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Pamja nga Shqiperia me nje TIRONSE nga Japonia!! 

(旧:Jeta ne Shqiperi のはずだった・・・)
ぐるぐるぐるぅぅぅ 改め がつがつがつっっっ

Po fillon Kupa Boterore e fudbollit, dhe ndjej shpejtesine e kalimit te kohes...

2014年06月13日 | DITAR
久しぶりに投稿してみよう。
ついでにテンプレートも変えてみた。

いっぱい書きたいことあったし、載せたい写真もいっぱいあるのだけれど、一日のうちブログに費やす時間がどうももったいなく感じて、ブログを書くことから極力離れようと努めだして、そのうち、めんどくさくなってきて、こうやって日本語書く時間があれば他に何か別のことに費やそうと!と言い訳してみたりして。。。随分時間が経っていました。

でも実際、写真アップするのとか何気にめんどくさいんだよね~。

ケイタイで写真っとてケイタイからアップすれば写真に関しては楽だと思うんだけど。。。
逆に文章書くのがめんどくさくなるし。。。


ティラナの街も随分変わったんだよぉ!ていうか、国中の道路が随分舗装されたり、まっすぐ伸びたり!
そんでもって、まだまだ進化の途中!!

国民の生活もダイブ向上したと思う。ん~一部の人かもしれないから、『一部の人はすごくいい暮らししている』し、『そういう生活レベルの人が増えてきてもいる』と、言えると思う。
でも、どん底にいて、負の連鎖から抜け出せないでいる人もいるし、都市部と田舎の差が広がったようにも思うし、都市部にどんどん人が流れてきて、(プラス、ヨーロッパにも流れて<EU加盟していないんだけど…汗>)田舎に若者いるかなぁと心配になる。

日本だって過疎地いっぱいあるけど、人口の絶対数が少ないアルバニアでは、同様の率で若者が都市部に出ていくと残っている人の絶対数がすさまじく小さくなるよね。。。


とにもかくにも目の離せない国ですよ!

自分の名前がテレビ番組で繰り返される瞬間!

2011年04月23日 | DITAR

先日、東日本大地震のこともあり(?)、アルバニアで第2位(第1位と言う人もいるけれど)のテレビ局のトーク番組で日本文化というテーマが繰り広げられていました。

スタジオにはゲストとして、2人のかつて日本に留学していた人と、私の初めてのアルバニア語の先生(現在も日本でがんばっている)Vちゃんが呼ばれた。

今が旬の桜の話、日本と言えば...外国人が思い描く芸者、地震、外国人には理解困難な文字のこと...とはなしがつづいた。

1時間番組の終わりがけ7分ごろ、“ところで今アルバニアには日本人がいるのか?”という話題になった。


そこで、私の名前が!!!!一人でテレビの前で大興奮!!!


この番組の司会者はVちゃんとは昔からの友達で、以前も私にこのトーク番組にでないか?と誘ってくれたこともあったので、私の名前を知ってくれてはいたのですが...

気が向いたら、見てみてください。動画ありです。
http://www.tvklan.al/emisioni.php?id=3057

デモ。これでベリーシャ政権も終わりか!?!?

2011年01月24日 | DITAR
日本でもティラナのニュースが伝えられているようです。



写真:24 Ore Lajmeから


写真:Gazeta SHQIPから

2週間程前から、今月21日に大きなデモがあると宣伝されて、人が集められていました。

2009年6月の総選挙以来何度か大きなデモやハンガーストライキなどが予定され、行われてきましたが、今回は今までになく激しくなっているようです。


年明け副首相がアルバニア最大の石油会社から賄賂を要求しているのが隠しカメラで明らかになったことも、また火に油をそそいだかたちとなったようです。


3人(4人)が亡くなり、(うち2人は銃で撃たれたようです…)重傷者61人、軽傷の一般人31人、警官27人と…

113人の逮捕者が出たようで、新聞には名前と年齢と出身地が一覧で出ています。
うち80人以上が30代未満(下は16歳から)、さらに30代も含めると逮捕者の85%近くが“青年”ということになります。
(すごい…若い力が熱い…。まぁ暴動とはそんなものなのでしょうが…日本にはないねぇ…)



私は2年目のアパートから職場まで徒歩10~15分でしたが、その途中に首相府がありました。
その首相府の前の大通りでデモはいつも行われます。


17年前にねずみ講が破たんしたときの暴動のように、大勢が首相府に銃を撃ったわけではないようですが、今回は投石する人も多くいたようで、中にはピストルなどを持っていた人もいたようです…


