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Pamja nga Shqiperia me nje TIRONSE nga Japonia!! 

(旧:Jeta ne Shqiperi のはずだった・・・)
ぐるぐるぐるぅぅぅ 改め がつがつがつっっっ

経済に疎い私がアルバニアよりご報告

2009年07月14日 | DITAR
http://www.top-channel.tv/artikull.php?id=156870

INSTATとかいう機関よりますと、
『第二次世界大戦以降で最も厳しい経済危機にあるなか、2009年のこの3か月におけるアルバニアの経済成長率は2008年度より6%上昇で、驚いている。』とな。

『高い成長率を保ち続けているを建設部門を含む、いくつかの経済部門が上昇している。一方唯一低下した部門は産業で、2.3%減』だと。
(部門の分け方がさっぱりわからない私・・・)

『これは年間のデータをもとにした数字で、この機関は一番“経済危機”の影響が大きいと考えられ、、国際通貨基金の予想によると2009年度には6%の上昇率よりも、15倍小さい上昇2009年の最初の3か月と、2008年の最後の3か月の比較をまだ発表していない。』


日本語で読んでも理解できなさそうなネタをどうやってアルバニア語で理解するのか・・・

自分の知識の乏しさを呪うワタクシでありました・・・


Ne kulmin e krizes ekonomike me te ashper qe bota ka provuar pas Luftes se Dyte Boterore, Instituti i Statistikave ka surprizuar serish publikun me shifrat per rritjen ekonomike te tremujorit te pare te ketij viti.
“Ekonomia shqiptare gjate ketij 3 mujori ka pasur nje rritje prej 6% me shume se ne tremujorin e vitit 2008”, ka deklaruar Ledion Shahini, pergjegjes i llogarive kombetare tremujore ne INSTAT.

Ky institucion thote se pavaresisht krizes, disa sektore te ekonomise, duke perfshire dhe ndertimin kane vijuar te mbajne ritme te larta rritjeje, ne disa raste edhe dyshifrore, ndersa i vetemi sektor me renie eshte industria.

“Sektori qe ka pasur me shume renie ka qene ai i industrise me 2.3 per qind”, ka saktesuar Shahini.

Por keto shifra jane me baze vjetore. INSTAT ende nuk ka publikuar se sa eshte rritur ekonomia ne tremujorin e pare te 2009, krahasuar me tremujorin e fundit te vitit 2008, ku mendohet se kriza ka dhene edhe efektin me te rende ne ekonomine shqiptare, e cila sipas parashikimeve te Fondit Monetar Nderkombetar do te rritet ne vitin 2009, rreth 15 here me pak se sa rritja 6 per qind qe thote Instituti i Statistikave.


政治に疎い私がアルバニアよりご報告

2009年07月08日 | DITAR
6月28日に国会選挙が行われ、6日後の7月4日にようやく、首相と議員の数が決定しました・・・

長っ・・・


でも結構おもしろかったです。




もしかして初登場!?大家であるジーナおばあちゃん。
爪に黒いマークが施されているのは、投票後に付けられる“投票済み”の印。
しばらく消えないそうです。


出口調査で現首相のサリ氏率いる民主党が圧勝と報告されていて、その日の晩12時ごろには民主党の旗を掲げた暴走族みたいな人たちが、旗を掲げて、センターでクラクションらしまくり、(一応警察も待機はしていましたが、それをとがめているワケではなく、そのお祭り騒ぎが円滑に行われるように見守っているだけ!?!?の感じでした。まぁ喧嘩騒ぎになれば威力を発揮したのでしょうが。*注)



*民主主義の“代表”駐アルバニア・アメリカ大使も嘆くかな、白熱した民主党のサポーターが、選挙活動期にいくつかの社会党の選挙事務所を襲撃していたのであります。


    




しかし民主党のサポーター!?が騒ぐのは一足早かったようで、翌日も、その翌日も勝利が確定せず、日に日にお祭り騒ぎはおとなしくなり、確定した投票日より6日後には、“暴走族”たちの騒ぎは沈静してしまった・・・

党の事務所前のみ人々が集まって妥当な祝賀が行われているように見えました。



ところで、確定までの6日間、永遠にニュースで開票状況が報告されているのですが、これが面白い結果で、ティラナ以北では完全に民主党、以南では接戦であることも結構ありましたが社会党が勝っているのです。

北部の2つほどの投票所では社会党への票が一票もなかったところもあるとかで、かなり疑われていました。


一方南部の幾つかの町でなんでだか開票されず(5日間ほど住民たちが怒ってました。当然です。)で、その箱をティラナに持って来て開票され、最終的に民主党の勝利が確定したと言う形でした。


若者たちもカフェで集えば、選挙や党の話をし、私にまで何に投票するかと、聞き・・・と、かなりホットでした。


それでも今思えば、友人・知人も北部出身者は民主党、南部の人は社会党という人が多かった気がします。
また職場の女の子たちはマイナー党に入れている子が何人かいました。


梅雨!?!?

