中年オヤジNY留学!

NYでの就職、永住権取得いずれも不成功、しかし、しかし意味ある自分探しに。

この年で知る、“お金より、人が誕生して成長していくパワー「すごい!」”

2024-07-17 14:55:21 | 海外留学
この年で知る、“お金より、人が誕生して成長していくパワー「すごい!」”
 2024/7/17


私にはたまたま、 “私のように貧しい家庭で育った人間とは、今まったく別世界を生きている子供がいる。 普通では買えない車に乗り、撮影に耐える家に住み、たまに彼からもらう土産の品は手提げ、包装、中の木箱などが値段の3割以上を占めているのでは?の珍品、これらを買い求める人々はどんな基準で買っているのか? 高級食材をぶち込み過ぎ、意味不明の食べ物も、時には有る
キャビア、トリュフ、金箔などのトッピングは常連・・まるで「裸の王様」の逆バージョンでは・・。

 (そしてもう一方の主人公登場)私達家族はコロナ明けという事で、遠方で親の法事があり出かけた。 ただ法事には、なかなか結婚しなかった弟の姪が、この5年に及ぶコロナの間に式は挙げなかったが結婚し、おまけに40過ぎで子供(女の子)をもうけていた。
 この姪の子供(桜ちゃん2歳8カ月)が誕生し、弟夫婦は定年の身でむしろ仕事(桜ちゃんの世話)ができて喜んでいるし、お母さんになった姪も若い時は、国内海外を旅行し、推しの芸能人の“おっかけ”と忙しかったが、今は一皮むけている。 それにしても高齢出産に拘かわらず、元気な女の子で良かった。 私達家系は4人兄弟だが、今まで子供はいるが、孫はおらず桜ちゃんは、かくして私たちの家系の孫1号で救世主となる。




 (小さな子の持つパワーを見せつけられる)子供特有のじっとしてないエネルギー、好きなことを見つければ取りつかれる。 そして一番のサプライズは、テレビに映し出される子供番組で、虫の名前をテレビのお姉さんが言えば、画面のひらがなを見ることなく、直ちにオウム返し。 
*やわらかい脳みそが、音声を聞き、直ぐに正しく返す(私は興奮した)*
 自分はニューヨークに30代後半に英語の勉強で4年留学。 今でも、多々聞き取れない、聞けても意味を忘れるもあり”ボロボロ英語“です。

 とっさに桜ちゃんと私の英語苦学がつながった。
もしも桜ちゃんが小学生低学年~中学位迄、英語圏で過ごせば、費用はかかるが大変なことになる、一生他人に“やきもち”を搔くことはないだろう。 そしたら将来お金やプライドは空から勝手に”降って来る“こと間違いなしと私自身が勝手に熱くなってしまった。

(そして、このプログの書き出しへ・・・)
 子供の可能性は、物やお金を凌駕し、これを私の息子とゲームに例えたら現状は桜ちゃんに。
 人間は可能性のあるものに、魅かれる事も、私の年に身内の事象で強烈に感じた。

 私の子供時代は、“家は貧乏だからは”で通じたが、今はこれを理由にいい訳にするには少し残酷な時代になってきている。 今や、TVやFMに出演するゲストのご子息は“このタレントも”とビックリするほど、若いうちから海外留学している。

 また結婚や子育てのため、自分のキャリアを捨てる事を恐れる余り、”経済力“を理由にためらったり、本当に傍に素晴らしい伴侶候補がいるにも相手の収入を理由に、守りの生き方も再考を。
 あるテレビ番組で、結婚を決意したのに、「怒られたことが無い」、「傍にいると心が落ち着く」とか見たことがある。
結婚の基準は、こんな普通の事(例えば;優しいとか)で十分だったんだと、人生終盤で知らされる

ただ慣れてくると、怒りっぽい人や、押し付ける人、結構いますよ! ご注意を。

しかし結婚をためらう人々へ(よく観察し見方を変えればいい人が傍にも、いるのでは・・・)
そして子育てが、親となった貴方を新しい世界に連れて行ってくれるかも?


(では、またいつか・・・)

前略、小島瑠璃子様、中国留学の強い気持ち分かります、でも大丈夫かな?・・・

2022-08-21 10:48:22 | 海外留学
前略、小島瑠璃子様、中国留学の強い気持ち分かります、でも大丈夫かな?・・・
2022年8月21日 投稿  同8月23日一部編集

 NET上で、彼女が中国留学を来年にも予定し、仕事のウエイトも多くを中国に移すとか。 これを”頑張って!“と声援を送ってよいものやら、個人的には複雑です。
自分は小島瑠璃子様と時代も年齢もまた動機など中国行きの諸条件は異なりますが、一時は中国に取付かれた一人です
 ニューヨーク留学の後半に、チャイナタウンの中華学校(小学校)で中国語を勉強し始めたのがきっかけです。 その後、中国社会の迷路に日本に帰国した92年頃から入り込み、特に約十年は夢中に。 そして結果、私は上海の人と結婚していますので、そのまま放たれたロケットにあたかも半ば軟禁状態で今も宇宙の迷路を飛行中です。

(小島瑠璃子様は中国語”ペラペラ“とNET上に書かれていますから問題は無いと思いますが、やはり心配です・・・)
 本来なら、これから若い人が心に温めた夢を実現するために進路を執るなんて、応援するのが普通ですが・・・

でも私が危惧することは・・・
1:(本気になって留学する、2023年のいま時期が遅すぎませんか?
私が初めて中国を訪ねたのが1992年、私が40代前半。 まさに中国の発展はこれからといった時、中国の街で見かける全ての光景に日本とのギャップが有り、社会学的にも興味がそそる光景を多く目にしました。 また物価は表面上安く費用面では助かりましたが、現在の中国の人件費、物価とも高騰して留学環境や経済負担は大きく変わっています。


小島瑠璃子様もご承知と思いますが、心配です・・・
2:(知っていると思いますが、日本人と似た顔つきをしているが彼らの家族観、人生観は丸きり違う事・・・注意しないと、日本人は時には彼らの道具で終わる場合も・・・)
 彼らの自身の家族を守る団結力、そして経済的な上昇志向が強く、日本人と中国友人と言えども「彼らにとって対等で語り合って楽しい」だけでは意味が無いのです。

しかも一番の中国人から日本人に対しての関心事は、「役に立つ日本人かどうか?」、「できる事なら、自分を現状からすくい上げて、人生の道を開いてくれる恩人かどうか?」と思われます。 そして女性でも日本人と違う所は、不特定多数の人間と面識を広めることは、罪悪感やリスクと思わぬ点です。 恐ろしいというか、彼らはものすごいエネルギーの持ち主です、日本人の比ではありません。
 当然、小島瑠璃子様ほどの方なら,たくさんの取り巻き(芸能ファンでなく)、【我田引水:がでんいんすい】中国人の彼らにとって都合の良いパートナー探しの集中砲火を浴びやしないか?
彼らにとって渡に舟と思えば、あたかも芥川龍之介の”蜘蛛の糸”ならぬ地獄(平凡な生活からの脱出)で千載一遇の好機とばかり、「自分の将来を変えたい、一発狙いの人々、団体などのフォーチュン・ハンターが、その細い蜘蛛の糸に飛びついてきます。
 結果中国に勉強しに行くのではなく、自分の大事な時間や費用、純粋に思い立った初心や情熱が霧散してしまうです。


↑ 上海の眼下
3:(中国は、日本に居るよりはるかに体力が必要、水道水を初め食文化が全く異なる・・・)
・中国の街中は殆ど、片側5車線つまり横断歩道では10車線越え、正面の信号は「青」なのに左折車は平気で突っ込んでくる、”何時渡れるのやら?“。 
  ・一番は「水」、朝起きて顔を洗う、そしてウガイ、その瞬間何とも言えない臭み、そして思う「俺は中国に来ているんだ!」。バスタプに湯を張れば、薄い麦茶色?
・また私は中国へ行くと脳裏を走るのは下痢してしまうことだ、日本人が日頃に街中華を食べているのは「和食」。 ところが中国の店は動物性の油を多用しているから、日本人の腸はやられます。 この際は日本の正露丸は全く効きませんのでご注意を。
また魚介の生の刺身は、中国では店の衛生管理は雑ですから避けた方が無難です。
  ・ そして中国はルールの無い国です、勝負は例の大声をだして力づくで決着、買物も電車の場所取りetc、正直言って日本人には、ストレス、中国人は言う”この言い争い”喧嘩じゃないから。 “いいえ、これは正に喧嘩と同じです。です。

( まとめ )
 さて中国もニューヨークも知っている自分ですが、中国へは懐かしさは感じません。
40代でしたが、90年代の中国発展黎明期に自分の余りあまった”エネルギー“と引き換えに何かビジネスで頑張りたいと足蹴に中国へ通いましたが、ある物流会社で簡易面接を受けましたが、条件は日本円にして1万5千円では国民年金の掛け金ほどだったのを思い出します。
ただお金がどうのこうのと言うより、また豊かになった中国は以前より魅力的と見直すより、中国(中国人も)のVOLAITALITY―不安定差は本質的に変わっていません。

つまり世界情勢を理解している中国の中流や資産家さえ将来のリスクに備え、彼らの子女を国外留学等で送り出しているはずです。
 仮に小島瑠璃子さんが本来、留学生として外国へ行った場合、現地で外国人学生として暖かく迎え、生活や語学学習の一部サポートしてもらえるのが理想です。
ただ心配するに、逆に現地で取り巻きの中国人の情報の出し手にさせられてしまうことです。

私が中国に夢中になっている当時、名古屋から知らぬ日本人の方から電話・・・
「〇〇さん(中国の私の友人)から聞いたけど、中国で仕事したいんだって? 失礼だけとやめておいた方が良いですよ。 私の知っている日本人たち中国で事業をやって、赤字の時は日本からのお金の持ち出し、今度利益が上がりだしたら”なんだかんだで、乗っ取られちゃうのが落ちだから。」
私この面識のない人からの電話、忘れられません・・・

 心配は小島さんにとって、中国は将来どのような存在になるのでしょうか?

(また別の投稿で・・・)



“やはり英語、できれば英語留学!・・・他に勝る非凡さを持ち合わせていなければ”

2022-07-16 13:18:08 | 海外留学
“やはり英語、できれば英語留学!・・・芸術やスポーツなど非凡さを持ち合わせていなければ”
2022年7月16日投稿


 中国バブル、米国バブルそして世界中いたるところ・・・しかし今始まったことでは無い、実際は10年前くらいから、世界中はバブルに突進していた。
私が2013年にニューヨークを訪れている際に既に”異様な物価高“を感じたが、この2022年に至るまでバブルにブレーキがかかるどころか、スピードを速めている。
バブルすなわち”格差“を更に助長させることになる、特殊な才能や起業して成功でもしない限り、若者たちは就職で企業側でランク分けされるが、この場合も英語が最重要ポイントとなる。

そして「本題」の若い世代が英語の勉強のために「留学」で海外となれば、アメリカは当然候補地となるが、このバブルによる費用の上昇、よほどの資産家でもなければ、正直どうしたらよいのだろうか?

