難聴のある人生を応援します @ライカブリッジ 

難聴のあるお子さん、保護者、支援者の方々に先輩社会人のロールモデル等をご紹介します。様々な選択肢、生き方があります。

社会人難聴者に学ぶ 〜みんなのヒストリー〜

 このブログの主な内容は、難聴児療育に長年携わっていた筆者が、成長して社会で社会人として活躍している難聴者についてご紹介するものです。乳幼児期に出会ったお子さんが大人になり、社会で経験してきたことについて知ることは、筆者にとって大きな学びのあるものです。難聴のわかりにくさを改めて感じることもしばしばあります。話を聞かせていただくうち、これは是非多くの方に知っていただいて、彼らの貴重な経験を活かしたいと思うようになりました。
 そして、これから成長して、学校に通い、自分の将来を考えようとする若い難聴の方々だけでなく、すでに社会で働いている方にも読んでいただき、難聴ならではの苦労だけでなく、生き方の色んな可能性についても知っていただければうれしいです。
 できるだけたくさんの生き方、働き方、考え方をご紹介することで、同じ悩みを発見するかもしれませんし、勇気を得ることも、共感できて励みになることもあるかもしれません。
   筆者は、ライカブリッジという任意団体で活動しています。ライカブリッジは、「like a bridge」(橋のように)難聴のある方々同士又は関係者同士を橋渡ししたいという気持ちで活動する任意団体です。筆者と難聴のあるお子さんを育てる保護者有志で活動しています。
2021年春から活動を始め、これまで10人の難聴のある社会人のインタビューを行い、それを録画し、zoomで共有したり、YouTubeの期間限定の配信をしたりしました。共有や配信の対象は、難聴のある小中高大生、保護者、支援者です。宣伝ややり方のアイディア、情報保障についてはライカブリッジの仲間と力を合わせてやってきました。
 <これまでのインタビュー> 
 これまで10人の社会人を紹介してきました。筆者がが幼児期に療育施設で出会った方々です。皆さん快くインタビューに応じてくださり、忙しい中、後輩たちの力になれればと協力してくださいました。
 1 37歳看護師(中等度難聴)
 2 28歳作業療法士(高度難聴)
 3 30歳ウェブ制作 フリーランス(重度難聴)
 4 31歳ろう学校教員(重度難聴)
 5 27歳公務員(中等度〜高度難聴)
 6 28歳劇団員(高度難聴)
 7 29歳鉄道会社社員(高度難聴)
 8 39歳会社員(重度難聴)
 9 31歳歯科技工士(高度難聴)
 10   31歳証券会社社員(中等度難聴→高度難聴) 
   今後もこのインタビューは続けますし、このブログにも紹介していくつもりです。社会人の紹介の他にも、たまに日々の思いなども綴りたいと思っています。
 今後、もっともっと社会に「難聴」についての理解が広がり、きこえにくさにちゃんと配慮できる仕組みが整っていくように願っています。
※ PC版では、左側に「メッセージを送る」があります。そこから筆者に個人的にメッセージが送れます。インタビュー動画がご覧になりたい場合は、メッセージから申し込んでいただければ、本人の了解を得て、申込者のアドレスに動画のURLをお送りします。どの動画か、また視聴希望の理由とアドレスを送ってください。ただし、視聴は、期間限定です。拡散せず、ご本人のみでご視聴ください。

NO.14 わたしの難聴ヒストリー ⑩ (証券会社勤務かなさんの場合)

2024年07月14日 | 記事

かなさん 証券会社勤務 31歳 右93dB 左96dB 補聴器装用(幼児期は中等度難聴 徐々に進行)

 かなさんは、幼児期は中等度難聴で発見も遅かった。療育施設は、4歳児クラスからの入園だった。初めて会った時は、日常会話はできるし、難聴には見えなかったし、一見どこに問題があるかわかりにくかった。しかし、いざ療育を進めると語彙の不十分さだけでなく、小グループの中でも学ぶことはたくさんあり、2年間しっかりと療育できて本当によかったと思った記憶がある。初め硬かった表情も就学する頃には、やわらかくなり、明るくなった。自信もついたように思う。