一応、危険がともなっているのは首相府の前だけなので一般人には危険が及ぶわけではないですが、今までにもデモを目撃、または自分の目的地へ向かう為に、その人々をかき分けていかなければならなかったことを思うと、今回はそんな集団の中をかき分けていくなんぞトンデモナイことだったなぁと改めて反省です。

EUへの大きな一歩

2010年11月09日 | DITAR
EUに入ることがイイことか、悪いことかは別にして、とにもかくにも、20年前に共産党独裁政権に終止符を打ち、13年前のねずみ講の混乱を経ましたが、ついに、アルバニア人たちが願ってやまないにEU加入への道へ大きな一歩を昨日11月8日に進みました。


アルバニア人達は海を挟んだ向かい側のイタリアや、陸続きに隣接するギリシャ、その他諸々の多くの家族が移民しているEU加盟国にシェンゲン・ヴィザというヴィザを取らないと旅行にも行けませんでした。

昨年より、このヴィザが2010年には取り払われるのではないかとの期待が高まっていました。

しかし、今年に入ってもEU諸国からは憲法改正、全ての国民のICパスポート導入などを含め、高度な民主主義国家となるべく、“厄介な国家”でなくなるべく、すさまじい数の“無理難題”をつきつけられていました。

春には無理難題の多数を克服し、最初は観光シーズン前の7月には、EU諸国への移動に必要となるこのシェンゲン・ヴィザが引きはらわれ事が見込まれていましたが、気がつけば夏も始まっており…

そして次には10月には…と言われていましたが、こちらもまたいつの間にか過ぎ去っており…


国民の多くは来年1月かと思い始めていました。。。


しかし、昨日とうとう、本当にとうとう!!!!
2010年11月8日シェンゲン・ヴィザの引き下げを勝ち得たのです!!!!!


昨日は夜花火も打ち上げられ、国民が祝いました。


現職の首相サリ・ベリーシャ氏は2008年のNATOの加盟に引き続き2度目のミラクルだと言っていました。

詐欺師だとか、マフィアだとか言われている彼ではありますが、この度国民にもたらした喜びはかなり大きいものだと思います。


私も、アルバニア人同様今日は興奮で、テンション上がりっきりでした!!
本当に自分のことのように嬉しいです!!

マザーテレサ生誕100年 ③

2010年08月28日 | DITAR

アルバニア独裁政治が根底より揺らいでいた1989年8月、マザーテレサはティラナを訪れることを許された。
テレサはまず、ティラナの墓地に眠る母ドラネと妹アゲのお墓を訪れた。


1991年3月、2回目のアルバニア訪問を行い、宗教機関の再開に参加した。
(共産主義時代の1960年代後半よりアルバニアでは無神論政策がとられ、信仰が許されなかった。)
(右下端はイスラム教の一派、ベクタシー派の聖職者と。)
(左から3枚目は、ティラナ中心に位置するエッテムベウ・モスクで。)



1993年4月、聖ヨハネ・パウロ2世がアルバニアを訪れた際、出席したテレサに対し言葉を送った。
『私たちの間に存在し、謙遜で尊い人に、挨拶をしないでいることはできない。それはコルカタのマザーテレサです。全ての人が、どこから来て、どこが彼女の故国なのかを知っている。ほら、彼女の故国は今日私たちがいるここです。』


アルバニア訪問中、現地子どもたちを訪れるマザーテレサ。


4度目のアルバニア訪問にして、最後となる1996年7月、サリ・ベリーシャ当時大統領(現首相)はマザーテレサに、“国民名誉賞”を送る。
マザーテレサはまた、イブラヒム・ルゴヴァ当時コソヴォ大統領から名誉市民を宣言された。




1997年7月5日永眠。各国の大統領、首相、国連事務総長が言葉を残している。




2003年10月19日、列福され(聖人の前段階である)福人とされた。


そして最後にノーベル文学賞にノミネートされたこともあるイスマイル・カダレ氏の、マザーテレサのご遺体を故国におくことの自然性、願いを込められた言葉が、最後のパネルでした。


そして各地で式典やコンサートなどが行われました。
コソヴォでは記念切手とか売られていたみたいですが、アルバニアはどうだろう・・・郵便局で聞いてみます。

遺跡現場からお宝続出!?

2010年08月25日 | DITAR



8月13日(金)に紀元前588年創設と考えられているアポロニア遺跡の北西部(Gエリア)、3世紀のローマ時代の居住区から、アルバニア人ーフランス人合同考古学チームにより、ローマ時代の大理石像の頭から上半身からが発見されました!