(時代の巡り合わせで「幸」や「不運」が織り重なる・・・)
 過去を振り返り、80年後半にアメリカに留学できた、私はラッキーだった。 留学する前アメリカは何でも高いと思っていたが逆に総じて、物価は日本の70~80%と安かった。
 当時、私が持ち出した資金は大体650万円、ニューヨークでのバイトが150~200万円で語学学校・市立コミュニティ・カレッジの学費や残る住居費や生活費を4年超も賄えられた。 総額約800万円、もしも2022年の現在なら3,000万円になるのでは?
 なにしろアメリカでバイトは見つかりにくい、留学生は注意が必要、行ったらどうにかなるという安易な考えは危険、日本はバイト天国という夢の国。
また少し前は、日本の母親がパートで得た収入を留学生に送金という話を、よく聞いていたが、この円安と海外のバブルで現在はかなり難しい手法と思われる。

(アメリカ¬=英語は文化の面でも、依然として世界のスタンダード”標準“)
  思うにとりわけ特殊な才能を持ち合わせていなければ、多くの人達(若者)は英語やコンピューター・スキルによって進路(就職)は振り分けられる可能性が高い。
 そして、若者や自分の子供の個性にもよるが、 “社会の出世階段 : SOCIAL-LADDER”や、「社会で渡り合える力とならば、とりあえず「英語という武器」を身に着けさせる必要がある

(人を一人前にするには、時間と投資が必要・・・時には犠牲も)
 私が留学した30年前、ある教師は「このニューヨークで現在、社会の中堅で働いている多くは移民3世」だと言っていた。 当然の事に、移民一、二世では母国語が英語でなければ、足かせとなり社会的進出を妨げる。 残念だが何でも成功させるのに、時が必要なのだと、脳裏に焼き付きました。 英語を流暢(FLUENCY)に話せるようになるに、異国より移民したての一世では完結せず、その子や孫の時代を待たねばならぬ長い話となる事も教わった。

 数年前、テレビの番組で日本人家族が、子供のうちから英語を身に着けさせようとして、(記憶が正しければ)シンガポールに移住したとか。 費用面で西欧や北米でなく東南アジアを選択したと語っていた。 またご主人の仕事は、現地で金融投資事業のように記憶している。 
一見無謀とさえ思えたが、時間が経ってみると子供が外国でも順応するよう親が自身の人生を捧げる、たやすいことでは無いが、素晴らしいというしか無い。 住まいはコンドの上層階で清潔そうだが、映像には無駄な道具や家具が見当たらず、ひたすら子供の英語教育が家族の生活が並立させている、彼らの決意が感じられた。
 見えないところで、人様は子供の将来の為に小さいうちから、時間やお金だけでなく人生の設計図を持っている家族がたくさんいるのが強く感じられた。



(英語留学には、小学生低学年で、続けて中・高校を外国で過ごせるのはベストと最近考える)
 私は38歳で留学し、語学学校の後に2年生のコミュニティ・カレッジ卒業などで4年超NY生活し、帰国し職を得て何とか食べるに困らず、感謝しなければいけないところ。
 ただ成人になってからの語学学習は、発音や会話は私を含め他の外国籍の人達もどうしても流暢さ(FLUENCY)で劣る。 このコンプレックスは離れることがない。
 
 私はもう年だから仕方ないが、欲を言えば日本の大学を卒業して、分別をつけてから留学するのでは英語の勉強という点では、遅いのでは? 生まれ変われるものなら、脳の語学領域の形成が柔らかい小学3,4年生から高校性位迄留学したかった。 
 かと言って小学生・中高生の子ども達を、親元を離れ海外へ送り出すには、もちろん経済的なこともあるが、性格にもよるが下手に遊び癖がついたり、日本人でもないアメリカ人でもない中途半端な人格づくりになっても困る。 私はNYの塾でのアルバイトから、漢字の書けない4,5年生を数人見ている。 彼らは勉強そのものに無気力だった

 このポイントがジレンマだ、小中の子供たちの傍で人格形成のため躾や基礎学力を積み重ねることのできる根気のある生活習慣を身に着けるため、やはり親(母か父のどちらでも)の存在が必要と思われる。

しかし“お金”がなければ、例えばここでは”留学“を諦めなければいけないのか?もしくは子供が小さいうちから親子で海外へは絶対無理な話か?)
 アメリカのインフレ(バブル)が想像を絶する幅とスピードで留学候補地としてはハードルが高くなっている。 日本から資産家でもなければ、子供の留学に仮にも親一人でもついて行くは困難だが一方、芸能人や政治家、その他著名人の親は子供たちを海外へ送り出している。
 誰もが感じている、資金的なリスクはあるが、これから更に、日本社会でも高度の英語能力の有無が人生を左右する事

* 最後に、子供達に英語力をつけさせるために、こんな提案をしてみたい *
① (海外派遣・赴任の可能性有る企業に就職する)自分の世代での完結は望めないが、海外転勤のチャンスにできれば家族を伴って転勤し、子供との海外生活を外国語教育の機会とし、親子とも勉強する契機となるも、その先は子供に託す。
② (資金は必要とするが、自費で親子で英語圏に移住する)子供が中学前後の5~6年を住む、発音や会話のFULENCY(流暢さ)は大幅に改善される。 米国では高校生まで学費は無料だと思います、但し入学に際し日本の大検のように事前に試験をパスしている要件有。 
 また自前で留学となれば費用も莫大だが、人生振り返ってみると3000万円前後、多くの人達がくだらない事で損をしている、それより子供の教育という考え方も有ります。
③ (本邦でインターナショナル・スクール等に入学)少しでも留学ほどの資金がかからない、似たような環境で低学年時に子供達を教育させる。 

(注意:日本とアメリカ留学時の学校の違い)
① アメリカの授業や宿題は概して難しくないが、宿題や提出物は期日迄に必ずやること
② 学期中のクラスに3回程度、欠席や授業中に発言しないなどと教師に無気力とみなされると、授業から外される
③ 科目授業の定期・中間・予告無し試験があり、基準以下だと授業から外される可能性有り。
④ 留学からではなく、日本にいる時から規則正しい生活、授業に付いていく姿勢が必要、子供によっては向き不向きがあるので注意

それでは、頑張って下さい。


とりあえず低学年留学に反対 !

2022-05-27 07:52:33 | 海外留学
中年オヤジNY留学



アンチ(反対)低学年留学“、英語が話せるか?は最初だけ、最後は魅力的な人間かどうか?。
2016/3/23 掲載


 それはコロンビア大学の英語学校のクラスに、中途から入ってきたのはキヨシだった。 自分より一回り以上若く、余り表情を変えず、自分と同じクラスで良いの?と思うくらい英語が話せる感じだった。
年下なのに何者か?、そのな彼の素性(すじょう)を知りたくなる雰囲気を持っていました。
また何で、そんなに英語が喋れるの?とか。

 そのうち、クラスに日本人が少ないこともあり、自分と彼は話すようになり、”今度の土曜日、ウェストバージニアの友達の所へ行くから、一緒に行かないか?“と誘いを受けました。
ニューヨークに来て数か月の自分は、怖いもの知らずで行けるところは何処でも行くと言った感じです、一種の留学初心者の何でも知りたい病です

 約束の時間にキヨシの下宿先を訪ねる、この時、嫌な予感の序章が始まる
彼が姿を現さない、たまりかねたホストファミリーの奥さんが、彼がまだ寝ていることを確認、起こしにかかる。
それから、シャワーだの身支度(みじたく)だのと。



やれやれ私達は、ワシントンDCのペンステーションに降り立ちました。
まだ日は高く明るく、ドーム型の突端の駅出口は昔の兜町証券取引所の建物を思わせる感じ。

そこでキヨシは客待ちのタクシーを拾い私たちは乗り込みました。
東京都内を走るのと違い、相当なスピードでハイウェイを走っていても目的地には、ほど遠い様子。 走れど走れど目的地には程遠い様子。
黒人の運転手は指にチキンを挟み食べながらハンドル操作、”場所が分からない“と、出来るなら適当なところで降りてくれと言わんばかり。
日本でこれだけ乗ったら、既にX万円でしょう。
何度も停車、運転手は目的地を聞くが、尋ねられた方も分からず。
辺りは、とっぷり暗くなる
運転手は、もう嫌だとばかり、不満をタラタラ。
キヨシ“ふざけた運転手だから、ぶっ飛ばすしかない!(日本語で)”私に何度も。 

自分の知らない世界に入り込んでしまい、運転手とキヨシの“ギャーギャー”、“この野郎”は延々と。
ようやく、なんとかキヨシが見慣れた地域を確認、”そこを右、・・・・左”と言った感じで到着。

木立に囲まれた白塗りのアパート。 さながら軽井沢の木立の中のペンションを彷彿。
そこでキヨシの友達は男2人、女1人で各自の部屋で生活。
第一印象は若干,違和感
20代前半の若者が、ここで何を?

キヨシを含め、全員同級生との事。
高校の卒業アルバムを見せてもらいました。
何を隠そう、全員日本の高校で何らかの理由で退学になり(親の経済力で)ハワイの高校に転入卒業したそうな。

卒業式の写真を見ると、全員、昔の原宿の”タケノコ“か、見知らぬスナックに入ったら、白や黒、はたまた柄入りのスーツ姿の怖い面々“の様相。
そして、彼らの高校は日本の文部省の認可を受けていないので、日本では高卒扱いにならない事。
必然的に、アメリカの大学を卒業する必要がある。 しかし,アメリカにも日本の大検制度に似たものが有り、これをクリアーする事が必要。 地に入れば、別の掟(おきて)あり。 全てが簡単では無い。

話を聞けば聞くほど、内心“これは、イカンナ!”
親元を離れ、落ちこぼれ同志で傷を舐めあい、仮に仲間同士でセックスに呆けても、叱るものはいない

その晩から2泊キヨシと友達1人そして自分、そのアパートには泊まらず、モーテル住まいとなった。 何故?良くわかりません。 私にしたら、何で要らぬ出費するの?です
しかし、これだけは言えることは、彼らは金を持っていないモーテル代すらもである。
友達への遠慮は感じても、その反面、俺の財布を当てにしている
ここへ来るまでのタクシー代も自分が払いました。 清算の話は後からと思いきや、とぼけにかかっている。 
アメリカを知りたいアドベンチャーは高いものになり始めました。

こんな訳もわからない嫌悪感、窮屈、金に不自由するお坊ちゃんはもう要らない。
私の体が叫んでいる

(例えバージニアという知らぬ地に来てしまったが、もう1分たりとも行動を共にするのは・・・)
 翌朝、私達3人は大型のファミリーレストランで朝食をとる。
表に、見ると時折バスが停車している。 このアメリカで右も左も分からない自分に“火がついた”。 バス停の行き先を確認しに中座し表に出る。
とりあえず,来た時のペンステーションもしくは、そこへ行く地下鉄の駅でも良い。
バス停の案内を見て、“多分、大丈夫?”でも自信は無い。
でも賭けるしかない“どうにかなる”と。

レストランに戻り、”ごめん、俺ここで、一人でニューヨークに帰るから“
キヨシの友達は言う“日曜日はバス休みだよ・・・・”
後で思うことだが、これを言うキヨシの友達も相当の“悪(ワル)”だ。
自分は一瞬、くじけそうになったが、(バスは見たところ,何台も来ている)そして自分に賭けた

間もなく、バスが停車した。
今でも、憶えている、アメリカに来たばかりの自分がバスドライバーに言った言葉を。
バスの黒人のドライバーは、一瞬“ウッ(何?)”と言った感じだったので、バスのタラップを後ずさりしようとしたら、ジェスチャーとともに“COME ON(乗れ!)”
その瞬間、緊張感がいっぺんに解け、キヨシの友達は嘘をついていたのも分かった。

キヨシ達のように日本の高校を退学になったという事情を含め、低学年から留学するメリットは有るのか? 私の持論だが、人は小学校4年前後から急速に第二外国語をネイティブのように扱えなくなる。 
例えば親世代が英語で苦労した経験から、経済力のある親が早期に中高生を海外へ送り込むのは、人格形成の上でリスクが大きい。

(金持ち子女が、群れてたむろう、変にまったりする空気感と”秘密の隠れ家”ともいえる上海とNY留学の共通点)
 実は私、十数年前に中国人の女性と再婚し、義理の息子がいます。
四年ほど前、彼の友達が喫茶店を開店したというので上海へ行ったついでに寄ってみました。 それは喫茶店と呼ぶよりは”サロン“のようなもの、椅子も重厚感あり、ビリアード台も設置。 その時、一般の客は居らず、女性2人、男性は息子の友達のオーナーともう一人、全員仲間内。
何か感じる異様さは、二十数年前の”キヨシ事件”に通じるものがありました。

この店の資金は、息子の友達の母親(XX駅近くで数件の事業主)が出したそうです。 そう言えば、このサロンの前に白のスポーツタイプのベンツが置いてありました。 皆さん中国では、もちろんベンツは高いが、車のナンバープレートだけでも手に入れるのに、日本円で200~300万円要るの知っています? 車も何もかも彼の母親が買ってくれたそうです。
更に彼は車のスピード出し過ぎで、人身事故で日本円で当時4000万円で和解、これも母親が出したそうです。

先ほどの女性2人も日本に居たそうです。 一人は母親が日本人と再婚し、その義理の父親が亡くなり、彼の日本の遺産と年金で母娘二人が暮らしているそうです。

これら日本からの帰国子女が、この上海のサロンに寄り会い、親の援助と言う”点滴“を受け、若い青年がやらなければならない、勉強・苦労を”モラトリアム化“し開き直り、あるいは、外目には”おしゃれな服”をまとい、“高級車”と言う道具を使い、自分の存在価値を社会に認めてもらおうと寄り集まり、時には街中に繰り出す。

結局、英語や外国語が話せるなんてどうでも良い、人として何らかの地味な小さな同心円からスタートし、機会があればその波紋を大きくし、常に自分の責任(稼ぎ)の範囲をわきまえる事が大事ではないか?