 

【 かなさんのヒストリー 】

<療育施設、幼稚園時代>

 保育園の先生にことばの遅れを指摘されて、難聴発見につながった。療育施設には、4歳児クラスから入った。療育施設の記憶はあまりないが、真っ暗な観察室で本物のほたるを見たこと、トイレに補聴器を落としてしまったことなどを覚えている。補聴器を装用すれば、かなりきこえていたようで、母親同士の会話も結構きいていて、「地獄耳」と言われたりした。

幼稚園は、多分自由保育の私立の幼稚園で、自主性を重んずる幼稚園だった。(公立の幼稚園は断られた)一斉に鍵盤ハーモニカをやらされるようなこともなく、嫌な思いをしたことはなかった。

 

<小学校時代>

 FM補聴器を使用していたが、人と違うことをするのが面倒に感じた。小学校4年生のころに徐々に聴力が下がっていった。友達よりも何かとできることが多かったので、友達には一目おかれていて、いじめに会うようなことはなかった。友達関係は、広く、浅くという感じだった。

 ことばの教室は、別の学校にあり、そこに通ったが、そこの友達と会うのは楽しみにしていた。今でも連絡を取り合っている。ことばの教室は、マンツーマンで先生と会話ができる贅沢な時間だった。

 

<中学校時代>

 中学校は、地元の中学校で、半分が同じ小学校の友達の持ち上がりだった。初めの自己紹介の時は、自分が難聴であることを自分で伝えた。そうするように母に言われていたし、初めに一回言えばいいと思っていた。

 部活はバドミントンで、センスがなかったし、楽しくなかったが、内申のためにやめなかった。中学生時代のの女子のグループは煩わしかった。

ことばの教室は他校に通ったが、そこの友達は、小学校時代からの友達でもあり、ほっとできる楽しい仲間だった。

 小5から通っていた塾に継続して通った。塾では、北辰テストは満点を取れと言われていた。塾は15人くらいのクラスで勉強した。テキストに沿って進むので、わかりやすかった。学校より静かで集中できた。そこでは、先取りの勉強をしたので、学校の授業は簡単だった。自分が苦手なのは、台本のないディスカッションで、塾にはそういうのはなかった。

 テレビは、字幕が必要だった。当時テレビで「学校へいこう」という番組が流行っていて、学校でも山手線ゲームなどをやったが、その頃は、今より聞こえていて、きこえなくて困ったという記憶はない。テレビドラマでは、「野ブタ。をプロデュース」などの青春アニメが話題になっていたが、そもそもドラマに興味がなかった。そもそもテレビはほとんど見なかった。興味がないから見ないのか、見てもわからないから興味が持てないのかは、自分でもわからない。

 友達の雑談のテーマは、大体決まっていて(大体が恋愛話)、内容がわかるので、特に困ることはなかった。ほとんど、聞く側で、率先して会話に入ることはなかった。受験が近づくと、勉強のことで皆に質問されることが多く、いつも勉強を教える側でいたので、友達との会話に困った経験はほぼない。

どうしようもなかったことは、混声四部合唱だった。歌うと「違うよ」と直されるし、歌わないと何か言われそうで困った。自分には「音程がわからないこと」がわからなかった。どう説明したらよいかわからなかった。

<高校時代>

 高校は私立で、初めから「一切配慮はしません」と言われた。クラスでの初めの自己紹介では、自分で難聴があることを話した。授業は、何も配慮がなかったが、教科書をベースにしているので、何を言っているのかはわかった。

 英語のスピーキングは、嫌いだった。教室で騒がしい中で先生と英語でやりとりするのは、難しかった。それでも高校1年の時に英検2級を取った。ヒヤリングはテロップで行った。

