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Pamja nga Shqiperia me nje TIRONSE nga Japonia!! 

(旧:Jeta ne Shqiperi のはずだった・・・)
ぐるぐるぐるぅぅぅ 改め がつがつがつっっっ

黒人歴史月間

2009年02月26日 | DITAR
恥ずかしながら、私は初めて知ったのですが、アメリカでは2月はアフリカン・アメリカンの人たちにとって大切な月らしく、1926年から、2月には記念行事が各地で行われているらしいです。


というわけで、在アルバニア、アメリカ大使のお家で開かれたパーティーに呼んでいただきました



プログラムは大使の開会のあいさつに引き続き、大使を含む4人のアフリカ人またはアフリカン・アメリカ人の人が古い詩を朗読したり、ピアノ演奏が発表会形式であったり。
(大使自身もご先祖のどなたかが黒人の人だったらしいです。)
で、最後は好き勝手にお菓子をつまみながら触れ合いましょう会と言う風でした。



詩を朗読した4人の一人は我らがチェルシーでした!!!
しかも彼女だけ自作の詩も朗読したのであります!!!!


この日曜日に書き始め、この日曜日に書き終えたと言う詩は、たった3日前に完成したものとは思えないほどの力強さで、しかもほとんどソラで、読みあげられ、出席者を感動させたのであります
(のちに聞くと、小学校から高校で演劇コースを取っていたらしく、“伝え方”を知っているらしい。納得。)


英語の資料がまだないので、会場でもらったアルバニア語訳から、訳してみよう!


***********************
~私もアメリカを歌う~    ラングストン・ヒューズ

僕は最も黒い兄弟だ。
彼らの友人が来た時、
彼らは私を台所へ食べに行かせる。
しかし僕は笑っている。
そして十分に食べ、
そしてさらに強くなる。

明日、
僕はテーブルに座るだろう。
彼らの友人が来た時、
誰も僕に“台所へ食べに行け!”とは言えないだろう。

さらに、
彼らは僕がどんなに美しいかわかるだろう。
そして恥ずかしくなるだろう。

私も、アメリカだ





返歌:~今、私を見よ~      チェルシー・ウェスト

世界よ!今私を見よ!今見よ、私を!
アメリカだけを歌っているのではなく、今や私自身がアメリカなのだ-そう、私はアメリカ。
見よ!もうアメリカの顔は一つの色ではない。
No、No私たちの大地は一色以上の光を持っている。
私たちの大地の色を理解し始めるためには、
あなたたちの前に千の色を持つ虹が広がらなければならないでしょう。
まさに、私は今、“私たちの大地”と言うことができる。
なぜなら、あなたのアメリカであり、私のアメリカであり、私たちのアメリカであるから。

でも、いつもこうであったわけではない。
私の“兄弟”が強い感情を抱えて語ったように、
人々がアメリカの美しさを隠したがった時代があった。
私のような人々が話すことを許されなかった時代があった。
私の祖先が地面で、大地で汗を流しながら働いた時代があった。
しかし、彼らはたくさんの年月を大地の上で過ごした。
唯一の問題は他者の手中にあった力だ。

Oh,no,no,no,no!今
今、私自身もアメリカである。
事実、私はいつもこうであったけれども、今大声で言える。
ワタシハ アメリカ ダ!

世界よ!アメリカの一つの外面を捨てよ!
顔を、笑顔を、姿を、スタイルを見よ!
歴史を、信仰を、未来を、過去を見よ!
今日の国民のリーダーを見よ!
かつて最下と考えられていた集団からやって来た、彼を見よ!
少し前まで、“色”のついた人間はアメリカを歌おうとする気違いだと考えられていた。
しかし私はこれについて、幸せに思う。
彼らは声を、彼らの特権を、彼らの生活を失くした。
今日から、私の**は声を上げることができる、歌うことができる。
私が願うことができる、夢見ることができること先祖に感謝します。
そしてもし私がしたいのなら、何度も何度も何度もできる。そして叫ぶだろう。
‐ワタシモ アメリカ ダ!

