中年オヤジNY留学!

NYでの就職、永住権取得いずれも不成功、しかし、しかし意味ある自分探しに。

欠点も含め相手の全てを愛せ、もし大事な出会いなら

2020-04-02 11:19:00 | 日記
2019/5/28記

価値あるものとは?)
 ある雑誌に書かれていた、こんな話。
昔、ペルシャの市場で古老がコーラン5巻をセットで売っていました。 たまたま通りかかった男が、それに興味を持ち買いたい衝動、でも値段は?心は行ったり来たり。 ついに男は聞いてみる“そのコーランはいくらだ”。 そこで古老は“(例えとして)5巻セットで10万円”。 値段を聞いた男はためらう、買う決断が中々つかない。
 それに業を煮やした古老はコーラン5巻の内の1巻を、側で焚かれている火だまりに投げ込んで焼いてしまう。 やっと最初から5巻まとめて買えば良かったと思った男は“なんていう事をするんだ買おうと思っていたのに!”。 
そして男は続けて言う“せっかくの1巻を焼いてしまったことだし、残り4巻でいくらになるんだ?”
古老は“(価値あるものは、多少の傷みや欠落があっても)値段は先に言った通り変わらない”との事。
・・・これを読んだ私は我に帰りました、これと似た過ちを当時何年か前に犯していたからです。 重い辛い思い出です。・・・

(彼女と偶然の出会い、池袋にて)
 ニューヨーク、中華街の台湾系の小学校で中国語を習い始めていた経緯もあり、帰国後の関心は中国語へ、時は1996年頃です。 池袋駅東口でたまたま貰った、金曜日夜に付近の中華レストランでのダンスパーティーのリーフレット(いわゆるビラ)が縁でした。 私は一人で出かけました、そこでは既に何組かのカップルが踊り、曲ごとに相手を変えてフリーに踊っています、壁際の椅子にも人達が。
中でも白いワンピースを着た女性、声をかけてくる男性に嫌な顔もせず、代わるがわるパートナーとして楽しそうに踊っています。 
・・・(私も踊ってもらおう)・・・その日は彼女と踊った事以外は憶えていません。
3,4曲一緒に踊りました、その間に会話も。 彼女は3ヵ月前に日本に来たばかりと
そして揃って座って、話を、私はコーラ、彼女はジュースを飲みました。
北京から出張で来たそうです、期間は2年間、話の真意は分かりませんが、見たところ結婚している年齢だし、家族のある女性を海外へ単身で出張させる?
話が本当だとしたら、中国って意外と進んでいるんだな!そして会社に選ばれて出張する彼女は少しエリートなのかな?その他色々、私の頭の中・・・。

そしてパーティーの終わり間際、彼女は私に何か話かけている。
日本語を話せない彼女の話が、中国語が“若葉マーク”の私は“何々、本当?”、“何だか彼女の最寄駅まで一緒に帰ろう?”よく分からないまま、最悪、最寄駅迄送ってくれなのかな?で、私達はパーティー会場を後にしました。

(彼女のマンションへ、これトラップ?男が出てきて半殺し?)
 地下鉄のある駅を下車、駅から2分と言うけど内心“そんなに近い訳ないだろう、それだったら家賃は高いよ!”。
彼女は駅迄で良いので“サヨウナラ”と言うのか?と思いきや、私を建物前に案内、そこは新築の“LIONS XXXX”,オートロックを解除しエレベーターで部屋へ。

そして部屋に入ってから数十分経っても、例の私を半殺しにする男達は来ないので、今日の所は無しかな?と緊張感は解けつつありました。
それでは積極的に私を男として迎い入れるのかな?といえばそうでもなく、彼女は自分のベットで私はその下のフロアにマットのようなものをあつらえてくれて、つぎの日の朝を迎えました。
とりわけ彼女と最後まで行った分けでも無いし、これで会う事も無いと思っていました。 しかし今度、彼女は今から私の家に付いて来ると言いだしました。今でも忘れません彼女の一言、私の1DK(公団)の部屋を見渡し、これといった家具や電化製品も無いところから、やっと話す日本語で“あなたは貧乏です”。
それを聞いて、半分私は笑えました(そう見えるよな!)。
何時でも現在の自分を捨てて外国へ再び行けるように、大型の家具・電気器具は極力買っていませんでした。


