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Pamja nga Shqiperia me nje TIRONSE nga Japonia!! 

(旧:Jeta ne Shqiperi のはずだった・・・)
ぐるぐるぐるぅぅぅ 改め がつがつがつっっっ

草食男子 ”Barngrenesit”

2009年06月17日 | DITAR
"Barngrënësit", të rinjtë ndryshe të Japonisë
日本の変わった若者 ”草食男子”   が 昨日の大手新聞Shqipに出ていました。

Janë pasivë, apatikë, jetojnë me mamatë dhe blejnë xhel e parfume
彼らは受け身で、無関心(無感動)で、お母さんと住んでいて、ジェルとパヒュームを買います。    とな。


あ、これって勝手に使用して怒られる?!?

文章が長くて、ブログにはりきれなかった・・・

まぁちょっと前の日本人男性からの奇妙な存在で、どうして日本人男性がこんなふうになっちゃったのかみたいなテーマが数年前から論じられてきたが“草食男子”という形で落ち着いる。これは大都会の現実の伝説だ。みたいな。
発展している国家のうち貧しくなっていく可能性が第2番目に高い日本の経済も(第1位はアメリカ)大きく関与していて、たくさん働いて少ししか儲けられなかった親世代を見ていて、そんな社会にがっかりしている。それも彼らの無関心さを助長しているだろう。みたいな。
彼らはデートにおいても、セックスにおいても結婚においても受け身または無関心である。で、ある程度のお金を女の子のようにコスメや洋服に使ってもいる。

ただ私的に気になるのが、『35歳の日本人の80%が年収200万円で暮らしている。で、これは貧困層になんだけど。』って、35歳の80%ってことはないだろ~!?!?!?

まぁまぁ経済的なところから、結婚後の家庭内の男性の役割、明治に入って“サムライ魂”から、西洋社会文化の受け入れから男性も“優雅さ””おしゃれさ”を求め始めたこと、今や多くの男性が髭剃り後のローションを含め化粧品を使い、女性のように座って用をたす。等々。多岐に渡って書かれていました。

が、どこから持ってきた内容なのか書かれていないのが…まさか日本にアルバニア記者がいるわけないので、どこかからの引用ナンですが・・・

只今、アルバニアは暑いです・・・

2009年06月11日 | DITAR
近頃30℃越え、35℃の日々が続いております…

どうもアルバニアの日差しは本当に身を焦がすようだと、思っていたのですが、先々週来た日本人の人も日本よりキツイと言われていたので、私の気のせいではなかったようです。

ただ日蔭は涼しく、家の中も肌寒いです。。。



さて、暑いと言えばもう一つ。

今月28日の首相選に向けて選挙活動が暑いです。

連日各地で、演説が行われています。

おもな党はPDの民主党(現首相Sari Berisha氏が率いる)
PS社会党(元共産党からの流れで、現ティラナ市長Edi Rama率いる)
LSI “統一のための社会運動”とでも訳しましょうか?
ですかね。


さてさて、こちらでは日本の暴走族風に、バイクや、車の屋根から党の旗を掲げた若者が派手に通って行く光景をしばしば見かけます。

また、特にPS、PDの演説会ではいつも見られるんですが、演説者のうしろには大学生だか、若者が党の名前などが書かれた紙を持って、またはTシャツを着て立たされています。(いえ、きっとボランティア精神から立っているのでしょう!!?)

PSの応援にはビッグなヒップホップ歌手がついていて、PSのコマーシャルの音楽を作っているとともに、コマーシャルにも参加しています。
もちろん演説会にも何名かの若者に人気の歌手たちが何曲か歌ったりもしているようです。

そんなわけで日本よりも若者を巻き込もうとする傾向が強いように思います。
(現日本の首相も秋葉原作戦を取っておられましたっけ…)

日本が国民の平均年齢が43.8歳であるのに対し、アルバニアは29.9歳ですので、18歳以下に投票権がないとは言え、若者の票数もないがしろにできないと言うところでしょうか?!

