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北海道旭川市の『楽しく護身空手を学ぶ会』

空手と武器術・護身術を学ぶ生涯学習団体です。
豊かな毎日をすごすために日曜日、空手を学んでみませんか?

流派・道統

2009年10月30日 | ■■当会の道統


■流派と道統

 喜屋武 長徳 (首里手)

 仲里 常延  (少林寺流開祖)

 保 勇    (少林寺流空手道錬心館)

 川元 規久  (正伝日本勤労者空手道会)

 菅原 保雄  (楽しく護身空手を学ぶ会)/(総合護身武道 悠気塾)


■少林寺流空手道について
首里手系の大家・喜屋武朝徳(きゃん ちょうとく1870年~1945年)のもとで修行を積んだ仲里常延(1922年~2010年)を開祖として1954年に誕生した空手流派。

松村宗棍などから「セイサン」「アーナンクー」「ナイファンチ」「ワンシュウ」「パッサイ」「ゴジュウシホ」「チントゥ」「クーサンクー」の8つの型と、棒術では「徳嶺の棍」を伝授された喜屋武 朝徳は、生涯にわたって型の無修正主義を貫き通した。仲里 常延は、型が次々と変えられていく現代の空手界の風潮に対する反動として、この喜屋武朝徳の意思をくみ、"すべては源流に立ち返れ"と言う理念のもとに少林寺流と命名する。

■喜屋武長徳と"首里手"について
首里は、琉球王国の首都として、15世紀頃から1879年(明治12年)の廃藩置県まで、 琉球の政治文化の中心地として栄えた。
琉球王府に仕えた首里士族は、文武両道に優れた者が多く、武術の面 においても、 多くの武人を出している。なかでも松村宗棍は、武士松村と言われた傑出した武人 である。松村は幼少の頃から、唐手佐久川こと照屋筑登之親雲上寛賀に武術を師事 し、剣術の指南を薩摩の剣客伊集院矢七郎師より受け、示現流を修得し、その奥義 を極めた。首里士族の武術は、佐久川と松村によって形成され発展していった。松村の高弟には、安里安恒、糸州安恒などがいる。また、安里安恒の高弟には、松涛館流の創始者 富名越義珍がいる。
糸州安恒は、松村の他にも那覇の長浜や泊の松茂良などに就いても教えを受け、 その他当時における有数の大家は、おおかた歴訪し、質疑をしたり、指導を受けたりした。

首里の空手を大別すると昭霊流と昭林流に分けられる。
昭霊流の開祖は大兵肥満 の人だったそうで、その人の性格から自然に割出された一種の特色がある。 昭林流もこれと同じく、その創始者が痩形だったためその人に適する武術が生まれた。糸州 安恒は昭霊流の代表者で、安里安恒は昭林流を代表する人である。
首里手は松村宗棍から糸州安恒へ、そして喜屋武朝徳や知花朝信へと継承された。
喜屋武朝徳は30歳の頃には「喜屋武ミー小」の異名をとり、首里や那覇で武名が伝わるようになった。この喜屋武朝徳の流れを汲む流派が、少林流や少林寺流である。

参考文献  「本部朝基と琉球カラテ」岩井虎伯著 愛隆堂

川元 規久(正伝勤労者空手道会)

2009年10月30日 | ■■当会の道統

川元 規久(正伝勤労者空手道会)

1934年 台湾花蓮生まれ。
1946年敗戦で本籍の鹿児島へ引き揚げる。
鹿児島玉龍高校・中央大学法学部・法政大学史学科に学ぶ。
沖縄の道統・喜屋武朝徳の門流である少林寺流錬心館 保 勇先生に師事。
上京後、正伝勤労者空手道会を主宰。
古武道武秘流長捲術を継承し、方円流杖術・ステッキ術・短棒術、一条心流縄術、正伝ころもどり武術及び正伝無刀どり武道を拓く。
いずれも範士九段。
正伝学舍心眼塾主宰。

保 勇(少林寺流空手道錬心舘総本山創始宗家)

2009年10月30日 | ■■当会の道統

保 勇(少林寺流空手道錬心舘総本山創始宗家)

大正八年生れ、鹿児島県名瀬市出身。
全日本少林寺流空手道連盟会長・錬心舘総本山創始宗家 十段範士。
少年時代隣家に住む沖縄糸満の漁師より空手術の手ほどきを受け、十七歳のとき台湾に渡り、台中市武徳殿において柔道を学ぶかたわら陳老師より中国南派拳法を修得し、その後、戦後沖縄において空手道各派を見聞。

明治大正昭和の三代にわたり名人キャンと謳われた故喜屋武朝徳先生の直流を修得。他に武歴広く、講道館柔道三段、方円流体術、兼相流柔術、八光流柔術、其の他棒、杖、釵、剣等、古武術各派を学び、これら半生にわたって体得した諸武術を綜合整理し、空手道も又黒潮文化のもたらした中国拳法の影響を強く受けているとの確信に立ち、少林寺流空手道を創始した。

故 保 勇 範士の技術の特徴は、型至上主義の空手道に、未開拓であった組手技術の一大集成をなしたところにある。又、空手道は東洋道義の根幹を形成する五徳(信義礼智仁)の滋養に最も資する武道であるというゆるがぬ信念を奉じ早くから空手道を通した人づくりに心血注ぐとともに、人命尊重の見地から、組手における安全性と合理性を追求、安全かつ実拭的な防具着用の試合制度を実施し、大衆武道としての組織を確立、空手界に新機軸を打ち立てた。