*************************



ついでになんかミーハーみたいだけど…大使ご夫妻と。
(これは自分の意思ではなく、流れ的に“私は結構です…”とも言えず)

北部の首都シュコドラへ

2009年02月22日 | DITAR
現在アルバニア第3の都市であるシュコドラはモンテネグロとの国境から30分ほどしか離れておらず、紀元前4世紀にすでに都市として発展しており当時の硬貨も(ちゃんと文字とか柄とかが彫られている)が発見されています。詳しくは11月28日の日記を読んでくださいな。


朝9時出発でおよそ1時間40分で着きました。
(前回はバスを利用したので3時間近くかかりましたが、今回はワゴンを利用したので早かったです。)


先週の木曜日ニュースでシュコドラまでの道路が雪によって閉鎖されていると報道されていましたが、土日寒かったですが、天気がよかったので、道は開いていました。

とはいえ街の中は寒かったし、雪も大量に残っていました。


私が今回シュコドラに行きたかったのは、平日しか開いてないマルビ写真博物館に行きたかったからです。
マルビ氏はイタリア人でしたが政治的問題からアルバニア人に帰化し(当時帰化とかあったのかわかりませんが、pietroだった名前をアルバニア風にpjeterに変えたらしいです)1880年ごろからアルバニアで写真を撮り続けていたと言う人で、写真館には是非とも行きたかったのです。

なぜなら当時アルバニアはまだトルコ支配の影響が色濃く残っており、人々の服装などは大変興味深かったからです。


しかし私たちは、最初にチェルシーの知人が働く歴史博物館に向かいました。


チェルシーは考古学を学んでいたころ、北部の山岳地域に先生たちと何週間か滞在し、発掘をしたりしたことがあり(2006年)、その時にこの人と知り合ったのでした。

この知人であるザミールさんはおそらく60歳くらいで、歴史博物館の責任者です。しかし彼は20年ほどアルバニア語の先生として働いていた経験があり、北部の人なのに、大変わかりやすいアルバニア語で話してくれました。

*しばしば北部の人の言葉はさっぱりわからない時があるのです…*

ちなみになぜ考古学を学んだ人がアルバニア語の先生をしていたかと言うと、18年前に共産党独裁政治が終わるまで、考古学を学んできたものとしての就職先がなかったからです。


私には南部出身の知人は何人かいますが、北部出身の人はあまりおらず、大変興味深い話をたくさん聞けました。
歴史だけでなく、文化・習慣、文学についてなどなど。

ザミールさんは熱く語ってくださり、結局私たちは3-3時間半、博物館に滞在しました。

博物館は1800年代の中級クラスの商人の民家を再利用されていて、オスマン・トルコ時代の典型的な建築様式が見れれます!!



1階は部分は石畳の貯蔵庫で、今は石器時代から紀元前のローマ時代の遺物が展示されています。

2階部分は養蚕業が行われていたらいスペースと、応接室と、家長がビジネス契約をするための小部屋などを見ることができます。




正面は暖炉です。暖炉右のイスには家の男性が年齢順に座り、左のイスにお客の男性がこれまた年齢順に座ります。女性は中2階みたいなとこから会話に参加することはあったみたいだけど、顔を見せることはなかったみたいです。



この地方のカトリック教徒の女性の服。


お嫁入りするときに持ってくる洋服などの数少ない財産を入れてきた箱。
なんて言うんだっけ…お雛さんも持ってたよね。


これめちゃくちゃ興味深い。私は初めて見た!!
普通の扉の手前に、わざわざ別の板を張り付けてあって(扉にではなく、柱の方に)美しく装飾してある。
美しいから許されるけど、はっきり言って邪魔だと思う。絶対この装飾部分にぶつかる人がいたと思われる!! 機能性よりも見た目の美しさにこだわってたところが好き。

ティラナの歴史博物館に5時間以上もいた私にとっては、めちゃくちゃおなかいっぱいになるような時間を過ごすことができました!!
(実際のおなかはグーグーなってましたが。)


3時前にお昼ごはんを食べに行き、その後マルビ写真博物館に行こうと思っていましたが、すでに閉まっていました…

第一目的は達成されませんでしたが、十分満足できる一日を過ごせました!



シュコドラの北部から北東部に広がるアルバニアン・アルプスの一部です。美しい!が、手前の建物邪魔!!