 高校のクラスは、成績のよい方の人たちが多かったので、自分を持っている人が多く、一人一人が自分で行動する感じで楽だった。変ないじめもなく、よい高校だった。

 部活では、他のクラスの人もいるので、耳のことを知らない人もいて、カラオケに誘われたりした。断ると、「なんか嫌なことした?」ときかれて、ちゃんと聞こえないことを説明しないとダメだなと思った。流行歌はあまり知らなかった。

 

<大学時代>

 叔母に就職の時に潰しがきくのは、法学部、経済学部、経営だよと言われ、経営学部を選んだ。経営学部でマーケッティングを学んだ。先生がファッションマーケッティングが専門の先生だったので、ディオールとかビトンの歴史、ブランド戦略の話などは、面白かった。

 大学生活そのものは、それほど楽しくはなかったが、ゼミでプレゼン資料を作成したりしたのは、今仕事にも活かせている。

 サークルには入らなかった。週に4日大学に行って、あとは、好きにしていた。引っ越しのアルバイトは、がんばった。単純にものを運ぶ作業ではあるが、頭を使うのが大事と教わった。引っ越しのアルバイトでは、お客様とのコミュニケーションは、困らなかったが、スタッフ同士のやりとりの中で怒られたりはあった。しかし、やるべきことをしっかりこなす中で、信頼してもくれるようになった。

<就職>

 大学3年生の時に、短期のインターンシップを色々やった。また、大学の(障害学生の)支援室で先輩を紹介してもらって、話をしたりして、少しずつ情報収集した。安定していて土日休みの、金融機関がいいかなと漠然と思っていた。

そして、障害者のマイナビのような「クローバー」や「サーナ」のセミナー会場に行き、そこのブースで今の証券会社の人事の人に出会った。一般的な人事の人だと、大抵何ができて、何ができないんですか、どれくらいきこえるんですか、というような事務的な話になるが、その人は、「何か興味のあることは?」とか、「バブルの時は儲けたんだよ」などの雑談をしてきた。そして、今度またセミナーあるから来てとグイグイきた。

 また、他の会社だと、給料については、障害枠雇用は「ちょっと違います」くらいの説明しかなかったが、そこは、障害枠雇用でも給料は同じでスタート、その後、給料が上がるかどうかは、本人の頑張り次第と言われた。それもいいなと思った。結局そこに決めた。

 

<証券会社に勤めて>

 今就職して9年目である。初め、営業店の総務課で働いていた。コロナ前は毎日出勤していた。コロナの時にテレワークをして、家で仕事をした方が週末に耳の後ろが痛くならないことに気づいた。職場では、結構靴音とか咳の音などが気になって、集中を妨げられていた。   

 5年目に営業部をサポートする業務部というところに異動になった。業務内容は、費用の管理、予算の配分で、学校法人、医療法人、教育法人などの公益法人をお客様にする部署である。「公益」という情報誌のインタビュー原稿の作成やレイアウトをしたりもしている。今いる部署は、業務が属人化しているので、テレワークしやすい。

 そこで、産業医と相談して、週2日は、テレワークすることを認めてもらった。会社としては、月に一度のテレワークを推奨していて、部署によっては、週に1回か2回程度取得ができる。今いる部署では週に1回しか認められないが、お子さんがいる人や事情がある人に2回は認められている。今は、週2回テレワークして、週3日は、会社に出勤している。

 会社の人とのコミュニケーションは、あまり積極的にはしていない。話さなくて済むならラッキーという感じ。話しかけてくれる人とは、おしゃべりするが、いい人かどうかよりも聞き取りやすい人の方が話しやすい。同僚は、私のきこえについては、どのようなきこえかについては、あまりわかっていないのではないかと思う。きこえのことは、自分からどんどん説明するというよりは、きかれたら言う感じでやっている。初めての自己紹介の時は、難聴ですとは言っている。

