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Pamja nga Shqiperia me nje TIRONSE nga Japonia!! 

(旧:Jeta ne Shqiperi のはずだった・・・)
ぐるぐるぐるぅぅぅ 改め がつがつがつっっっ

コソボ旅行1

2009年04月18日 | DITAR
とにかく写真のみ!まず首都プリシュティナ編。


   
コソボと言えば、コレ!?新しく生まれました。
地元の子どもも記念撮影。


街並みを。

     

左は泊まったゲストハウスからの眺め。オレンジの瓦屋根が並んでいます。
しかも2つ3つの煙突つき。(煙突と言っても長細い奴じゃないけど。)
アルバニアは石造りとか、一軒家も四角い箱みたいな形のとかが多いかも。
(と、思っていたが地方によってはこのようなオレンジ瓦屋根も見られた…)

   

    独立の立役者:ルゴバ氏。

何気にお気に入りの絵。

   
EULEXは嫌われているらしい。


道路標識。Rrはルガ(アルバニア語)Stはストリート(英語)Ulはウリッツァ(セルビア語)セルビア語よりも英語が前に来ているのがセルビアびいきの私的には引っかかる
通りの名前はアルバニア系コソボ人の名前。独立前はもちろん違う名前が付いていたはず。(地図に載るような大きな通りは明らかに独立前と後では名前が変えられていた。)


独立のために戦った兵士の碑。あらゆるところで見かけます。
亡くなった方がそれだけたくさんいると言うことですね。
どれもここ10年で建てられたものですねで、新しく光っています。


もちろんビル・クリントン氏もコソボ独立の立役者!!
(私の家の近くの通りはJ・W・ブッシュ通りですが、コソボではもちろんビル・クリントン通りです。)


図書館。自分で調べたわけじゃないけど、チトー時代(30年以上前!?)に建てられた!?!?!?うそ~ん。また調べてみます。


何気にミニ遊園地がいくつか見られた。


まぁ、アルバニアでもよく見かけることですが・・・よく訴えられないなぁと。。。マクドナルドというレストランとかね。

半年記念③’+④’

2009年04月15日 | DITAR
昨日テレビ(Klanという局の)その名も『Opinion』という意見番組で、『Kultura e Ecjes se Makines』(自動車通行文化!?とでも言いましょうか??)というテーマで1時間8人の“知識人”(←あまり好きな言葉ではないのでコーテーションマークを使いました。)が論じ合っていました。


横断歩道や標識などの物質的問題、自動車学校の指導の問題(初心者に事故が多いからと言うことらしいが…)、市民の交通マナーに対する精神的問題、警察官のあり方(無免許運転者を見つけても賄賂で片付いてしまうとか!??!)等々。


どんなふうに変わっていくのか、楽しみです。

NATO加入を果たしました。

2009年04月04日 | DITAR
西側諸国の仲間入りの第一歩として、国は大はしゃぎです。

国、市を挙げてのお祭りが路上で繰り広げられています。



     

     

 
現ティラナ市長の社会党党首のEdi Rama氏も、ヒップホップ歌手や、セクシー歌手の合間にごあいさつ。

     

コンサートは4月3~4日にかけて昼も夜も国中心地を封鎖して行われていました。


NATOへの加盟を果たした今、次はEUを目指して頑張っています。

半年記念④

2009年03月24日 | DITAR
パート④ 『交通事情』その2


この国で車を運転するのはかなり危険です。
少なくともティラナの街内には自転車に乗る人はあまりいません。
『自転車なんて危なすぎる(車にはねられるのは必至だ)!』というのです。


まず、この国では信号が機能していません…

普段からランプが着かない信号もあるし、停電になるともちろん信号も消えています。

ですが、実際のところ信号がきちんと働いていても、役立ってないんです!!!!!

毎日毎日警察官が手旗信号振っています。



それでも無視しまくりです。

車も無視しますが、人間も無視します。

ていうか警察官が先頭切って赤で渡っていきます。



車の停止線と信号が近すぎるため(ていうか、停止線の真上にあったりします!!そして交差点の向こう側には信号がなかったりして…)、先頭の車は信号が見づらく、9割が後続車にクラクション鳴らされています。…<A>

また車の停止線と、横断歩道が完全にくっついていることが多いので、横断歩道の真ん中で止まっている車も多いです!!!!!

しかもしかも交差点を横断する車と、縦断する車の両方が止まる時間が短すぎます。
したがって『旗折り機』か!!?!?とつっ込みたくなるような、光景をしばしば目にします。
(あ、意味わからんかった?縦と横に1台ずつ交互に進むの!!めちゃくちゃおもしろいよ!よくぶつからんね~と、感心します。)


そもそも横断歩道がすくないんですが、あっても消えかけていたり、人間もあっちゃこっちゃで好きに横断するからいらないのかもしれないし…<B>

こっちが一応消えかけの横断歩道で(信号がない所)渡ろうと待っていても誰も止まってくれません。
それが小学校の前であっても!!!