なお平成12年5月、開祖 保 勇 宗家の逝去に伴い、保巌10段範士、錬心舘少林寺流空手道二代目を襲名している。

少林寺流錬心舘 総本山 
鹿児島県 日置郡伊集院町
下谷口4563番地拳士ヶ丘
TEL/(099)272-7231
FAX/(099)272-7234

※福昌堂『月刊空手道』2001年4月号からの抜粋引用です。

仲里 常延(少林寺流空手道)

2009年10月30日 | ■■当会の道統

仲里 常延(少林寺流空手道)

少林寺流 範士10段
1922年4月13日知念村に生まれる。
1938年(昭和13年)4月より1943年(昭和18年)12月まで、首里手の喜屋武朝徳に師事。
1960年 (昭和35年)全日本空手道連盟沖縄地区特別本部副会長。
1965年 (昭和40年)沖縄空手道連合会副会長。
1983年 (昭和58年)全沖縄空手道連盟会長。
1985年 (昭和60年)中国福建省福州市武道会館典礼での招聘演武。
1997年 (平成9年)全沖縄空手道連盟顧問。

【武歴】
1938年 喜屋武朝徳に師事。
1947年 熊本県益城郡松橋町に道場開設。
1952年 沖縄帰還。知念村に道場開設。
1960年 範士9段。
1972年 全日本剣道連盟より剣道2段を授与。
1983年 全日本銃剣道連盟より銃剣道6段を授与。
1989年 少林寺流範士10段。

【賞罰】
1987年 沖縄県体育協会より表彰。
1997年 沖縄県知事より感謝状授与。
2000年 沖縄県指定無形文化財「沖縄の空手・古武術」の保持者として認定。
2007年 沖縄県文化功労者(「空手・古武術」)に選出。
2010年 9月7日 午後4時16分 永眠。

WEBサイト『沖縄伝統の空手・古武術』 より引用抜粋。

喜屋武 朝徳(首里手・泊手)

2009年10月30日 | ■■当会の道統

喜屋武 朝徳(首里手・泊手)

明治3年(1870年)、喜屋武親方朝扶の三男として首里儀保村(現・那覇市首里儀保町)に生まれる。
目が小さかったことから「喜屋武(チャン)・目(ミー)小(グヮー)」と呼ばれた。喜屋武家は尚清王(在位1526年 - 1555年)の第十王子、唐名・尚悦敬、羽地王子朝武を元祖とする首里士族であり、その家格は殿内(トゥンチ)と呼ばれ、代々喜屋武間切(現・糸満市喜屋武地区)を領する大名という名家であった。また、父朝扶は、琉球王国末期から明治にかけて活躍した著名な政治家であり、廃藩置県後は尚泰侯爵の家扶を務め、また自身松村宗棍門下としても知られる唐手家でもあった。

喜屋武朝徳は、6歳の時、まず父より兄朝弼と共に唐手と角力の手ほどきを受けたと言われる。その後、父を介し二年間、松村宗棍の指導を受ける。父について上京し、二松学舎(現・二松学舎大学)で三島中州より漢学を学んだ。喜屋武朝徳は東京滞在中も父とともに唐手の鍛錬に励んでいたという。東京には約9年滞在し、26歳の時帰郷した。

帰郷後、喜屋武朝徳(以下 喜屋武と記す)は、泊手の大家・松茂良興作、親泊興寛らに師事した。他にも、糸洲安恒、真栄田親雲上、徳嶺親雲上らにも師事したとされる。38歳の頃、喜屋武は読谷村牧原に移住して、そこで養蚕や荷馬車引きをしながら生活を維持した。廃藩置県以後は他の没落士族と同様、いかに名家の出であろうと、喜屋武もこのように困窮した生活を送らざるを得なかったのである。

しかし、移住したことで、喜屋武は読谷村にあった尚家の牧場の管理人・北谷屋良(チャタンヤラ)(1816年 - ? )から、公相君(クーシャンクー)(現・北谷屋良の公相君)の型を学ぶことができた。北谷屋良は通称で、正しくは屋良親雲上といい、松村宗棍の弟子の一人と言われ、首里にいた時、松村から首里手と示現流を学んだとされる人物である。のちに北谷村(現・北谷町)に転居し、当時、唐手の達人として知られていた。その後、喜屋武は明治43年(1910年)には読谷村比謝橋に居を構え、沖縄県立農林学校(1945年廃校)、嘉手納警察署などで唐手を指導した。

大正13年(1924年)、喜屋武は那覇の大正劇場で開催された「唐手大演武大会」に、本部朝勇、摩文仁賢和らとともに参加した。また、この年、那覇旭が丘に設立された「唐手研究倶楽部」にも参加。このクラブには、喜屋武の他に本部朝基、宮城長順、許田重発など、当時の諸大家が参加していた。

昭和5年(1930年)、喜屋武は「体と用、試合の心得」という論文を発表、また、同年、比謝橋近くに道場を構えた。昭和12年(1937年)には、「空手道基本型12段」決定に参画。昭和20年(1945年)、喜屋武は石川捕虜収容所で栄養失調のため死去した。享年74。喜屋武朝徳は小柄で痩せた体格から想像するイメージと違って、掛け試しの武勇伝も伝わる実戦唐手家であった。喜屋武の弟子には、新垣安吉、長嶺将真、島袋善良、島袋龍夫、仲里常延らがいる。

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