 朝会などの会議では、ロジャーを使っている。テレビドラマ「サイレント」の影響で病院でもUDトークを使っているところがあるようだが、金融機関であり、個人情報のこともあり、うちではUDトークは禁止されている。私もUDトークより、話してしまった方が早いと感じる。

 電話は、最初営業店にいる時は、「なんで取らないの?」と言われて取っていた。内部の人たちの連絡で、私が難聴とわかった上での電話だったのでなんとかなった。今の部署に異動してからは、社外の電話を取ると、相手の会社名が聞き取れなかったりした。アルファベットの長い名前だと、3回聞き直してもわからない。部長に相談したら、電話にモジュールを設置して、どこ宛の電話かがランプの点滅でわかるようになった。またFMC設定で、会社にかかってきた電話を内線転送できるようにもなり、自分にかかってきた電話だけをとればいいし、スマートホンで受信するので、Bluetooth接続できて聞きやすくなった。

 しかし、基本的には、メールでのやり取りを基本にしている。社内の電話帳に「難聴なのでメール」と書いて、極力メールでの連絡にしてもらっている。

 会社には、全国で10人くらいの聴覚障害の人たちがいる。パラアスリートに力を入れているので、アスリート雇用の人が何人かいる。

 テレワークのことも電話のことも、自分で欲しいものを取りにいくような姿勢がないと、環境は改善されないと思う。

 

<あとがき>

 幼児期の聴力は中等度だったが、今の聴力で補聴器だと、きこえる人たちの中で働く時に、さまざまな困難が予想できる。しかし、結果的に現在は、週3日出勤して、週2日はテレワークで仕事をし、電話に関しては、FMCによって、携帯電話に内線も転送できるようになっていて、Bluetooth接続でよりクリアに聞くことができるようになっている。社内の連絡はできるだけメールでお願いしていて、朝の会議では、ロジャーを使用している。

 いずれも何かあるたびに彼女自身が上司や産業医に相談して、環境を整えてきたと言える。同僚全員が難聴のことをわかっているとは言い難いようだが、少なくとも自分の仕事をするに当たり、障害になることを一つずつ取り除いてきたのだろう。「自分で取りにいく」姿勢は、大したものだと感心する。

 昨今、セルフアドボカシー(自分で自分に必要な支援を求める力)を育てることの重要性がよく言われるようになってきたが、それは、実際には、個々の具体的場面でどうすればよいかという実現可能性のある提案や交渉力が必要とされるのだと思う。かなさんは、仕事を着実にこなす中で会社の信頼を得て、機会をとらえては、どう配慮して欲しいかを提案してきたと言える。今後も働き方のモデルを見せて欲しいなと思う。

 学校時代の話に戻るが、かなさんが苦手だったのは、歌うこと、英語の聞く話す、台本のないディスカッションだった。これは、難聴のある子どもなら皆共通の関門だ。混声四部合唱はどうすればよいのか?「口パク」で乗り切ったという話はよく聞くが?音程がわからないことをどうわかってもらうか?参加しない方法は避けたいが、実際どうすればよいか考えさせられた。昨今小学校でも英語会話が取り入れられていて、皆苦労していると聞く。台本のないディスカッションについては、前情報をもらうとか、しっかり情報保障するとか方法はあると思う。ひとつひとつ知恵を絞っていきたいところだ。放置してはいけないところだ。

 

 

<参考までに  動画の感想を紹介>

 動画の限定公開に申し込んでくださった方々の感想を少しまとめたので最後にご紹介する。

 

<かなさんの生き方で印象に残ったところ>

  • 「自分の軸があって、自分で考えて行動している」「自分らしさを保ちつつ、周りと関わる」「幼いころから培った自己肯定感、心の安定を感じる」(40代支援者、40代保護者、30代当事者)
  • 「主張するところと、ここはいいやと割り切るバランス感覚がある」「無理せず。できないことはできないと伝え、できることはしっかり責任を持ってやることで、信頼を得ているのではないか」(40代支援者、その他)