また1991年に共産党独裁政権が倒れるときも学生運動が激しかったと言いますからね。(1960年代には日本の学生もアツかったみたいですが、今や…)


さてさてさて、昨日ちょっと面白い物を見ました。

バイクにのった青年。PD民主党の旗をバイクに突き刺し、自らの体にはアメリカの星条旗。
一見暴走族ですが、彼も自分たちの未来を担う政治への高い関心が伺えます。


ただいくつかの地方で社会党の選挙事務所が襲われたと言うニュースを聞きます。
アイツいのはいいことですが、白熱しすぎは要注意ですね。



PS社会党演説会、学生の街にて。
    


掌にバラの花は社会党のマークです。

アルバニアのスイス?!?

2009年06月10日 | DITAR
5月29日の卒業試験をもって、9ヶ月間のアルバニア語の学校を終えましたので、6月5日(金)から9日(火)まで北部の街にクラスメートたちと卒業旅行として出かけてきました。

とはいえ、当日ヨニーダは体調がすぐれず、フイヤとチェルシーの3人でした。

旅の途中、何度もどこから来たのかと人々に聞かれましたが、中・米・日だと言うと、しばしば『世界の三大強力国だなぁ~』と言われたものです。

チェルシーとは幾度となく旅してきましたが、フイヤと初めてで、17歳の都会っ子+スポーツもほぼしたことのないフイヤには、田舎者!?でジムにも通う私とチェルシーの旅行方法は結構ハードだったようです…
(ごめんね、フイヤ…)



どこへ行ったかと言うと北部の首都シュコドラに一泊。翌日アルバニア北東部の山間部の村Thethに2泊、シュコドラに再び戻り、北西部のビーチのヴェリポーヤに一泊してきました。

特にThethはだいぶお勧めです!特に写真好きの方には!!まさにスイスです!?!?!(スイスに行ったことはないですが・・・汗)

ただ、とんでもない道を3時間ほど行くので、酔い止めは必須です。
また高所恐怖症の人にも厳しいかもね。


写真は後日アップします。

”Shqiperia po ndryshon!” (アルバニアは変化の途中です!)

2009年06月01日 | DITAR
私がブログの更新をさぼっている間に、アルバニア国民にとって喜ばしきニュースが2つほどありました。

2つ目は、昨日大々的なセレモニーの中、日の目を浴びた一つの高速道路の完成です。

山がちなアルバニアは、山々を迂回するように、またはノロリクラリと山を越えるように道路が引かれているところがたくさんあります。

この度、アドリア海の玄関口のドゥラスという街(西)から、コソボとの国境近くの山間部の町、クカス(東)まで高速道路が引かれることなったのですが、その東側半分が完成したのです。

これにより、コソボとアルバニアの距離がグーンと縮まり、今までティラナからクカスまで6時間から7時間またはそれ以上!?かかっていたのが、わずか2時間ほどで行けることになると言うではありませんか!!!

トンネルの開通の様子、コソボの首相Thaci氏とアルバニアの首相Berisha氏そのトンネルの前で式典の様子が各チャンネルから中継されていました。

でももちろん本日の新聞もそれらが一面です。

   

Berisha dhe Thaçi: U bashkua një komb. 
(BerishaとThaci:一つの民族が一つになった)

Bie “muri” që ndante shqiptarët
(アルバニア人を分けていた“壁”が崩れた)


と言う風な具合で盛り上がっていました。
わが社もコソボ向けのツアーなどを企画中でございます。

一方、6月28日の首相選挙を前に(Berisha氏は民主党ですが)、対抗する社会党の反応として・・・

Reagon PS: Shpenzimi ekstra për Durrës-Kukës, 600 milionë euro
ドゥラスとクカスの間のエキストラな消費は6億ユーロだ。と。



とにかく、選挙を前にして現政権のBerisha率いる民主党は道造りに必至です。
まったくもって、民主党のスローガン“アルバニアは変化の途中です。/変わり続けています。”