競技選手をモデルにしているそうです。


前日、このアポロニア遺跡を訪れており、発掘調査団をも目の当たりにしていたので、めちゃめちゃ興奮です!!!


この像はほぼ損傷を受けておらず、まるで完成直後のようで、大理石自体の質も良いものだそうです。
ギリシャ様式ではありますが、ローマ時代(2世紀後半)の彫刻であることが顕著に表れているそうです。


発掘調査団のフランス人Lamboley考古学者は、
『芸術的観点からも大変素晴らしい保存状態の作品。15年間の同僚との調査の末に得た幸運であることを言い加えたい。あなたたたちは世界でも類稀なるものを持っていると言う事を理解しなかればならないし、またこのローマ時代の分野における専門家は発見されたばかりのこの像を近くから見る為にここを訪れるべきだ。』
と語っています!


現在ティラナの考古学博物館に展示されています。


その4日後、8月18日今度は青銅製の戦士の足首から甲にかけての部分が発掘されました。
美しいデザインのサンダルを履いています。



さらにさらに、8月23日、一体目の像のすぐ傍から今度は女性の胸像が発掘されました。




しかし、こちらは『状態がそれほど良くなく、清掃も必要。鼻と片耳が破損している。』とのことで、はっきりした作製年代を知ることが、現時点ではできていないそうです。

また大理石の質自体もそれほど良くなく、カラブルン半島からの石灰岩かもしれないそうです。

それでも、服装、髪型などはオシャレで独特だとのことです。


そこらじゅうに遺跡が眠っていると言われているアルバニア。掘れば掘るほどいろんなものが出てきそう!!
(残念ながら資金がありませんが・・・)

まじで!??!

2010年08月25日 | DITAR
ふと、めちゃくちゃ久しぶりに為替を見てみた。

私の頭の中ではどんぶり勘定で、まだ1ユーロ130円くらいかと思っていた。
(これもひどい話で、どんぶりにも程があるのだが・・・)


1ユーロ106円って今日なってますけど、ホント!?!?!?

私がこちらへ来た直後の2008年10月8日のブログによると、1ユーロ137円だったらしい。

まぁこの時が少々異常だったとしても1ユーロ130~120円の間にはオサマッテいて、私のどんぶり勘定でもそう悪くはなかったはず・・・
(大金を動かすと、10円/ユーロの差は十分に大きいけど、そんな大金は持っていないので・・・)


しかし、30円/ユーロは大きい!!!
100ユーロを両替したとして、13000円か~と思っていたら、10600円だったってことでしょ~!2400円の差!!


たしか、2007年の秋は1ユーロ167円とかだった気が…

あ~。賢くお金を動かせれば、十分に得もしただろうに・・・
まぁ動かせるお金もないんですが・・・


一方、2年前の10月8日で1ユーロ124レクと書いてあるが、まぁここ2年間の平均では1ユーロ130レクから135レクと言った感じ。


あまりの円高にびっくりして、意味不明なブログを書いてしまった・・・

帰ってきたスーパーガール!!続編

2010年08月18日 | DITAR
私が仕事でティラナを離れていた間に、昨年11月から突如無言で帰国していた中国人のフイヤがティラナに戻ってきた!!!


私がティラナに戻ってきた8月14日、私たちはチェルシーを含めアルバニア人の典型的な結婚式にお邪魔してきた。


この日は土曜日で、夜9時からの披露宴には花嫁の多数の親族と友人少々、合計150人程が集合。

新郎は来ていない。


9時に扉が開き新婦が入場するとき、彼女は弟と腕を組んでいた。



で、中央で待っていたお父さんと弟がバトンタッチ。


バトンタッチした瞬間からそれは始まった!!!!


1曲目お父さんと花嫁のダンスが終わるとそこから永遠にダンスが続く・・・



高砂にも弟と座る。



今回花嫁のお父さんが南の出身であることから、南の民族音楽を中心に、輪になってぐるぐる人々が回りながら踊る。

       
*右写真:チェルシーと、フイヤと、披露宴に呼んでくれた花嫁の叔母であるベルタの孫娘。息子とフィリピン人の嫁と孫はアメリカに住んでいてなかなかベルタは会えない。


時に休憩ミュージックが流れるものの、音楽そのものは鳴りやまない・・・

民族音楽だけではなく、ロックンロールやディスコみたいな曲も・・・


ベルタ(60歳+α)と姪っ子。
*ちなみにベルタは2年前の夏に旦那さんを亡くしている。


今回はDJだったけど、生バンドもよくあることらしい。
(去年行かせてもらった結婚式は生バンドだったね。)


花嫁はヒール&お手製の白いウェディングドレスで、踊り続けねばならない・・・


なんて過酷な・・・

汗だくです・・・



深夜11:30頃、なんだか人々がソワソワし始める・・・何が起こるのか!!