*シュコドラの街で一つ残念なこと…*
街のセンターにあり、シンボルだった“5人のヒーロー”像が撤去されていました…
写真は11月にセルビアに行くときに撮ったもの。
撮っておいてよかった…



”Trans”

2009年02月18日 | DITAR


一昨日の日曜日に4日間のローマ旅行から帰ってきた。

そして今日は火曜日。


ローマではジェラート屋さんで働くアルバニア人の青年を発見し話に花を咲かせた。
(4日間の滞在で2回もこのジェラート屋さんを訪れた…汗)

そして今日は友達に誘われて、夜お茶しに行くと3人のイタリア人たちも一緒だった。
そして2時間ほど興味深い時間を過ごした。
(3人のイタリア人と4人のアルバニア人はイタリア語でベラベラ喋っていた…つまりイタリア人たちは私と話すためだけに英語を話さなければならなかった…汗)



とっても不思議な巡り合わせだと思った。
5か月ここに住んでいて初めてイタリア人とお茶をする機会を得たのだ。



この2つのシチュエーションの両方とも楽しく過ごせた。

でもわかっている。

イタリアではアルバニア人も私も外国人で、アルバニアではイタリア人も私も外国人。

少数派の人間はお互いを理解するために、より努力するのだな。

そういうの好きだな。




寒い!!

2009年02月16日 | DITAR
15日深夜12時頃、4日間のローマ旅行を終えアルバニアに無事帰国しました。

ローマにいるときは『ひゃーティラナよりやっぱり寒いなぁ~』と思っていましたが、昨日今日とティラナ再び寒くなり、昼間でも10度を下回り、朝晩は3度ほど。

ダイティ山も雪化粧です。
山岳部もまた雪のようです。

1週間前の17℃とかは何だったんでしょう…再び冬がやってきた感じです…

ローマ ~西の世界~ ④

2009年02月15日 | DITAR
ローマ4日目。今日も晴れ


ティラナにはないドーナッツに感動のチェルシー。日曜日だけ開かれると言うマーケットで。


私たちの旅には、切り離せないもの3点。地図・おいしいもの・宿題の日記。
出発前の空港でも、ローマでの夜も、昼も同様の光景を何度見たことか…


本場のマキアートを私好みのかわいいカップで!(これマジ持って帰りたかった!!)
ちなみに、アルバニアでは“マキアートの大”を注文することができますが(私はいつも“大”です)、ローマではできませんでした。“マキアート”は“小”であって、“大”が飲みたければ、ミルクの量だけが増やされた、“ラテ”になってしまうらし。
(なんでカフェ自体も2倍にできないものか…)

 
最後の晩餐。ラザニア本当においしかった!!!
今まで日本で食べてたラザニアはラザニアじゃない!!!!!


と言うわけで、4日間天気に恵まれ、初日の朝6時にティラナを出て、4日目の深夜11:30に帰国するまでのまるっと4日間食べて食べて食べまくり楽しんできました。

すべて順調に過ごせました。
(帰路のローマの空港の無秩序状態だけが私たちをうんざりさせましたが…)

あ、そして深夜1時に家にたどり着き、溜まり溜まった日記を2時半近くまで書いていたがそれでも終わらなかった…という怠惰によって招かれた苦労も最後に圧し掛かってきましたが…

ローマ ~西の世界~ ③

2009年02月14日 | DITAR
朝イチで昨日行けなかったコロッセオへ。

土曜日であることに加え、昨日閉まっていたことが重なり、入場口には長蛇の列。

しかし全く素晴らしい!!







こんな風に石やレンガをただ積み重ねていっただけのように見えるこの巨大な建物がどうして崩れずに残っているのか…!?

謎です。


その後地下鉄で(あ、初日に3日間乗り放題のチケットを11ユーロで購入してあったので地下鉄とバスはする活用です!)スペイン広場へ行きました。

ブランド物の店がずらりと立ち並ぶ通りには、日本人大学生と思しき人々がウジャウジャしていました。

ランチにすごく巨大なもちもちパスタを食べました。たぶんアマトリチャーナ。隣の席のOLお姉さんによるとローマ名物だそうで、大満足しました。



まぁ地域が地域だけに多少高かったですが…


その後ちょっと観光客のすくない落ち着いた木陰を歩きながら、ポポロ広場まで歩きました。



ポポロ広場まで来てしまったら当然、あのアルバニア人青年が働いているジェラート屋さんで食べないわけには行きません…


世界でも指折りの先進国から来て5ヶ月間アルバニアで不自由しながら!?いろんな物を恋しく思いながら生活している私たち2人にとってはローマの街は輝いて見えました。

こんなおいしいジェラートも、ピザも、パスタもアルバニアでは食べれません!!
あんなおしゃれな服屋さんもありません!!
マクドナルドも!!!
ドーナッツも!!
ホットプレスされていないサンドイッチも!!
(残念ながらローマにもスタバはないようでした…)


今日はヴァレンタインでした。
2人で十分に楽しみました。



教会はどこを訪れてもめちゃくちゃ美しいです。


ローマを縦断するテベレ川

ローマ ~西の世界~ ②

2009年02月13日 | DITAR
今日も快晴!!