<きこえに関して>

  • 「時々あった面倒臭いということばは、きこえに関して色々とあるが、いちいち周りのことは気にしない、細かいことは気にしてもしょうがないという処世術が現れているのでは?」(50代支援者)
  • 強気で乗り越えてきたイメージだが、それでも悩みながら、模索しながら解決法を模索してきたと感じさせるところがあった。(50代保護者)
  • 実際には、自分に必要な配慮について、ちゃんと声をあげて、よりよい環境を作っていく強さと能力がある。(30代保護者)
  • 具体的な場面で、自分の要望を的確に相手に伝えられる。「話すときに口の動きを見せてほしい」「話合いのときに、前情報を伝えて欲しい」「台本のないディスカションが苦手」(支援者)
  • 一人でいる方が楽と言っていたが、元々の他者に迎合しないという性格もあるかもしれないが、きこえのことも無関係ではないかもしれない。中学校の時に他校のことばの教室の友だちの存在が大事だったということもある。自分の思いを伝え合え、お互い尊重し合える仲間とはやはり出会ってほしい。(40代支援者、50代?支援者)

<就職活動について>

  • 障害者雇用のこと、給料は同じで合理的配慮も求められることを知った。(40代?支援者)
  • 障害学生専門の就職サイト「サーナ」の話はためになった。(40代保護者、4、50代?保護者)
  • 今の会社の人事の人が「できる、できない」の話ではなく、何に興味があるかなどを話題にしてくれたことが印象に残った。その人事の人が「障がい」ではなく、「人」をみてくれようとしたような気がする。そういう時ちゃんと自己アピールできることが大事なのかもしれない。(40代保護者、支援者)

 

 最後に少し補足する。かなさんのお母さんだが、幼い時から、彼女の思いを尊重し、きちんと受け止めて彼女を育てていらっしゃった。それは、彼女の「自己肯定感」につながっているのかもしれない。(ごめんなさい。お父さんのことはよく覚えていない。今ほどお父さんが療育施設に来所しなかった時代だったかもしれない。)

 


NO.13 わたしの難聴ヒストリー⑨ (歯科技工士 タクさんの場合)

2024年07月05日 | 記事

タクさん 歯科技工士 31歳 右105dB 左100dB 補聴器装用 (幼児期は90dB)

※ この記事は、NO.4でご紹介したzoom交流会のTさんについて再度詳しくご紹介するものです。

 タクさんは、現在歯科技工士として活躍している。インタビュー時31歳、1児の父だ。高度難聴だが、療育開始は3歳ころだった。もっと早くから病院には相談していたが、診断にいたるのに時間がかかってしまった。1990年代はまだそういうことが珍しくなかった。高度難聴で療育の開始が3歳というのは、かなり苦しいスタートだ。3歳までというのは、母語の基礎を習得するためのかけがえのない3年間だ。お母さんは、看護師として活躍していたが、次男タクさんの難聴がわかって、仕事をやめ、療育に専念することにした。

 そして私たちの療育施設に通うようになったが、納得しないと先に進めないタクさんに辛抱強く付き合うお母さんの姿を私たちはよく覚えている。タクさんは、従順なタイプではなく、主張がはっきりした子だった。

 タクさんが大人になって、歯科技工士になって、歯型彫刻コンテストで優勝したとか、日本一になったとかの噂は、風の便りにきいていた。彼は、どんな風に成長して、どんな風に大人になり、どのように社会人になったのだろうか。タクさんは、お願いすると、インタビューを快く引き受けてくれた。今回久しぶりの再会で話をきくことができた。

 

【 タクさんのストーリー 】

                                               

<療育施設時代>

 療育施設は友だちがたくさんいて、楽しくて楽しくて仕方なかった。夏祭りとか、キャンプ、和太鼓など行事も楽しかった。併行して通っていた保育園は、あまり配慮がなかったためか、楽しめなかった。療育施設の友だちとは、今でもたまに会う関係が続いている。