2009年07月01日 | DITAR
先々週の週末から雨続きで、気温が下がっています。

かれこれ10日ほどドンヨリしたお天気で、しばしば人々に日本の気候を聞かれるのですが、今まさに日本の6月のようで説明しやすいです。

先々週の週中が35℃から40℃近くあったのに比べ、先週などは25℃を切ったりもしていました。

みんなには気違いだといわれますが、私は夜中寒くて再びヒーターをつけました…

確かに降ったり止んだりなので、晴れ間が見える時もあり、その時は例のキツイ日差しがさすこともありましたが…

いきなり黒い雲に覆われ、雷がドンドンバリバリ。


今日もさっきお昼ご飯を食べに出ている間に夕立が降りました。
20分ほどだったと思います。

お昼ご飯を終えて職場に戻ろうと歩いていると…

歩道に波が…

車道と歩道の15センチほどの落差が浸水により完全になくなり、車がゆく度に歩道に波が押し寄せている…

確かに激しい雨だったけれど、たった20分でこんな事になると、1時間も降ったらどうなってしまうんでしょう、この町…

    




と、昨日6月30日書いてブログにアップするのを待っていたのですが、ついに今日1時間近く激しく降りました…

昨日の写真を撮った家と職場の間で、とんでもないことになっていました…


ここはラナ川のすぐそばにある駐車場兼洗車場なのですが、なぜかここだけ掘り下げてあって、地下のようになっています。

今日の雨で掃除されていなかった排水溝が、雨水を川へ押し流せず、さらには激しい雨、さらにニュースによると川からもあふれ出ていたとか!?

で、こんなことに。。。


    


さらに…また私の部屋に雨漏りが…

そして現在4つのタライが置かれています…

ベッドが濡れていないのが不幸中の幸いです…

Shqiperia po ndryshon! / Albania is changening!

2009年06月28日 | DITAR
Shqiperia po ndryshon!は民主党のテーマで、ロック風の歌までつくられていますので、町のあちこちで、選挙カーが歌い、子どもまで歌い、寝ても覚めても頭から離れなくなってきました・・・



さて先日偶然に社会党の党会が『学生の町』で行われているのに遭遇し、写真をアップさせていただきましたが、今回は民主党です。

選挙をまじかに控えた今、連日各党が各地で党会を行っており、街のセンターでも26日最終の集会が行われていました。
(投票日前日は選挙活動が禁止されているらしく、無言で党をアピールするステッカーを付けた車のみが走りまわっていました。)




 




党首のサリ氏はもちろん、有名歌手たちによるコンサートも行われ、ホットでした。
日本にはない選挙前の盛り上がりを体験できよかったです。

おかげさまで卒業です。

2009年06月26日 | DITAR
ようやく卒業証書と語学認定書(?)を受け取ることができました。

5月29日に卒業試験があり、採点後すぐに成績を教えてもらえたので、試験の結果を約一か月もおあずけにされていたわけではないのですが・・・

この2つの証書をもらう過程にも、ここがアルバニアであることを再認識させられました・・・




まず試験の翌週に担任の先生から「証書の準備ができたらしいから、言語学部の秘書のところにいつでも時間があるときに取りに行ってね!」と携帯にメッセージが届きました。


いつでもよいと言うことだったので、さらに約1週間後に取りに行こうと思ってい
ました。


私が行こうと思っていた日の前日にヨニーダとフイヤが取りに行ったと聞いたのですが、ヨニーダによると、『銀行への支払い証明が必要だったがフイヤは持っていなかったので、明日もう一度行かなければならない。』と言うことだったので、私は支払い証明と一応パスポートを持っていくことにしました。

*卒業証書は無料でもらえるのですが、語学認定書(?)みたいなものは試験を受けるのに40ドル必要で、それを銀行に支払に行くかなければならなかったのです。



2人が証書を受け取りに行ったと知り、私も1日前倒ししてその日の午後、秘書のところを伺いました。秘書室に行くのはなかなか久々で、入学当初の事を思い出していました。

『入学手続きするのに何回無駄に足を運んだことか・・・』

が、その思い出は再び現実のものとなり、30分ほど部屋の前で待ちましたが、生徒は私のように何人かが待っていましたが、職員は誰も来ず、35℃を超える炎天下の中、ここの秘書を甘く見ていた(すんなりもらえるだろうと思っていた。。。)自分を呪いながら、学校を後にしました。

翌日フイヤが10時に秘書室を訪れなければならにと言っていたので、その時なら私も秘書に会えるだろうと思って行ったら、また閉まっていて、さらにはフイヤに電話すると9時45分に行って、すでに受け取ったというではないか…
(あんた、毎日授業には30分近く遅刻していたじゃないか!!!)