無理、それはちょっと許せない…

2009年05月14日 | DITAR
先日、“春の日長”を楽しむため仕事帰りに、家の近くの公園カフェに行きました。


孫を連れたおじさんおばさんもいましたが、大半が子どもを抱えた女性たちでした。

昼間の公園によくある風景です。

あ、公園カフェと勝手に名付けましたが、芝生や大きな木に囲まれたところにテーブルが設けられ、座ると、どこからともなくウェイターが注文を取りに来ると言うカフェです。


ただ私的に珍しく?または奇妙に?思えたのは6時過ぎと言う、日本では一般的に主婦たちは夕食を作る時間であったこと。

そしてママたちもビールを飲んでいたこと。

そして幼い子の真横で、ヘビーなタバコを吸っていたこと…


この私も体調が悪く、煙草の匂いが、頭を痛めたので、かなり耐え難かったです…


確かにママたちもストレス発散させなきゃですが…どうでしょう…

若いママが家に閉じこもって独身の友達から距離を置かれてしまうのも、かわいそうですが、哺乳瓶くわえた子どもの横で、ママの友達(4人中2人)がタバコふかすのもいかがなものでしょう…



まぁね~、誰もがこの“春の日長”を楽しみたいよね~…

コソボ旅行

2009年04月21日 | DITAR
今朝3日間のコソボ旅行を終えて今朝4時に帰って来ました。

首都プリシュティナにはおいしいお店がいっぱいありました。

山がちなアルバニアとは異なり、道路も快適進めるところが多いのではないかと思います。

道路も恐らく外国からの支援できれいに舗装されています。

牧草の緑と黄色い花がきれいでした。

遠くの高い山の頂には雪が残っていました。
まさに頭を雲の上に出していました。

コソボの人は優しかったです。
やはり外国人慣れしているのでしょうか。


5年ぶりに足を踏み入れだいぶ感激していました。

まさかまさか、セルビア語(またはボスニア語)を話す機会が何度かあり、すぐに語学の引き出しが開かず、随分後悔しました。

今やコソボではセルビア語は禁句用語なのかと思っていたので、全く予習せずに出かけてしまいました。

今だからこそ(独立後だからこそ)、“少数民族の言葉”として認められているのかも知れませんが。


*ただやはりこの国の言葉は完全にアルバニア語です。道路標識にはアルバニア語&セルビア語(&英語または地域によってはトルコ語)の3種同時表記されていることもありますが、セルビア語表記のみを見かけることは限られた地域のみでした。

*特にセルビア人の中心居住区であるミトロビッツァというセルビア共和国に隣接した地域にはもちろん行ってないので、また状況が違うと思いますが、私たちが行った地区ではアルバニア人も普通に(?)車でつっきているようでした。
(地区の奥まで、車で入っていくかはわかりませんが)

*しかし、世界遺産(&危機遺産)に登録されているセルビア正教の修道院の外壁も有刺鉄線で覆われていたり、入口にはKFORの軍人さんが監視していたり、教会の敷地内に入るの前にパスポートを預けなければならなかったり…緊張感がありました。


写真等々はおいおい。

コソボ旅行5

2009年04月21日 | DITAR
最終日の4月21日、朝から残念ながら雨…

朝からゲストハウスの近くのイブラヒム・ルゴバ氏のお墓をちらっと訪問。



ヨニーダの希望で、再びNEW BORNのモニュメントへ。

チェルシーの希望で、ビル・クリントン通りへ。

     



その後バスでコソヴォの古都プリズレンへ出発。

道路は(ペ-ヤまでの道もそうでしたが)こちらもまた快適です。

2時間ほどで到着。



1時半ごろ到着し、6時半にはティラナに向けて出発なので、荷物だけを半日預けられるホテルを探す。

ホテルは見つかったし、受付のお兄さんもOKを出してくれたが、他にもチェックイン前だかチェックアウト後に荷物を預けていた人がいたらしくスペースがなく、不可能・・・

というわけで、再びホテル探し・・・

が、なかなかない・・・


巨大な荷物を抱えた3人の外国人のお嬢ちゃんを見かねて、ひとりの女性が声をかけてくれ、お家に荷物を置かせてくれると!!