また、続きます・・・

”俺の靴がなくなった!、NYの学校で・・“

2022-02-22 13:22:59 | 海外留学
”俺の靴がなくなった!・・NYの学校で・・“
2022/2/22 記

 今でもいつも思う、どうせ留学するなら、もっといい学校を卒業したかったなんて・・・
最初から英語学習という漠然とした分けのわからない、例えたら巨大なプール(留学)へ飛び込みたい。 スタートがその程度の欲望だから、将来NYのどこの大学へ、メジャー(専門学科は)、地域も含め理想的なエンディング(終着点)なんて物にできるわけが無いのですが。

(私自身のNYの原風景・・・街はずれを走る古い高架地下鉄と風に舞うゴミ屑、無機質な赤みを帯びた建物群)
 結果、卒業したのは二年生のカレッジで、マンハッタン(NYの中心である半島部)から少し離れた7(地下鉄7号線)TRAINに乗り20分の場所に位置している。 その先の沿線には野球の“シェアスタジアム”や全米オープン会場のテニス場へ続く路線。 極端に犯罪の多いブルックリンよりはましだがマンハッタンの中心部とはガラッと違う。

 しかし”就職氷河時代“の幕開けの92年に日本に帰り正社員の職に就き、人並みの給料をもらえる運をもらった。 NYで威張れないながらも、カレッジを卒業し英語も少しは使えるという事で”ご飯を食べつないでこれた“のは感謝だ
2022年の今というか、ここ数十年、”普通でいられること自体、難しい“のだから

何かの力を借りてアメリカの学校を卒業できる人は、うらやましいところだが・・・。 留学時のある日、向かいの信号から私の方へ、ベンダー(屋台の車)を押すラテン系の親子を見たとき、小さな子供は天職のように目を輝かせていた光景は忘れられない。
俺は、この子のようにプライドを持って、街角でホットドックなりを売ることができるだろうか?“ あの光景が、戒めとして私の心に焼き付いている。



(そんな地下鉄7号線沿線にあった、私のカレッジ・・・)
 もちろん日本人の誰もが口にするマンハッタンの大学ほど校舎も敷地や生徒数は多くはないが、授業を履修する際のコース選択(ADMISSION)の際、未卒業の潜在生徒が9,000人と聞きビックリした。 私が自慢できない大学でさえ、中途退学や卒業していない人が山ほどいる。

カレッジは日本の大学でも、生徒数の増加で周辺の土地や建物を次々と収容し規模を大きくしてきたのと同じく、科目ごとの合間の10分間に建物を移動するようになっていました。
移動も結構、忙しい。

 私は入学し、暫く月日が経つまで、この大学は高校とある建物を共用していることを知りませんでした。 そう言えば、外国人の私の目で見ても、彼らは”大学生には見えないな?“といった若者も散見できる。

(カフェテリアで一日のコーヒーブレイク・・・)
ある日、私はその日の授業を終え、学内にある何か所かあるカフェテリアの別館で、一人で休憩です。
午後3時前後で“ヤレヤレ”といった状態、売店でコーヒーと食べ物を手にしテーブル席に陣取りました。 一日の緊張をほどくリラックス・タイムです、朝7時前に家を出て、この時間ですから、足がパンパンで左足のスニーカーを脱ぎ捨て、足をベンチシートに曲げ乗せて日本人の所作です、”ヤレヨット“と一息。

食べたり、本を見たり何分か経ちました。
“(私)さて、そろそろ引き上げるか!”
(ところが、足で床をまさぐっても、あるはずの靴の感触がありません
“(私)そんな訳ないだろう、自分の椅子の真下に靴を脱ぎ捨てたんだから?”
(仕方なく、椅子から席を外し、潜るように椅子下に眼をやると・・・)
(私)!!!ムッ――― あるはずの靴がない!
(やっちまったな! 異国の地で、油断してなんで靴を脱いだ(反省)、これ戦場だったら殺されているな!)

”(私)俺どうするんだ、片足裸足でマンハッタンの116丁目まで帰らなければいけないのか! NYのガラス屑や廃材のいばらの道を裸足で・・・、スリッパでもいいからどこかに、落ちてないかな? 買いたくてもスニーカーを買うお金を持ってい無し!“
(まさに、パニック)

深呼吸して、自分に落ち着けと・・・
そして事の起こりを私なりに整理、靴を脱いだのは確かで、しかも椅子の真下、10分も経たない短い時間、掃除の係の人も来なかった。

(ラテン系のヒスパニック人にとって、冗談や他人を小馬鹿にできて“一人前”・・・
 授業中でも映画の中でも彼らにとって、他人(ひと)を“いじくり回せて”、“なんぼ(おいくら)”の文化。 調子にのり何時までもやめないと“COME ON(いいかげんにしろ!)”と先生から、お目玉を食らうのがオチ。

”(私は)やられたな! スパニッシュ、これしかないだろう・・・“
私はテープル席を立ち、カフェテリアをゆっくり見渡しました。 それらしき雰囲気はないか?一瞥。 他のテーブル席の生徒は、私のことなど知るよしもなく、食事したり会話したり、私をチラ見する者は見当たらない。

“(私)困った! しかし、同じ校舎を使う学生として、俺を裸足で一時間かけて地下鉄に乗り家に帰す迄の残酷なことはしないだろう?”
私はカフェテリア内にある、ゴミ箱を捜索することに、丸い大きなガベッジを覗く7分目までゴミが、ただ上側に私のスニーカーは見えない(無い)。 その間、ゴミ箱の内側を見る一方、それとなくカフェテリア内をチラ見、犯人らしき人間がいないか?と。

 外界は変化なし、念のためにゴミの上側を持ち上げスニーカーが隠されていないか?
“もしやと思ったが、やはり無い”
その間も、こちら側が焦っている素振りを押し殺し、それらしき者がいないか?ゆっくりと周りを見回す。
やはり!奥の席で、クスクス笑う数人が眼に入る。 
“あいつらか!”しかし、確証が無いし、喧嘩になったら、相手は数人、一人はがっしりした体型のボス格の人間がいる事が分かる。

 怪しいが、声をかける状況でない、仕方ないとりあえず、元のテーブル席に戻る。
“(私)どうしたら、良いんだ?”頭の中は、思案、思案・・・。

 すると例のグループが動き出した、ボスを中心にサッカーのドリブル・パスならぬテーブル席の通路を行ったり来たり、ついには私の席の横を・・・。
蹴り飛ばしているのは、もちろん私のスニーカーだ
かれらは私近くに放置し、カフェテリアから姿を消しました。

いたずらされて、馬鹿にされたのに、何故かスニーカーを戻され”(心は)ありがとう
裸足でNYのガラス屑とガレキの破片のドウロを歩く苦行から解放され、うれしかった
そんな、たわいもない思い出です。

(また、別の投稿で)



NYにて、流浪の“台湾女子ネネ”の話、・・・そして貴方に問う、結婚する派、しない派?

2021-07-21 07:25:54 | 海外留学
中年オヤジNY留学
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/95/4758957ca1cb40144e788de7378b51b4.jpg
↑ NY、 INTERNATIONAL HOUSE


NYにて、流浪の“台湾女子ネネ”の話、・・・そして貴方に問う、結婚する派、しない派 2016/6/26 RE-WRITE

(ネネとの出会い) NYでネネちゃんを知ったのは何時(いつ)だったろう?
それは自分が住んでいた寮(約500人の学生を中心とした大きな寮)では年一度秋に寮祭を催しているが、各国ごとの寮生がユニットになりそれぞれの準備をしていた頃でした。
自分が模擬店の屋台造作のため、材木を鋸で切っていると彼女が”あれこれ“と指図してきたのが最初でした。
その時から”ネネ“とは顔見知りになりました。

ここに居たと思ったら、今度はあすこで立ち話、何かクラブの女子マネージャーごとく、何かオカシナ行動の人と思ったら台湾の女性でした
日本語が話せて、今はアメリカに居場所をとは、いかなる人物でしょう?

大きな寮でこんなイベント(寮祭)で狩り出されもしないと、こんなにたくさん日本人(約40人)が住んでいたのか?分かりませんでした。
万一、寮内の廊下やカフェで会っても日本人は初対面はとりあえず“知らんぷり”する傾向ですが、寮祭が縁ですね。

日本人は一般に、地下鉄で遭遇しても挨拶したり、”日本人の方ですか?“なんて話しかけません。 日本人を視界に捉えながらも、現地の友人を盾にツッパリ”続けます
私は”日本人を卒業したNY子なんだ!“と言わんばかりに・・・



(彼女もマルチ移住経験者)
NYには親に連れられて先ず南米ブラジル、チリに移住その後アメリカ。 中国人では当時の政治情勢で先ず香港にそれからカナダ更にアメリカとか転々と。 

ネネも台湾から日本の大学に留学し在日8年、ただ卒業したかどうか?
日本では”水商売のバイト“をしていたそうです、それは言わずもがなでしたが。
それにしても日本語が“へたくそ”で、本当に日本の大学へ行き、8年も居たか?の話です。 彼女のヘタな日本語を長時間、聞くと少し頭が痛くなります。
しかも眼鏡もかけ、日本語ヘタ、これら合わせて、彼女は今までどうやって生きてきたのか? 彼女が生き抜いてきた半生には、とりあえ理屈抜きに敬服です

(ネネの男性遍歴)仲良くなると、ネネのほうから寮内での男性遍歴をチラチラ話すようになりました。 まずはアメリカ人のクレス、そういえば彼の部屋からキュービック型の冷蔵庫をもらう時、元カノ振りで仕切っていました。 また日本の大手証券会社で研修留学のSさんも、見た目も悪くなく、将来性のある会社の人がネネに手を出さなくてもと思いましたが。 彼女とでは、病気が心配です。
Sさんの話が出たので、私は“Sさん良いじゃない(交際相手として)”と言うと。
彼女曰く“ただ、背広着ているだけの違い・・・(社会的に見た目が良いだけ)”。
クールでバッサリ、水商売8年のお言葉。

(ネネの結婚)暫くネネと交友関係が続き、その後彼女は新しい彼が見つかったとかで寮を出で行きました。 ただその後も、あたかも実家に里帰りするかのように良く寮に立ち寄っています。

そして、その時、彼女は少しだけ自慢げに”グリーンカード“を見せました、今思えば、日本の外国人登録証と似たものです。
知りませんでした、ネネは“チャッカリ”新しい彼と結婚しているなんて。
これで彼女は新しい軒先を捜さなくて良さそうです。
でも、俗に言う”良くヤルワ”です。

(ネネのご主人と対面)それから、その年の9月にネネから電話で、今度の日曜日ビーチに行こうと誘いがありました。 多分、私も暇だったのでしょう。 
朝、ペン・ステーション駅の前で待ち合わせ、彼女の新しいご主人が来ていました、一緒に行くのか?と思いきや送りに来ただけ。
この状況設定も理解しずらい、何か悪い雰囲気になるか、人の奥さんと出かけるなんて?
”一瞬、俺、帰るわ“と言わなくてはの状況です。
ネネも“全然、問題ない”。
“(私)ほんと?”
ご主人から自分に何かを問いただすような質問もありませんでした、例えば”お前は何者か?“なんて。
勿論、その後に俺の女に手を出すなと乱闘もありません。
かと言って、馬鹿丸出しの男かと言うと、そうではありません、若干小柄ながら “キリット”した顔、ハンサムでした、歳は30後半、アメリカ人。
こうした男性が、何故ネネちゃんと結婚? そして訳の分からない男(私の事)が人の女房と出かけるのを許す、彼の心のうち如何に(いかに)?