とはいえ、ホント焦げそうなほど強い日差しの中を歩く気にもならず(この日町中の電光掲示板は42℃を示していた!!!)、また30分ほど待つことにしました。



約30分後ついに秘書を捕まえた!!!!

が、やっぱりアルバニアは甘くなかった・・・



秘書曰く「入学当時に払った入学費用の支払い証明がないから渡すことができない。」
私「は!?!?!?!?それは9月に渡しましたが・・・」
秘書「前任の秘書が書類を失くしたと言っていた。でもあなたも控えをもらっているでしょ?それを持ってきてもらえないと証書は渡せないわ。ほら、ちゃんとあなたの証書も用意されているのよ。」

て、自分の証書を目の前にしながらも、受け取れないこのモドカしさ・・・

私「え~!!?!?なんで!??!!ほら、この警察からの滞在証明書をもらうためには、学生証明が必要で、学生証明をもらうためには銀行への入学金の支払い証明が必要だったのだから、確実に支払いしたし、確実に支払い証明も渡したよ!!!」

と、この現秘書に罪はないのであまりきつくは言えなかったけど、イラっとすながら話す。

彼女曰く、フイヤもこの入学金支払証明がないがために昨日受け取れず、探して今日彼女は持って来たと…

ていうか、フイヤも昨日会った時なんでそれを言ってくれないのか…
支払い証明ってこの時期いわれりゃ、試験費用の支払い証明だとだれもが思うでしょ…


一応現秘書は、私の意見に納得してくれて、『そうね、滞在証明のコピーを貰ったから、一度、上のモノに聞いてみるわ。来週初めにでももう一度来て。でも家に支払い証明ないか探して!』と。

私は、保存している自信がないと念を押し、立ち去った。


で、『来週』にはどうも足を運ぶ気にはならず、ようやく『再来週』に当たった今日ついに足を運んだのだ。

足を運ぶ気になったのは、前日の『謝恩パーティ in 中国レストラン』の際に、担任の先生たちに愚痴を言い、彼女たちが味方になってくれそうだと睨んだから。

何人かの人に相談してあったのだけど、『銀行に行けば証明のコピーをもらえるんじゃない?』という返事をもらったが、『それをするのは私たち生徒の仕事ではないだろっ!!失くした側が責任もって対処すべきことであって!!!』と言うのが私の意見で、担任先生ももちろんそれに賛同してくれたのだ。


今日も30分秘書室の前で待ち、ようやく秘書が現れたのだが、またもや『控えはあった??』と聞くではないか。。。

しかし秘書は『一つのファイルを前秘書から受け取っていて…この中にあるといいんだけど…』と探し始めた…
私に控えを持ってきたか聞く前にファイルの中を探してよね!!!!!


で、あっさり見つけました・・・

で、あっさり証書2枚をいただきました・・・


     

北部山間部 “トロポーヤ”へ ④

2009年06月23日 | DITAR
後半2日間雨がしばしば激しく降り、気温も少し下がり準備していた厚手の装いでも事足りませんでした…

帰りも早朝5時にバイラム・ツーリーを出て、フェリーで湖を渡りましたが、数日続いた雨により水はエメラルドグリーが少々茶味がかっていました。

しかししかし、霧と言うか雲と言うか!?に包まれた湖の両サイドの険しい山々もこれまた荘厳でした。

    



帰路のフェリーで、興味深い事に遭遇しました。
確かに当然と言えば当然なんですが・・・


この湖の両サイドの山の斜面にはポツポツと家が点在しています。
本当にポツポツです。
集落をなしているわけではありません。

そこの住民がティラナやシュコドラ(北部の中心都市)に出る際、当然この湖を渡らなければなりません。

というわけで、このフェリーはタクシーのように、住民が待っているのを見つけては岸に寄せ、彼らを乗せるのであります。

しかし彼らが乗船するところは、港のようになっているわけではなく、まさに山の斜面にフェリーを寄せるだけであります。

フェリーには観光客もいましたが、多くは移動する住民たちの“足”ですので、みんながみんな写真撮影をするわけでもなく、みんながみんなミニバスから出てフェリー内のカフェやデッキにでるわけではありません。
ミニバスや自家用車の中にこもったまた、2時間眠っている人もいます。

