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Pamja nga Shqiperia me nje TIRONSE nga Japonia!! 

(旧:Jeta ne Shqiperi のはずだった・・・)
ぐるぐるぐるぅぅぅ 改め がつがつがつっっっ

日本政府の存在感/これで少しは居心地よくなる?

2009年10月21日 | DITAR
10月19日、マザーテレサの日。
祝日にも関わらず雨が降っていたので、家でぼ~っとテレビを見ていたら、うれしいニュースを発見しました。


あの、“アルバニアで最も長いトイレ?”いや、“ゴミ捨て場?”となっている、ティラナの中央を東西に流れるラナ川の汚水が、なんとかされると言う!!

しかも、日本政府の出資により!!


もし、本当にラナ川に清い水が流れる日がくれば、私だけでなく、すべてのティラナ市民が涙を出して喜ぶでありましょう!!!
(もちろん緊急用トイレとして使用していた人以外!)




ロンドンのテムズ川、パリのセーヌ川、ウィーンやブダペストを流れるドナウ川などと各国の首都を美しい川がながれていますが、ここアルバニアの首都を南北に分けるように流れるこのラナ川には、市内のあっちゃこっちゃから、汚水が流れていて、かなり“素敵な”匂いがするのです!!!!


町中の道路と同様、そこらじゅうにゴミが詰まっていたり、引っ掛かっていたりします。


ニュースによりますと、

日本政府によって、下水システムに出資される金額は115億におよび、今回は、プロジェクトの先駆けとなる調査にかかる12カ月分の12億円の契約をかわしたそうな。

今回の下水システムの再構築で、さらに深く、そして広げられるそうです。

運輸大臣のソコル・オルダシ氏曰く、
プロジェクトの終結の暁には、ラナ川に注ぎ込まれる下水・汚水の状況は 見違えるほどに変わるだろう。
そしてティラナは、整備された外観だけでなく(*注)、表面には見えない地下システムも整った、本物のメトロポリタン(大都市)となるだろう。



*注:たとえば写真の、ラナ川の両岸の美しく芝生の植えられたところには、2001年まで、ぎ~~~っしり2キロ近くにも及んで、無許可に建てられた、カフェや商店で埋まっていたのです・・・
現ティラナ市長が、当時就任していた時に、現在市内で公園として機能している多くの場所に無許可に建てられたレストラン、商店、さらにはネズミ講の会社などが立ち並んでごった返していたのを、一掃し、同時にラナ川の両岸も整備され、さらには、“共産主義国家”を思わせる、無機質なアパート??団地などの表面をカラフルに塗ったりしたそうです。
(このカラフルな建物には賛否両論ありますが・・・美しいだとか、気違いだとか・・・)






10月19日はマザーテレサの日

2009年10月19日 | DITAR
10月19日はマザー・テレサが2003年に当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に列福された日です。

これを記念しまして、アルバニアではこの日を休日にしています。


*列福:カトリック教会において徳と聖性が認められ、聖人(Saint)に次ぐ福者(Beato)の地位にあげられることを言うそうです。





マザーテレサは本名ゴンジェ・ボヤジウといい、1910年8月26日に三番目の末っ子として生まれています。


*ゴンジェとはアルバニア語で蕾という意味です。





彼女は現在のマケドニア旧ユーゴスラビア共和国の首都スコピエで生まれていますが、当時のスコピエはオスマントルコ帝国領のコソボ州・ユスキュプという町でした。

洗礼を受けアグネスという名前をもらっています。




両親はアルバニア人で、父は実業家でしたがアルバニア独立運動の闘士でもあったようで、彼女8歳の時に亡くなっています。

両親はマケドニアに住むアルバニア人のカトリックであったが、当時この地方においてはアルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方にはマケドニア正教徒が多かったようです。

18歳で故郷のスコピエを離れて、修道女会に入り、27歳の時に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになったようです。

その後の活躍は周知の通り。




1979年にノーベル平和賞を受賞。

1991年には、優れない健康状態を押してテレサの念願であった故郷・アルバニアに最初の「神の愛の宣教者会」の支部を設立しています。

1996年にはアメリカ名誉市民(過去6人しかいないようです。)

1997年9月5日に87歳で亡くなっています。


死後たった6年後の2003年10月19日に列福されていますが、これは驚くべき早さだそうです。
彼女の場合は生前から聖女の誉れが高かったため、例外的にすぐに行われたそうです。



*お客様にしばしば「彼女は何人か」と尋ねられます。出身地が現在のマケドニアなので、お答えするのは容易ではありませんが、彼女は以下のような言葉を残しています。


By blood, I am Albanian. By citizenship, an Indian. By faith, I am a Catholic nun. As to my calling, I belong to the world. As to my heart, I belong entirely to the Heart of Jesus.