(アメリカは広い)目的地のビーチはとりわけ何もなく、海水浴シーズンも終わり“今は・・♪♪もう秋♪♪・・・”です。
ネネが何故ここに来たかったのかも分かりません。 
コニーアイランドのようにボード・ウォークもありません。
NYジョーンズ・ビーチのもっと先ファイアービーチ? 地名忘れました。
シーズンも終わり、ビーチに人影がほとんどありません。
日本ではこんな無人の長い海岸線見たことが無い、何しろ長い、おまけに人も建物も視界に入らない。
打ち寄せる波は高く、浜は白浜で綺麗。
浜には、産卵か何かで力尽きたカブトガニが無数打ち上げられています、太古のおもむき
ただカモメ達が強風にもかかわらず、餌がほしいのか私達と距離を保ち飛び続けている。

日本だと大自然といっても、殆ど人の手を加えた形跡がある。
しかも近くに人里の気配を感じる。 

一方アメリカでは以前、旅行先の湖でボートを漕いで何気なく浮島に沿って曲がったら、視界から僚船も人影も一瞬に消え、原始の雰囲気で、パニックになったことが有ります
日本では自然と言っても、人が“いじった箱庭”のようなところ遊ばさせられている感じかな?
一種の平和ボケならぬ、街中ボケ?・・・。

(どうしてネネと結婚)話をネネに戻しますが、少し不思議、結婚した彼が何故それを選択したのか?
いわば海千山千のネネと取り込め詐欺的な結婚に舵を切ったのか?
ネネのご主人の心境は計り知れませんが? 人には歳を重ねても、若い時とは違うけど、なかなか心の中に燃える、燻る情熱、思いを消し去るのが“下手くそな生き物”です。

もう子供を産めない(出産適齢期を過ぎた)、産まないカップルは急いで籍を入れる必要が無いと思いますが。 本来は、人は年を重ねると、自分に合う相手が分かるようになり、また若い時より選別が厳しくなるはず?なんですが?

しかし何年、何十年の結婚冬眠状態にある人がある事をキッカケにして、結婚という温存してきた”ジョーカー”を使おうと、安全地帯の塹壕(ざんごう)から飛び出し、狙い撃ちに会うこともあります。
他人には結末が見えても、人(本人)は引き返すのが苦手な生き物です
中国の結婚登記所で女性は若く美しいのに、相手は日本人、椅子から立ち上がるのも“ヤット”の高齢というカップルの話を友人から聞いたことが有ります。

(彼女はお荷物か?それとも宝?)
アメリカには”どんな彼女“と聞かれたら”SHE IS AN ASSET(彼女は宝物)もしくはSHE IS A RELIABILITY(お荷物)”と答えることもあります。

人は頭の良い生き物ですが、ついついその年代の生き方をしてしまいます。
30代では事業や勤めも順調、その時の勢いで消費生活を行い、ローンも万一、離婚の際の慰謝料、養育費も男性の場合は苦し紛れに高めに設定してしまいます。

また50代以降に訪れる”お金の一時的洪水(遺産、退職金、積立金の満期)“から太っ腹になり、人を助けるのが人の道(真の人間のする道)みたいな迷路に入り込むこともあります

若い時は予想だにしない、50代中頃から人生のネガティブな面が急に前面に出てきます
例えば“たちこめていたバラ色の霧”が駆け足で白け始めると、そこに関ケ原に陣を張る徳川の最強軍団が出現、西軍総崩れにも似ています。 50代半ばから身内の不幸を皮切りに、夫婦どちらかの健康問題、退職を控え社内での処遇、健康、収入、精神面、親族関係の悪化、ぶつかり合いなど急激なダウン・サイジングが起こり始めます

そんな男の人達へ、“あなたは普段、自分自身は節約して、たまには贅沢をしたことがありますか?” 人(周りの人間)の幸せを第一に考えるのも大事、しかし自己中心的とは別に貴方自身がまず幸せになることは大事。
少なくとも、中年以降の結婚で”泥船に乗ってしまった“ことにならないように祈ります。

今でも、あのNYペン・ステーションで会ったネネのご主人の私を見た眼差しを忘れません。 睨み(にらみ)つけるでもない、かと言って私をチャンと観察している。 彼の眼には、船出してしまったが、この先、自分に何が起こるのか?と言った不安が・・・よぎっているように見えました。

また、続きを書きます。

親切の代償、アメリカ留学にて

2021-01-16 16:26:04 | 海外留学
親切の代償、アメリカ留学にて
 美容師ゆえ髪切り外交と…その先 ―
2021/1/16 記


美容室経営を精算しニューヨーク留学)
80年後半、美容室経営の“壁にぶち当たり”そんな最中87年、参加した欧米美容ツアーで業界視察よりもニューヨークの街に触発されその後、経営を精算、留学を決意しました。
結果、これまでの美容でご飯を食べる路に別れをつげようと

これから先、美容師に象徴される“ハサミとコーム(櫛)”にお世話になることは無いだろう。 とにかく新しい路を歩むために、美容師であった過去に決別するのだから、頑な(かたくな)に美容道具を旅行ケースにパッキングするのには抵抗がありました。

しかししかし、一年前にNYを短期間は訪れているものの、一体いくら生活費がかかるのか?
仮に現地で働きたいと言っても、英語はカタコト、正式に働くには学生ビザでは不法就労で何処も相手にしないだろう。
最後の手段であるとしたら、美容師としてどこかに滑り込むがあたりに落ち着くかもと、やはり意地をはらず、”ハサミ“は持っていこうと。

YMCAにて二人の日本人と・・・)
 NYに来てから、2番目の投宿場所はYMCAです。
旧い建物でしたが規模が大きく人の出入りは多く、私には逆に安心感がありました。
もちろん施設は当時も2013年、再訪時もほぼ変わらぬ旧いままですが。
そこで私と同じ日本人でニューカマー(新参者)男性2人と知り合いになりました。
最初のうちは、お互いの部屋で行ったり来たりで話し込んだり、このNYで頼る人も無く万一の時はお互い力になれるのでは?”と知り合いができ異国で少し肩の力が抜けました。

 一人は30代前半で日本では何をしていた?と聞けば、中学校の地理の教師だったと言う。 
(私)“(先生)辞めて来ちゃったんですか?”本人はそうだと。
(私、心の中で)“もったいないな!”
私は崖っぷちで、失うもの失った故にここNYに居るのに、仮にもし私が学校の先生なら、多少の嫌な事も我慢し安定した職業にしがみ付いているのに。
そしてもう一人は芸人サンドイッチマンの伊達さん似の彼から、私の経歴が美容師であったことから、結局髪の毛を切ってくれと言う話になった。
正直言って“やっぱり”と言う印象だが、この時はこれがNYで初めての“小さな安全地帯”に思え、仕方ない。

YMCAには炊事をする設備は館内にも、自分の個室も寝るだけのベッドがあるだけです。最初のうちは3人で近くのリーズナブルなレストランで食事したり、リンカーンセンター正面の持ち帰りの中華屋で。 またブロードウェイに面したスーパーでの総菜やハムの量り売りやパンを自分の部屋でと。

そうこうしているうちコロンビア大学の英語学校も始まり、新しいクラスメイトとの付き合いも始まり情報も増えました。 自分はYMCAにどれ程居たのだろうか?多分3~4か月?その間に例の伊逹さん似の彼から、“髪の毛を切ってくれない”とせがまれました。
最初は友達ほしさに自分の方から進んでだったが、何故か?“面倒くさい”という感情がよぎりました

おまけにたかが日本人の英語であるが、されど英語である。 つまり自分のように年も行き一昔前の英語環境で育った中年の私と、若く年下の伊達さんでTOFELのような“受験対策英語”に慣れ親しんだ者同士の差は歴然としていました。
こうして次第に、伊達さんの進路や英語への嫉妬で距離を置くようになっていきました


(INTERNATIONAL HOUSEへ引越し、生涯思い出の地・・・)
 きっかけはコロンビア大学英語学校の日本人クラスメイトから、“何でYMCAに住んでいるの?I-HOUSEに引越せば良いのに”という事で引越しました。
ただアメリカはお金を出せば住まわしてくれるという場所ではありません
アプリケーション(申込書)には1)住みたい理由 2)HOUSEの中の行事に進んで参加する意思があるか 3)長く住みたくても2年 など英語力がおぼつか無い私には申込みに苦労でしたが入寮許可が出ました。

 ここでも私は“髪切り外交”を今回は誰でもという事でなく、出来るだけ英会話のたしになるネイティブ・スピーカーの最小限に留めようと思いました。 あのYMCAの二の舞は避けようと思いました。 ただ当時の自分は学校とアルバイトで、暇を持て余している状況ではありません。 アメリカの大学の宿題は概ね難しすぎるというより、教授は“宿題をやってこない生徒には厳しい態度で接します”。

I-HOUSEで住むこと2年半、仲良くなったアメリカ人3人ほど定期的に、髪をカット(もちろん無料)しています。
ご本人達にしたら、これがいつしか当たり前
 また台湾人のネネちゃんは本格的にパーマをかけてくれという“猛者(モサ)まで現れ・・。
またある日は、英語学校で知り合った女性のクラスメイトが、”ハサミ“をもって自分のアパートに来てと。 もちろん恋愛勘定で無く美容室代を浮かせるためです。 当時AROUND90’では通常カット料金は$40前後、アルバイト1日の金額です。
NYに住みついた貧乏学生や、お金をそれ程持たず勢いで来た人々は、最後は節約で足りず、狭い部屋に大人数のタコ部屋暮らしや、使える者は何でもとなります・・・

↑ I-HOUSEの日本文化交流会 こんなに日本人が住んでいることを知る。

私はいつもこのブログで言ってます。 長く住む日本人は、この街NYCを“ニューヨーク村”と呼んでいます。
大都市だからと言って、バイト位すぐに見つかる東京都と勘違いしてはいけない。
しかし結局、日本人がらみのレストランや、小遣いの足し程のアルバイトが関の山。
しかもバイト探しの日本人の不法滞在者も腐るほど。
最後の砦は、日本の田舎暮らしと言えども、一方で年金頼りに似た、NYの日本人は日本の銀行のカードから泣く泣く引き下ろしと言ったところでしょうか。

NYに来て2~3年も経つと、留学当初の同級生も努力や運で希望の大学に入学や、職を見つけたり、私のように鳴かず飛ばずの者もあり、バラバラになって行きます
 髪のカットで私に声をかけたクラスメイトとも、互いに自慢する話も無く、自分自身の舵取りで精一杯の私達はアパート近くのユニオン・スクエアーをぶらっとしただけで別れたのを覚えています。

(それでも“シザー(はさみ)”は、多少なりとも助けに・・・)
 偉そうにもう美容の仕事はしないと突っ張ったもののお金の為、留学1年半後には、トランプタワー近くの日本人経営の美容室で働くことにしました。 時給は$3.50で足らないところは、お客様より“チップ”を貰えという事です。 それでも一週間シフト有りで$80前後になりました、決して十分ではありませんがリリーフ(助け)となりました。
持ち金を、引き出す一方では蓄えは、たちまち枯渇します。

↑ この美容室で働いていました。 2013年、訪れた時は既に閉鎖されていました。

NY(アメリカ)に行くにあたって、(生活―お金は)行けば何とかなるは禁物です。

(また、別の投稿で・・・)




あの頃・・・こういう別れ、プラザホテル前

2020-11-02 16:46:30 | 海外留学
あの頃・・・こういう別れ、プラザホテル前
2020/11/2記

 後に友人となる、ケンジさんと会ったのは恵比寿より歩いて8分ほどの地下の英会話喫茶“コーン・ポッパー”。 それは1987年、土曜日の夜はパーティーと称し、熱気であふれて居た。 今から思えば、人や金の流れはある現象をテコ(レバレッジ)として”急流のようにドット流れ込み、そして凪を迎えたり“と様相を変える
 その後、私はニューヨークに行っています、急激な円安で”高嶺の花”だった海外旅行や留学が広く可能となり、公務員や学校の教員そして正社員のポジションを捨ててまで日本を飛び出してきている20~30代の若い人々を多く見ている
 パーティーは面白く、山の手線の終電間際まで離れることができなかった。 
そして恵比寿駅で最終に近い電車に間に合い、パーティーの参加者からもらった、古い”OCSニュース“というタブロイド判の新聞を読んでいました、すると向かい側の席にいた見知らぬ男性が声をかけてきました。
“OCSニュースを見てらっしゃるので、ニューヨークに私は住んでいたので懐かしく、声をかけてしまいました、すみません”。
“(私)いいえ別に、そんなに有名なんですかこれ? 確かにアルバイトとかの求人情報も載っていますよね、実は私、明後日ニューヨークに行くんですよ”。
“(彼)羨ましいな、仕事ですか?”。
”(私)いえ違いますよ、この年で人生のやり直しです”。

