抗心もあり、高校は地域の高校を受験した。お母さんには反対されたが、「がんばりたい」と説得してわかってもらった。受験して地域の高校に入学した。

 高校では、いろいろな人と出会い、刺激的だった。色々な学科があって、文化祭も面白かった。よい友達にも恵まれた。やさしく気を配ってくれる友達もいた。授業は、一年生の時はわからないことが多かった。それでも高校生活を楽しめればいいかなと思っていたが、学力が落ちて下の方になってしまった。これはいけないと思って、勉強の仕方を工夫して、下位にならないように努力した。

 先生にも、顔を見て話してほしいとか、お願いしたりした。困ったのは英語で、英語には悩まされた。英語のリスニングのテストが全然できなかった。初めは、一人別室で外国人の先生が英語でしゃべってくれた。しかし、それでもわからなくて、泣きながらリスニングを受けた。その後、「別室はやめて普通でいいです。勘で書きます。リスニングのテスト捨てます」と先生に言った。ライティングとリーディングをがんばることにした。できるところは頑張って、できないことは捨てるというやり方をした。塾は、高3の受験勉強の時だけ通った。

 ろう学校に帰りたいとは、あまり思わなかった。やはり刺激がたくさんあることが、自分には大事だった。おしゃれな子がいたり、かっこいい子がいたり、高校は色んな人がいて刺激的で、それが魅力だった。

 友達が自分の難聴を心からわかってくれたかというと、それは難しかった。きこえのことは、うまく説明できなかった。1番の理解者はお母さんだった。

<進路を選ぶに当たって>

 お母さんが薬剤師、お父さんが歯医者というのもあって、医療系の仕事につきたかったが、医療系には、成績が足りなかった。理学療法士もなりたかったが、コミュニケーションが難しいかなと思った。母に作業療法士を勧められたが、その養成過程の学科は落ちてしまった。第2希望として書いた児童学科だけ受かった。

 その頃すでに高校3年生の3月で、浪人はやめてくれと言われていたので、児童学科に決めた。中学校(ろう学校)できびしく叱ってくれた先生のことも思い出して、先生もいいなと思ってそう決めた。

<大学生活>

 大学は、一人一人受ける授業が異なるので、仲の良い友だちがいる時はよかったが、いない時は、頼る友だちがいなくて、ノートを見せてもらえず、苦労した。大学に情報保障をお願いしてみたが、きこえない人はあなただけだから、配慮はできないと言われてしまった。友達がいる時は、助けてもらった。

 小学校と特別支援学校の免許を取った。教員試験では、障害者枠があって、一次試験が免除された。実技と論文、面接があった。自分の経験を一生懸命アピールした。それで合格することができた。小学校の教員に加え、幼稚部だと、重複学級なら担当できるかと思う。

 仕事は、楽しい。高学年を担当しているので、高学年の子どもたちに伝えられることは何かなと考えることは楽しい。今後もがんばりたい。

 

<家族とのコミュニケーション>

 母とのコミュニケーションでは、手話は使わない。音声言語だけ。母に手話を教えてほしいと言われているが、つい口でしゃべってしまう。母もだんだん、私が音声だけでは、わからないということがわかってきたと思う。きこえない人と結婚したこともあると思う。手話に興味を持ってくれている。

 旦那さんはきこえない。旦那さんと話す時は手話を使う。旦那さんは、会社に行く時は、人工内耳(5、6歳で手術)を装用しているが家では外す。旦那さんとの会話では、全部手話で伝えないといけないのは大変なこともあり、たまに「声(の調子)でわかってよ」と思うことはある。

 しかし、町を歩いている時は、夫婦で手話で会話していると、まわりの人が自然にきこえないことをわかってくれるから、楽だな、よかったなと思うこともある。

 自分は十分に聴覚活用ができているので、人工内耳をしたいと思ったことはない。

<中高生へのアドバイス>

中高生にアドバイスはありますか?

大きく2つ。

一つ きこえない自分を認める。隠すのではなく、きこえないことをアピールしたり、きこえなくてもいいんだと思えることが大事。まず自分を認めて、まわりに何を伝えればいいかと自分で伝わる方法を見つけてほしい。私も時間がかかった。大学のころも、模索していた。22歳になって、先生になってようやくという感じ。今は自分が好き。

二つ目 自分の好きなことを見つけてほしい。私は、負けず嫌い。新しいものに挑戦したい。昔お母さんに本を読めと言われたが、初めは嫌いだったが、好きな本を見つけて、好きになった。

 仕事してすぐに自信がついたわけではない。仕事で、自分のやり方を非難されたこともあり、悩んだ時期もある。が、別の人に、あなたはあなたのやり方でいいんだよと言われたことで、これでいいんだと思えて自信になった。周りに肯定されることも大事だと思う。

 

<インタビューを終えて>

 地域の学校に通い、そこで学習面や友達関係に悩み、少人数で手厚いろう学校に移ることはよくあるが、ろう学校から地域の学校に移ることはあまり多くないように思う。コミュニケーションという意味では、高度難聴、重度難聴では、きこえる友達の中では、必ずしっかりとした支援が必要で、それが不十分だと嫌な経験を積み重ねることも多いからだ。

 実は幼児期に彼女にろう学校を勧めたのは私だ。聴覚活用だけでは学校生活は困難だろうと判断した。まだ人工内耳も普及していなかったし、情報保障も十分にはされない時代だった。しかし、彼女の話を聞いて、3年生から6年生まで地域の小学校に通った経験は、彼女にとって必ずしもマイナスにばかり考えなくてもよいと思った。

 よく思うのだが、ストレスがすべて悪いわけではなく、乗り越えられる程度のものであれば、自信になることもある。かおさんは理不尽な対応をされれば、跳ね返そうとするし、遠慮しないで自分の好きなことを追求できる力があった。結果論だが、中学校でろう学校を選び、高校で地域の高校を選べたのは、両方を知っているからこその選択だったのかもしれない。両方を知る中でバランスのよいアイデンティティを形成していったのだと思う。

 大学でも情報保障はなく、友達の協力を得て教員への道を進んだ。わかってくれる友達を得ること、必要な時にうまく助けてもらうこと、でもその中でちゃんと青春を楽しむことができた彼女はすごいなと思う。きこえのことも含めて自分を認めることができたのは、22歳を超えてからだと彼女は言うが、嫌な経験も自分の糧にしていったのは彼女自身の力だろう。そして、そしてそのバックグラウンドでは、ご家庭が彼女をしっかりと受け止め、しっかりと支えてきたことも彼女の力の源になっているのだろう。

 難聴も含めて自分を認め、好きになること。自分の好きなものを見つけること。というアドバイスはこれから大人になる方々にぜひ伝えていきたいと思う。