信号が青になっても横断歩道は渡れません。
なぜなら曲がってくる車がとんでもないスピードで曲がってくるからです…
(私が横断中に車が曲がってきて、車体が私の手に触れたことも何度かあります!!!)

したがって歩行者は車の信号が両方向ともに赤になってからしか渡れないこともしばしばです。
(ローマに行ったときに運転者が歩行者を優先してくれたので、感激しました。)



上記<A>もかなりクラクションの回数を上げてますが、この国の運転手は乗降中のバスに対してもクラクション鳴らします!!!!!!

2~3車線の道路に80%の確率で路駐が見られます。
(ひどいときは2重路駐です!!!)

したがってバスが止まると、時に道路をブロックすることになるのも事実です。
でも、バスにクラクション鳴らしたってしゃーなくない!?!?!



私の通勤・通学路は特にクラクションの多いところだと思うのですが、あまりのクラクションの多さにこっちまでイライラしてきて、ある時どうすれば、これを楽しめるかを考え、日々1分間のクラクション回数をカウントし始めました。


私の統計によると(エルバサン通りとラナ川の交差点付近)では1分間に平均18回でした。
(一人の人が、プープープープーとやった場合は4回とカウント)


<B>にも記しましたが、歩行者は本当に好き勝手に渡ります。
こっちへ来た当時、多くの外国同様『右見て左見て右』が通用しないこの国では(左から先に見なければならない)、私はひとりで道が渡れませんでした。

信号が青の時ですら、いつ渡れるんだ!?!という具合。
(いつも人にくっついて渡っていました。)


でも歩行者はやっぱり強い!!
町の、いや、“国”の、ど真ん中(まさにアルバニアのセンター)の4~5車線の(ラインがなく、車も好き勝手に走っているので4車線か5車線かがわからない…)道路を歩行者は車間を縫うように渡っていきます。
(ちなみに私も今やガツガツ先頭切って渡っていきます!!)

ここには信号自体少ないのでそれも仕方ないのかもしれませんが…



この国の交通事情がどうすれば良くなるかを、無意味にも考えながらいつも歩いています。



メイン道路(本来は3車線だが路駐のお蔭で2車線)には中央分離帯として幅2m~2.5m歩道(道路両側の歩道よりも広いことがある!!!)が設けられています。
(もちろん木も植えられています。)




が、はっきり言ってここを歩いている人は稀です。

たしかに歩行者が車道を好き勝手に渡るときにはありがたいです。
なぜなら、両方向の車が同時に途切れることはあまりないから。

しかし歩行者が好き勝手に道路を渡れなくした場合、この中央の歩道は意味をなさないと思います。
潰して、車1車線分つくってはいかがでしょうか??


またこの国には歩道橋はありません。
(最近、郊外の幹線道路で3つ見かけました!!真新しく、輝いていました。)
(幹線道路ですので時速90キロほど出した車が通るので当然でしょう。子どもも横断せねばならないので。)

つくっても誰も利用しないでしょうか??
横断歩道さえ利用されてないのですから、怪しいものですが…




ローマに行ったときに思ったのですが、ローマはその街の大きさの割に地下鉄が2本しか通ってませんでした。

古い建物をかいくぐるのが難しいのか、遺跡があっちゃこっちゃに埋まっているからなのでしょうか??

(話がそれましたが)近年新しいビルが建設され始め、一方で古い遺跡・史跡(ローマほど古くないでしょうが)残るこの町の道路の幅を広げることも、地下鉄を埋めることもなかなか難しそうです。


ていうかそもそも街が(土地が)狭すぎます。
都市機能を外側に広げていくしかないのかなぁ~。できるんかなぁ~。


では、空にむかって(縦に)広げていくと言うのはどうでしょう!!
まず簡単なこととして、立体駐車場をつくりましょう!!
(儲かる事間違いなし!!)

バスが交通渋滞を引き起こしているとするなれば(かつ地下鉄が無理なら)、モノレール的な物をこの無駄(?)にある中央分離帯歩道の上に造り、街を巡回させるとか。
(上に道路をつくるための橋げたを建設するほどの道幅ないので、上に道路は無理でしょう。いや、モノレールの橋げたすら無理かも…)



ところで田舎者の私はこれをベオグラードで見た時ちょっと感激した!!
ビルの下を車道が通っている!



いや、やっぱり今ある道をいじくるより、この小さな空間にどうすれば人口が、車が密集しなくなるかを考え、国の重要機関や、企業などを町の外側へ持っていくようにする!?!?



