僕は便利な言葉が好きではない。
例えば、
「ありがとう」を言うべき場面での「すみません」。
「ありがとう」って言葉は発するのにパワーを使う。
それに対して、
「すみません」って言葉はなぜかスラッと出てくる。
そんなことないですか?
僕はそう思う。
だから「便利」だと思うのだな。
実際、落としたものを拾い上げたとき、
相手から出てくる言葉は
「ありがとう」ではなくて、
「すみません」のことが多い。
いや、
「すみません」って言いたくなるのも分かるんだけどね。
でも、「すみません」は、
「ごめんなさい」のときにも使うでしょ?
拾い上げたこちらからしたら、
謝られるより、お礼を言われた方がうれしいです。
だから「ありがとう」って言うべきときは
「すみません」ではなく、
「ありがとう」と僕は言いたい。
便利な言葉って、ときに、
伝えたいことの意味合いが薄まると思うのだな。
便利な言葉が好きじゃないってのは、そういう意味。
僕はドラムを叩いているけれど、
そこにも、とても便利な言葉があるのです。
それはね、「個性的」って言葉。
極端に言うと、ぜーんぶ「個性的」で済ますことができる。
興奮して曲中でテンポが早くなっていっちゃうけど、それが個性的。
バスドラムの音が少し小さいけど、それも個性的。
ハイハットが均等に刻めないけど、それも味があって個性的。
2拍目と4拍目に叩くスネアが少し遅いも、何だか個性的。
ねー、便利でしょ?
果たして「個性的」って、
「個性」って、そういうものなんですかね?
と、僕は思う。視点を変えれば、
「それはただ練習してないだけだよ」
とも思うし。
だから、僕は滅多に「個性的」という言葉を
使わないのです。
「個性的」って言葉の盾に隠れたくないから。
そんな盾に隠れるんじゃなくて、
もっと自分のドラムと向き合いたいから。
そしてそれとともに、
人それぞれに、確実に存在するであろう「個性」は、
どこに在るのだ?
ってことも考える。
曲中にハシらなくなったとき、
バスドラを大きな音量で踏めるようになったとき、
ハイハットを均等に刻めるようになったとき、
2拍目と4拍目のスネアがモタらなくなったとき、
そのドラマーは「個性的なドラマー」ではなくなって、
「ただのドラマー」になるのかな。
僕はきっとそんなことないと思うのだよ。
むしろそこから始まることがたくさんあるのではないかな。
きっと、リズムの癖なんてとっぱらって、
「普通」になって、型にはまって、
何なら、
「自分はメトロノーム並みに癖のないリズムを刻めるぜ」
ってくらい練習して、初めて、
その人の「個性」が浮き彫りになるんじゃないかなぁ。
「個性」というものは、きっと、
出すものではなくて、出ちゃうものだと思うから。
例えば、
むちゃくちゃ練習して、
「自分は常にメトロノームとドンピシャに合ってまっせ」
と思って叩いてるのに、
なぜか2拍目のスネアがほんの少しだけ速い、とかね。
そういうとこに「個性」が見え隠れするに違いない。きっと。
明日からレコーディングですからね。
そんなことも考える今夜でした。
「個性的」で済ますことのできない、
もしくは、
「個性的」としか言いようのない、
そんなドラムが叩けるように、がんばってきます。
例えば、
「ありがとう」を言うべき場面での「すみません」。
「ありがとう」って言葉は発するのにパワーを使う。
それに対して、
「すみません」って言葉はなぜかスラッと出てくる。
そんなことないですか?
僕はそう思う。
だから「便利」だと思うのだな。
実際、落としたものを拾い上げたとき、
相手から出てくる言葉は
「ありがとう」ではなくて、
「すみません」のことが多い。
いや、
「すみません」って言いたくなるのも分かるんだけどね。
でも、「すみません」は、
「ごめんなさい」のときにも使うでしょ?
拾い上げたこちらからしたら、
謝られるより、お礼を言われた方がうれしいです。
だから「ありがとう」って言うべきときは
「すみません」ではなく、
「ありがとう」と僕は言いたい。
便利な言葉って、ときに、
伝えたいことの意味合いが薄まると思うのだな。
便利な言葉が好きじゃないってのは、そういう意味。
僕はドラムを叩いているけれど、
そこにも、とても便利な言葉があるのです。
それはね、「個性的」って言葉。
極端に言うと、ぜーんぶ「個性的」で済ますことができる。
興奮して曲中でテンポが早くなっていっちゃうけど、それが個性的。
バスドラムの音が少し小さいけど、それも個性的。
ハイハットが均等に刻めないけど、それも味があって個性的。
2拍目と4拍目に叩くスネアが少し遅いも、何だか個性的。
ねー、便利でしょ?
果たして「個性的」って、
「個性」って、そういうものなんですかね?
と、僕は思う。視点を変えれば、
「それはただ練習してないだけだよ」
とも思うし。
だから、僕は滅多に「個性的」という言葉を
使わないのです。
「個性的」って言葉の盾に隠れたくないから。
そんな盾に隠れるんじゃなくて、
もっと自分のドラムと向き合いたいから。
そしてそれとともに、
人それぞれに、確実に存在するであろう「個性」は、
どこに在るのだ?
ってことも考える。
曲中にハシらなくなったとき、
バスドラを大きな音量で踏めるようになったとき、
ハイハットを均等に刻めるようになったとき、
2拍目と4拍目のスネアがモタらなくなったとき、
そのドラマーは「個性的なドラマー」ではなくなって、
「ただのドラマー」になるのかな。
僕はきっとそんなことないと思うのだよ。
むしろそこから始まることがたくさんあるのではないかな。
きっと、リズムの癖なんてとっぱらって、
「普通」になって、型にはまって、
何なら、
「自分はメトロノーム並みに癖のないリズムを刻めるぜ」
ってくらい練習して、初めて、
その人の「個性」が浮き彫りになるんじゃないかなぁ。
「個性」というものは、きっと、
出すものではなくて、出ちゃうものだと思うから。
例えば、
むちゃくちゃ練習して、
「自分は常にメトロノームとドンピシャに合ってまっせ」
と思って叩いてるのに、
なぜか2拍目のスネアがほんの少しだけ速い、とかね。
そういうとこに「個性」が見え隠れするに違いない。きっと。
明日からレコーディングですからね。
そんなことも考える今夜でした。
「個性的」で済ますことのできない、
もしくは、
「個性的」としか言いようのない、
そんなドラムが叩けるように、がんばってきます。