   



海を持たないコソヴォ人の人たちが1ヶ月とか長期でアルバニアのアドリア海で夏季休暇を過ごすために、このコマン湖をわたっている場合もあるようでした。


午後1時半。再びティラナの喧噪のなかへ帰ってきてしまい、職場に向かいました…




おまけ:友人の家のそばで
山のあっち側はコソヴォ。

北部山間部 “トロポーヤ”へ ③

2009年06月22日 | DITAR
トロポーヤとコソヴォのジャコヴァという町は車で45分くらいしか離れていません。

しかもビックリするくらいに道が良い!!

というわけでミニバスの運転手も恐ろしい程にスピードを出す…



コソヴォ⇔アルバニアの他の国境ポイントがどうかしりませんが、ここのポイントは出入国がかなり簡単で、アルバニア人たちは今のところパスポートなしにIDカードみたいなものだけで通行できていました。

というわけでパスポートを持っていないティラナ出身のアルバニア人の友人は、是非とも行ってみたくなったわけです。


そんなわけでコソヴォ入りをする時、私のパスポートまで出番がなく…

お蔭で、出国するときに『いつ、どうやってコソヴォに入国したんだ!』と問われる羽目になりました。

ミニバスの運転手ともども『今日の朝9時頃ですけど…』と言うと、『おかしいなぁ。そんなこと(チェックされていないなんて)はありえない』と言っていたので、本来私たち外国人は必要なようです…
(当然ですが…私は往路の時から不安だったので友人や運転手に、なんでパスポートコントロールがなかったのかと聞いていたのですが、彼らは『敬意だ!』なんて意味不明のことを言っていた。)



ジャコヴァは想像以上に都会でした。

また戦争中に破壊された建物が新しくなっているせいもあるでしょう。

下町のほうは戦争中には石造りの丈夫な建物だったそうですが、今は日本家屋を思い起こさせるような、木造りに建物が並んでいました。

   

   
左:今年2009年6月17日は、コソヴォ紛争が停戦?!終結!?した1999年からちょうど10年で、そのメモリアルのポスターです。


アルバニア人もビックリのコソヴォ料理を食べました。
肉団子がアイクと言う生クリームのようなものに浸ったアツアツのお料理。
めちゃくちゃおいしかったです!!!



北部山間部 “トロポーヤ”へ ②

2009年06月20日 | DITAR
天気予報によるとこの週末アルバニア全土、さらにコソボやマケドニアの方まで激しい雨と気温の低下と言われていた。

なのでTシャツは1枚しか持たず、他は温かい装いを準備していたのだが、最初の2日間はガンガンの日差しで、高原に位置するとは思えないほどに暑く、向こうでTシャツ、ハーフパンツを買った。



さらに山奥へ進んだヴァルボナという『南アルプス天然水』ではないが飲料水にもなっている村へ出かけた。

ここは地図で見ると先々週旅行した、セシ(thethi)と本当に近いのだが、山が険しすぎてセシ⇔ヴァルボナ間は車では通行できない。

とは言えバイラム・ツーリーからもなかなかのでこぼこ道で、まさに4WDでないと行けないでしょう…、タイヤすり減るでしょう…、跳ね上がった石が車体を傷つけるでしょう…、舞い上がった砂埃が車体を覆い尽くすでしょう…という感じでした。

時速30キロ弱で進んでいく、ドラゴビアなどで休憩しながら。


道路わきを流れる川は時にエメラルドグリーンで、時に無色で透き通っていて、大変美しい。

   



浅瀬ではその水の美しさについ惹かれて、足を突っ込んでみたくなる。

が、突っ込むと3秒と足を浸していることができない。

日差しがきつく、ノースリーブで過ごせる暑さにも関わらず、雪解け水はめちゃくちゃ冷たいからだ。

また、ここもセシに負けず劣らず、山並みが美しい。

   


おいしい空気と水を飲んで、美しい景色を堪能し、現地の民謡!?みたいな音楽をガンガンかけながら帰ってきました。



北部山間部 “トロポーヤ”へ ①

2009年06月19日 | DITAR
19日(金)朝5時センターにあるミニバス乗り場へ。
幸運にもこのバイラム・ツーリー行きのミニバスは家から徒歩3分ほどのところから出発です。
*トロポーヤ地域の中心の町がバイラム・ツーリー