そう!新郎とその近親者たちが扉を開けてやってくる!新郎は後ろから2番目にいた!

花嫁の近親たちは扉の前から中央に向けて列をなしお出迎え。



新郎団30名程が席に座ると、再び南の伝統音楽とダンスで新郎側御一考をおもてなすかのように、音楽が始まる。


*ようやく新郎新婦が顔を合わせる。奥にズラリ見えるのが新郎側の御一行様。


その後、新郎側がそれに応えるかのように、アルバニア中部の曲でダンスを始める!!

で、その中央には疲れ始めた花嫁も半ば強制的に笑顔で、汗だくで踊る・・・


*花嫁の頭やらドレスやらにお札が挿される・・・


明朝3時半、また人々がソワソワし始める・・・今度は何が起こるのか!!

新郎一団が帰ると言う事で、席を立ち、明日再び会う事になる花嫁に挨拶をし置き去りにし、扉に向かっていく。


花嫁側は、彼らが入ってきた時同様に一列に並びお見送り。


これで宴はお開きかと思いきや、また音楽が始まる・・・


というわけで、結局4時半まで宴会は続いた。



お料理は昨年同様(昨年よりはましだったか・・・)ハム、ソーセージを含め肉類8種類・・・(昨年は10種類程だった・・・)


ことわざに“肉がなければ披露宴はできない”と、あるくらいだから・・・



しかし、もちろん私は食べれない・・・
朝5時に家に帰って早速、サラダとパンを食べた・・・



*翌日の日曜日、私たちは参列していないが、今度は新郎側の披露宴でさらにこれより“大きい”宴となるらしい・・・
田舎の方へ行けば数日続くこともあるとか・・・怖い・・・




そんなわけで、1年1カ月ぶりに再会を果たした私たち異色の3人組も“アルバニア文化”を満喫した。


そしてその2日後の一昨日、チェルシーは再びアルバニアを発ちました・・・



痩せた?うん、知っている、黒いのは…

20年前

2010年07月08日 | DITAR
20年前皆さんは何をしていましたか?

20年前の7月も4年に一度のワールドカップは行われていました。


この国の共産一党独裁政治はこの1990年の7月に大きな揺らぎを見せました。


1990年7月2日午前9時半ごろ、まずイタリア大使館の壁を乗り越えた亡命者が現れます。

これをきっかけに、この日いくつかの大使館の壁を越えていく人が現れました。

ドイツ大使館の壁にトラックで突っ込んで入っていった人もいます。

深夜11時過ぎ、ワールドカップの中継が終わったころにもまた亡命していった群れがあったようです。



翌日、大使館建物の前、壁の内側には亡命して行った人々が座っていますが、壁の外、つまり門の柵のところからは彼らの家族が呼びかけます。

『戻ってらっしゃい!!』
『どこへ行くって言うの?!?!』
『あっちにはお父さんも、お母さんもいないのよ!!』
『お兄さん!!!お願い帰ってきて!!』
『行かないでぇぇぇぇ!!』

と涙ながらに叫んでいる人たちがいます。


そして一旦、西側の国の壁を登り越えてしまったものの、家族の呼びかけに目を覚まし、やっぱり亡命をあきらめようとする人もいますが、門は再び開けられません。

小さな子どもたちも何もわからず、大使館の庭に座っています。

この年のワールドカップの決勝戦はドイツ対アルゼンチンだったようですが、みんながドイツ(ヨーロッパ)を応援したと言われています。



この1990年7月2日と3日だけで5000人近くの人が西側諸国の大使館の敷地に入りました。


およそ10日間、手続きなどに時間がかかりましたが、7月12日だったっけか13日、チェコ共和国大使館から第一号の亡命者を乗せたバスが出発します。

その後続々とドイツ、イタリア、ギリシャ等々からバスが出たようです。


港からはいくつかの大きなフェリーが亡命者たちを乗せて出航しました。

船の上でアルバニア人は歓喜の声を上げています。

どこで学んだのか、イタリアに降り立った人の中には簡単なイタリア語でその喜びと受け入れたイタリア政府への感謝をカメラに向かって伝えている人もいました。


この20年前の7月前半だけで4900人がアルバニアを離れました。


そして20年間の間に170万人が移り住み、60万人が海外でうまれたと言われています。(数字は定かではないです。すいません。)

最初のほんの数分だけですが、yourube 見てみてくださいな。