さぁここで性格が左右する。

『この見知らぬ女性を信用していいのか!?!』


あっさり受け入れるチェルシー。
ここはバルカンだから、と受け入れられる私。
イマイチ心を開けないヨニーダ。


ともあれ、少しセンターから遠い、逆に私たちが降り立ち、そしてティラナ行きのバスが通るバスターミナルに近い、彼女のお宅で荷物を預かってもらう。

彼女は20歳くらいの息子とアパートで二人暮らし。
忘れちゃったけど、国際NGOだかで働いているようだった。



なにげに時間がないので、早速市内観光。

    

右:何気に好きな写真の一枚。

    

世界危機遺産に登録されているリェヴィシャ生神女教会
有刺鉄線が張り巡らされている。2004年にもアルバニア系住民によって襲撃されているらしい。

     

左;ハマムとモスク。 右:トルコ風の独特の出窓がきれいに装飾されている。


     

左:トルコ風のお茶を宅配する。 右:この子どもたちはトルコ語を話し、角を曲がったところにいたおっちゃんたちはボスニア語を話していた。



でもでもやはり時間が全く足りなかった…

おいしい旧ユーゴ料理は食べたけどね!!(←これ私とチェルシーの旅の醍醐味!!)
私はセルビアやボスニアにも行ったことがあったから、初めてではなかったけ、チェルシーやヨニーダにとっては初めての料理だったらしい。

で、アルバニアに住むアルバニア人からしてみれば、同じ民族とは言え、コソボ地域の料理と言えば、少し旧ユーゴ・テイストの物を指すらしい。


プリズレンではトルコ系の人も多く、商店の表記や、町の人々もしばしばトルコ語を話していた。
(のちのちわかったのだが、私とたちの荷物を預かってくれた親子もトルコ系だった)

また祖先をボスニアに持つと言う人も多く、幾つかのレストランが『サラエボ料理』をうたっていた。
ウェイターの中には英語かボスニア語でしか私たちに話しかけない人もいた。


アルバニ語、セルビア語、トルコ語で“通り”と書かれていて、通りの名前である“メフメッド・パシャ”はトルコ語で表記されていた。


   

オスマン帝国時代の1876年に設立された、アルバニア民族解放運動である、プリズレン同盟の建物は現在民族博物館になっていて是非とも訪れたい場所であったが、残念ながら(予想通り休館日だった・・・)

丘の上にある城壁にも行きたかった。

その丘の斜面にある教会にもちらっと寄ってみたかった。


ともあれともあれ、再び訪れることを心に決め、プリズレンを、コソヴォを離れたのであります。


おまけ: 
購入して2週間ほどの新品の一眼レフでウキウキのヨニーダ。
恐ろしい枚数を撮っていた。。。(私が言うのですから相当です!)

コソボ旅行4

2009年04月20日 | DITAR
ペーヤとデチャニ修道院への旅




ペーヤは首都プリシュティナから1時間半ほどの町。(セルビア語読みはペーチ)
道はきれいに舗装されているので、車もバスも快適にびゅんびゅん飛ばせます。
その点では山がちで山を越えずして別の町に行けないようなアルバニアよりはコソボの方が旅行が楽。
まぁ逆に言えば絶景が望めない!?!


       


デチャニ修道院は本当に訪れるのが夢でした。まさか本当に訪れることができるとは!!!かなり緊張していました。

    
周囲を囲む壁にはやはり有刺鉄線。もしも入れなかった時のためにと、車の中から隠し撮りのような格好で撮った写真…緊張感たっぴりです。
入口の前にはKFORの兵士が門番。
彼らにパスポートを預けます。


しかし門のなかは・・・
    

緑が輝いていて、美しく外国人観光客も何人かいて、とても穏やかでした。
キリストの復活祭の日と言うことでセルビア人の人もいました。
KFORの兵士も庭で写真撮影していました…

その場にいたとき、あまりにも興奮していてワケがわからなくなりつつありましたが、後々この後ろ姿の神父さん、ズラトコさんだったりして!?!?!?!?と妄想すると、さらに目眩がしそうです。

ズラトコさんはペーヤの近くの町で生まれ育ち、神父になるために当時、神学校を終えベオグラード大学の神学部に通っていましたので。



       