等々…全く無駄に頭をひねっているのであります。

春が来たはずだったが。。。

2009年03月20日 | DITAR
先週末の3月14日は『夏の日』の祝日でしたが、今日はアルバニア各地でえらいことになっていました。


ティラナでは大雨により、床上浸水しているところもあり(この地区は共産主義が倒れて、一気に地方からやってきた人が移り住んできてできた地域なので、インフラが整う前にマンションなどが出来てしまい、大雨が降るといつもこのようなことになるらしい。<共産主義時代は自由に移り住むことができなかったので>)、ティラナから少し行ったところでも、マンホールから水があふれ出て、さらに空からも大量の雨が降り、大変なことになっているところがありました。


さらに、山間部大雪により、あっちゃこっちゃで道路が封鎖されていました。
昼間に学校の近くで8cmほどの雪を乗せた車を見かけたので、どこからきたんだ?!?!と思っていたら、ティラナから45分ほどのところ(先週末『夏の日』のお祭りに訪れたエルバサンへ行く途中の道)でも雪のため一時通行止めになっていたりしたのです。

山間部では3日間ほど通行止めになったままでした。



『夏の日』はフェイントだったか…

Dita e veres

2009年03月14日 | DITAR
3月14日は『夏の日』です。
こちらでは3月の初めごろから春を告げる花としてミモザが道端で売られていたり、お家に飾られていたりしています。

さて今年14日は土曜日でしたので、一応月曜日は学校は休みでした。
(公的機関のみお休みのようです。したがって仕事はあったみたいですが、休みました。)


ティラナからミニバス(furgon)で1時間強の距離にあるエルバサンと言う町はバロクム(balokume)という巨大なクッキーみたいなのが有名な街で、このクッキーは『夏の日』に食べられるらしく、というわけでエルバサンと言えば『夏の日』のお祭りというイメージが成り立つようです。

というわけで、というわけで、私たちはエルバサンに1泊旅行で行ってきました。


9時からパレードが始まると言うことで8時待ち合わせでしたが、ドゥラス(ティラナからバスで1時間ほどの海沿いの町)から来るアルバニア人クラスメートのヨニーダが渋滞に巻き込まれ、さらにティラナ市内もメインストリートは、ホコ天になっていて、結局9時過ぎににティラナを出発することになりました。


私はティラナからエルバサンへの道侮っていました…

1時間ほどだと聞いていたので、(迷いましたが)酔い止めを飲まずに出かけたのであります…

道はどんどん山を登り、絶景が臨めましたが、私にはそれを楽しむ余裕がありませんでした…
とにかく早く着くことを祈るばかりでした…

本当に美しい景色だったんです…



さてエルバサンに着くと、メインストリートはどえりゃい人でした。
とくに私たちが到着したころ、大統領のベリシャ氏もすぐ近くにいて、人々は私たちの進行方向に逆らって、大統領の方へと進んでいたので…

と、思いきや、エルバサンの大公園もかなりの人々で、花はまだ咲いていなかったけで、お花見みたいなことになっていました。

お昼を食べる人々、踊る人々、ボールで遊ぶ子どもたち、プラプラする人々。

     

     
このおっちゃんたち遠くから見たら、鳥が電線に止まっているみたいに見えた…    

その後エルバサンに住むアメリカ人の誘いで、近くの丘頂上まで登り、ピクニックに行きました。

丘からはエルバサンの町が一望でき、オリーブの木に囲まれながら、食べたり飲んだりしました。
(参加者のほどんどがアメリカ人でピースコートの人たちでした。)

    




この日は本当に『夏の日(春の日)』と呼ぶにふさわしく、青空が広がり、多少風はありましたが、暖かく、気持のよい日でした。


もちろんバロクムも大量に食べました。

で、さらにヨニーダが『夏の日』着けるブレスレット、白と赤の糸で編むヴェローレ(ヴェラは夏と言う意味)を作ってくれました。

つばめがやって来るころにバラの枝に結ぶそうです。

こんな乙女チックなことするの久々or初めて


ちなみに、帰路ももちろん酔いました…


なかなか過激な!?記事が載っていました。今日の新聞

2009年03月13日 | DITAR
まだ全部読んだわけじゃないですが、ベオグラード(セルビア)のメディアが、反アルバニア人を叫んでいる(みたいな)

3月12日の日刊紙Shqipの記事の8ページ

セルビア外務大臣がでっちあげをした。
『アルバニア人マフィアはヴク氏をスイスで殺したがっていた。』
『アルバニア人たちの腹黒い(?残酷な?悪い?)計画は、失敗に終わった。』っと言っている!と書かれていまいたよ。