電車が渋谷に着くと、乗客が乗り切れないほどドトーの如く、これが最終電車?と驚くほどたちまち満員状態、自分にはすべての光景が80年末期を彩る“熱い”風景でした

He gave me a start 友達の情報を頼った
 取りあえず留学先は雑誌留学ジャーナルを通して、迷った末にNYのコロンビア大学の英語学校と決めました。 ただ宿泊先はコロンビア大学の情報に何カ所かありましたが、英語が“ヨチヨチ歩き”の私には文章も難解でイメージがわきませんでした。
 結局、コーン・ポッパーで知り合ったケンジさんが、1年半住んでいた先輩という事で紹介された場所に決めていました。 そこはタイムズ・スクエア―近くで少しガラの悪い場所、シャワーの温度調節ができず、でも映画“真夜中のカウボーイ”に出てくる“RATS &
ROCHES(アメリカではネズミやゴキブリの巣窟の、悪環境の意)“よりややましのランク。 週$150が安いか高いか?も分からぬ所からはじまりました。
 ケンジさんがどれ位ここに住んでいたか?分かりません、しかし後々考えて、お金の事より人の出入りの無い寂しい此処に彼は良く住んでいたなと。
 私はその後、WESTのYMCAに引っ越します学生割で週$100で安く、その後学校近くのINTERNATIONAL HOUSEで2年半住むことになります。

友達ケンジさんがNYに来ることに
 その2年後、ケンジさんがNYに再び来ることになりました、それも短期旅行でもなく、長期に。 彼からは私生活のことは仕事を含め余り聞いていません、再来の目的は? そして私も既にケンジさんを頼らずもNYで生活に困ってはいませんでした。 何しに来るのだろう、別に留学でもないだろうし? 第一、人間って一度区切りを付けたら片道10時間以上のフライトは苦痛なはずです

 彼がNYに来てから、専ら私の部屋にタビタビくる形で、出来るだけ日本人が喜ぶカレーライスやシチューを彼に料理しました。 皆さん分からないと思いますが、シェアールームでキッチンを使い食事の支度は容易ではありませんこれでもご馳走です。 
 そして彼の趣味は将棋です、日本から持ってきた将棋を紙の将棋盤で2~3戦、私が勝つことは稀で常に彼が勝利、別にお金をかけていなくても、コテンパンに打ちのめされるのは私とて面白くありません。 
そして“アルバイト何か無いかな?”と彼と会えば必ずでてくる話題です、私もその時は約1年求職中でした。


留学4年目にはクイーンズに引っ越し、韓国リムジン会社でバイト
 1年半働いたトランプタワーの見える美容室を“首になり”、昔の英語のクラスメイトの紹介で、韓国リムジン会社で働く、給料は相場の時給5ドルで電話と無線での韓国人ドライバーへの指示です。 
 時にはIRS(インターナル・レベニュー・サービスつまり税務署の調査からの電話、この際は絶対にこの会社で働いているとは話してはいけません。 経理担当者との話の他、無届従業員の調査も兼ねています。
 またある日、日本人の20~30代の女性からアルバイトを募集してないかの問合せ、例の“OCSニュース”を見て電話しているとの事、話し方や会話力も良く、顔こそ見えないが、日本に居れば直ぐにでも職は見つかったのに、彼女も日本を飛び出してきてしまったんですね。 彼女3ヵ月まえの古いOCSニュースを見て電話したというが、アメリカでの職探し(バイトも)は誰もが無我夢中です
OCSはNYの紀伊国屋で手に入りました、当時はバイトを探す日本人にはバイブルです

それで終わった・・・
 ケンジさんとは久しくしてコロンバス・アベニューの静かなCAFE でお茶をし、彼は例の如く将棋を取り出し、私も仕方なく付き合いました。 オーナーは長居する私たちをジャケにするわけでもなく、心地の良いお店でした。
 ここでもケンジさんはアルバイト無い?と私に。 
“無いよ”
“(彼)あの今働いている、韓国リムジンのところはどう?聞いてみてくれないかな?”
“(私)ムリだよ、自分のほかに別の日本人も昼間働いているし、それに時給5ドルだよ”

そうこうして私たちは店を出て、ダウンタウンの方へ足を向けて進みました。
これと言って、話すこともありません、まして男同士ですから。
お互い店や街並みを見て話しかける事もせず、並んで歩いても顔を見ることもなく。

そしてある段階から、彼と私の距離が離れ始めました
“(私)あれ、どうしたんだろう?”
自分の歩きが遅いのかな?
五番街にも近くなったことから、周りを歩く人達も増え、彼との距離は数メートル。
どうしたんだろう、別にわざと遅れて歩いているわけでもないのに、彼は後ろを一度も見て確認するわけでもなく・・・一度も

プラザホテルそしてテイファニーが視界に入る頃には、前方、10~20Mの人混みにケンジさんの後姿が見え隠れする状態で・・・

私が彼のアルバイト探しに役に立たなかった以外、私は何も悪いことをしていない。
彼を追いかけようとも思いませんでした。

私は終わったな・・・と思いました

(また、別のプログで)


” ニューヨークの水を泳ぐ(生きる)“

2020-10-11 07:12:04 | 海外留学
ニューヨークの水を泳ぐ(生きる)
2019/7/8 (再編集)
 
塾講師のアルバイトは、英語のサブスクールで会った,久美からの誘いでした。
彼女によると某国立大学出身、日本でニューヨーク近郊の日本人子女に塾の先生として派遣されて来たそうです。 歳は20代後半、丸顔、容姿並。

(塾は郊外の幹線道路沿いあり)塾はバスに乗りG.W.ブリッジ(ジョージワシントン橋- 良く映画で田舎者がNYに上京する際のシーンとして登場する橋)をニュージャージー側に渡り、右に曲がり3つ目のバス・ストップです。 旅行者は訪れない場所です。
何気に観光地でもないのに、大きく立派な橋が“ドン”とある、さすがアメリカ!塾の辺りには、イタリアン・レストランが2軒、離れてチャイニーズ・レストラン、セブンイレブン(当時のセブンは黒い内装で、なんだ↓の印象)が有るだけの寂しい一角。
グーグル・マップのリアルビューで探ると、それらレストランの外観は綺麗に直されているが30年前と変わっていない、なつかしさで正直涙が思わずでそうに・・・
2013年にもNYを訪ねていますが、アメリカでは20~30年経っても古い町並みが多く残っているのですね。


白塗り建物の2階に塾は有りました(参照:写真左端)。


(久美は塾講師の後任を私に)彼女は日本のスーパー・ヤオハンがこのニュージャージーで新規に店舗展開するということで、転職が決まっていました。 そんな訳で彼女は引き継ぎを捜していたわけです。 久美の心は塾には無く、授業法を誰も教えてくれる人がいないので、塾の教科書をもとに何とか切り抜けるしかありません。 私は授業のために予習、復習に専念しました ― これはMUSTです。
隣の教室では、理数系専門の工藤さんという中年男性講師(ボス)の声が時折、聞こえてきます。

工藤さんの頭は坊主ガリ、Tシャツ一枚で、オシャレもせず、“なぜ、この人がニューヨークに”と言った感じの人です。 もちろん独身。
でも、新参の私に威張るわけでもなし、直美との関係を詮索するわけでもなし - (外国へ行くと、誰構わず情報共有と、相互扶助で男女の関係抜きでも付き合わなければ、やっていけないのです)。 工藤さんは良い人でした。

塾生徒の子供は1年生から8年生まで、一クラスは2人~5人程度。 これらの子女は、XX銀行、XXビール、XX証券等の親を持ち、子供の半分は頭が良く、残りは・・・・でも草花と同じく、小さい時から手をかけてもらって、将来に大輪の花を咲かせるかも知れない投資をしてもらい、羨ましいと思いました。

不思議?NYで日本語文法・古文の勉強私自身、正直、日本では高校、大学受験を通して、正面から現代文の文法、古文、漢文に向かったことが有りませんでした。 それがニューヨークに来て、塾講師として知らないでは許されなくなりました。 冷や汗ダラダラです。 夜九時に授業は終わっても、予習と授業資料の準備、腹は空く、遅くなればなるほど、ニューヨークの地下鉄はヤバく(怖く)なる。 “ヤバイ、ヤバイ、帰りたい!でもでも・・・・・まだ終わってない”の連続。
もちろん自分自身の短大の宿題もあり、いつも時間に追われていました。

暫くして久美との再会
そうこうして、ヤオハンに転職して落ち着いた久美から”お茶でも“と誘いがありました。
”何かと?“思いました。 
要するに、あんな”チンケ“な塾を辞めてよかった事。
また何を言い出すのかと思いきや、実は現在、二人の彼と付き合っている事。
一人は、年恰好は久美と近い、トルコ人、永住者(グリーン・カードホルダー)。
もう一人はヤオハンの上司、歳は自分の親ほど離れ、高校生の娘もいるとか。

交際中の二人の彼の話を聞かされ、“どっちが良い?”と。 まさか?と思う問いかけでした。
難しい問題だし、どっちが良いとも言えません。

おかしいでしょう? 日本の皆さん。
でもこれが、時にはニューヨークの中の日本人。
何人もの男を渡り歩いて、汚いとかは日本での話
久美の話を別にしても、英語学校に自分と同時期に日本から来た日本人は数か月もすると,直ぐ外人のボーイフレンドを見つけます。
あたかもクラスの他の日本人を出し抜いたかのように、聞きなれぬ英語をしゃべり初め、“レント(家賃)”から解放され、しかも身近に英語教師がいるかのような優越感を誇示したりします。自分も最初は、こうした事を汚いとか、道徳に反しているとか感じました。 日本人ですから。
アメリカ生活を4年やって、人は生きているうち、一時期、人に指を指される生き方をしても、“とやかく”言ってはならない。 この考えを、今は受け入れています。
それよりも、人が〝澄み過ぎた水の中で、討死“するのを見るほうが辛い

NYにて、日本人の薄っぺらい浮世その年の晩秋、ボスの工藤さんから“久美がヤオハンで、イミグレーション(入国管理局)の査察で違法就労により捕まり、会社側から即刻クビになったみたいだ”と話が。
彼女のビザはH1で本来、この塾以外では働けないビザでした。

その先の話は、工藤さんから聞くまでも無く、自分は分かっていました。
久美はここへ戻って来たいし、ボスの工藤さんも彼の周りを”チャラチャラ“するのは男の自分よりも、女性の方が良いに決まっている。 
まして、二人で塾の給料を分け合うほど、忙しくは無かった。 私がしなければいけない事は決まりました。

12月の中頃、引き継ぎの日、久美は白いワンピースに包まれ、言葉少なげ。 私も同じく。 私たちは約半年前に、時計を戻さなければなりません。 
半年前は、彼女は授業中にブルージーンズを穿きラフな服装で、それで良いの?と言った感じでしたが、今度は”崖っぷち“と感じたのでしょうか?その日の久美は、少し“オシャレ”。
あたかも二匹育った巣穴から、傍らの一匹を突き落すしか無い選択肢と、落ち着きとも、私には届いてきます。


では、また他の投稿でお会いしましょう・・

Death Is No Longer a Personal Event

2020-07-29 10:00:14 | 海外留学
Death Is No Longer a Personal Event
(時として、人が生きそして進んで死を選ぶことが、社会や家族に投げかけるもの・・・)By 丘 ひろみ(ペンネーム)
August 7, 1990
最近、京都で医師が難病の女性に関与した嘱託自殺幇助?殺人?が取り上げられています。 この件は別としても自分自身もこの先の健康状態にもより、終末期をどう受け止めるのかも含め考えさせられ、難しい問題です。
私は約30年前のNY留学時、英語クラスのプロジェクトとして、当時アメリカで起こった“死ぬ権利”にからむ事件を取り上げました。 興味のある方は一読していただければ(以下、英文がその際の授業で提出した本文の一部です)。

On June 6, 1990, the New York Times wrote, “Doctor tells of first death using his suicide device.” Janet Adkins, a 54 years old English teacher, had suffered from Alzheimer’s disease and committed suicide by using Dr. Kevorkian’s homemade device. Her suicide made the public question whether chronically sick people have the right to end their lives by their own means. Her suicide also made the right to die become stronger. Her affair implied how difficult it is for such sick people to continue to live, depending on their families. Janet Adkins showed “when and how they (such sick people) will die and whether a doctor should play a role in such an act” (Johnson 40). By considering lessening a specific family’s burden, the right to die, which includes assisting suicide and stopping nutrients for vegetative people, will become much more practical than before. Janet’s suicide was a good example that death is not always a personal event any longer.
 (1990年当時、アメリカで医師が自ら作成した自殺デバイスで、ジャネット、54歳が自らの意思で死を選びました。彼女はアルツハイマーを患っていましたが、まだ深刻な状況ではありませんでした。 彼女の住まいの一角にあった中古車の中で、その装置のスイッチは自らが押したとされている、装置も試験管立てにも似た簡易なものと写真を記憶しています)。