9時頃コマンに着く。
ここには長い湖(コマン湖)が横たわり、ミニバスともどもフェリーに乗り込み、山に隔たれた、あっち側(北東部)へ移動。
コマン湖を2時間かけてわたる。
が、この2時間は全く飽きることのない絶景が待っているのです!!!!!!
(どちらかと言うと、このフェリーの旅がしたくてバイラム・ツーリーへの旅行を決めたと言っても過言ではない。)
この湖は細長く捻じれながら延びています。
湖は険しい岩山の隙間に位置しているので、通行が大変困難で、オスマントルコ時代もここまではオスマン軍の力が及ばず(険しい山から地元民が、湖をゆくオスマン軍を攻撃したりもしていたので)先々週のセシ(thethi)と言う村もですが、この地域でもイスラム教徒ではなく、カトリック教徒が住民です。


    



首都から田舎へ向かうミニバスには首都で購入した、モダンなソファーなどなどが積まれていました。



12時すぎに湖のあっち側(フィエルザ)にたどり着き、さらにミニバスでの旅を1時間ほど続ける、バイラム・ツーリーへたどりつく。
トータルで8時間(休憩込)。

    
左:この街の名前の由来となったバイラム・ツーリーさん。アルバニア民族解放のために、反セルビア、反ギリシャ、さらにアルバニア人で後に国王になるゾグ氏に対し、とにかく闘いつづけた人。
右:バイラム・ツーリーのミニバスターミナル。車だけでなく、牛も行き交います。



友達の友達がバイラム・ツーリーに住んでいて(トロポーヤに住んでいるのでトロポヤン)、彼と彼のお母さんが、『うちに泊まれ。そんなホテルになんかお金をかけるなんて馬鹿げている』と激しく誘ってくれたので、4日間トロポヤン宅にお世話になる。

    

左:友人のお母さんと、姪っ子たち。手前にあるのはこの地域の独自の料理“フリ”。お母さんはたいてい外で、薪で料理をしている。
右:友人家族が経営するカフェ。石を重ねた壁と柳がいい雰囲気を出していました。


この地域は10年~数年前まで、結構危険な地域と言われていて、ここからコソボへは車で45分ほどですが、ガイドブックなどにも『襲われる危険があるから、ここからの国境越えはお勧めしません』みたいに書かれていました。

町は思ったより大きく、いや、バイラム・ツーリー自体の地域面積は山間部にあるためそんなに大きくないのだけど、5階建ほどの古~いアパートがいくつか立ち並んでいたりしたし、カフェも結構!?あり(田舎育ちの私の尺度です…)、さびれた!?バザールみたいなところもあり、うちの田舎の市駅周辺的なイメージ!?です。




ちなみに現首相のベリーシャ氏もトロポヤンですので、何年も地元に戻っていなかったとはいえ、選挙前の今、民主党のポスターに溢れていました。


友人のトロポヤンはめちゃくちゃいい子で、私のためにそりゃまぁダイブゆっくりはっきり話してくれましたが、ほっとんど理解できず、ティラナ出身の友人にアルバニア語⇔アルバニア語の通訳をしてもらっていました・・・

   
トロポヤンの友人。さすが田舎育ちは、違った…
時には裸足にならなければならないような川の浅瀬を…時には手に杖を持ち、草木をかき分けながら、私たちをガイドしてくれた。めちゃくちゃ早足で…
まさにサルだった…



セシ(thethi)もですが、この地域もアルバニア北東部に特有の古いしきたりや伝統などがやはり残っていて、いろいろ興味深い話をしてくれていましたが、それのおよそ半分ぐらいしかわからなかったのが本当に残念です。

(たとえば友人はジュリッチという名字なのだが、少し前までジュリッチ家はトロポーヤの他の3つの氏族の人同士でなければ結婚できなかった等々。たぶん今も一部行われている。)

で、とにかく通りを歩くと、“いとこ”や“おじさん”という人に大量に会う…
というわけでそのいとこやおじさんが、タクシー代わりに目的地まで連れってくれたりする。

おじさん(推定45歳!?)の中には若いころ所謂“ギャング”と呼ばれていた人もいて、さらにこの人のお兄さんは警察官で、まさに怖いものなしで、この地域がまだまだ他の地域から(交通の面からも)閉ざされていた頃、いろんな事をやって来たらしかった。。。
97年~99年の3年間はコソボでも戦っていたと誇らしげに語ってくれた。(当時推定30代前半)


とにかく、彼らの話は興味深かった。
その半分くらいしか理解できない自分が悔しかった。
どんなにゆっくり説明してくれても…
どんなに大きい声で話してくれても…
アルバニア語→アルバニア語の通訳がいるほど、訛りが強くて…