コソボや地方だけでなく、首都のベオグラードでもこのような反アルバニア人の記事が“まれにではなく”見られる。とな。


初めて新聞を買いました(50円!高!!)が、なかなか衝撃的でした。

festa e gruase

2009年03月08日 | DITAR
3月8日は『婦人の日』です。

国際的には国際女性デーのようですね。


私の小さな教室の中の世界から言いますと、日本にも、アメリカにも、オーストリアにも、3月8日を祝う習慣はないようです。

一方、中国には一応あるようです。セルビアにもあったように思います。

何人かの人から『共産国』にだけ祝う習慣があると聞きました。が、一応は『国際』的なもののようです。



さて、以前から“この日はレストランは昼間っから女性だけが食べて、飲んで、ハチャケる。どこのレストランもカフェも女だらけだ!”と聞いてきましたが、『そんなハチャケるのなんて若い子だけでしょ?!』と思っていたら、本当に“婦人”がハチャケていました。


私たちが行ったのはレストランでしたが、半地下みたいになっているとこで12時半から始まったにもかかわらず、まるで夜みたいな雰囲気でした。


ざっと100人くらいのお客がいましたが、本当に“婦人”ばっかりでした!!!
結婚式みたいな感じになっていて、生バンド演奏ありで、バンドの正面にはダンススペースが設けられていて、老いも若きもそこで踊りまくりでした。

民族音楽によるダンスが7割ほどでしたが、それ以外のポップスやハウスミュージックなどでもおばちゃんたちもノリノリで踊っていました。






私たち(フイヤ、チェルシー、私)少女は7人の婦人たち(推定50~70歳)に連れってもらったわけですが、もちろん彼女たちご婦人方も例に漏れず!!!


聞いてはいましたが、本当にびっくりしました!!


途中2度3度停電になりましたが、それでも女だらけのダンスは止まらず…

ちょっと若い年齢層の人たち(それでも30代)はわが子を抱いて、椅子をお立ち台にノリノリ。


唯一の男性軍はウェイター君たちと、バンドマンたちだけでした。


いや~興味深い習慣を体験しました!!!


日本もこの習慣、輸入する?!?

festa e mesuesit

2009年03月07日 | DITAR
3月7日は『先生の日』


なぜ先生の日かと言うと1887年に3月7日にコルチャと言う南東の(寒くて美しいと評判!)の町で初めてアルバニア語による授業が行われたからなのです。


当時はオスマン帝国時代で、それまでは公にアルバニア語で学べる学校はなかったのです。
恐らく、こっそり誰かの家で…とかはあったでしょうが、見つかったら捕まったでしょう。

このアルバニア語初の学校は男子学校でしたが、1891年には初女子学校もコルチャで開かれます。


これはアルバニアの“ルネッサンス”(って訳しちゃっていいんだろうか…誤解を招きそうな…う~ん…“再興”“再生”“復活”まぁそんなような)運動のタマモノなんです。


当時の“ルネッサンス”運動家のサミ・フラシュリさん(アルバニアではかなりの有名3兄弟の一人)曰く、

『民族集団のサインは、言語である。すべての民族が自身の言語のもとに、自身を維持している。自身の言葉を忘れた者や、それを置き去りにしてしまった者、他の言語を話す者は、その話している言語の国の民族の者になってしまう。あるいは自身の国民性を捨ててしまうことになる。』
(だから、トルコ語を話すのはやめてアルバニア語を話そう!!)とな。


日本には特定の職業の人を敬うような日はないけれど、(現在なら無理でしょうが)一昔前なら日本にも『先生の日』が作られてもおかしくなかったね。


というわけで私たちも、金曜日に先生に花束とちょっとしたスィーツをプレゼントしたのであります。

街には花をもった生徒たちや、先生たちがチラホラいました。

お誕生会②

2009年03月01日 | DITAR
日曜日のお昼の3時頃教授宅へ、いつもの様にレッスンに行くと、テーブルに美しいお皿たちがセットされていて、何事かと思うと、娘のイナの22歳のお誕生日会が開かれるとのことだった。

3時半ごろから始まった、この会食には彼氏と、彼氏の2人の弟とお母さんと、おばあちゃんが、参加して、私を含めて10人でめちゃくちゃ豪勢なブランチをいただいた。


スープ。
サラダが3種類。
ローストビーフ。ローストチキン。
ピラフ。
プリン。
が、ママの手作り。

+既成のケーキ。


ホントおなかが八切れそうでした。


イナと彼氏のエンディは付き合って1年ですが、おばあちゃんを含めてこうやって家族同士が会うことは既に何度かあったそうです。


おばあちゃんまでってかなり私的にはびっくりしました。


若いからできることなのか?
アルバニア人だからできることなのか?
私じゃないからできることなのか?