寒い・・・

2009年10月16日 | DITAR
突然、今週火曜日(10月13日)から気温が下がりました。
前日の月曜日(12日)まで日本からツアーのお客様が11名、さらに先週の日曜日(10月4日)まで15名様がアルバニア・マケドニアの旅にいらっしゃっており、時に雨に降られたりもしましたが、比較的お天気に恵まれていたので、この寒波がやってきたのがお客様をお見送りした後だったので、本当に良かったです。

アルバニアは日本の東北地方から函館あたりに相当する緯度に位置しながら地中海性気候の影響を存分に受けていますので、平野部では、想像されるほど寒くはありません。

しかし、この旅の気温の低下は、先週まで汗ばむような温かさでまだまだ上着なしで出かけていた現地の人々を驚かせました。

最低気温は10℃を切っていたようです。
この前シマムラで買った安々ジャケットが大活躍!!

このまま冬に突入するとは思えませんが、風邪など引かないように気をつけたいものです。

昨日は30分外を歩いたら、お腹ピーピーになりました…

早いもので一年

2009年10月13日 | DITAR
昨日のニュースで国立の大学の本年度が始まったとやっておりました。

そう言えば一年経ったのですな~。これも陰で支えてくださる皆様のおかげです。

昨年は本当に一日一日、一週間一週間、いつ始まるねん!!!!と、そして無駄に一か月分の生活費を費やしてしまったのではないかと、少々落ち込んでもいましたが、今や私もアルバニア人みたいになって来て、学校?そのうち始まるでしょ・・・ぐらいに思えてきたのであります。。。


今年は週に2回ほど語学コースに通おうと思っております。もちろん、もっと回数を増やしたいところですが、金銭的にも厳しいですし、自分でやるべきこと(本を読んだり単語を増やしたり、様々な人と話したり・・・)があるので、とりあえず、週2にしておきます。


さて1年経てば、どんよりした季節も再びやってきたようです・・・
2日前から天気が悪く、気温も急に下がり始めました。

昨年も、こちらに来た当初、1日の温度差が激しく、また前日暑かったと思えば、翌日冷え込み・・・と過ごしやすいとは言え、気候に対応するのに困り、また冬ものをあまり持ってこず、早速送ってもらった事を思い出します。



基本的にこちらは夏乾燥で冬に雨や雪が降ります。
どんよりした季節が訪れたようです・・・長靴ほしいなぁ~

ジロカストラ

2009年09月30日 | DITAR
ジロカストラ民族音楽フェスティバルに行ってきました!!

これは1968年に始まり、4年に一度、通常は秋に行われる伝統的な祭典です。街全体を見下ろせるジロカストラ城塞の敷地内での野外コンサートです。

1000グループ以上のアルバニア人歌手やダンサーがアルバニア国内だけでなく、コソヴォ、マケドニア、セルビア、イタリア、ドイツ、スイス、アメリカなどからやってきて祭りを盛り上げます。


   

  


今年は9月24日から29日までの開催です。

毎日午前10時からは前夜のパフォーマンスについての反省会と討論会、民族音楽や民族学などに関わる専門家よる講演会が行われています。

一方まだまだ日中は汗ばむような陽気のこの時期、日が沈み始め、涼しくなる夕方6時から音楽演奏や歌、ダンスが始まり、9時ごろまで続きます。

2005年からユネスコによって保護されているアルバニア人の同音同音多声音楽(アイソポリフォニー)のグループも、もちろん幾つか出演しています。

音楽が作り出す鳥肌が立つような空気、伝統楽器、さらに民族衣装と芸術などアルバニアの伝統を丸ごと表現しており、夢のような時間を体験することができました。

上記以外の時間帯にも、ステージにてリハーサルが行われていて、街中に音楽が響いていました。






また『石の街』として知られているジロカストラは、アルバニア南部に位置する大変古く、2005年に世界遺産に博物館都市としても登録されています。もちろん日本人観光客もここを必ず訪れます。

   
左:ジロカストラ城塞からの眺め。町並み。
右:ジロカストラの典型的な家屋の一つ。かつてのアルバニアの共産党独裁者エンヴェル・ホジャの生家。現在は民族博物館になっています。