テルミニから地下鉄で2駅目のコロッセオに行くが、デモのため休館だった…
なので近くの古代都市へ。Foro Romano
大量に残る古代遺跡群に感動しまくりずいぶんゆっくり過ごしてしまった。
カエサルたちもこの道を歩いたのかと想像すると、ゾクゾクしました。
(アルバニアの南部のブトリントと言うところにも、古代遺跡群が残っていますが、残念ながらローマのはスケールが違いました…)




がっつり当時の街の雰囲気が残っています。怖いです…





ゲートに施された装飾…なんて細かく彫られているのでしょう…
そしてなんて美しく残っているのでしょう…

*パラティ近くからヴァチカン方面を臨む*


そこからてくてく、アルバニアの物よりも大きい焼き栗と、ジェラートを食べながら、ピアッツァ・ナヴォナへ。


宝石のように輝くジェラートたち!!





そこからパンテオン→フォンタナ・ディ・テレヴィ(テレヴィの泉?)などに向かいながら街を散策。

そこらへんにいた警察官においしいピザ屋さん(l’abufolaだったか?)を教えてもらい(前日から2日目はピザだと決めていたので!)必死に探す。

で8時前ついに、カンポ・ディ・フィオリ近くで発見。
ナポリからのピザ屋さんらしく、ふっくらもちもちのピザ生地と、ヨーグルトソースのめちゃくちゃおいしいピザを食べる!!!

3日間溜めてしまったアルバニア語の日記を書くために、ホステルまで帰るためのバス停近くのカフェに行く。

そこのウェイトレスもウェイターもめちゃくちゃいい人たちで、喋りかけられまくり、やっぱり日記書けず…
しかも驚いたことに、ウェイトレスの彼氏がコソヴォ出身のアルバニア人で彼女にいくつかのアルバニア語のあいさつを教えてほしいと頼まれた。
(帰り際、そのコソヴォ人の彼にもあったが、さすがアルバニアの北部方言は強く、理解するのがかなり難しかった…)

そんなこんなでホステルに帰ったのは1時頃。
今夜も抜き足差し足で、2段ベッドの上部へ上がる…



ローマ ~西の世界~ ①

2009年02月12日 | DITAR


朝3時起床。
前日に4日分の宿題を終わらせ、旅行の準備をし終わった時には12時だったので、3時間のみの睡眠。
寝坊するんじゃないかと思うと、緊張してよく眠れなかった…

4時に家を出て、4時半に空港に着く。
空港のカフェで昨日の分のアルバニア語の日記を書き(実際は全く書けなかった…。カフェのウェイターのお兄ちゃんが邪魔をして…)6時5分発。

7時15分。あっと言う間にローマに到着…
飛行機の中でもチェルシーと喋り続け、日記書けず…

フィウミチーノ空港から電車で30分のテルミニに1泊2000円ほどのホステルを取ってあったので、チェックイン。

10時。いよいよローマ観光!!

ティラナ同様、ローマも昨日までは天気が悪く、雨に加え雹まで激しく降っていたらしい。
(そう、昨日はティラナも雹だか霰だかが降っていた!!)
でも今日はこの日はめちゃくちゃ快晴!!
確かにティラナよりやや寒いけど、観光日和!!

まずはヴァチカンへ!!

ヴァチカン美術館へ。
行ったことある人はわかると思うけど、そりゃも~美しいのなんのって…
天井に描かれた美しい絵に感動しまくりながら歩いていると、首が疲れることは必至です。
が、永遠と続く美しい絵たちは首が疲れようとも、目を離せませんでした!!





中世に描かれたイタリアの地図にもしっかりアルバニアの沿岸部が描かれているのが私は嬉しかったです。
(あ~。今や“io sono albaneze!”(イタリア語で“私はアルバニア人です!”)

