Re-Set by yoshioka ko

■ジダンの「頭突き」を考える

 ジダンの「頭突き」問題と弁明について考えれば考えるほど、これは難しい問題のひとつではある。まずは「ジダンの発言要旨以」から。

《以下引用》
 「【マテラッツィとのやり取り】彼がシャツを引っ張るので、欲しいなら試合後に交換してやると言ったんだ。そうしたら彼はとても耐え難い言葉を口にして、それを何度も繰り返した。言葉は暴力以上に激しいことがある。私の心の非常に奥深いところに触れる言葉だった。私も一人の人間。あんな言葉を聞くよりは顔を殴られる方がましだ。

 【マテラッツィの発言内容】母親と姉にかかわる、とても激しい言葉だった。とても個人的な内容だった。一度でも耳にするとその場を立ち去りたくなるような言葉だ。実際そうしようとしたが、あなたたちも2度、3度と聞かされれば、きっと反応してしまっただろう。

 【謝罪】自分の行為は許し難いものだ。テレビで20億、30億の人々や何百万人の子供たちが見ていたわけだから。あの場面を見ていたすべての子供たちに謝りたい。しかし後悔はしていない。もし後悔しているといえば、彼の言ったことが正しいということになってしまう。それはできない。

 【退場処分について】挑発した側にも責任はある。W杯の決勝で、引退まであと10分という状況で、ただやりたいという理由であんなことをすると思いますか? 唇を読むことのできる人なら、私が真実を語っていることが分かるはずだ(7月14日『スポーツ報知』)《引用ここまで》

 ジダンのこの発言をどう受け止めるか。ひとつは、どんなに暴力はいけない、といっても2度も3度も差別的言動をされれば、誰だってジダンのように怒るよ、という反応。

 もうひとつは、耐え難い発言をされたからといって、ジダンのように暴力でお返しするということが正当化されるのなら、世の中暴力だらけになってしまわないか?

 私自身は、心情的にいうならば、ジダンの行為は致し方ないものだろうな、と思う。なぜならば、まず今度のドイツ大会は「差別をなくそう」ということが謳われた大会だった。大会の中で、イングランドのベッカムが選手声明を読み上げたのは、そういう意味だ。

 そのような大会であったにもかかわらず、イタリア選手の差別的な言動が起きたということは、大会趣旨を全く理解していなかったといわれても仕方ない。

 実は世の中は差別でできている。差別が戦争を引き起こす。戦いに差別は付き物だ、という人すらいる。となれば、差別をなくすための努力、戦争をなくすための努力をせずに、ジダンの行為は許せない、とは、断言できない、という気がする。

 サッカー選手を夢見る多くの子供たちの前で、あのような暴力は許せない、というのは確かにその通りではある。しかし、どの位相でこのような発言をするのかは吟味しなくてはなるまい。なぜならば、サッカーはハングリースポーツのひとつである。貧しさが強い選手を生み出してきた、とするならば、この貧しさこそ、いまも差別の構造そのものの中にあるからだ。

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