食品、革製品、繊維製品が生産される商業都市でもあります。

18世紀(当時この地はオスマントルコ帝国の支配下にありました。)のイスラム寺院やキリストの教会、起源は古代に遡る城塞が街には残っています。

この街を訪れた者を最も惹きつけるのは、互いに重なり合うように建てられ、そして各々がまるで小さな要塞のような、ジロカストラ特有の家々でしょう。素朴で美しい窓、小さな部屋、屋根を支えるために外壁から突き出た支柱が外観のコンビネーションを作り出しています。

このように精巧に重ね上げられた石が由縁となり、ジロカストラは『千の階段をもつ街』または、『石の街』と呼ばれ、世界遺産に登録されたのです。

ジロカストラの街の詳細についてはまた後日。

別れの季節②

2009年07月31日 | DITAR
7月24日にヨニーダがオーストリアに帰りました。

彼女はおじさんたちと港町ドゥラス(ティラナから車で45分ほど)に住んでいたので、学校が終わってからは数回しか会うことができませんでした。


そして旅立ちの日も私は仕事があったので、朝から電話するのみにとどまってしまいました。


チェルシーが9月から大学院博士号に進むのに対し、ヨニーダは10月から大学に進学します。

まだ学部を決めかねていました。


ヨニーダは親戚のおじさんおばさんたちと、ドゥラス港から深夜10時ごろイタリアのバールに向けて出発し、翌朝到着したら1週間ほどイタリアを楽しむ予定だそうです。

イタリアの親戚の家で、普段ドゥラスに住む祖父母(ヨニーダの両親に会うために2か月半ほどオーストリアに行っていた)に会い、再び、車でイタリアからオーストリアへと向かうそうです。

ちなみに車の運転手であるおじさんおばさんはドイツまで車で帰ってくそうです。



まさにアルバニアの典型的家庭!?で、多くの親族がヨーロッパのあっちこっちに散らばっています。


ヨニーダとは4か月しか一緒ではなかったので、イマイチ不完全燃焼で、さらに今度会えるのだろうか・・・と少し不安に思え、なぜか意外にチェルシーの時よりも悲しい気分になりました。

(なぜだかわからないけど、チェルシーとはまたすぐに会えるような気がして、確かに淋しくはあったけれど、こんな風に悲しい感じではなかった。)



というわけで、それぞれ新しい生活、新しいつきあいが始めなければならりません。

別れの季節①

2009年07月31日 | DITAR
6月27日(土)、選挙の前日夕方4時半。


パートナーのチェルシーがアメリカに帰ってしまいました。

ティラナから11時間ほどかけてアテネに向かい、そこからフランクフルトだかに行き、そしてアメリカへと。


8ヶ月間、いつも一緒にいて、助け合い、楽しみあって来たので、彼女が去ってしまった今、他にあんまり友達がいないことに気がつきました・・・


社長が夏休みをくれると言っていますが、誰とどこへ行きましょう・・・

休暇があるといつも彼女と旅行をしていたので・・・



しょんぼりです。

ティラナの夏パート1<街から人々が姿を消す・・・!?!?>

2009年07月20日 | DITAR
7月の半ばからどうもティラナの街が静かになりました。

確かに日中暑いので、オープンカフェに座る人が減った、人々は日が沈むのを待っているというのもあるかもしれませんが・・・


アルバニアでも多くのヨーロッパのように2週間から1か月の夏期休暇を取っている人がたくさんいるようで、ティラナの人口は確実に減っているのではないでしょうか。


一方この前週末でしたが沿岸部の町ドゥラスに行ったら、今までに見たことがないほどの町がにぎわっていて、日中海岸にいた人たちが、夜になってどっと町に押し寄せ、路上には両サイドに車が路駐され、あっちこっちのバーやレストランでミュージックライブが行われ、どこか別の町に来たような感覚に陥りました。


一方、ティラナ市内も夕方になると人が姿を現します。

夏至が過ぎ、こちらでも8時半ともなるとうす暗くなっていますが、公園とカフェの隣接したとこには小さな子どもたちとお守のおじいちゃんおばあちゃん等などワイワイしています。


湿度が低いせいか、レストランやカフェの多くはクーラーをつけていません。
(さすがに日中はちょっとクーラーつけてほしいかも・・・と思ったりもしますが、寒がりの私にはクーラーガンガンよりは快適です。)