Janet died, but her suicide has readdressed the conflict of whether an ethical issue involves people in asserting the right to die, by considering lessening their family’s burden. Janet Adkins had suffered with Alzheimer’s disease for four years; she had trouble reading and working with numbers. However, her friend, Joyce said, “She was so vital and active”; she enjoyed hang gliding, mountain climbing, and traveled to many places, such as Hong Kong, Spain, and Hawaii (Johnson 42). When her family went to Dr. Kenneth Erickson, a psychiatrist, the family was told how Alzheimer’s disease progresses. It was likely that her disease would involve the family in dressing her and taking her to the bathroom. Then Janet said, “I don’t think that needed to be said (by the doctor)” (Johnson 42). With these concerns, Janet approached Dr. Kevorkian, who created his homemade intravenous device for euthanasia. On June 4, 1990, she pushed the button, which inserted Thiopenta Sodium to stop her heart. Before she went on this long journey, her husband, children, and friends wept and embraced her. However, this did not mean that they opposed her decision. Janet’s close friend, Peggy, said, “It seems bizarre, but I admired her courage” (Johnson 42). Probably, it represented Janet’s family’s feelings too.
 (ジャネットはアルツハイマーを患い4年であったが、以前は行動的でハングライディング、登山を楽しみまた旅行は香港、スペイン、ハワイへと。 しかし発病後、ドクターからこの病気は進行性で、将来は着替えや、入浴に家族の負担が増すことを告げられたが、ジャネットはその事実を受け入れ難かったようです)。

Janet’s symptoms were not so serious; however, her friend said, “She (Janet) wanted to make the decision (suicide) while capable” (Johnson 42). Janet’s case was different from conventional euthanasia in which patients suffer with great pain and accept assisting suicide likely at hospitals. She was neither in a coma nor hospitalized, but she voluntarily chose euthanasia. Her Alzheimer’s disease would not affect her life expectancy, and until it progressed she could dress herself and go to the bathroom. According to the book, Human Life & Medical Practice, by J.K. Mason euthanasia is classified in tis several types. For instance, “Involuntary euthanasia excludes the patient from decision-making”; the relatives and doctors assess the patient’s condition and decide whether to stop his life (Mason 22). Active involuntary euthanasia ends the life of a patient who does not show any desire or wish to die; the patient is in coma, and his family and doctor agree to take away the artificial feeding tube and to let him die. Voluntary active euthanasia means that a patient accepts suicide with his belief in the wisdom of this act, and doctors may assist his suicide in a medical setting. However, those patients are likely to be in a vegetative state, or they can not swallow. Their life expectancy can also be short. Janet Adkins’ case was none of these; therefore, her euthanasia was highlighted. It was unusual that an Alzheimer’s disease’s patient deliberately committed suicide by euthanasia before the disease’s progress would become serious.
(ジャネットの病気は死の選択をせずとも更に数十年の余命が見込まれていました、また通常のアルツハイマー型認知症の患者と違い,当時は植物人間状態でもなく、咀嚼も可能であるにもかかわらず、ジャネットはそれらを良しとせず、体や判断能力が機能するうちに、進んで尊厳死を受け入れようと)。




Janet looked for the way to die, “including jumping out the window” (Johnson 42). If she had jumped out the window, she would simply have been one person of “30,000 adult Americans” who commit suicide every year (Johnson 40). Coincidentally, the curious story in Newsweek attracted Janet; Dr. Kevorkian’s attempt to advertise his homemade suicide machine in a medical journal was rejected (Johnson 43). After this, Janet and the doctor became companions in carrying out her suicide project which could raise a new sociological issue in the mass media. Her suicide has created the dilemma “when and how chronically sick people will die,” and whether doctors have the right to participate in such an affair (Johnson 40). What’s more, do societies need another preferential suicide by euthanasia rather than by gun or jumping out the window? Probably, these ideas affect not only chronically sick people but also those who are dependent on others for every aspect-dressing, feeding, etc., for example-of their survival.
Janet’s euthanasia will involve people who are in a vegetative state or even “in the long-term care needs of the elderly” (Johnson 510).
 (もちろんジャネットも窓から飛び降りる事も考えたが、偶然にもDr. Kevorkianの手製の自殺デバイスの宣伝広告を“Newsweek”が拒否した記事が広く知られることとなり、ジャネットもこのニュースを目にし、後に当事者二人は接近。結果、Dr.は以降130人の尊厳死にかかわったとされ、長く不治の病と闘う多くの人々に、飛び降り自殺でもない、ガンでもない、他の選択肢を提示する結果となりました)。

Now, it is the time to pay special attention to social changes and issues because death is not only “a natural or biological event” any longer but is now also a sociological event (Farley 519). People used to die much earlier from diseases or accidents than now. Along with improving medical systems and life-standards, woman’s life expectancy in the United States has risen from 65 in 1940 to 78 in 1988 (Farley 491). Also, expensive medical costs have risen even further, so specific families’’ responsibilities have increased for their chronically ill people like Janet. For instance, “Medical costs accounted for almost $1 of every $10 spent (Gross National Product) in 1980, comparing to about half that rate in1960” (Holt 431). It is common “Today, [that] death more often follows a much longer period of chronic illness” (Farley 520).
 (さらに社会の医療や保険体制取り巻く環境に目を向けても、過去と比較しても人々の寿命は格段と延びています。 また医療費も高騰し病人を抱える家族等の負担も増大している。 それ故、ジャネットのようなケース(尊厳死)は特に長患いしている患者に影響を与えるのではとみられていました)。

Many sociological factors should have made Janet Adkins come to the conclusion that she should accept death. Her affair implies “when and how” chronically sick people will voluntarily die (Johnson 40). She died at 54 years of age before her Alzheimer’s disease become more serious. She committed suicide, having the doctor’s assistance. Janet chose euthanasia, and that probably lessened her fear of death and her family’s regret about letting her go. She should be the pioneer of when and how to die if people can’t live on without somebody’s help. Her act will affect “approximately 1.3 million elderly people in nursing homes or hospitals in the United States” (Farley 510). Janet has also replaced the meaning of the right to die by that of the responsibility to die. Janet’s close friend said, “She (Janet) felt it was a gift to her family” (Johnson 42).
 (近年の長寿命化、高騰する医療負担、看護される側と看護する家族関係から、ジャネットの選択つまり積極的な尊厳死。ドクターの助けを借りることにより、彼女は死への恐怖を幾ばくか軽減した可能性もあり、アメリカの介護施設や病院に取り巻く環境にも何らかのメッセージを投げかけた可能性も・・・。
最後に,ジャネットの親友は、この選択は彼女の家族への(これ以上、介護などの負担をかけないための)”思いやり”だったとも言っています。



WORKS CITED
Belkin, Lisa. “Doctor Tells of first Death Using His Suicide Device.” The New York Times 6 June, 1990: A1.
Greenhouse, Linda. “Justices Find a Right to Die.” The New York Times 26 June, 1990: A1.
Farley, John E. Sociology. New Jersey: PrenticeHall, Inc., 1990.
Johnson, Bonnie. “A Vital Woman Chooses Death.” People 25 June, 1990: 40-43.
Holt, Rinehart and Winston, ed. Sociology. New York: CBS college Publishing, 1985.
Mason, J.K. Human Life & Medical Practice. Edinburgh (England): Edinburgh University Press, 1988.


私の“涙くんさよなら”を告げた時、そしてNYへ・・・

2020-06-22 08:39:14 | 海外留学
私の“涙くんさよなら”を告げた時、そしてNYへ・・・
2020/6/21記

 その時は私の嫁さんが、あることを境に別居しもちろん彼女が持ち込んだ家具も引き上げたので、私自身の心も一緒に住んでいた私たちの公団の部屋も、空虚なものとなっていました
私達二人の間の問題でこじれたという訳でなく、お互い顔を二度と見たくないという離れ方ではなかったので、とりわけ私は離れ離れになって数年は“彼女に思いを引きづっていました。”

当時(80年央)はまだ携帯電話などない時代でしたから、仕事から帰宅し、もしや彼女から何か理由をつけて電話をかけてこなかったか?留守番電話が点滅していないか?気になる自分でした。 そんな淋しさを癒すために、その頃日本でも聞かれ始めた“ジョージ・ウインストン”のレコードをよく聞いていました。 
ちょうどデザイナーズ時代と80年末バブルのはざまの時でしたので、人の好みも多様化しオシャレにも皆が関心を持ち、遊び方にも変化が見られるそんな頃で、アコースティック・ギターやピアノソロは私の心には響きました。

寂しさ逃避症候群か?・・・
 ある雑誌に女性独身キャリアにも、誰も彼女を待つ人がいない部屋に帰るより、むしろ残業で淋しさを紛らわしたり、さみしさからお酒依存症になったりする人も少なくないと。
私も当時、美容室を経営していましたが、休みの日には部屋でじっとはしていられませんでした、彼女と別居した寂しさと、それに負けないために敢えてアクティブに外出や劇場などのエンタメへ行ったり。
 こんな私でも当時、エンターテイメントの検索と言えば雑誌“ぴあ”でした。 休みに何もしない、何処もいかないは一種の恐怖でした。 寂しさからの逃避、ニュートレンドの発見?でミュージカル、能、渋谷の小劇場、マイナーな映画館などで観劇。 今から当時を振り返っても、面白い、新しい事の発見というより、それでも満たされぬ自分の心が“さまよう虚しい”一時代が思い出されます。

野方のダンスサークルで癒される・・・
 そこで雑誌で探し出した野方のダンスサークルには一時期お世話になりました。 私は北区の王子から土曜の夜に都営バスに乗って週一通っていましたが、環七をバスは走るのですが車窓からの街並みは夕闇で、走れども走れども野方は遠い距離でした。 それにも我慢が出来るほど、私は”人恋しかった“のかもしれません。
 ダンスの練習やその後のフリーダンスはそこそこでしたが、サークルがひけた後、決まっって道すがらの馴染みの洋食屋さんで打ち上げが恒例でした。 新参者の私にもサークル仲間はやさしく接してくれました。 あたかも新興宗教サークルに悩みをもって飛び入り参加した人が同胞の無条件のやさしさに、メロメロになって“溶けてしまう”に似ていました。
野方が例え遠くても、通うのが遠くても、仲間との交流は意味がありました。


(原宿・青山に住んでみたいなど、ミーハーな一時期もありました・・・)
 仕事が美容師であったことから、原宿青山界隈をぶらついたり、美容関係主催の有名店見学にも参加しました。 自分の美容室と比べ青山・原宿付近の美容室は街並みに、溶け込み羨ましい限りです。 特に表参道駅から最初の交差点2階の茶色いタイルづくりのサロンは造りもがっしり、働くスタッフも落ち着いた身のこなしで時を刻んでいました
 またピーカーブーという地下のサロンで客としていった際は、私の頭頂部左サイドは若干癖がありカットしずらいのですが、担当美容師さんはそれを見つけ、時間がかかっても丁寧にカットしていました。
 もしかすると80年央が、日本の美容界の技術的にも、接客も一番良き時代だったかもしれません。 それなりの美容師が自分の高い技術でお客様を喜ばすことを楽しめた時期だったように思えます。

ですから私自身も、何年か原宿・青山界隈に住んで見たいとさえ思い、アパートの内覧をした事もありました。 “そしたら(もしこの街に住めたら?)別居中の彼女を心の中で追わなくなるかな?・・・”とも思ったりした、あの一時期。


1987年冬、初めてのロンドン、パリ、NY美容ツアー・・・
 そんな中、私に生まれて初めての海外旅行の機会がおとづれました。 ここまで従業員によるストライキを2度経験しましたが、この当時はスタッフの人間関係が安定し3都市を巡る美容ツアーに参加しました。 この体験は新鮮でした、今まで人の話や写真でしか知ることのできなかった世界を見るのですから。
 不思議と3都市の中でNYが一番ひかれました。
 怖い街だと、説明されなくても誰もがわかります(80年代は今よりもっと治安が悪かった)、それでも何故か?ニューヨークは人を引き付けます。 

帰国後、1,2,3ヵ月と月日が経つにつれて海外への思いが強くなり、折から私の美容室も成長が止まって来ていました。 何故か私の中の羅針盤が動き始めました。
そして、この先大変な時代になる予感を感じ始めていました
これからの時代について行けなければ、まず自分自身ですら生き残れるか?そんな予感。
自分が変わらなければ、成功のシナリオは描けなくとも、留まっては・・
 時が経つとともに、少ない情報ながらアメリカ・ニューヨーク行きを模索し始めました。
そしてもう一つの懸案だった、別居中の彼女に美容室を整理し、アメリカ行きを決めた事を報告すると、あっさりとそれぞれの道を歩くと決まりました