 住んでいる地域の子供会にも入っており、母の根回しもあり、地域にも友だちがいて、みな幼児期から耳のことをわかってくれていた。

              ************

 療育施設時代には、私たちの記憶にも残っているエピソードがある。施設には、定期的に補聴器店の業者さんが出入りしていた。そして、子どもたちの成長につれて大きさが合わなくなってしまう、イヤーモールドというオーダーメイドの耳栓の型取りもしてくれていた。

 小さいタクさんは、これにいたく興味を示し、業者さんが子どもの耳に注射器のようなもので、印象材を注入し、耳型を作る作業を毎回穴のあくほど見つめていた。ちょうど給食の時間だったが、食べるのも忘れて見入っていた。お母さんも、「給食の時間だから」とそれを制止することもなく、かれの興味を尊重していた。

              ************

<小学校時代>

 小学校は、一学年3クラスくらいの規模だった。地域の友だちと一緒に入学したので、耳のことをわかってくれる友だちに恵まれていた。入学前に母の働きかけで、小学校の全学年全クラスの椅子にテニスボールをつけてもらった。(難聴耳には、椅子が引きずられる音がうるさく感じる)

 1年生から3年生くらいまでFM補聴器を装用していたが、先生の声だけきこえるモードを他のモードに切り替えるのが結構厄介で、段々使わなくなった。学習面は、わからないところは、家で母や兄に教えてもらった。幼児ポピーみたいな学習教材も利用していた。友達関係で悩むことはほぼなかった。

 小4から地域のミニバスケットを始めて、そこの友達の中にも、耳のことをよくわかってくれる友達がいた。コーチも理解者だった。ことばの教室も通っていた。毎日日記を書いたりして文章の指導などをしてもらって、よかったと思う。

<中学校時代>

 中学校は、小学校から一緒に入学する友達が多かった。全クラスに難聴の理解授業をしてもらったと思う。しかし、友達同士の会話の内容が段々難しくなって、会話についていけないもどかしさを感じるようになった。自分は耳が悪いから友達の輪に入れないんだなーと思うようになった。ついていけなくてわかったふりをすることもあったが、そうすると、トラブルの元になったりもするので、できるだけさっきなんて言ったの?とかなんの話をしてたの?と聞くようにはしていた。部活(バスケ)があるので、ことばの教室は行かなくなった。

 授業は、どんどん内容が難しくなっていった。大学生のノートテイクやPC要約筆記などの支援を受けた。多分母が頼んだのだと思う。1年生の時は、特別扱いが嫌だったので、断っていたが、2年生になると、そうも言っていられなくなった。英語は本当に難しくてついていけなかったので、英語の先生に自分で相談し、放課後に個別に指導してもらったりした。

 中学3年の時は、マンツーマンの塾に通って、受験はなんとか乗り越えた。バスケットボールで、声がかかった高校に入学が決まった。

<高校>

 高校は、知っている友達は誰もいない状況でスタート。ほとんどバスケ部の友達とだけつきあっていた。バスケ部の中に耳のことをわかってくれる友だちがいた。

 バスケットボール自体もきこえないことでやりにくい面も多々あった。きこえないことで、ゲーム中のまわりの状況の把握というものに制約があったのだ。

 勉強面は、追試になると部活に参加させてもらえなかったので、追試にならないように必死だった。授業は情報保障は全くなく、よくできる友達に教えてもらって必死にテスト勉強をした。バスケと追試対策の両方をひたすらがんばった。

 そして、進路を考えるに当たって、物作りをする仕事に就きたいと思った。物を作ることが好きで小さい頃は、大工さんになりたいと思っていた。知り合いがいた関係で歯医者さんに紹介してもらって歯科技工士の仕事場に見学に行ったり、義肢装具の仕事も視野に入れて検討した。結局興味を持った歯科技工士を目指すことになった。

