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春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

近隣の火災

2006-10-23 11:51:00 | 事件だ~!!

日中、静かな住宅地に市内の神明、高幡、日野各消防署から駆り出された消防車の群れ、更に警察や東京ガス、東電の緊急車両が狭い、火災現場に駆けつけた、その数大凡20台以上であった。
空から激しい爆音が鳴り響き、頭上近くをうっとうしく報道関係のヘリが旋回、「こりゃ~只事ではないぞと」野次馬根性に火をつけられ 、公務妨害にならぬように現場に急行した。(オイオイ駆けつける事自体、既に妨害だよ)
既に現場近くの道路は黄色のテープが張られ、封鎖されてあった。火事現場の道は団地と北野街道方面に繋がる唯一の道路で普段でも交通量の多い通りであるが、時ならぬ交通遮断で一般車両は行き場を失い、周辺の路地まで埋めつくされ、大混乱になっていた。
火元はクリーニング屋であったがは既に鎮火方向で、燻った建屋に消防服で身を固めた屈強な隊員が中に入り、懸命に、後処理をしていたが、これ以上の類焼もなく収束される方向にあった。壁には真っ黒な油煙が、一面に残り、一時の火勢の勢いを物語るものであった。
現場付近には指揮本部と記名された旗が掲げられ、架設の机とホワイトボードで此処で組織的な消火活動の陣頭指揮を取っていた。
此れ如きの火事に、この大規模な消火活動と思ったが、専門家に聞く所、石油系のドライクリーニング溶剤は灯油とほぼ成分が変わらないので、引火したら大変なので、一般の民家の火災とは異なる消火体制が敷かれたようである。
隣接の家屋に類焼しなかったのは懸命な消火活動の成果とも思えるが、商売柄預かった大量の衣類の損害は計り知れない位に甚大なものと思える。
丁度その時、テープが張られ周辺の緊急事態に係員の静止も聞かず、猛烈な勢いで目の前を通過、消防隊員の群れの中に突っ込んで入った。警察の緊急車両と思いきや一般車両が行く手を阻まれ、たちまち警察に包囲、免許証を取り上げられられ、近くの駐車場に誘導された。
廻りの状況を読めない若者が、こともあろうに迷走してきた目の前の珍事に驚いた。

かっての料理屋も無惨

2006-07-26 18:11:00 | 事件だ~!!

縁の場所、六国亭がどうなっているんであろうか、野次馬根性むき出しで、自然と多摩丘陵の山頂へ足が進んでしまった。
山と言っても高い平山の住宅地、かなりきつい勾配を登って行くと住宅地を越え、眺めの良い尾根伝いの山道に出る。我が家から大凡4、50分でたどり着ける距離である。
その尾根道を進むと、樹木が濃くなり、舗装も途切れ道幅が狭く車での乗り入れも困難になる。
かっては野猿峠ハイキングコースであった、この尾根道も長沼側に繋がっていたが、道は荒れ、途中で行き止まりになっている。
従って、此処に訪れる人も、犬の散歩で僅かに来る程度で人影も少ない。
その尾根道を尚も進んで行くと途中で、プ~ンと焦げた匂いが立ち込めた火災跡に出る。
丸で最前線の戦場の様で焼き尽くされ、骨組みと僅か壁が残された六国亭の無惨な姿があった。
建屋の外れに駐車してあったセダンタイプの乗用車も、ご覧の通りフレームを残し、内装始めタイヤなど炭の様に真っ黒に燃え尽きていた。
火の気の無い所から燃え広がり、火勢の勢いは家屋と周辺に置かれた可燃物を呑み込むように燃え尽き廃墟にしてしまった。
かっての六国亭は窓腰の風情を眺めながら座敷と囲炉裏を囲み、名物の野性味豊かな野鳥焼きで舌鼓をうち、杯を交わした面影が微かに蘇るが、その面影が完璧に廃墟になってしまった。
ただでさえ狭い尾根道、恐らく多数の消防車もこの火災現場に取りつくには大変な障害になったであろう。しかも山の上、急斜面の崖に僅かに取りつく住宅の他は樹木に覆われた場所だけに肝心の消火水をどのように、確保したのであろうか?
ようやくたどり着いた火災現場であったが目の前の火勢に、手だてを加えられず、悔しい思いをしたのではなかろうか。
しかし、こんな火勢の前に、この時期の長雨が幸いしたのであろうか、或いは懸命な消火活動の成果か、鬱蒼とした樹木に燃え移らず大規模な山火事にならなかったのは不幸中の幸いである。
それにしても、この廃墟化した焼け跡を見るにつけ、何故こんな事が行われるのであろうか、この繰り返される蛮行に、改めて怒りと虚しさが、目の前を駆け抜ける。
場所を選ばず、市域全域を狙った放火に関係当局や地域の住民に対する、愚かな挑戦である。
その再発も十分予知されるまま、何処かで、次のターゲットを狙っているかも知れず、この悪行は続いている。威信にかけても、探し出し安心して暮らせる世界に立ち戻って欲しい。

威嚇のミサイル発射

2006-07-13 21:48:00 | 事件だ~!!