彼女も、もしかしたら出戻るという選択肢は無くなったと腹を決めたようでした、前からニューヨークへ行くのは怖いとも言ってました。
世界を見て、私にしても”彼女のいない寂しさ“にくれている場合ではないと意識しました
これからは自分に得意の売りが無ければ、この世の中活かしてくれないだろうと
確かに今まで確かに“彼女の後姿”を心の中で追っていた数年、しかし世界の現状をみて、籠城して自分の場所にこれ以上、立てこもることはできないと。

自分にはやらなければいけない事が、見つかりました。
少なくとも、完璧でなくとも英語を勉強し、ニューヨークの街を歩ける人間になろうと

(PS) 1988年1月~1992年3月ニューヨーク留学、市立2年制大学入学卒業。
   1992年3月帰国、同5月正職に就く。

留学保険も、なめたら、アカン

2020-05-10 08:33:11 | 海外留学
NY、オヤジ留学


2016・06・10 記(2020.5.10再編)

 今日(2016/6/10)、25年ぶりに頭部のCT撮影に病院へ行ってきました。
費用は¥5,500でした、もちろん日本の病院ですが、いくらとられるか若干ヒヤヒヤしていました。
かつて留学の際ニューヨークで頭部のCT検査は日本円で10万円以上とられたことがあるからです。

皆さんも同じ考えと思いますが、留学(長期海外滞在)には
1. 保険に加入は必修です。
2. 病気に備え、なるべく人脈を通して馴染の病院を開拓すること

3. NYでは、在米の韓国社会がサービス分野で日本人の受け皿になっています
 技量・料金はリーズナブル(安く)と現地の日本人経営とそん色はないと思われます。
 私は歯医者、病院、美容室、ドライバーライセンス等すべてお世話になっていました。

(アメリカで風邪をひいても、日本のように病院へ行きません、というか高くて行けません) 私もNYでの最初の冬は7回位、風邪をひいています。
まず東京の気候と違うこと、大陸性で寒さもきついです
ニューヨーク子は地下鉄の電車賃を節約するために3,4駅がは当たり前で歩きます。
私も節約すれば、当時ピザ・ハウスで1ドル25のスライスとペプシコーラ75セントの昼食の足しになるので、寒くて風邪ひく危険を感じながらも、結局歩いちゃっています。

88年夏、私はニュージャージーで日本の学習塾で講師のバイトをしていました。
その年は5月から毎日、30度半ばの高温で死者多数の熱い夏でしたが、8月の17日頃急に20度以下に急降下、一気に秋というより冬になり、最初の年でしたので気候の洗礼をうけました
私は風邪をひき高熱、走行不能。
塾の上司より、仕事に穴を開けられてはとマンハッタンのイーストにある日本人医師へ行くよう圧力をかけられました。
レントゲン検査を含め$200、プラス処方箋の抗生物質$15、当時のレートで約25,000円. 高い!高い! 当時、私が約3週間、飲み食いできる金額です。

後あと、学校のクラスメイトの情報で、中国人はチャイナタウンで売っている、漢方を愛飲している事、また私にはTYLENOL(タイレノール)の風邪薬SIVER-PAIN(重症用)が効きました。 もちろん市販薬ですから、アメリカでは雑貨屋レベルでも手に入りました。
抗生物質は含まれてないはずですが、とても効きました(ただ用法は自己責任でお願いします、NET上では良し悪しが書かれていますので)。

ただ人間って素晴らしいなと思うことは、3回目の冬からは余り風邪をひかなくなり、服装も日本の冬と同じ感じで過ごせるようになりました。

さてCT検査の話です)
 私はNY留学当初、大きな学生寮(INTERNATIONAL HOUSE)に住んでいましたが、ある日の就寝直前、何故かの思い付きで映画のようにベッドに“バターン”と仰向けに寝て見ようとし大きく倒れ掛かった瞬間にベッド背もたれ側のコンクリートの壁に頭から強打しました。
もちろん、屈み込み(かがみこみ)“イテー・・・・(心の中では大丈夫か?大丈夫か?と自問自答)
背中のコンクリートの壁の存在(距離感)は全然、頭に有りませんでした。

ただそれが、あれだけ強打したのだから、何でもないわけはないとその後トラウマになりました。
何日かしてカフェテリにエレベータでカフェテリアに降りると、以上に高い室温と食べ物の臭いで急に気持ちが悪くなり、しゃがみ込み様子を見ていたのが始まりでした。
たまたま建物内を巡回するセキュリティーの目に留まり、最後はAMBULANCE(救急車)に乗るという羽目になりました。


コロンビア大学の裏手、ST LUKE’S HOSPITAL(NY聖路加病院)に運ばれました。
病院脇の救急搬送口に入るなり、同様に搬送された数多く他の患者達がキャスター付きのベッドに寝かされたまま寒い廊下で順番待ち。
当然,いっこうに自分の番はきません、それどころか救急搬送は休むことなく続きます。 忘れられてるのかな?と思えば時折、男性の看護師からの問診、インド人訛りの英語で聞きづらい事。
さもするとフィリピン人の看護師が私に点滴のセッティング、チューブの中にたくさんのエアーが入っているので“エアーを抜いてくれ”と頼むと、“そんなこと気にするの”と。
日本では、体にエアーが入ると死ぬと言われているんですけど!

自分から少し離れた年配の患者とDOCTORが会話している、”容態が悪い、今日は帰れそうもない入院してもらう。 主治医がいるなら電話を繋ぐけど・・・“
高齢の患者は容態が悪いという説明に困惑気味、つながれた主治医の電話をとるなり“DOCTOR !! ・・・・(号泣)”
アメリカの男は滅多に涙を見せないと思っていたけど、時には泣くんだ・・

やっと医師が私を見る。 私の英語も大したことないが、今までのインド、フィリピンのノンネイティブよりもはるかに会話が楽だ。 二人のうち一人は研修医だった、私の瞳孔検査を相手に説明しながらの診断だった。 
それからCT撮影となり、結果、問題なしとなるまで朝10時頃から夜8時近く約10時間、長い一日でした、薄いシャツ一枚で真冬のニューヨークにホッポリ出されました。
救急車に乗る際、日本でもそうですが窮迫時は着の身着のままです、しかし寒空に薄着で帰宅もありますので、救急車では上着は忘れずに

患者の対応に長時間、多くの多国籍軍の医療従事者、聞きづらい英語、将来の日本の医療現場もこうなるのか?の一日でした。

とりあえず私の頭は問題がないとなって暫くして、病院と救急車の請求書が届きました。
CT検査を含む病院代は約¥10万、救急車は25,000円(現在はもっと高額)。
この時、私は無保険でした。
留学当初は海外旅行保険を使い、その後アメリカの保険に入っていましたが割高にもかかわらず、年齢による割増、盗難等の保証なしで高いので、ついつい節約意識で無保険でした。

今思えば日本の旅行保険は手続きが簡素な割に、補償範囲が広く割安で便利でした。
(現在、留学する際どの保険が得か?自己責任で情報収集をお願いします)
アメリカでは病気のほかに、急に犯罪に巻き込まれる事が有ります被害者になる備えが必要です アルバイトの同僚はある夜中、強盗に遭遇、拳銃で被弾し3日入院約30万円と言うこともあります。

また、続きます。

クリスマス、人の気配は無くゴーストタウン、その夕暮れを迎えたコロンビア大学界隈

2019-12-24 12:54:05 | 海外留学
クリスマス、人の気配は無くゴーストタウン
、その夕暮れを迎えたコロンビア大学界隈
但し、AROUND 90’S
2019/12/24記

私はコロンビア大学近くに3年半住んでいて、大きな寮住まいといえども、食事に関してクリスマスは特別不便なシーズンでした。
その日は、いつもオープンしている寮のカフェテリアはクリスマス休日です。 かといって自分の部屋にはキッチンは付いていません。 各フロアにある団らん室にも煮焼きする設備もありません。
それでは外食ないし、店で食料調達と外にくり出せど、街の様相は一変、別世界。
馴染みの店が驚くほど休業です,いつものスーパーも、良くいくリーズナブルなレストランも、はたまた休むことを知らぬと思われたチャイニーズ・レストランでさえも。
何とかせねばと更に足を伸ばしても、いっこうに空腹を満たすチョイスは見あたりません。 あれほど学生や人々が行き交った人の姿がありません、店灯りが無いのも手伝って、異様な光景です。 戒厳令下の街にも似た
2011年の震災後、幹線道路の街路灯が節電の為に消され、見慣れた街の視界が一変し暗く別の世界であるかのように演出し、誰か説明せずも“大変な事が起こっている”と自然と理解するに似ています。

店探しも早めに切り上げねば、ダメな時はダメなのだ
コロンビア大学の界隈と言えども一般の人達の姿はほとんど見えません、店探しを諦めず先を進むと、歩道の中央に陣取る一人の女性ホームレスと遭遇。
少し腰の据わった、この生活が長い印象が私に伝わってきます。
街を歩く人が少なければ、迷いも無く私をターゲットにするのは当然です。
私はA QUARTER(25セント)を手渡しました、当時の25セントは悪くない金額です。
しかし彼女は更に“A DALLER, PLEASE” もう一ドルくれと口走りました
ホームレスでも、振り込め詐欺も”カモ”になりやすい人を見つけたら、執拗に放そうとしないのですね

直に真っ暗になる前に、彼女らにはそれなりの予定が有るのでしょう。
私は無視しそのまま、その場を離れました。
これ以上、店探しは危険で必要のない事も感じました。 更に暗くなったら腹が空いたどころの話で終わらないのも困り、寮へ戻りました。

クリスマス当日夜は家族で閉じこもり
 クリスマス前後の日中週末は、私も各自が食べ物を持ち込み式のパーティーに参加したことが有りますが、当日夜となると車がないとなると、帰宅が遅い時間の地下鉄は、電車は乗客が極端に少なく危険が伴います。
クリスマスでなくても友達を部屋に呼んでひと時を過ごしても、遅く帰るのは禁物です日本人で無くも帰宅時間に誰もがある一線を敷いています。 東京の治安や交通事情とは異なります
夜9時頃に自分の部屋に居ると、仮にも今日は暗い路上や地下鉄で金をせがむホームレスと顔を合わせなくてすむと“ホット”し“アア、良かった今日はこの時間に家に居られると。

そう言えば一度カフェテリアも休業しているクリスマス、寮の数人で電気窯でご飯を炊き、キャベツの塩漬けでご飯を食べたことがありました。 どっちみち界隈の店はことごとく閉まっているし、いくら歩けども無駄足という事を学習しましたから

(一人一人のクリスマスは映画やテレビの賑やかさとは別物
 クリスマス当日の夜は、家族ないし緊密な仲間を中心とした“閉鎖的”なイベント。
必ずしも大勢で“ドンチャン騒ぎ”ばかりとは限らない。
私がNY市の財政局でインターンをしていた時、仲間うちでクリスマスはどうだった?の会話が耳に入ってきました。
日本人だったら“メッチャ、淋しいクリスマス”と言ってしまうところ” を一人が“PEACEFUL(静かで、穏やかだった)” アメリカ人は上手く表現します

アメリカ人の偉い所はネガティブ(否定的な事柄)でも前向きに話しするところです
アメリカ人は料理が不味くても、日本人のようにその場で即“ウッ、マズー”あるいは”何これ?“のような反応はしません。
子供の時から一般に”美味しい“だけでなく、よくそんな誉めかたできるな!くらいの芸当をやってのけます。 学校のクラスの最後のお別れの授業では、生徒が教師に”このクラスは授業内容そして先生も素晴らしく、とりわけ・・・(ベラベラと)”、聞いている方の耳がかゆくなるが、ようやるわ!の世界。
どこかの大統領が“JAPAN IS A GREAT COUNTRY ・・・・”と褒め殺しにするに似ています


夜12時になり始める、RIVERSIDE CHARCHのクリスマスを祝う鐘は夜空を鼓舞する
 炊き立ての白飯をほぼ塩をかけて食べる、たった一日の籠城生活だったが、時計を気にせずいると、突然鳴り響く教会の鐘。
幾つもの鐘が連打そしてハーモニー、普段では聞けない美しい荘厳な音色で夜空を演出する
圧倒的な音色で、教会がこのNYCの街全域を支配し、人々の魂を鼓舞する。
鐘の音が、誰もの心を洗い流し、明日からの人生をリセットしてくれるかのようです。