700年ほど前の建物ですが、フレスコ画は大変美しかったです。
ズラトコさんを含めセルビアの難民キャンプで出会った何人かの人がこの教会の美しさを語り、自分たちは恐らく2度と訪れられないだろうけれども、と私たちに訪問を勧めてくれたのを思い出しました。
心臓がバクバクして感涙でした…


一方でこの日私たちをここまで連れて来てくれた、ヨニーダのお父さんの友達の経営するタクシー会社のアルバニア人運転手さん、アフリムさんは入れないので、待ってくれているので、丸一日ぼーっとこの中で過ごしたいと言う思いを振り切り(当然無理ですが…)修道院を後にしたのであります。

車で30分のペーヤの町に戻ってからも興奮は冷めず、しばらくは心臓が痛いままでした…



アフリムさんと。笑顔の素敵なめちゃめちゃ人のいい43歳でした。
若くして結婚したらしく、すでに子どもは20歳を超えていた。
ジャコバ出身で当然戦争当時(10年ほど前)は兵士として闘っていたと。
こんな穏やかな人が戦えるのかと疑えるほどの人でした。
ちなみに私たちは車で約2時間の距離をタクシータダ乗りです。
オーストリアにいるヨニーダのお父さんと、その友人と、アフリミさんに感謝感謝です。


  
ペーヤで。

コソボ3

2009年04月19日 | DITAR
首都プリシュティナのグルミア公園にて(+α:街の春)。


   

   

   
公園散策の結果、ヨニーダと私の右足は揃ってこんなことになりました…
(もちろんジーパンと腰に巻いていたジャケットも…)
自分の歳を疑いました… 


街で。
    


とヤンチャした後のビール。
コソボの名産ペーヤ・ビール。おいしいです。




コソボ旅行2

2009年04月18日 | DITAR
ちょっと宗教関連。


グラチャニッツァ修道院。セルビア正教の教会。コソボの世界遺産に登録された4つの教会のうちのひとつ
長年の夢だった!でもちょっと緊張。

なぜなら、ここコソボ人口の93%を占ると言われているアルバニア人はイスラム教徒で、セルビア正教会はしばしば攻撃の対象となってきたらしいので。

タクシーでセンターから10分くらい。5ユーロ。650円ほど。

14世紀に建られています。中のフレスコ画がキレイでした。
当然ながら、ほとんど全ての聖人の目は削られていましたが。
   

塀の中はとても静かだったけど、塀には有刺鉄線が張られていたり、門のところにはKFORの兵士が見はってました。
修道女のおばあさんも、”アルバニア人は教会をこわした!”と怒っていました。
    
1539年に修道院内に誰かさんと誰かさんによって、印刷屋さんと図書館がつくられたとセルビア語で書かれています。


もちろん、この周囲には今もセルビア人がガンバッテ暮らしているようで、周囲のお店の看板や道路標識はセルビア語で書かれていました。



一方、街に戻ると、ちらほら(大きいものでは)ないですが、イスラム教のモスクが見られます。

お祈り時間の少し前に来ていたお兄ちゃんたちが、”君はイスラム教徒かい?いや、君もイスラム教徒だ。なぜなら神は一人で、そうじゃないと世界がややこしいことになるし・・・で、ここは全ての人に開かれている場所だから、入っていいよ”と、言われたので遠慮なく入らせてもらいました。

小さなモスクだったけれど、中はやっぱり美しかった

    

外へ出てみると、さっきのお兄ちゃんたちがお祈りのために手足を洗って、香水をふりかけていた。
そして私たちにも塗ってくださった。



でもこの旅の中で何度か”コソボのアルバニア人は信仰熱心だなぁ”と感じた。
例ば、豚肉が手にはいらないとか。
(北部のセルビア人がたくさん住んでいる地域に行かないとダメらしい。)

確に5年前に来たときも牛肉と鶏肉しか食べなかったけど、小さい村だからかと思っていたが、首都にもなかった!!

(当時はアジアは鶏インフルエンザがはやっていて、おいしい鶏肉に感動したものです)