 専門学校も考えたが、情報保障がしっかりしている聴覚障害学生のための筑波技術大学の専攻科を選んだ。

<歯科技工士を目指して>

 筑波技術大学の専攻科で3年間歯科技工の勉強をした。クラスの仲間は8人だった。口話と手話の人もいれば手話だけの人もいた。そこで、手話だけを使う友だちと会話するために、手話も覚えた。それまで手話には興味がなかったが、手話を使えるようになって始めてコミュニケーションが楽しいと感じた。口話では、30〜40パーセントしか話がわからなかったが、手話だと100%わかって、やりとりが楽しいと思えた。卒業後はさらに勉強がしたかったので、鶴見大学の歯科技巧科研究科へ進み、そこで2年勉強した。そして歯科技工士として就職した。今勤続8年になる。これまで、歯型彫刻のコンテストで2回日本一になったこともある。

  タクさんは、インタビュー時に自分で作成したパワーポイントで仕事内容やチェックシートの説明をしてくれた。

<歯科技工士として働いて 〜チェックシートで確実なやりとりを〜 >

 就職して3年くらいは、職場でのコミュニケーションに悩んだ。上司の指示を聞き間違えることもあった。皆マスクをしていて、マスクをされると、話が読み取れなかった。復唱するやり方は、やはり何度も聞き直しが必要だったし、書く方法は上司に大きな負担がかかった。

 上司の指示を聞き間違うことで、やり直しになり、時間を無駄にするという失敗経験を通して、どうにかしたいと思った。そこで、自分でチェックシートを作成し、上司がそこにチェックを入れることで指示を正確に自分に伝えられるようにした。上司にとっても負担なく、指示が楽に正確に自分に伝えられるようになったし、自分も聞き間違えることによる労力の無駄もなくなった。今では、スムーズに仕事ができている。

 同僚との日常の会話では、スマートホンのワード機能で会話を文字変換して、コミュニケーションに役立てている。無料だし、変換も比較的正確なので、自分はこれが気に入っている。

 専攻科時代からデフバスケをしているが、今は、その試合で出会ったデフバスケ選手の奥さんと2歳の男の子の子育て中だ。お子さんをとても可愛がっていて、子煩悩ぶりを発揮している。

 

<インタビュー後のオンライン交流会で>

 タクさんのインタビューの動画を公開後、ライカブリッジの話し合いで、たまには、直接質問する会があってもいいねということになり、タクさんと話す交流会をオンラインで設けた。当事者や保護者、支援者から質問があった。そこでのやり取りを紹介する。このブログのNO.4でも紹介済みだが、もう一度載せておきたい。

 

【質問】 自分のきこえについて自分で説明する力はどのようにしてついたのですか?(保護者、教員)

  (タクさん) 小さい頃から母に「きこえないことを自分で説明しなさい」とずっと言われて育った。しかし成長するにつれ、母に反抗するようになり、うるさいから口出ししないでくれと言うようになった。中学校くらいから、母は何も言わなくなった。何も言わないので、逆にやばいと思って、自分でどうにかするしかないと思った。

  きこえたフリをしても自分のためにならないと思い、できる限り自分で説明した。初対面の人には、自分で補聴器を見せ、「自分はこれがないとほぼきこえない」ことと、「補聴器をしていても聞き間違うことがあるからよろしく」と説明した。聞き取れない時は何度も聞き返したりした。

  聞き間違えて、笑われた時は嫌だったが、そこで引っ込まず、もう一回、もう一回と聞き直した。

【質問】 我が子はろう学校に行っている。外では、どうしても母が通訳してしまう。我が子は自分のことを人に説明する機会がないなと改めて思った。(保護者)

  (タクさん)困るのは自分だという認識が大事だと思う。あと、コミュニケーション手段はいくらでもある。手話だ、口話だという前に、相手に通じるように工夫する気持ちがあれば通じることを学んでほしい。

【質問】 小さい時に好きだった「もの作り」が職業に活かせたことは素晴らしい。(保護者、支援者)