(参考)この私のプログで、クリスマスに関し
“アメリカ人の食に対する執着心の無さは、むしろ強さか”でも書いています。


“自分の国を離れ、そして出戻る理由は色々・・・それぞれの短い人生をいきる“

2019-08-29 11:07:39 | 海外留学

自分の国を離れ、そして出戻る理由は色々・・・それぞれの短い人生をいきる
2019/8/29記

 義理の息子が昨年(2018年)の暮れ上海から十年ぶりに引き揚げ帰ってきた。
ただ彼は生まれも育ちも上海なので、日本人が新天地(外地)で夢半ば帰ってきたのとは少し違う。

私が上海で初めて会ったのは彼が15歳の頃、それから2年ほどして諸般の事情で彼を日本に呼ぶこととなった。 しかし今流行りのフランス人のように日本が好き、漫画・コミックが好きで、日本語もO.Kで日本に来るのと訳が違う。 彼は日本に興味が有ったわけで無し、進んで日本語を勉強したい訳で来た訳で無し、手こずりました。
おかげで都立高校卒業まで彼の家庭教師を務めなければならなかった。 しかし不愛想な“オス猫のごとく、私に感謝を表すわけでもなく、また終始勉強の嫌いな子でした。

当時、私が既に自分自身を捨てている年齢だったので、口やかましく“あれこれ”と息子に説教もほどほどに抑え我慢し、あの一時期をやり過ごしました。

中国人の自己流人生
しかし未だに息子を含め、多くの中国人の現実逃避、自己流人生に私は否定的だ。
普通は若いうちは学業に専念し、卒業し職を得る、若しくはサービス業を含め現場で経験を積みいずれにしても、その過程で苦労や嫌な思いをして、なんとか“形(大人)”になっていくものだと私はおもっているが。
私の母親は時おり私達子供に、(人が生きていくには)“辛抱、つまり我慢”だと言っていた。
私の息子にしたら、真逆の生き方だ。
今時の若い人と同じ“やりたいことが見つからない”とか“今の仕事は夢が無い”と一刀両断で、他人が苦労して生活しているのは別世界のように思っている。 

時折みるTV番組で、日本に来た外国人が”コツコツ“と辛抱・勉強して日本の文化や習慣になじみ家庭をもち、ご近所様と交流し生活している様をみると、”拍手“しかない。
それなりに日本で彼らを取り巻く環境を好きになろうとしている。
家の息子はこの先、日本で彼らのマネが出来るだろうか?




(一昔前の、在日中国人の“故郷へ錦を飾る夢”- その終焉) 約9年前、近所の焼肉チェーンで、息子と同級生の中国人家族とパッタリと顔合わせ。
ご夫婦(ご主人は日本人)の口から、”来月から、旦那も定年になりこれを機会に上海に移住するんですよ!“と奥さん。
それを聞いた私達は“おめでとうございます!” つまり語らずも、そのために特に奥さんは慣れない日本でパート等で長年苦労して蓄えた虎の子をもってして、在日中国人の定石通り中国に事前にマンションを買い帰郷に備えるは、常識となっている
ご夫婦は中国と日本の同胞からも羨ましがられ、中国で日本での年金や蓄えで、仮にもこれからの高齢者の経済的苦労をしなくて良いはずである。

しかし直ぐに私は、この中国人の奥さんの中国経済の読みとは異なり“可哀想だが、比較的短期間で日本に戻るようになるのでは?”と予感しました。
中国、特に上海は何しろ物価が高い。
そして一番の鬼門は、ご夫婦の年齢から、万一突然に重篤な疾病を患った際には、日本人もビックリする高額な医療費、更に入院の際には家族以外に付き添いを雇わなければならない。
永住権を持っている中国人は、日本と中国を行ったり来たり、そして病気・手術・出産の都度、日本に戻って、また中国へが普通です。

(私の場合: このまま日本で、耐える経営を続けるより、虎の子の蓄えを”自分へのご褒美、N.Y留学“で使い果たそうと・・
留学でN.Y.に渡ったのは1988年だが、野心などもうとうありませんでした。 
動き出していた8~90年代のバブルは、何故かわたしには“思い付き景気”のように映りました。
 それよりも従業員は高学歴化・中間層子女と変わり、職人型からサラリーマン型に。 そのころ既に週休2日だの、店側へ技術指導の要求があり、従業員確保は更に厳しさを増していました。
これは一度、人生リセットだなと思いました。

そして中学生の頃からアメリカは“あこがれの国”でした。
思い出せばある日、近所で不良と言われている少しハーフのようなお姉さんの家から流れる当時のアメリカンポップス”悲しき片思い(ヘレンシャピロ)“。
何か自由にあふれる国、アメリカのイメージが突然、新鮮に私の中に出来上がっていきました。 

全てお金の切れ目は縁の切れ目か?)
 ただアメリカは持ち金も無く裸一貫で行って、活かしてくれる場所ではありません
アジア人の顔立ちで、片言の英語で何処で不法に雇ってくれる場所が有るのでしょうか? さらに基本学生ビザでは働けません。 日本人が不法で働けるバイトは奪い合い状態、時にはイミグレーションの査察も入ります。
良く人間平等といいますが、アメリカでは東洋人は常に格下扱いされて普通です

私もN.Yでの生活は毎日が新鮮で、人も面白い。
その上、自身が夢を持ちアメリカの学位を取りたい、若しくは安定した職を得たいがためにN.Yで頑張る。 だがそれを支える経済力がなければ、もしくは職を手に入れることが出来なければというのも現実。 アメリカが好きなだけでは、生きていけません

ところで家の息子も、人生がいかに短いかを知っているのだろうか

(夢、憧れで海外へそれも良い - しかし40代半ばからは人生の最終章に備えた方が!)
幸い現在は食うや食わずのご時世でもないが2019年現在、世界中の経済がバブル化しています。 それでも景気をもっと良くしたい?
上がり切った中国の不動産を更に再度暴騰させるとか、ここまで相当インフレ政策で上がってきたアメリカの賃金、物価、株価も更に高騰し続けるのを“期待”するのは分かるが果たして?
当然、日本のお金を海外へ持ち出してもインパクトはありません

海外へ出るも本当に住居費・生活費・その国特有のリスク全て考慮して“PAYする(妥当)”のか?
私などは中国へ行く度に、水が合わず下痢との戦いです、日本の〇〇丸など全然役に立ちません。 本場の中華を食べたいと調子に乗ると危険です、動物性油を多用しています。

ましてや正社員のポストを捨てて、海外へは特に慎重に検討する必要が





もしも事が思いがけない展開なら、立ち止まれ、引き返せ !

2019-01-29 11:24:29 | 海外留学

瞬時に体を包む感性に従え




もしも事が思いがけない展開なら、立ち止まれ、引き返せ!”
2017.11.18再編集

その時、私は強盗被害、未経験者
 皆さんが知るように、ニューヨークは犯罪の街である。 自分の短大のインド人同級生は過去に6回、うち2回はガン、そして2回はナイフの遭遇との話。 私いわく”何でそんな遅くに帰るアルバイトなんてやめたら!”
彼、“やめたら学校も、生活も続けられない”と。
この街(NY)、この国では、強盗に遭うことは、人が麻疹(はしか)にかかるのと同じ
夜の路は、更に危険。 5番街ならさもないが、郊外の街中では。

自分が居たアパート(QUEENS)の留学生の中国人のご主人は、チャイナタウンでバイトする奥さんを心配して決まって夜12時15分頃車をだして、迎えにいっていました。

自分は、このニューヨークで3年経ってもマグ(MUGGED 強盗にあう意)られた経験がありませんでした。 ラッキーとしかいいようがありませんでした。



(ある冬の深夜、不審に感じながら、引き返せない自分

私のバイトは、アパートから徒歩15分くらい、バイト先からクイーンズの地下鉄エルムハースト駅を抜け3ブロック先を右に曲がりさらに4ブロック程。

その年の冬、バイトを夜12時半ごろ終え、家に向かいました。


( ↑ 写真が現場です)

 道路はニューヨーク特有の冬景色で雪に覆われています。 それは金曜日、エルムハースト駅を右に曲がりいつもの少し上り坂気味の路を少し上がった時、前方の十字路で二人の若い学生風の人間が、私が視界に入った瞬間、さっと動いたように見えました。
更に何か、サインを交わしたか?にも見えました。
その十字路には街灯があり、暗がりを歩く自分からは逆に二人の微妙な動きは確認できました

心が若干引っかかりながらも前方に進んでいたものも、いつもと違う状況だなとは思いました。

この先の交差点には黄色い小さな駄菓子屋的な店が有り、珍しく静かな住宅街としては若者が日中“たむろっている”場所でした。
若そうに見えるから、高校生が夜遊びないし、話ふけって表にいるのかな?

しかし、彼らがどこかに行かなければ、彼らの横を通り過ぎなければならない。
”少し、嫌だな”
”けど、この道の先に自分のアパートがある、この道を使わなければ、引き返し、四角く大回り、これも嫌だな”

”若そうに見えるから、何かされるというよりは、学生の夜遊び?だろ”
私は自分に都合の良い、簡単な方の答えを選んでしまいました


ある程度の現金を持って外出を!)
もう皆さん、結果は想像の通り。
すれ違い様に、声をかけられる事も無く、大きく顔面を殴られました。
その衝撃で、私のメガネはどこかに“すっ飛び”ました。
私がひるんだすきに、すかさず冬場で私が着ていた厚手のダウンの奥襟をつかまれ、自分の顔は一方的に地面とお見合い状態になりました。
何もすることができません。

もう何かされるなと思いました、それはガンか、ナイフか
無傷では、すまされないと思いました。
(この先、どうされるのだろうか?)
私と彼らがもみ合っている間も、深夜とは言え車は3,4台交差点のため徐行はすれども停車はしませんでした。

奥襟をつかむ彼は、ポケットから光るものを出しました、そして”シャキッ”と音がして刃先が飛び出し、私の目に入りました(内心、やはり・・・・)。
このナイフを上に突き上げ私の胸を刺せば、死ぬか重傷は間違い無い。
手(素手でした)が切れても、ナイフを握った方が良いのか?・・・・

その瞬間、若い強盗の口から初めて“GIVE ME MONEY !”と言葉が発せられました。
この時、私は反省するのですが、近場へのバイトだったので、所持金、丸め込んだほぼ$1札ばかり$8くらいでした。

(アメリカでは強盗にあったら、無抵抗、金品は言いなりにが常識です
留学当初、学校のREADINGの授業で、アメリカの上院議員が車で自宅に帰宅、玄関に至るほんの短い距離に強盗に襲われ、金を要求されました。 上院議員のポケットにはA QUARTERつまり25セントしか持ち合せ無く、一杯のコーヒーも飲めないと強盗は激怒して発砲、議員は重症を負った話。
つまりアメリカでは外出の際、現金の持ちすぎも危ない、持たな過ぎは同じく危ないと教わりました。
私はそれを守っていませんでした。

若い強盗の場合、金目的以外に被害者が流行のジャケットを着ていたり、人気のアイテムを持っていたことで強盗に遭ったり、殺されることもあるので要注意です。

それから1月ほどして、朝、通学でこの交差点を通った際、雪の残る歩道に”黒いマフラー“が落ちていました。
私は,”アッ“またここで昨夜、誰かが自分と同じように強盗に襲われたなと思いました。 一度やられた人間はすぐ分かります、真冬の雪道に黒いマフラーの落とし物の”謎”が。
この厳冬にマフラーを落として、気が付かぬ人はいません。 解放されたら、逃げるのが先決です。


私も強盗に解放された瞬間、すっ飛んだ眼鏡を探さず、速足で現場を離れています。

人間の第6感が騒いだら、立ち止まる、そして引き返す
これは街中で暴力沙汰に巻き込まれるだけでなく、商売上、男女関係でも万一、自分が予定したシナリオが意に反して、違う方へ展開
この場合、極めて、要注意 !

話が固まりかけたところで、新たな状況変化、相手が違うことを言い出した、もしくは乱暴な言い方だが相手の”化けの皮がはげかかった”場合。
私のニューヨークの強盗と同じく、決して、楽観論で自分を安心させないで
例え不動産取引で、手付金を払っていても、結婚の準備がある程度進んでいても。

恥かいても良い!
お金を損しても!


どうか引き返してください

また続きます。