打ち上げ花火であるまいが、国威発揚なのか、近隣国を驚かせる、威嚇のミサイルを連発発射した。
その殆どが日本海の一部に集中して着弾したが、果たして、その意図は判らないままになっている。
射程距離1.3KMを持つノドンを例に上げるといったん大圏外に打ち出し、再突入して自然落下後、地上に突入するとマッハ5以上に達すると言われている。
首都圏を含む日本全土が射程内に入り、発射後5分程で着弾してしまうようである。
例え、そのミサイルの発射が捕らえられても、物理的にそのミサイルを着弾前に捕捉することは殆ど不可能に近い。
某旧防衛庁長官曰く、狙われたら最後、防ぎようはない、せいぜい、地下に潜るか、大きな建物の影に隠れるかの極めて無防備に近いものでしか身を護ることも出来ないようである。
某月、某日、掩蔽壕に隠されていた移動車両に載せられた燃料満載のミサイルが突如、白日の元に晒され軍司令部の発射指示を待ち、何時でも発射出来る状態で数人の兵士は待機する。
着弾点の指示を受け、計算された方位が発射台で設定される。
「発射」の合図の元に轟音と点火された燃料の火炎と煙を立てながら、発射台を離れ、天空高く飛び立って行った。
発射してから数分後、日本の目標値に着弾、炸裂と破壊、炎上の海の世界に陥ちいる。
いやあ~こんな事があっては欲しくない、物語である。
北東アジアで起きた火種に声高に唱える制裁論も振り上た拳も、国際協調を得られないまま日本は追い込まれ、騒ぎ過ぎとまで言われる始末。
そこで俄に起きた先制防衛論、「やられる前にやっちまえ」「ノーガードの戦い」なんて暴言もチラチラ、そんな暴挙は許しがたく、何とか平和に収束して欲しい。この間、世界から注目される中、中国から派遣された特別訪朝団も将軍様に会えぬまま説得工作は失敗。韓国の太陽政策を背景に南北朝鮮会談も途中で決裂してしまい、北も益々孤立無縁の状態に自然に追い詰められてしまった。
今正に揺れる不穏なアジアで日本が確かめられている。

横田基地「第374部隊」

2006-07-09 07:41:00 | 事件だ~!!

先日、隣接国の北朝鮮から、「スカット」「ノドン」「テポドン」など北朝鮮の保有する弾道ミサイルを多数打ち上げ、その威力のほどをアッピールするには過分なほどの多数のミサイルが打ち上げられ国内を恐怖の渦に巻き込んでしまった。
「ノドン」だけでも射程距離は1300kmもあり、首都圏を含む日本全土を総て射程内に入ってしまう性能を持ち、その配備数は既に200基もあると言われている。
その後、マスコミを通じて、色々な先生が解説が加えられたが、諸説紛々としておりその打ち上げの真意の程は推測の域を出ず全く判らない。
しかし、共通して言えることはそれを迎え撃つ迎撃ミサイルは今の所、何も持っていないことで、どうやら無防備であること判ってきた。
一方、拙宅の住まいの隣接に横田基地を抱える。
戦後間もなく接収されアジア太平洋領域の巨大な物流基地の要として「第374空輸航空団」を持ち、大量な輸送機を抱え、7.13k㎡と言う広大な敷地面積に軍人、軍属、及び家族が10、000人も生活していると言われている。
朝鮮戦争勃発当時の航空団は立川基地にあり、アジア地域でのにらみを効かす唯一の空輸航空団であった。
北朝鮮が侵略を始めるや否や「第374部隊」は韓国に支援部隊を送り、その初めの決定的な数時間内には、朝鮮半島より非戦闘員・軍属を救出した。
ベトナム戦争では危険な空輸を背景にケサンで包囲された海兵隊を支援し、負傷した兵士や大量な弾薬、物資を運んだ。
更にハノイに戦争捕虜交渉団を送り込み、捕虜の引渡にまで係わった、最前線にある「第374部隊」の歴史的な姿があった。
今日 「第374部隊」は太平洋地域の米軍の空輸隊としての役割を担いながら、写真のような配下の輸送機が地域を跨ぎ、飛来続けている。
一見国内平和裡に見えるが、当地初め国内に米軍配下の基地が多数あり、当然のことながら軍事拠点としての性格上、ノドンの矛先の一つとして数えても不思議はない。こうした蛮行が繰り返され、きな臭いことが起きると、この「第374部隊」の巨大な存在がある以上、避けて通れない危うい問題が霞めてくる。
時々、上空を掠める音にめざとく、その方向を確かめ、その機影を追ったりして、少なからずともその爆音が妙に気になる。

拙宅のpc画像がtv放映

2005-11-17 07:30:00 | 事件だ~!!

TBS報道局から、突然メールが飛び込み、「東京史跡散歩」というテーマで資料を集めているようであり、拙宅のHPが目にとまり画像利用の養成があった。
どうぞご活用をと言う事で必要な素材は「江戸無血開城の勝海舟と西郷隆盛の会談」のレリーフであった。
田町の町中で撮った素材であるが、まさかピックアップされるとは驚きである。所でその放送は月~金午前5時20分頃、の僅かな時間であった。
歴史の流れから、何時その劇的なシーンを見られるやらと、早朝の眠い時間に奮い立たせTVの前に張り付いた、5日間であった。
時代の流れを背負って、英国人襲撃場所、お台場、松陰神社と細切れにロケは移り変わり、その日は今日だろうと、切らさずに連続モニターであったが、最後の最後に、「江戸無血開城の勝海舟と西郷隆盛の会談」のレリーフがテロップで流され、我が分身をようやく確かめる事が出来た。
メデイアを通して流され何万、何十万だかの視聴者に、でも気づいたのは己ばかりであったかもしれない。
江戸開城会見の地

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/