で、クーラーをつけずに大きな窓を開け放し、室内外の差をあまりつけないようにしています。

と、いうわけで人々は必然的に外の席に座ります。


夜ともなるとこちらでも野外カフェやレストランで、ミュージックライブや、爆音のダンスミュージックが聞こえてきます。


老いも若きもほろ酔い!?がっつり酔いで、中央に設けられたダンススペースで踊っている姿をよく見かけます。


生小が60円~、生中が150円~・・・

缶ジュース頼むより安いので・・・・
はい。とんでもないおなかになって来ました・・・

ちょっとビビった。

2009年07月16日 | DITAR
数日前に偶然に2人の知人から、共産党独裁政治が倒れ民主化が始まった1991年92年くらいから、1997年“市民戦争”と呼ばれている、無政府状態に陥ったころの話を偶然連日教えてもらえた。

今はきれいに整備された市内の中心を流れるラナ川の両川岸や、知らない人がいない街の中心にある美しい公園に、当時ギッシリギッシリ無許可に建てられた商店や、カフェ、レストラン、ホテル、そしてアルバニアといえば結びつきがちなネズミ講の会社などが建てられていたことを詳しく教えてもらえた。
(以前にも教えてもらった事はあったけれど、たぶんあんまり理解していなかったのと、繰り返し教えてもらううちに徐々に、そのイメージがつかめてきたのだと思います。)


またアルバニア語では“市民戦争”と言われている、国全土が1997年の無秩序状態に陥った時の話も度々聞かされてきたが、youtubeでその映像を実際に見せられて、本当にたった12年まえのできごとであったのだと納得させられた。



数か月前にであった女の子(30歳前後)が、1997年のある日、この狂気に陥った状態から逃れるように家で滞在していたのに、どこからともなく、銃弾が家に飛んできて、脊髄を傷つけたために、車椅子生活を強いられるようになった。と聞きました。

でも彼女のケースが決して特別なものではないことも様々な人から聞かされます。

ティラナだけでなく本当に首都から田舎までアルバニア全土が狂っていたと言われています。

20代30代の私の友人たちは当時15歳前後ですので、もちろん当時の記憶がしっかり残っており、子どもの視線からのその街の狂気ぶり教えてくれます。


ちょっと長い映像ですが、youtubeで見てみてください↓↓↓

1997年のアルバニア



さらに2007年3月のティラナ近郊で起こった巨大な爆発についても知らされました。


私も2007年にアルバニアに来ている予定だったので、日本でこれについての記事を新聞で読んだ時、妹はかなりビビっていた。

これがその時の映像↓

グルデニッツの爆発

ここはアメリカのなんとかという会社からは委託されて小火器の解体作業をおこなっていた工場で、賄賂によって行政も黙認していたらしです。
そのため、原因&責任の追究がきちんとなされてないらしく、また事故当時運びだされた人々から子どももたくさん働いていたことがわかったらしいです。

モクモクと真っ黒い煙が出始め多くの近隣住民が撮影を始めたらしく、2度の小さな爆発のあとの巨大な爆発の様子がしっかり映し出されています。




そんなここ最近のアルバニアについて聞いた今週なわけですが、昨日夜家から10分ほどのところを歩いていると、爆発音が聞こえたのです。

どの方角からものかわからなかったけれど、家に向かっている途中だったので、そのまま歩き続けました。

どこかの家や小さなレストランでガスボンベでも爆発したのかと思いながら・・・

ただ明らかに、花火でもなければ、何か日常生活で耳にするような音ではないなぁと思いましたが。


国会前までたどり着いたとき、周囲が封鎖されていることに気付きました。
警察や、消防車が来ていました。

私がいつも利用する写真屋さんの前に止められた、ちょっと高そうな(日本ではふうつレベルでしょうが)車が爆発したようでした。

写真屋はシャッターが閉められていたので、恐らく無事だったようですが、その階上のアパート??の窓ガラスが吹き飛んでいるようでした。


車の持ち主を恐怖に陥れるために、車に爆薬をしかけ、通行人がいないときを狙って携帯電話で爆発させたのだろうと人は話しています。

私はちょっとビビりましたが、現場の前後にあるカフェにはいつものように、オープンテラスで人々は集っていました…


アルバニア人はこれくらいではビビらないようです…
慣れって怖い…

刈り入れ時なのか?

2009年07月15日 | DITAR
最近、ハシッシュとかいうカナビス(大麻)からつくる麻薬!?の植物が広大に広がる畑?山?で、北でも南でもで警察によって焼かれたり、刈られたりしています。


それを収入源にしている村人もやはりいるのでちょっとかわいそうに思えたりしてしまう・・・


はい。そんな国です。