その後システィーナ・カペラ(ここで久々に大量の日本人を見た!)、サンピエトロ聖堂に行きました。

クリスチャンのチェルシーから、聖ペトロと言う人がカトリックの人にどんなに大切な人なのかを教えてもらった。
(なんせ突然ローマ行きを決定したので、ローマに関するなんの知識も持ち合わせていなかった…汗)

今から階段を登り登り、このドームの上まで上がります…(サン・ピエトロ聖堂)




大変狭く、どこまでも続く階段をひたすら登ると…


絶景が待っています!!!!!テベレ川も臨めます。

その後ピアッツァ・デル・ポポロに行き、ぷらぷら歩き、夕御飯。
私たちは“今晩はパスタ!!”だと朝から心に決めていた。

ちょっと変わった3種のパスタをオーダー。
初めての味。初めての触感。めちゃくちゃおいしかった♡



これ3種のパスタの盛り合わせ!もちもちしていてめちゃおいしいのよ!!
味も最高!

またウェイターのお兄ちゃんがめちゃくちゃキュートで、予定外についついデザートまで頼んでしまう…あうっ。


おなかいっぱいになって超幸せな気分に浸りながら地下鉄の駅に向かって歩いている、ちょっと良さ気なジェラート屋さんを発見してしまう。

おなかがいっぱいだったので、単にショーウィンドーの中の輝くジェラートを眺めていると、店員のおにいちゃんが英語で『どこから来たの?』と。
私たち『アルバニア』
店員『??アルベニア?アルメニア?』
私たち『アルバニア』(私たちは、「あ~このイタリア人は隣にありながらもアリバニアと言う小国を知らないんだね…」と残念に思う。)
店員『アルバニア?』
私たち『そう、アルバニア!』
店員『Jam shqipetar! (アルバニア語で“僕、アルバニア人!”』
私たち+店員『ひゃ~~~!!!!』

この青年は2年半ほどイタリアに住んでいて、1年間は奨学金をもらって学校にも行っていたらしい。
彼はキュートで、めちゃくちゃいい子で、私とチェルシーは『彼はもはやアルバニア人ではなく、イタリア人だね…』と感じたのでありました。


そんなこんなで12時くらいにホステルに戻り、自分たちの部屋に初めて足を踏み入れる。
ホステルなので、2段ベッドが4つの8人部屋。(はい一泊2000円ですから。)

でも私たちはびっくりした!!!
私のベッドの下の人の足が蒲団から突き出ていたのだけど、毛がもじゃもじゃしていたのです!!!

私もチェルシーも何度かホステルを使ったことがあったけど、初めて、男女同室だったのです…

ともあれ、疲れていた私たちは、あったかい部屋でぐっすり眠ったのでありました。




早くもこちらでは・・・

2009年02月06日 | DITAR
ここ数日天気はあまり良くないものの、気温が少々高く、最低が5~7℃、最高は13℃ほどあるようです。

まだ2月が始まったばかりで、日本だと一番寒さの厳しい月というイメージがありますが、一昨日からテラス席でお茶をする人たちが現れ始めています。



なんだかすごい家族のようです・・・

2009年01月27日 | DITAR
2009年1月26日付の新聞“SHQIP”にこんな記事が…



大戦中ドイツ軍がアルバニアにも入って来て、迫害される可能性のあったユダヤ人をムスリム(イスラム教徒)家族がかくまって、彼らを助けたという本がアメリカで出版されているようで、ユダヤ人を救ったという当時の王家(キング・ゾグ家。リストの3番目)を含む63のムスリム家族がフルネームで挙げられている。


ず~~~~~~っとページを下げていくと、48番目の家族“Familja e Ismail Gomelit” つまりイスマイル・ゴメルさんは私のジーナおばあちゃんのお父ちゃんらしいんです!!!!!


(ちなみに何年か前にアメリカの歴史学者、つまりこの本の筆者がアルバニアにやって来て、資料をもとに一軒一軒インタヴューして回ってたそうです。)



どうやらジーナのお父ちゃんは王国当時、結構上の役職にあったのか、ジーナの兄弟の一人はお父ちゃんの伝記も出版してらっしゃいます。

その本には今から50年以上も前のうら若きジーナの写真もあって、うわ~って感じでした。



当時のジーナは、当家の百合子さんをもなんとなし醸し出している感じで、“お嬢さん”というよりは、“しっかりしてます!”オーラが出ていました。