中国領事館への六本木交差点と同時に私の人生の分かれ道 ↑

(それからはお互いの部屋を行ったり来たり)
 以前は多少アカヌケしない身なりを、少しでも日本の街に溶け込むように、服は良く買ってあげました。 一緒に出掛ける際も、私が喜ぶような服装で歩いてくれました。 そして彼女が無理していたかどうか?分かりませんが、食事も私の好みに黙って付き合ってくれました“随便!(スイベイェン⁻何でもOK)”。
彼女特有?外国人ゆえ?デートの際は異体験です。
電車の中では、彼女は私の手を握りお見合い状態です
正直、私は日本人ですから少し恥ずかしい、しかし、これも幸せの一つの形として受け入れました。 デートの別れ際、ホームだろうが、路上だろうが同じく彼女は“キス”をするものと、私もそれに応えていました。

その時、私は四十半ば、彼女は30代後半。
人によって個人差はあります、ただ彼女は子供が産める体でした
時折彼女は妊娠することに、不安を示したり、一方子供をもうければ頭の中で善悪を考える余地も無く、日本に居続けられると微妙な所にいたかもしれません。 
本当はひとえに、私の気持ちに懸かっていたのですが
彼女の会社でアメリカの長期出張へ行った女性達が、何人も中国の生活や家族を捨て帰らない話は聞かされていました。 彼女も(中国の家族を捨てても)このまま日本に残りたいと言っているようにも聞こえます。

(自分も幸せになり、彼女も過去を取り戻せたのに・・・)
ある日、彼女のマンションに居た際、写真帳を持ち出してきました。
中国にいる両親・姉妹・そして彼女の娘さん、見たところ小学3,4年生、容姿は彼女(お母さん)より美人でバイオリンを手に持ちポーズ、中国では中流の上と感じました。 同じページのクリア・ファイルには・・・(中国語で次のように)・・・
この地球上で何もほしいものは無い、只要我親愛的MAMA(ただ大好きなお母さんがいれば) 私の頭の中は真っ白になりました

更に私の心には重くのしかかる衝撃な事実・・・
彼女いわく“実は私は後妻(継母)で今の主人のところへ嫁ぎました”涙ぐみながら。
人は時折、何かのはずみで迷い路に入り込んでしまう事があります
何故、彼女がその結婚を選んだか、何があったのか?私は理由を聞いてはいけない、素晴らし彼女を負の部分を重ねてみる必要はありません。その時、彼女がその結婚に誇りを持てないなら、心の傷を少しでも鎮めてあげるべきでした。 強く抱きしめて、一緒に泣いても良かったのに・・・

確か付き合いは10か月程続きました。
人間、自分の目の前に最高な人がいるのに、彼女と一緒になる事からくる幾多の問題なんて腹が座っていれば、きっとどうにかなっていたのに。例え家族が急に増えても。
私は楽な答えに逃げ込み、そして幸せの架け橋をも自ら遠ざけてしまいました。
そしてその後、現在に至る何年、何十年、私の心は”もしも・・・”、”どうして、あの時・・・”とその記憶で冒頭のコーランを買いそびれた男のように、立ち止まっています。

よく人は一生のうちに男女の巡りあいは2、3度あると言うが、それは違うと思う。
その2,3人を並べれば、誰が最高か?最高であったかは歴然としてきます

映画のタイトル“復讐するは我に有り”ならぬ、“復讐するは自分の過ぎたる欲に有り”が自分にふさわしいタイトルの故史です。





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