  (タクさん)自分は、負けず嫌い。自分の強みを生かしてがんばれるのは何かと考えた。事務関連の仕事は好きになれず、自分の武器はなんだろうと考えた結果、歯科技工士の仕事を見つけた。歯型を作成することにとても興味があった。好きなもの作りが生かせる仕事だった。

【質問】 タクさんの子育てについて(支援者)

  (タクさん)息子はもうすぐ3歳で、70dBくらいの難聴がある。家族の中では、全員手話と口話を使っている。来春からは、都内の特別支援学校幼稚部に通う。色々見学したが、手話と口話を両方使うところを選んだ。自分は、3人兄弟の真ん中だったが、自分以外の家族はきこえていて、口話で話すが、自分だけききとれない状況に劣等感を感じていたので、それは、自分の息子には味合わせたくないと考えている。家族の中のコミュニケーションを大事にしたい。そして、将来的には、きこえる人と一緒に働けるようになってほしい。

 

   交流会はいつも行っているわけではないが、このようにみんなで質問させてもらうことで、より深掘りできるメリットがあるなと感じた。また、タクさんは、交流会に参加していた大学生の当事者Kくんにも、声をかけてくれて、終わった後もラインで繋ぐことも承知してくれて、さまざまな助言もしてくれたようだ。まさにLike  a bridgeな仕事ができたなと思い、うれしかった。

 

 <あとがき>

 タクさんは、自分だけききとれないという劣等感を感じながらも、その中で自分の強みは何か?を真剣に問い、これだと思う物を見つけたら、そこで努力し、さらに腕を磨き、とうとう自分の強みをフルに活かしている。

 聞き間違いを笑われながらも、何度も聞き返し、就職すると職場では、自分でチェックシートを編み出して、自ら職場環境を改善している。

 昔家族の中で感じた疎外感を息子には味合わせたくないと、家庭の中の家族のコミュニケーションを大事にする道を選んでいる。100%わかる手話の大事さを痛感している彼の選択は意義深い。どれをとっても、一つ一つの経験をプラスに活かす前向きな姿勢を感じ、胸を打たれる思いだ。

 しかし、やはり思い出すのは、幼児期のお母さんの一生懸命な姿だ。高度難聴で発見が遅れたといのは、初めは誰でもかなり苦しい思いをする。ことばの発達も少し難航していた記憶がある。しかし、自分の興味にまっしぐらな子にじっくり付き合い、彼の思いを尊重して子育てしていた。地域の中でも小学校でもまわりがわかってくれるように根回ししたのだろうと思う。タクさんが、中学校でお母さんうるさいから口出すなと反抗したのは、彼が真っ当に成長していた証だった気がする。詳しくはわからないが、お母さんは、思春期の彼の主張も尊重し、少しずつ手を離していったのだろうと推測する。

 母には、本当に感謝していると、タクさんは、少しはにかみながら言っていた。

 

 最後に、タクさんが5歳の時に書いたお母さんの手記の一部をご紹介する。(療育施設の保護者の文集「でんごんばん」より引用)

「・・・そのころの私は、仕事も充実していて、家事も育児もそれなりに両立できているつもりでいました。でも息子の難聴発見が遅れたことにより、親としての未熟さ、至らなさと今置かれている事の重大さに胸が引き裂かれる思いでした。・・・・しかし、納得しなければ前に進めない息子との付き合いに悪戦苦闘しながらも、療育の中で、色々な経験を親子で共有しているうちに、私自身が子どもとの毎日の生活を楽しむようになってきました。『難聴』を抜きにした、純粋な子どもの目、思い、そして成長につながる変化に子育てってなんて面白いんだろうと心から思えるようになっていたのです。・・・」

 当時全身全霊でタクさんの育児に向き合ったお母さんの姿勢に改めて敬意を表したい。今タクさんが一生懸命子育てしている姿と重なるとしみじみ思う。